シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

FGOでゴールデンウィークが溶けた

 

マンガで分かる! Fate/Grand Order(1) (角川コミックス)

マンガで分かる! Fate/Grand Order(1) (角川コミックス)

 
 FGOでゴールデンウィークを溶かしてしまった。
 
 2016年頃から、私のtwitterのタイムラインにはFGO中毒者が続出し、2017年8月には、小島アジコさんが「シロクマさんもFGOをやろうよー」と悪魔の誘いをかけてきた。周囲の評価から、絶対に自分好みの、ヤバいゲームだとはわかっていたが、これ以上ゲームをしょい込むのは避けたかった。ところが『アズールレーン』をやめて『ポケモンGO』も停止させて心の隙が生まれたのか、つい、出来心で『FGO』をインストールしてしまった!
 
 もう、タイムラインには1~2年前の賑わいは無いし、3年遅れてソーシャルゲームを始めるのもなんだなと思っていたけれども、はたして、『FGO』は3年遅れても面白いゲームエンターテイメントだった。みんながグルグル目になって熱狂していたのもよくわかる。この喜びを書き留めたくなったので吐きだしてみる。
 
 
 

ビジュアルノベルの末裔としてのFGO

 
 2018年にもなって、キャラクターの「立ち絵」が表情をコロコロ変えたり動いたりする姿に喜びを感じるとは、全く思っていなかった。
 

 
 『FGO』のご先祖様は『Fate stay/night』というエロゲーにしてビジュアルノベルだが、その頃の息遣いがしっかり残っていて、TYPE-MOONのビジュアルノベル遺産の全部ではないにせよ、相当部分が『FGO』に受け継がれたんだなぁと感心させられた。
 
 今から十年以上前、「最近のエロゲープレイヤーは3行までしか読めない」と揶揄されたことがあった。ビジュアルノベルの『雫』や『街』、それらよりも後発の『ひぐらしのなく頃に』あたりは、1ページにかなりの長文が表示されていたが、画面下方のテキストウインドウに表示される「エロゲ―にありがちなスタイル」の作品は一度に3行しか表示されなかった。
 
 さて、『FGO』はなんと2行である!かつてのエロゲープレイヤーが「3行しか読めない」と馬鹿にされていたなら、『FGO』をやっている最近のソーシャルゲームプレイヤーはどれだけ馬鹿にされなければならないのだろうか?
 
 ……と言いたいところだが、テキストを2行に短縮したのはスマホというコンソールを考えれば適切なのだろう。スマホの狭い画面で3行読むのは結構辛そうだ。シナリオ製作者は、2行に最適化されたテキストを組んでいると思われる。それはそれで技術的洗練に違いない。
 
 2行でも、『Fate』、いや『月姫』以来のTYPE-MOONらしい言い回しは健在で、自分のなかの中二病が気持ちよくドライブしていく。歌舞伎役者のような、ひとつの様式美と言っても過言ではないサーヴァント達の物言いは、嫌いな人はとことん嫌いそうなものだけど、TYPE-MOON作品で馴らされた私にはご褒美でしかない。迸れ!中二病!
 
 それと、『FGO』はどんなに残虐なお話を書いていても、どこか人間賛歌的な雰囲気が漂っていて、それがとても嬉しかった。自分が知っている奈須きのこさん達の文章も、『月姫』以来そうだったような気がする。うんうん、こういうのでいいんだよ。
 
 ストーリーパートのあちこちに戦闘シーンが挿入されるのも良い。
 
 ビジュアルノベル時代の戦闘シーンは紙芝居みたいなものだったが、『FGO』では実際にサーヴァント達が戦闘画面を動き回り、自分もマスターとして指示を出したり、令呪を使ったりもする。これは、ビジュアルノベル時代には望むべくもなかったものだ。こんなのをやってみたかった!
 
