シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

今のネットでアニメ辛口批評なんてできたもんじゃない

 
 
 


 
 
メンヘラ.jpの小山さんが難しいことをツイートしていて、私も難しい顔になってしまった。
 
この手の「最近のオタクコンテンツは~」「ヒロインが可愛いだけ」「薄っぺらい作品」といったフレーズからは不穏な、そして間違った印象を受けずにはいられない。ヒロインが可愛い作品は多いまではいいとして、薄っぺらい作品ばっかりと言って良いものか……。もちろん薄っぺらい作品だって必要なので、この場合は、薄っぺらい作品"ばかり"かどうかが問題なのだけど。
 
「オタクは好きな作品の悪口を吐き続ける生き物」というのもわからない。そういうオタクもいるだろう。でも、大半のオタクはそこまでひねてはいない。90年代でもたぶんそう。また、私のように「一番好きな作品については上手く言えなくて、もどかしい思いを抱え続けている」オタクだっていたはずだ。
 
それでも、小山さんのツイートには頷かずにいられないところもある。
 
 
今は、アニメファン同士がタイムリーに作品について語り合い、「いいね」「シェア」しあう時代だ。辛口批評を独りでセコセコ作るより、みんなと一緒に「いいね」や「シェア」を共有したほうが、承認欲求や所属欲求を簡単・確実に充たせる。フォロワー数を増やしたい・広告収入につなげたいといった野心を持っている場合も、辛口批評でモノ申すより「いいね」や「シェア」を共有する人々におもねったほうが見込みがありそうだ。
 
そのうえ、辛口批評を繰り出せば多くの人に嫌われたり馬鹿にされたりするリスクも高い。たとえ、知識や文献にもとづいて辛口批評が行われていたとしても、「いいね」や「シェア」で共有されている作品に楯突くこと自体、リスキーであり、心理的障壁が大きく、報われにくい。
 
アニメがコミュニケーションの触媒として、つまりファン同士が承認欲求や所属欲求を充たしあうための触媒として用いられている21世紀のSNSやネットのなかで、「いいね」や「シェア」の環に背を向け、一人で「辛口批評」をセコセコと作り続けるのは、よほどタフじゃないと無理だろう。というよりそんな動機が簡単には生まれそうにない。
 
[関連]:Twitterにおける映画感想がダメなものになりがちな理由 - THE★映画日記
 
たとえば、ここでDavitRiceさんが述べている映画感想についての話を他人事と言い切れるアニメファンやゲームファンは、今のSNSにいったいどれだけいるだろう?
 
 

素人批評がサーチアンドデストロイされてしまう

 
それともうひとつ。
辛口に限らず、好きなように書いた素人の批評がすぐ発見されてしまい、手ごろな批判対象とみなされるや、駆逐されてしまうという問題もある。
 
たとえば2018年の12月頃、はてなブログで「ハルヒ美顔革命」という『涼宮ハルヒの憂鬱』評を若い人が書いた。
 
涼宮ハルヒ美顔革命論について各方面の反応 - Togetter
[B! オタク] ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代 - 美少女と僕らのセカイ
 
この「ハルヒ美顔革命」は突っ込みどころの多い批評で、案の定、たくさんの人から否定的なコメントを集めていた。記事は、一週間ももたずに非公開となったように記憶している。
 
突っ込みどころの多い批評に注目が集まれば、たくさんの人から突っ込まれるのはおかしなことではない。一週間もたたずに非公開になったのも、少しスタミナ不足だったかもしれない。だがそれ以上に戦慄せずにいられないのは、今の時代、泡沫アカウントが初々しい批評をやらかしていても、嗅覚の利くベテランにあっと言う間にサーチアンドデストロイされてしまう、ということだ。
 
