シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった

 
 界隈では「ソーシャルゲームはガチャで派手に儲けている」と耳にするし、それは事実らしい。しかし、私はお金のあまりかからない部類のソーシャルゲームを、あまりお金のかからない遊び方で遊んでいたので、「射幸性」だの「依存性」だのと言われてもイマイチ実感が乏しかった。
 
 
 
 
 
 『FGO』にしてもそうで、ガチャは初期投資の金額だけで十分と感じていた。メインストーリーを進めるにつれてサーヴァント*1がどんどん強くなり、★1~★4のサーヴァントもちゃんと活躍してくれるおかげで詰まる気配が無かった。そのうえ、ストーリーが進むと聖晶石*2がどんどん手に入り、戦力が増強できる。
 
 「メインストーリーで得られる聖晶石と、ごく稀に出てくる★5サーヴァントがいれば、とりあえずゲームストーリーを進めるには問題ない。だから『FGO』は無課金~微課金で完結できるゲームだ。めちゃくちゃ課金してガチャを回している人達は、どこかおかしな遊び方をしている」
 
 そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。
 
 

五百個の聖晶石を一気に使ったらおかしくなった

 
 
 ところがそんなに甘くなかった。
 
 おかしくなりはじめたのは、2018年夏のアニバーサリーイベントが始まってからだ。まず、★5サーヴァントが確実に手に入る「福袋ガチャ」で、なんと★5サーヴァントが二体も手に入ってしまった。そのうえ、運営側からものすごい量の聖晶石が振る舞われたこともあって、この時点で聖晶石が五百個ぐらい溜まっていた。
 
 アニバーサリーイベントの最中は、★5サーヴァントをラインナップした「ピックアップガチャ」がいつまでも続く。溜まった聖晶石を使うなら今しかない!……が、さすがに★5サーヴァントは簡単には出てくれない。そうこうするうちに聖晶石が底をつき、ガチャを回したいという渇望と、欲しいサーヴァントのピックアップでも指をくわえて見ているしかない渇愛が残った。
 
 ああ、ガチャを回しまくった先にはこんな景色が広がっていたのか!
 
 そこからは良くない展開だった。
 

 
 ほんの二週間ほど前まで、私は「めちゃくちゃ課金してガチャを回している人達は、どこかおかしな遊び方をしている」と本気で思っていたし、特定の★5サーヴァント欲しさにガチャで大爆死しているユーチューバーの実況などを見ては「馬鹿だなぁ」などと思っていた。
 
 いいや、馬鹿だったのは私のほうだ。
 
 ガチャを回し続けた彼岸には、経験したことのない世界が広がっていた。戦力的には十分なプレイヤーが、どうして躍起になってガチャを回すのか、やっと私にもわかってきた。今なら私も、"葛飾北斎"や"マーリン"のピックアップガチャが来たら爆死するに違いない。
 
 たぶん私は『FGO』の半分も見えていなかったのだと思う。
 
 

「今まで見えていなかった世界」が見えてきた

 
 人がゲームを遊ぶ理由はいろいろだろう。
 が、私の場合、「今まで見えていなかった世界を見る」ことが理由としては大きい。
 
 『スターソルジャー』や『グラディウスII』や『怒首領蜂』をやっていた頃は、少しでも長く生き残って、出会ったことのない敵と戦ってみたいと思っていた。ゲームをやり込むほど新しいステージに進める──それが何よりのご褒美だった。

『シヴィライゼーション4』や『スプラトゥーン2』の場合は、上達しなければ気付かないこと・見えてこないことがたくさんあり、できるだけ上達して、その境地を自分の目で確かめてみたいと思っていた。
 
 そして『FGO』では、未読のメインストーリーを読むことが目的だった。以前も書いたとおり、私は『FGO』をヴィジュアルノベルの末裔だとみなしていて、ストーリーを先に進めるためにガチャを回して、サーヴァントを育成していた。今にしてみれば、それはそれで幸福な『FGO』観だったし、それで十分だったとも言える。
 
 ところが短期間にガチャを回しまくった結果、後頭部がジリジリするような、新しい『FGO』観を私は知ってしまった。
 
 私のtwitterのタイムラインには、『FGO』に課金する人が珍しくない。彼らは、この、執着無間地獄を苦しいと感じているのだろうか? それとも御褒美や喜捨のたぐいと割り切って身銭を切っているのだろうか? どちらにせよ、「ストーリーを進めたい」から「欲しいサーヴァントが欲しい」になってしまった時点で、運営のいい金蔓になってしまったといわざるを得ない。
 
 

「詫び石」は「ドラッグの売人」の手口

 
 どうしてこんなに★5サーヴァントが欲しいなどと思うようになってしまったのか。
 
 色んな理由が思いつく。
 
 サーヴァントが格好良い(またはかわいい)から。それもそうだろう。
 サーヴァントが強い(または使える)から。それもそうだろう。
 
 でも、サーヴァントの魅力だけでは足りない。事実、最初の数カ月はそこまでサーヴァントに執着していなかった。
 
 私がおかしくなったのは、「ガチャをたくさん回す快楽」を覚えてしまったせいだと思う。ため込んだ聖晶石をアニバーサリーイベントで一気に使い込んでから感覚がおかしくなってしまった。
 
 してみれば、運営がことあるごとに石を配って回るのも、お盆と正月に気前の良い福袋イベントを催すのも、「ドラッグの売人は、最初は無料でドラッグを配る」のと同じロジックなのだろう。
 
 「詫び石」というのも、なかなかいやらしいコンセプトだ。プレイヤーに対するお詫びという体裁を取りながら、一人でも多くのプレイヤーを執着無間地獄に堕とすための罠を配ってまわっているわけだから恐れ入る。
 
 メインストーリーを進めていた頃は無料でどんどん手に入っていた聖晶石が、ストーリーが進み尽くすと入手しにくくなるのもいやらしい。無料で聖晶石を手に入れるための手間暇がだんだん厳しくなってくるから、ますます課金したくなってしまう。「ストーリーを進められる戦力が揃えば、聖晶石は要らない」と考えていた頃は、これがガチャへの導線になっているとは気づかなかった。聖晶石を掘るのに手間暇がかかるようになって、ガチャに手を伸ばしたくなるようにデザインされていただなんて。
 
 『FGO』に限らず、我が世の春を謳歌しているソーシャルゲームはどれも、こうやってプレイヤーをガチャへと引きずり込むための仕掛けを用意しているのだろう。『マンガでわかるFGO』には「ガチャは悪い文明」という台詞が出て来るけれども、なるほど、ここまで来てみてやっとわかった。今、ガチャを回している時、私はプレイヤーとして自制がとれている自信が無い。とはいえガチャの恐ろしさを知るというこの体験も、これはこれでゲーム体験であり、辿り着いてみなければわからない世界ではあった。ひと夏の過ちをとおして、私はゲームの世界のことをまた少しだけ知った。
 
 

*1:手駒

*2:ガチャを回すために必要なアイテム