 ストーリーのクライマックスに敵サーヴァントと戦って盛り上がるのは当然として、ストーリーの合間に雑魚をあしらう戦闘があるのも案外楽しかったりする。
 
 昔だったら三行ぐらいで省略されていたであろう、雑魚掃討がバトルとして挿入されているおかげで、ストーリーに納得が伴うと同時にサーヴァントの強さを実感する機会にもなっている。それと、テキストを読むのにダレてきた頃に戦闘が挟まるおかげで気分転換にもなる。
 
 宝具のエフェクトもいい。各章のクライマックスに宝具を撃ち合うのは、かつての『Fate/Staynight』時代の紙芝居のような戦闘シーンよりもずっと興奮する。あの出来の良かった『Fate Zero』の戦闘シーンともまた違った魅力がある。
 
 「今という時代に、スマホというプラットフォームで『Fate』のビジュアルノベルを作ってみました」と言わんばかりの内容に、ただただ喜び、読み進めるしかない。このビジュアルノベルとしての『FGO』のおかげで、ゲームに馴染むのが早くなり、周回を繰り返す苦痛がだいぶ緩和されたと思う。こういうのは『パズドラ』には望むべくもなかったものだし、『アズールレーン』や『艦これ』にすらあまり無かったものだ。ビジュアルノベルとしての『FGO』ならではのご褒美だと思った。
 
 

ソーシャルゲームとしてのFGO

 
 

 
 『FGO』は、なかなか売れているソーシャルゲームらしいけれど、とにかく、ガチャをまわしたくなる動機の導線がしっかりしていて、感心させられる。
 
 別に積極的にガチャを回さなくても、wikiなどを参考にしながらレア度の低いサーヴァントを手堅く育てても先に進めるのは察せられる。けれども、高レア度のサーヴァントを早い段階から育ててしまえば戦闘に幅ができるし、後で不要になるかもしれないサーヴァントを育ててしまうロスを回避できる。だからガチャをまわして高レア度のサーヴァントをあらかじめ手に入れてしまってから育成を始めたほうが都合が良さそうに思えて、つい、ガチャをまわしたくなってしまう。
 
 なにより、フレンドシステムがガチャを回す導線として機能していて、小賢しいとさえ感じる。
 

 
 戦闘のたびにフレンドのサーヴァントを一体借りてくるわけだが、これがもう、破局的に、猛烈に強くて、実質、フレンドのサーヴァントに依存した戦い方になる。星5サーヴァントの、圧倒的な戦闘力と絢爛とした宝具にすがりながら戦うこと自体が、ガチャの宣伝になっている!「ほらほら、フレンドの星5サーヴァント強いでしょう?恰好良いでしょう?さあ、あなたもガチャで手に入れなさい!」というわけだ。
 
 『パズドラ』にもフレンドシステムはあったけれども、『FGO』のほうがフレンドのサーヴァントが活躍するウエイトが大きく、宝具をぶっ放したりド派手に立ち回るものだから、ガチャをまわしたくなる誘惑は比較にならない。なにしろ、強いサーヴァントへの憧れが募るのである。そこに焦がれるほどの夢を見る!くっそ、これは罠だ!
 
 しかし、そうやってフレンドのサーヴァントが活躍してくれるおかげで、私のような後発組が助けられているのも事実だ。『FGO』は既に約3年の月日が流れていて、ソーシャルゲームとしては色々と難しくなってくる時期のはずだけど、フレンドのサーヴァントのおかげか、後発組がゲームを進めていくのになんの支障も無い。よく、「ソーシャルゲームにはシーンがある」というし、実際私はtwitterのタイムラインが『FGO』で熱狂していた場面に居合わせることができなかったわけだけど、今、独りでやっていてもちゃんと面白い。たいしたものだと思う。
 
 イベントも、『艦これ』に比べたら初心者への門戸が広いのではないか? ゴールデンウィーク中、事実上はじめてのイベントに参加したが、AP*1回復のリンゴのおかげもあって、目を見張るようなスピードでレベルアップできた。まあそのせいで、ゴールデンウィークを溶かしてしまったわけだが。
 

 
 成長システムは、成長素材を集めてレベルアップさせるタイプのもの。素材を集めるには周回が必要で、これが面倒きわまりないけれども、素材を集めてレベルアップさせた時の見返りがしっかりしていて、報われた気持ちになれる。そして自分の手持ちサーヴァントがレベル上限を解放するたび、できることも増えて、戦闘の幅が広がるわけだから、まるでドラクエで船を手に入れた時のような気持ちになる。サーヴァントを育てるほど先に進めて、先に進むとまたサーヴァントを育てたくなる無限循環。
 