この「ハルヒ美顔革命」にしてもそうで、発見され、拡散され、たちまちベテランたちの知るところとなり、あっという間に消費、もとい批判されてしまった。
 
海千山千のベテランたちからみれば、稚拙で、雑で、間違いだらけの批評だったろうから、知られてしまえば八つ裂きになってしまうのはわかる。また、間違いだらけだからこそ、今のSNSでは絶好の狩りの獲物だというのも理解している。だけど、若いうちはああいった勘違いアニメ批評をやらかすのはよくあることで、いきなりベテラン勢に納得していただける批評を書ききれる人は少数派だ。
 
 


 
 
 
泡沫アカウントによる出来の悪い批評が、たちまち発見され、たちまちデストロイされる環境では、おいそれとはアニメ批評なんてできっこないし、志す人は増えないだろう。志す人が増えなければ、アニメ批評はしりすぼみだ。それで構わない、という向きもあるだろうけどアニメが元々ユースカルチャーであることを思えば、若い人が過ちをおそれず自説を開陳できる環境や雰囲気はあったほうがいいと思う。
 
出来の悪いアニメ批評がたちまちサーチアンドデストロイされてしまう現在のSNS環境やネット環境は、清潔だが、豊穣とはいえないと私は思う。このアニメ批評の状況を海に喩えるなら、プランクトンや小魚が生存不可能な澄みきった青い海に、大きな鮫ばかりが泳いでいるような、そんなイメージを思い浮かべる。
 
90年代~00年代前半の、まだウェブサイト同士がリンク集で繋がりあっていた時代には、時間をかけてネットサーフィンを進めるうちに、奇怪なアニメ批評やゲーム批評を記した素人のウェブサイト群にたどり着くことがしばしばあった。そういう辺境のウェブサイト群が、人知れず、数か月~数年にわたって狂い咲いていたりしたものだ。
 
しかし、現在のSNSやインターネットのアーキテクチャは、奇怪な批評が咲き続けることを許してはくれない。誰かが見つけて、ワンタップで手が届くようにリンクを貼ってしまえば、そこはもう、インターネットの辺境でも日陰でもなくなる。あっという間にシェアされ、摘み取られてしまう。
 
簡単にシェアし、簡単にリンクできてしまう現在のSNS・ネット環境には、辺境や日陰はあって無いようなものだ。辺境や日陰のつもりが、いきなり中央や日向に引っ張り出されてしまう。このような環境では、未熟・奇怪・出来の悪い批評が生存していられる時間は短いだろう。
 
それが嫌なら非公開にするしかないわけだが、「公開だが読む人が著しく少ない」と「非公開」の間には越えられない壁があるので、これは難しい問題だと思う。
 
 

「間違いにもとづいた批評はフェイク」問題

 
さらにもうひとつ。
 


 
誤った認識や知識をもとにアニメやゲームを批評した場合、それが「フェイクニュースを流す」と解釈されてしまう可能性は(2020年の現状では)あってもおかしくないし、事実上のフェイクニュースとして流通することがあり得るようにもなっている。「出来の悪い批評を容認する」スタンスが「ネットにフェイクが溢れ、ネットが汚染されることを許容する」スタンスと受け止められたとき、いったいどう申し開きをすればいいのか。
 
私は、批評や評論、感想には絶対の正解は無く、その時点の知識や体験にもとづいて各人が感じたものをメンションすればいいと思っている。しかし、作品内容と食い違ったことを批評や評論として書き、それが食い違っていないファクトのような面構えで流通してしまった時、フェイクニュースのように取り扱われても文句は言いにくい*1だろう。
 
 
 
こうした諸々を踏まえると、今のネットでアニメ辛口批評なんてできたもんじゃないと思う。ゲーム辛口批評もまた然り。いや、知識も経験も豊かなベテランが完全装備でやればできなくはないかもしれないが、一般にはリスクとコストに見合わない。到底、ルーキーが気楽に挑めるものではあるまい。
 
そうしたなか、ますます「いいね」と「シェア」のコミュニケーションへとファンが流れ、批評や評論や感想が記されなくなっていけば、作品の受け取り方も、作品の作り方も変わっていくだろうし、現に変わり続けている。是非はともかく、今はそういう時代なのだと思う。
 

