シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

「時代に傷をつける」のか、「一握りの砂」になるのか

 
インターネットは明るくなってしまった | Books&Apps
 
goldheadさんの文章がbooks&appsに投稿されていた。約半分は「インターネットが明るくなった」話で約半分は「ブログでも動画配信でもなんでもいいから、自分の刻み付けたライフを見せつけろ、時代に傷をつけろ」といった話だと受け取った。ブログを書く者として、どちらの話も共感しかない。ただ、そのレトリックの力強さに眩しさは感じた。
 
インターネットが明るくなった話はいつからあったのだろう? とりあえず、自分がいつ頃からインターネットが明るくなったと書きはじめているか"シロクマの屑籠"を検索してみたら、2011年1月にそのような過去記事があった。
 
“日向”になったインターネット - シロクマの屑籠
 

インターネットが日向化した要因としては、「インターネットの多数派が日陰者から日向者に変わった」を挙げないわけにはいきません。天気予報の確認やレストランの予約にネットを使いたい人や、芸能人のtwitterやblogを読みたい人、楽天やAmazonで買い物をしたい人がインターネットに流入してくれば、アングラ的雰囲気を醸し出す人の割合は相対的に小さくなります。インターネットに日向なコンテンツやサービスを求める人達が増加したぶん、そのぶん日陰が目立たなくなるのは数の論理として当然です。

当時の私は賢しげに「当然です」などと結んでいるが、日陰に生まれ日陰で育った私のようなブロガーにとってこれが何を意味するのかマトモに考えていなかったようにみえる。そしてこの記事を書いた2か月後に東日本大震災が起こり、(日本の)ネットの日向化は一挙に加速した。
 
そして2011年以前もインターネットは着実に明るくなっていた、はずだった。たとえばネットのオタクの振る舞いはそれ以前から(現在の表現でいう)陰キャ的なものから陽キャ的なものに、(当時の表現でいう)非リア的なものからリア充的なものに変わってきていた。同じく"シロクマの屑籠"を検索してみると、2008年に以下のような文章がヒットした。
 
オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
 
もちろん2008年からネットのオタクが明るくなっていったわけでもない。私なら『電車男』や『涼宮ハルヒの憂鬱』がヒットした頃からそれを感じていたし、私よりもネットやパソコン通信歴の長い人なら2000年頃にそう感じていたかもしれない。どちらにせよ重要なのは、いつからネットが明るくなっていたかではなく、一貫してネットが明るくなり続けてきたことなのだと思う。
 
「釣りの終焉」と「フェイクの時代」 - シロクマの屑籠
インターネットの自由と世間様 - シロクマの屑籠
ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠
 
ネットは世間と完全に地続きになり、ある面ではテレビよりもテレビ的な、そういう場所になった。世間となり、テレビとなり、公共にすらなったインターネットに着飾ったライフログを陳列するのは易しい。しかし赤裸々なライフログを陳列するとなると、勇気か無神経さか反骨精神が必要のように思う。他人に石を投げられるリスクやアカウントをBANされるリスクもあるかもしれない。そして人々は言うだろう──石を投げた人が悪いのでもBANした運営が悪いのでもない。あなたが投稿した内容、それか、あなた自身が悪いんです──と。
 
 

一握りの砂になりたい・なれるか?

 
この話はもうやめよう。
それより、時代に傷をつける話について。
 
これから書く内容は、goldheadさんの「時代に傷をつけろ」「自分の言葉を残せ」をなぞっているだけかもしれない。私はそれに似た別の言葉を使っていたので、なんというか、言葉のすり合わせをしたくなった。
 
私は「時代に傷をつけろ」のかわりに「一握りの砂になってみせろ」と言ってきた。
 
若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ - シロクマの屑籠
 

おっさんには従わない。オーケー。かかってこい!相手になってやる!そして俺達を超えてみせろ。十数年後の(ネット)カルチャーを構成する一握りの砂になってみせろ。

 
インターネットが普及した今、時代に傷をつけることは一定程度なら誰にでもできる。どこかの言い回しを借りるなら、「誰でもその生涯で15分だけは時代に傷をつけることができる」とも言えるかもしれない。たとえば先日のシン・エヴァンゲリオンの感想でたくさんの人がナイフの傷跡のような言葉を残した。あれらのひとつも彼らの言葉として・2021年に刻み付けられた小さな傷として残るのかもしれない。
 
でも、個人がつくる傷はその場ではよく見えても、時代の望遠レンズからは見えにくくなる。忘れられてしまうし、検索にもひっかけにくくなる。なかには時代に風化されない大きな傷を時代に残せる人もいるが、誰にでもできるわけじゃない。
 
私もこうしてここで、自分の言葉を残そうとあがいている。けれども思うに、時代につけたつもりの傷、自分で残そうと思った言葉は、微視的には傷に見えても巨視的には傷には見えないのではないか。風化されやすいだけでなく、目立たず、誰かに届きにくい。(シン・エヴァンゲリオンに対する賛否のように)たまたま幾人かが似たような傷を同時に刻めば、それはその時代の”模様”にみえるかもしれない。私たちは時代の"模様"を刻印していると同時に、時代の風に吹かれて風紋をかたちづくる一握りの砂ではないか。時代に抗い、時代に流され、時代の"模様"をつくりだす一握りの砂。goldheadさん、私たちは平成ー令和の一握りの砂なんじゃないでしょうか。
 
「時代に傷をつけろ」と「一握りの砂になれ」は根っこのところではそれほど違わない気がするけど、能動性と受動性という点は違っていて、私の考えは受動的で怠惰かもしれない。「時代に傷をつけろ」という言葉には、私が見失っているものをがあり、それをうらやんでいる自分がいる。ああ、せっかくgoldheadさんの文章から何かを受け取ったつもりになっていたのに、結局しけた話になってしまった。すみません。