 やっていることは不自由なはずなのに、サーヴァントのレベルが上がると自由度が高くなったような錯覚を覚えてしまう。この錯覚は、かけだしの今だけかもしれないが、楽しんでおくことにしよう。
 
 

カードゲームとしてのFGO

 

 
 戦闘が始まってしまうと、やるべきことは割とはっきりしている。カードの配牌やスキル、宝具ゲージを意識しながらゲームを組み立てていく手触りがとても気持ち良い。スキルまわりも行き届いていて、使い方をマスターするまでのプロセスも楽しく、わかってくるにつれて、スキルの重ねがけや使用する順序を工夫するようになり、勝てなかった戦いにもちゃんと勝てるようになる。
 
 これらの喜びは、あらかじめゲーム製作者側がプレイヤーを楽しませることを前提に仕掛けた「おもてなし」のたぐいだろうけれど、そういう「おもてなし」のもと、スキルを何重にもかけ、順序よく発動させて、戦闘をコントロールして悦に入る自分自身がいる。「ひとり上手」を満喫させようという、製作者側の強い意志を感じさせるカードバトルだ。こういうの、ゲーム冥利に尽きる。
 
 『FGO』のカードバトルを悪く言う人を過去に見かけたように記憶しているし、実際、昔はもっとひどかったのかもしれないけれども、2018年からはじめるぶんには、十分快適で、練り込まれた戦闘システムだと思う。
 

 
 でもってこのゲーム、戦闘が始まる前のほうが重要で、どういうサーヴァントを選抜し、どういう概念礼装で補強するかで勝負が半分決まっているわけか。この組み合わせの妙が、手持ちサーヴァントや概念礼装が増えるにつれて広がっていくのが感じとれて、なかなか飽きそうにない。少なくとも一年以上、マンネリすることなく楽しめそうな気がする。
 
 ちなみに『FGO』のカードバトルをやっていると、『Fate/hollow ataraxia』のオマケとしてついてきた花札ゲームのことを思い出す。あれも配牌を意識しながら宝具を打ち合うような花札で、使い勝手の微妙だったメデューサがかわいいゲームだった。『FGO』のメデューサも使い勝手が微妙で、ああ、相変わらずだと思いつつも生暖かく見守っている。がんばれメデューサ!
 
 もし『FGO』のカードバトルに欠点があるとしたら、戦闘のロード時間が長いことと宝具エフェクトが飛ばせないことだろうか。ここらへんはもっと短時間にできたら、どんなに素晴らしかっただろう、と思わなくもない。
 
 ただ、宝具が飛ばせないのはカードゲームとしては欠点でも、ビジュアルノベルとしてのFGOを支える道具立てとして欠かせないところでもあり、省略させないのは英断のようにもみえる。
 
 もっともこれは、私が始めて時間が経っていないからそう思えるだけで、2年以上心血を捧げているベテランプレイヤーも同じことを思うのかはわからない。それでもビジュアルノベルパートが私のような新参者の導線になっていることを思えば、宝具エフェクトはそれなり有意味な気はする。
 
 

こんなに優れたエンタメだとは思わなかった

 
 『FGO』は、ビジュアルノベルとしての末裔としても、いまどきのソーシャルゲームとしても、カードゲームとしても、よくできている。なにより、ビジュアルノベルとしての魅力とソーシャルゲームとしての魅力とカードゲームとしての魅力が噛み合っていて、総合的なエンタメとして信じられないほど完成度が高い。これが大ヒットしたのも、twitterのタイムラインに中毒者が続出したのも、よくわかる気がする。
 
 しかし喜んでばかりもいられない。おかげで、私のゴールデンウィークはすっかり溶けてしまった。どうしよう? こんなに面白いゲーム見つけてしまったら人生が短くなってしまうぞ。えらいことになった。
 
 

*1:『パズドラ』でいうスタミナに相当