*1:補足:ファクトと食い違った知識をもとに書いてしまったメンションが、後になって食い違っていたと判明した場合、筆者は間違いを含んでいたことをアナウンスしたり、修正したりできる。ただ、たとえば現在のtwitterでそれを実行し、かつ周知されるのは簡単ではあるまい

なめらかな社会、繊細な秩序にあなたはついていけるのか

 
昭和の日、繊細になりゆく令和の秩序について考える - シロクマの屑籠
 
先日の記事には、はてなブックマークで様々なコメントをいただき、進みゆく秩序について(はてなブックマークの)皆さんがどんな風に考えているのか参考になった。それらを記憶にとどめながら、社会ぜんたいの秩序がもっと繊細になっていった未来について、もう少し言葉を重ねてみたい。
 
社会秩序がどんどん繊細になり、暴力と呼び得るものが追放され、相手が傷ついたり不快になったりするかもしれない言動が制限され、自粛されるようになっていけば、その社会のコミュニケーションはどんどん円滑になり、トラブルも減っていくだろう。実際、昭和時代に比べれば令和時代のコミュニケーションは円滑だ。公の領域はもちろん、プライベートな領域でもコミュニケーションは円滑であるよう目指され、ノイズは少なくなった。DVやストーカーや体罰といった、古き悪しき言動も摘発されるようになった。それはとても良かった。
 
さて、そうやってトラブルの少ない、お互いに迷惑をこうむったり傷ついたり不快になったりする言動をもっともっと制限しあい、ますますノイズレスなコミュニケーションを実現していく社会、いうなれば、社会がなめらかになっていくとして、そのなめらかな社会のなかで私は、あなたは、他人に迷惑をかけたり他人を傷つけたりしない、不快な思いをさせない個人として、如才なく振る舞えるものだろうか。
 
社会がどんどんなめらかになり、私たちの通念や習慣が今以上に繊細になっていけば、コミュニケーションも人間関係もまたなめらかになり、トラブルや不快な思いも減るだろう。そのかわり、私たちはなめらかにコミュニケーションできる人間、他人に不快な思いをさせない人間、トラブルを起こさず他人に嫌な思いをさせることのない人間にならなければならない
 
社会から期待される要求水準は、高まらざるを得ない。一人の社会人としての言動・一人の親としての言動・一人の子どもとしての言動がハイクオリティであるよう期待され、そこからはみ出した言動が、批判されたり罰せられたり矯正されたりするようになるだろう。ときには、排除すらされるかもしれない。
 

 
粗い秩序の社会では社会人として・親として・子どもとして合格点がもらえていた人も、繊細な秩序のなめらかな社会では不合格になりかねない。というより、昭和時代と令和時代を比較する限り、社会人として・親として・子どもとして越えなければならないハードルはかなり高くなっているのではないか。
 
 
[関連]:テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠
 
 
勤め人かくあるべし、パートナーかくあるべし、子どもかくあるべし──そのようにハイクオリティを期待して構わない社会は、当然、私やあなたにもハイクオリティを期待する。もし、社会から期待されるクオリティに私やあなたが達していなければ、勤め人失格、パートナー失格、子ども失格ということになる。あなたは採用しません、あなたとは縁を結びません、あなたは子どもをつくるべきではありません、そういう風にダメ出しされる可能性が高まっていく。
 
はてなブックマークのコメントをみる限りでは、なめらかな社会にふさわしい言動をこなせない人は、なめらかな社会の敵とみなされても不思議ではなさそうだ。少なくとも、なめらかな社会の敵とみなす向きは確実に存在する。そこまで極端でなくとも、繊細な秩序を当然の前提とみなし、秩序は繊細であればあるほど良いに決まっている、と思っている人なら結構いるだろう。
 
