シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

自由を削ってブログを書くか、自由になるためにブログを書くか

 
 http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/02/13/233709
 http://anond.hatelabo.jp/20130209201645
 
 ブログが主人か?それとも“なかのひと”が主人か?
 
 私は“なかのひと”こそが主人であって、ブログは“なかのひと”に仕えるものだと思っている。だからブログのキャラが一人歩きして“なかのひと”が疎外されるような事態は避けてきたし、書きたいことが書けるインターネットが続けられるよう、意識しながらブログを書き続けてきたつもりでもある*1
 
 もちろん、世の中には「飯を食うために」敢えてブログやキャラを一人歩きさせる人もいるだろうし、そういうプロを非難する資格は私には無い。それでも私自身は、「お前はこういうキャラなんだからこういう風に振舞え・振舞えないなら俺が許さない」的な、キャラ優位な人間観が嫌いなので、そういう風景を見かけると過剰反応を起こしがちではある。そういった過剰反応も私の一性質なので、むやみに隠さなくていいやと心に決めている。
 
 ちなみに私の“なかのひと”疎外アレルギーの一因には「お前は精神科医なんだから、こういう風に振舞え・振舞えないなら俺が許さない」的な言動に、ネットでも臨床でも遭遇してきたから、もあると思う。人を見ずに白衣を見る人間・“なかのひと”を知ろうともせずキャラを勝手に決めてかかるような人間が、私は苦手だ。まあ、臨床場面では、相手の期待するキャラをある程度まで引き受けたほうが良い場合もあるし、そういう時は意識してキャラを引き受けることもある。その場合も、私自身の“なかのひと”と矛盾しすぎたキャラ立ては続けきれないし、続けるべきでもないと思っているので、いったん引き受けたキャラから“なかのひと”に、なるべくスムーズに移行したいと思っている。いつもうまくいくとは限らないが。
 
 そんな私にとってのブログとは――いや、twitterやウェブサイトも含めたネットメディアは――、自分のキャラをつくる場所ではなく、自分が自由に、呼吸するように自己表現できる場所でなければならない。誰かに何かを伝える時も、自分の思索に耽りたい時も、自己開陳に酔っ払い時も、書きたいことを書きたいように書ける空間。私にとって、この『シロクマの屑籠』とはそういう空間だ。法に抵触するようなことは書けないし、私個人の良心が咎めるような事も書かないが、「他人がかくあるべしと思うイメージ」に束縛されるつもりは微塵も無い。
 
 

 俺は俺のやりたいように書く。もちろんミクシで内輪の人たちだけ相手にしてるような書きかたはできないけど、そこを判断するのは俺でしょ。需要がなくなったら読まれなくなるのも俺。ごちゃまぜの状況でも読まれてるのもやっぱ俺。店バレしたら爆死するのも俺。ネット上における「俺」というキャラを作ってるのも俺。そんで俺は、ネット上における自分というものをいくつかのパーツに分解したくねえんだよ。

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/02/13/233709

 同感だ。ブログを書いている時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで……。
 
 プロでブログをやるような人は、自分の自由を削ってブログをすればよろしい。それはそれで一つの道ではある。けれども、自由になるためにブログをやる人、ブログの自由を愛する人が、プロよろしく、自分の自由を鉛筆みたいに尖らせて、キャラという鋳型からはみ出た自分自身を切断して、全人格の一部分だけを記し続けるなんて、バカみたいじゃないですか。
 
 書きたいことが書けないブログなんてやりたくねぇ!!
 
 ブログブームが昔のことになった今、メルマガやcakesといった、もうちょっとプロ寄りのネットメディアが注目されている。それはそれで結構なことだと思うし、金銭が絡むことによって育まれる文化の土壌があるというのもわかる*2。けれども、ひとたび金銭・ビジネス・発言力にブログを捧げてしまえば、そのブログは捧げたぶんだけ不自由になる。例えば、金銭にブログを身売りした人のブログは、金銭の顔色を伺うようになるだろう。プロになるというのは、そういうことでもある。
 
 けれども本当は、「ブログで儲けなければならない」とか、「ブログで発言力を獲得しなければならない」なんて、ブログの規約には書いてないのである! (株)はてなのブログはもとより、アメブロやライブドアブログにも「お金やステータスを手に入れるのがブログの最終目的です」とは書いてないはず。正反対に、ブログを自分自身の思考や通信の自由を拡張するためのアイテムとして、あるいは公開デスクトップ・予備的ワークショップとして使ったってかまわないのだ。
 
 このブログの名前が「シロクマの屑籠」なのも、立ち上げる際、「メモを書き殴った紙を丸めて投げ捨てるための屑籠」を連想したからに他ならないし、今も昔もここは私の屑籠、デスクトップである。ここは、私にとって考えを整理したり散らかしたりするための場所であり、誰かに向けて手紙をしたためるための場所であり、酒を飲みながら深夜アニメを見るためのリクライニングシートでもある。だから「シロクマの屑籠」は自分の自由を拡張するためのブログであり続けたいし、そうせずにいられない*3
 
 

「自由になるためにブログを閉鎖する」自由

 
 一方で、ブログを消す人もいる。
 
 なぜ『俺の邪悪なメモ』は失われたのか? - 琥珀色の戯言
 2013-02-14 - 「俺の邪悪なメモ」跡地
 
 ペンネーム「葉真中顕」としてミステリー新人賞を受賞した、罪山罰太郎さんのブログ『俺の邪悪なメモ』が最近閉店になった。罪山さんほどのお人が、何の考えも無しにブログを畳むとは思えず、実際、新しいペンネームではてなブログを立ち上げてらっしゃる……ということは、ブログの利用価値を意識していないわけではないと推定される。そのうえで・何らかの判断にもとづいて旧ブログを畳んだ、ということだろう。
 
 そういえば、コンビニ店長だって一度ブログを閉店している。店長の場合は、冷徹な計算に基づいてというより、発作的・衝動的にブログを消している可能性が否定できない。彼はまた気まぐれでブログを消してしまうかもしれない。
 
 こうしたブログ閉鎖も、“なかのひと”が自由になるために必要な所作だとしたら、いいモンだなと思う。スタートからゴールまで、徹頭徹尾、自分の好きなようにやればいいじゃないか。「飽きてきたのでこのへんで。」「そんじゃーね。」で尻切れトンボ逃げ切りが許されるのもブログのいいところだ。やっぱりブログは自由でないと!
 
 大事なことだからもう一度*4
 
 「ブログを書いている時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで……。 」
 
 
 ブログ書いている時ぐらい自由でいたい。
 

*1:また、同じような感覚で、メディアがつくりだしたキャラが一人歩きして“なかのひと”の精神性が疎外されたり、身振りの幅が疎外されたりする事態も嫌いぬいている。

*2:昨日、NHK『クローズアップ現代』にニコニコ動画の川上会長が登場して「動画投稿でメシが食える人が数百人数千人ぐらい出てくれば、文化でしょう」って言っていたけれど、まさにそうだと思うし、だからマネタイズを意識した新興ネットメディアの創立意義にはリスペクトを感じる。だがそれはそれ、これはこれだ。

*3:もし、自分の自由を削って表現する必要性を感じた時は、ブログを使わず他のメディアを使おうと思う。

*4:引用元は、『孤独のグルメ』。その改変。