うらやましい。
 
なめらかな社会にふさわしい言動が苦も無くこなせる人、他人を傷つけたり不快がらせたりするおそれの無い人には、こうした変化は良いことづくめなのかもしれない。
 
だが世の中には、なめらかな社会にふさわしい言動がこなせるかどうかギリギリのラインで社会適応している人、他人を傷つけたり不快がらせたりする言動が完全にはなくならない人もいる。いわば、ノイズレスになりきれない人は確実に存在する。
 
そういった人々は、社会がなめらかになればなるほど目立つようになるだろう。適応しづらく、批判されやすく、罰せられやすく、居場所を見つけづらくもなるだろう。そのような人々は、社会がなめらかになり過ぎると社会についていけなくなるし、秩序が繊細になり過ぎると職場や家庭や交友関係からこぼれ落ちやすくなる。
 
それだけではない。適応できないこと、批判されること、罰せられることが個人の自己責任として、「社会が悪いのでなく、お前が悪い」とみなされる未来が想像もできる。
 
社会がなめらかになるほど・秩序が繊細になるほど、そのとおりに振る舞えない人が増えたり、そのとおりに振る舞うためにより大きな努力を必要とする人が増えたりする側面を、私は、過小評価することができない。少なくとも、そうした側面を度外視してはならないと思う。もし、社会がどんどんなめらかになって、秩序が繊細になれば……そうですね、私だってなめらかな社会の敵とみなされ、ノイジーであるとみなされ、社会人失格、親失格、パートナー失格とみなされるかもしれません。
 
「適応できない人は医療や福祉によるサポートを受ければ良い」と答える人もいるだろう。これはひとつの考え方で、実際のところ、医療や福祉はそのようにサポートを行い、少なくない人の社会適応を手助けしている。統計*1をみる限り、そのようにサポートを受ける人の数は時代が進むにつれて増えている。
 

 
サポートが手広く行われること自体は望ましい。が、サポートを受けなければならない人が増えていることまで望ましいと言って構わないのかは、私にはわからない。
 
 
「社会に通用する奴」は多様化しなかった - シロクマの屑籠
 
 
2016年に書いた上掲リンク先の文章にある「社会に通用する奴」の条件もまた、なめらかな社会にふさわしいコミュニケーションができること、繊細な秩序にふさわしい言動がとれること、ではなかっただろうか。今以上になめらかな社会、今以上に繊細な秩序は、いったいどのような人にとって素晴らしく、どのような人にとって厳しいものなのか、私は考えこまずにいられない。勉強できる人しか便利に暮らせない社会を全面的に肯定するのが難しいのと同じような問題が、ここにも潜んでいるのではないだろうか。
 
今から10~20年後のなめらかな社会と繊細な秩序に、あなたならついていけるだろうか。
私は、あまり自信が無い。
 

*1:厚生労働省、患者調査より

「こわいのは、コロナより世間」

 
 

私の交際範囲のなかでは、こんな言葉が流行っている。
 
 
「こわいのは、コロナより世間」
 
 
高齢者や基礎疾患を持っている人にとって、COVID-19は命にかかわる疾患だ。とはいえ私の年齢、私の子どもの年齢なら、これが命取りになる可能性はそこまで高くない。この病気よりも恐ろしい病気なんていくらでもある、という気持ちを持っている。
 
それより、感染したときの社会的・世間的インパクトのほうが恐ろしい。
 
私自身が感染したらどうなるか、想像してみる。
 
職場は大変な混乱に見舞われるだろう。一人のCOVID-19感染者が出たら、私の部署、私の職場はだいたい機能不全に陥る。だいたい機能不全になった職場の噂は、あちこちに伝わっていく。「あの会社でコロナが出た」「あそこの支店が閉鎖された」といったかたちで街じゅうが知ることになる。ひとつの職場の機能不全は、ほかの職場にも機能不全を波及させていく。だから、うまく言えないのだが、「私が感染したら、いろんな人に申し訳ない」に近い気持ちが、私のなかで強いブレーキとなって働いている。
 
私の職場には、もちろん発熱のある人がいらっしゃることもあり、そのような場合、できるかぎり感染防御を施したうえで私もフロントラインに立つことになる。私生活でどれだけ感染予防を心がけていたとしても、職務の性格からいって、誰かが感染してしまう可能性はゼロにはできない。そうしたなか、私たちは「感染一番乗りは避けたい」とだいたい思っている。"勇敢な職務にともなう名誉の感染"だったとしても、感染一番乗りは大きな社会的インパクトをもたらしてしまうだろうからだ。
 
「もし感染が起こるなら、上の人からだと気が楽なのにね」
 
そういう冗談が出ることもある。9時5時の退社を上司が率先してくれると部下もそうしやすいのと同じロジックで、私たちはそんなことを言い合ったりする。あるいは、上司が長期休暇を率先してくれると部下も長期休暇を取りやすくなるのと同じロジックで、「感染一番手は上の人だと助かるなぁ……」とぼんやり口にしたりする。実際のところ、ボスが感染したほうが大変な事態になりそうだが、とはいえ「職場の感染一番乗り」という、社会的にも世間的にもばつの悪そうな立場を自分で引き受けるのは避けたい、恐ろしい、という思いはある。
 
イギリスやロシアでは首相が感染したけれども、ボスが感染したことで部下が安心するようなメンタリティは彼らにもあるのだろうか? それとも、日本の世間を生きている私たち固有のものだろうか?
 
世間には、感染に対して恐ろしい態度を取る人がいる。石を投げられる、いやがらせをされる、うつすなと言われる、等々の話はオンラインでもオフラインでも耳にする。COVID-19に感染して生物学的に重症に至る可能性の低い人でも、社会的・世間的に重症に至る可能性はぜんぜん高い。しかも、その社会的・世間的なダメージは自分自身だけでなく、職場を、地域を、家族をいとも簡単に巻き込んでしまう。
 
COVID-19で自分が命を落とす未来を想像することはあまりないが、COVID-19で社会的・世間的に深手を負う未来を想像するのは簡単だ。だから私は命を守るためにCOVID-19と戦っているというより、世間体を守るためにCOVID-19と戦っている、それが私の感染対策の本態のような気がする。
 
案外、ほかのご家庭、ほかの職場の皆さんも、「こわいのは、コロナより世間」と思いながら感染対策につとめていたりしませんか。
 
こうした、世間をおもんぱかるメンタリティ、世間体に従って行動してしまう性質の是非や善悪についてはここでは考えない。それでも、強制力の乏しい自粛要請に多くの人が従い、街が閑散としているのは、為政者が強力なリーダーシップを発揮しているからでも、日本人が特別に感染症に詳しいからでもなく、世間の空気を読み合い、その世間から自分自身が浮き上がってしまう事態を避けたがってやまない、あのメンタリティのせいだったりしないだろうか。
 
感染症を防ぐための正確な知識を理解している日本人はまだまだ少ないかもしれないが、自分が感染したときに世間体がどのように損なわれるかを正確に理解している日本人なら、とても多いと思う。私もそういう日本人たろうと、息をひそめるようにこのゴールデンウィークを過ごしている。
 

昭和の日、繊細になりゆく令和の秩序について考える

 
今日は昭和の日だが、最近、私のツイッタータイムラインには昭和時代の漫画表現のおおらかさ、フリーダムさに驚いている投稿がよく飛び込んでくる。
 


 
 
自粛の最中だから漫画を読む人が多いのか、それとも自粛をあてこんで無料で配られる漫画が多いせいか、昭和時代の漫画について目にする機会が増えた。私も、2019年に昭和の少年漫画を調べてまわった時には、カジュアルな暴力の描写に驚いた。ただ暴力が描かれるのではなく、その暴力がどれも何気なくて、他人を叩くこと・他人と喧嘩をすること・コミュニケーションの一手段として腕力を用いることが、例外としてではなく、当たり前のこととして描かれていた。
 
たとえば21世紀の大ヒット作品、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』に登場する暴力と比較すると、昭和の漫画には和やかな日常の一部として、もっとナチュラルに暴力が描かれる。『サザエさん』や『ドラえもん』といった、最ものどかな漫画でさえそうだ。
 
それらの昭和漫画で描かれる暴力は、暴力を暴力として描くのでも、凄絶な集団の凄絶な行動として描くのでもなく。ギャグとして描かれるのとも違って。日常の一部として、やりとりの一部として暴力が登場している。いや、たぶん、昭和時代の段階では、それらは暴力とは呼ばれない何かだったのだろう。
 
令和時代には暴力と呼ばれるような喧嘩やコミュニケーションのかなりの割合を、昭和の人々は暴力とみなしていなかった。大人も子どもも両方だ。そして私が憶えている限り、そのような喧嘩やコミュニケーションのノウハウや受け止め方をみんなが経験し、多かれ少なかれ身に付けていた。令和時代の秩序感覚からすれば、昭和の人々も、昭和の漫画も、あまりに粗暴で許されないとみなされるだろう。昭和の表現や作品は、『この表現は昭和時代に描かれたものです』という鍵括弧に入ったものとして読み取られなければならない。
 
では、昭和時代は地獄のような世界だったのか?
 
令和時代の秩序感覚でいえば、そのとおりだろう。
 
いじめやハラスメントや虐待に相当するものが日常に潜在していて、それらを"我慢"していたのが昭和時代……と語るのが令和時代においては無難な態度だ。けれども実際には、喧嘩やコミュニケーションとみなされる範囲、いじめやハラスメントや虐待と感じられる範囲が昭和と令和では大きく異なっていた。それらに対処するノウハウの蓄積も違っていたし、それらの社会的な位置づけ──喧嘩というコミュニケーションのフレームワークでとらえるべきか、暴力や犯罪という逸脱のフレームワークでとらえるべきか──も違っていた。だから事態はそれほどシンプルではなかったはずである。
 
昭和から令和にうつるなかで、私たちは暴力や迷惑に対して繊細になり、社会から暴力や迷惑とみなされそうな言動や表現・誰かを不快にしかねない言動や表現を追い出していった。倫理や正義や正当性にてらして言えば、それらは進歩と呼ぶべきだろう。
 
ただ、昭和の漫画表現を久しぶりに眺めると、私たちが数十年の間にどれほど繊細になってしまったのかを思い出さずにはいられなくなる。私たちは、いったいどこまで繊細になっていくのだろうか? どこまで繊細になるべきなのだろうか?
 
 

繊細な社会秩序の行き先は何処?

 
取っ組み合いの喧嘩やビンタが暴力とみなされ、いくつもの表現や言葉が禁じられていったのは、大筋では、良いことだったに違いない。傷つかずに済んだ人、"被害"を受けずに済む人も増えたことだろう。
 
また、ホワイトカラー的な職業に就いている私は、繊細になりゆく社会の恩恵を受けていると思う。この先、ますます社会の秩序が繊細になっていき、秩序が高水準になっていったほうが私自身のメリットは大きく、リスクは少ない。少なくともそうだと頭ではわかっている。
 
けれども私は、昭和の野蛮さやおおらかさのなかで育ち、その恩義や恩恵を受けてきたことも覚えている。そこで私は"やんちゃに""わんぱくな"子ども時代を過ごすことができたし、令和時代の子どもよりもずっと帯域の広いコミュニケーションを体験することができた。安全・安心・倫理・正義・責任の名のもと、たくさんの遊びが禁じられ、過ごす場所や過ごしかたを厳格に定められている令和時代の子どもたちに比べると、ずっと自由な子ども時代を過ごせた側面もあったように思う。そのような昭和の子どもの自由は、令和時代の子どもには望むべくもない。
 
昭和時代には見落とされていた暴力が暴力として未然に防がれ、迷惑になるかもしれない行動が禁じられ、誰かを不快にしかねない表現が駆逐されるようになったのは、疑う余地のない進歩であり、好ましいことだった。昭和時代を生き辛いと感じていた人々にとって、そうした進歩が悲願だったことも想像に難くない。だからこの進歩が悪いものだったとは、私も思わない。
 
だが、こうした進歩の行き先には疑問も感じる──ますます私たちが繊細になり、ますます他人に悪影響を及ぼしかねない言動にセンシティブになった未来に、どんな社会秩序ができあがるだろう? 
 
他人に悪影響を及ぼしかねない言動に対する繊細さが高まり続けた結果として、たとえば背中をポンポンと叩いただけで暴力とみなされる未来、他人にくさい匂いを感じさせただけでも迷惑行為とみなされる未来、バスや電車のなかで声を出したら不躾とみなされる未来は、あり得るのではないだろうか。
 
そんな馬鹿な、と一笑に付す人もいるかもしれない。
 
だが、令和時代に暴力やハラスメントとみなされている言動のなかには、昭和時代にはまったく許され、当たり前の言動として世間にあふれていたものが沢山あったわけだから、進歩の行く末と繊細さの高まりの果てがどのようなものか、楽観できたものではない。
 
まして、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるい、私たちの習慣や考え方に大きな刻印を残そうとしている昨今を思えば、私たちがコミュニケーションに対してますます厳格な基準を適用し、ますます多くの言動を検閲するようになっていく可能性は高いと、私は推測せずにいられない。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
進歩は私たちを自由にし、暮らしを快適にしてくれた。令和時代と昭和時代を比べれば、それがはっきりわかるし、これからもそうだろう。だが進歩に伴って不自由になった側面もまたあるとしたら、繊細になりゆく秩序を手放しで喜ぶわけにもいかない。社会秩序がもっともっと繊細になっていくとしたら、そのメリットを全面的に享受する私のような人間がいる反面、そのデメリットやその不自由にいよいよ束縛される人間がいるのも容易に想像できる。だから私は、社会の進歩や繊細化について、もっといろいろな角度から議論が進んで欲しいと思うし、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』も、そういった議論の一部として読まれて欲しい、と願っている。
 

FGOの最新クエストはまさにビジュアルノベルだった

 
先日、Fate Grand Order (FGO) は、2000万ダウンロード記念のキャンペーンを発表した。良くも悪くも90年代~00年代のオタクのノリがちりばめられたソーシャルゲームがこんなにヒットするとは驚きだ。そして嬉しい。ひいきの野球チームが優勝するのを見るのに近い喜びがある。
  
で、FGOのメインクエスト第二部の最新話をさきほど読み切った。
 

 
すごく良かった! これこれ、こういうの! 賛否のありそうなストーリーを描ききった制作陣には、感謝するほかない。こういうテキストを、最新作として2020年に読ませてもらえるなんて! ありがとうありがとう!
 
FGOのクエストには「90~00年代のヴィジュアルノベルらしさに満ちたメインクエストやイベントクエスト」を旅行するような趣があると、いつも感じていた。そういう、ちょっと古くさいクエストのお伴として、2010年代のキャラクターらしいマシュがついてきて、新旧の混じった雰囲気ができあがっている──それが、ヴィジュアルノベルの末裔としてのFGOに対する私の印象だった。
 

(マシュのおかげで、FGOの道中は新しくて古い、古くて新しい雰囲気になっているのだと思う)
 
メインクエストの行方はしれない。『痕』や『Air』や『ひぐらしのなく頃に』がそうであったように、FGOもまた、ストーリーが予定調和におさまらず、とんでもない方向に大風呂敷が広がっていく感じがある。予定調和を期待していた人があんぐりするような、ひょっとしたら呆れてしまうようなリスクを冒してFGOのストーリーは進んでいく。
 
最新話のロストベルト第五章・オリュンポスも、そんなメインクエストだった。FGOにはネタバレを避ける文化が強く残っているので内容には触れられないが、これまでのFateのフィールドから大きくはみ出し、天文学的スケールの物語へと風呂敷を広げていった。冬木という、日本の一都市を舞台としていたFateが、FGOとなって世界じゅうを旅するようになり、だいぶ慣れていたつもりだったが、ロストベルト第五章には今までの路線では想像していなかった描写・戦場・兵器(?)が次々に登場した。
 

 
それでいて、今までのストーリーを振り返ってみれば、第五章の展開はあり得たもの、描かれてもおかしくないものでもあった。こうなるフラグや伏線があったのに、実際に読んでみてびっくりしたのは、ヴィジュアルノベルでは嬉しい展開だ。そういう展開に出くわしたので、「やったぜ! やっぱりFGOはヴィジュアルノベルだ!」と大きな声で叫んでしまった。
 
 

FGOで広がるヴィジュアルノベル、オタク古典芸能

 
もちろん、FGOで表現されているものがヴィジュアルノベルのすべてだ、などと言いたいわけではない。言えるわけもない。
 
それでも、FGOをとおしてヴィジュアルノベルの色々が表現されているのもまた事実で、FGOが大ヒットしてくれたおかげで、そうしたカルチャーや様式が令和時代に伝播している。ヴィジュアルノベルの最盛期にオタクをやっていた身としては、このことも嬉しい。
 
FGOは、メインクエストでも平然と昔のノリを混ぜ込んでくる。
 

 
先日までアニメになっていた、第一部第七特異点バビロニアでも、シリアスなストーリーのなかに、このようにふざけた存在を平然と混ぜ込んできて、それでひとつの世界をつくりあげてしまっていた。こういう存在を混ぜ込むつくりは、たとえば私のような古いファンからは好評かもしれないが、嫌いな人は嫌いかもしれない。ところがFGOはためらわず、果敢に、ふざけた存在を平然と混ぜ込んでくる。
 
イベントクエストともなれば、二次創作のノリでやりたい放題・悪ノリし放題である。これまた、慣れている人にはご褒美だが、果たして、初見の人はあのノリをどう受け取るのか。
 
FGOで初めてFateに触れたプレイヤーは、本当のところ、あの昔ながらのノリ、ファンディスク的なノリをどのように捉えているのだろう? 本当は嫌悪している人も多いのか? それとも、他のソーシャルゲームもはっちゃけたイベントを開催している昨今だから、ごく自然に受け取っているのだろうか?
 
ともあれ、FGOはFate以前から存在していたヴィジュアルノベルのカルチャーを引き継ぎ、発展させ、大きなコンテンツとして命脈をたもっているのだから、オタク古典芸能の継承者・伝道者としてありがたいと思う。メインクエスト第二部・ロストベルトも佳境に入った感があり、この、広げまくった大風呂敷をどのように折りたたむつもりでいるのか、これからが楽しみでしようがない。
 

 
 

ガチャという難しさを伴ったゲームではあるけれども

 
FGOには「ガチャを回させるソーシャルゲーム」としての側面があり、不幸なことに「ガチャを回すというより、ガチャに回されているプレイヤー」も目につく。そういう意味ではFGOはやさしいゲームとは言えない。個人的には、もうちょっと制御しやすいゲームになって欲しいと願っている。
 
でも、そうした側面があるとはいえ、クエストで綴られる物語は貴重な何かだ。過去のオタクカルチャーを偲ばせると同時に、新境地を切り拓いていく何かでもある。ロストベルトの物語は、そのような大風呂敷として満開を迎えようとしているので、これを見届けるまでFGOはやめられそうにない。
 
なお、FGOは4月29日から2000万ダウンロード記念キャンペーンと称する豪勢なイベントを展開するという。ヴィジュアルノベル文化が嫌いでない人は、これを機会に触ってみてもいいかもしれない。いいヴィジュアルノベルだと思うけれども、ガチャには本当に気を付けて。
 
 
【関連:このブログの、FGOについてのアーカイブ】
 
FGOでゴールデンウィークが溶けた - シロクマの屑籠
「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった - シロクマの屑籠
これから意識低くFGOを始めるためのtips - シロクマの屑籠