先日、はてなブックマークの人に「FGOの記事でも書いてください」と言われた。しかし『FGO』は、お正月からずっと豪運状態が続いていて、無料の聖晶石だけで☆5の英雄が次々に集まって笑いが止まらないので書くことがない。
それより今日は、最近のゲームが長く遊べて"しまう"問題について書いてみたい。
先日、twitterの一角で『艦これ』のモチベーションについて話題が膨らんだことがあった。
togetter.com
『艦これ』は2013年にリリースされたブラウザゲームだ。サーバ増設が間に合わないせいでなかなかアカウントを取得できず、私は2014年にようやく遊び始めた。とはいえかれこれ6年もプレイし続けている。これだけひとつのゲームに長い時間をかけたことはないし、課金額も、塵も積もれば山となっていることだろう。
我が身を振り返り、『艦これ』を続けているモチベーションについて考えてみる。
はじめのうち、私は『艦隊これくしょん』というタイトルどおり、レアな艦を集めて喜んでいた。ところがイベント海域に「甲勲章」というフィーチャーが登場してからは、この「甲勲章」を集めることが自分のモチベーションになった。
自分の艦隊を強くし、強い艦隊でしか狙えない「甲勲章」を集めること──表向き、私のモチベーションはここにあるということになるだろう。
だがちょっと考えると、これを自分自身のモチベーションと言ってしまって構わないのか? 確かに「甲勲章」を集めたい気持ちはあるし、イベントでは取り逃さないようにしている。が、『艦これ』を遊び始めていた頃、そんなことは考えていなかったはずだ。長く楽しませてもらっている一方で、ゲームに長く囚われていると感じることもある。
『FGO』はどうか。
『FGO』の場合、メインストーリーがビジュアルノベルの末裔としても優れているから、とりあえず、メインストーリー第二節が終わるまではやめられない、と思っている。一時期、ガチャで目がぐるぐるになってしまった時期 もあったけれども、去年からはガチャとの向き合い方がわかってきて、年度はじめに定額課金する体制に切り替わった。
『FGO』の場合、戦力がある程度揃った後は、やたらと戦力増強をしなければならない必要性や必然性は乏しい。プレイヤーを飽きさせないよう、あれこれのイベントを運営は打ち出してはいるけれども、面倒だったら放置しても構わないし、それでメインストーリーが読めなくなってしまうおそれもない。
ところが私は『FGO』を毎日のように起動させているし、イベントもだいたい参加している。やらなくてもメインストーリーを楽しむには支障が無いのだから、私はもっと『FGO』の手を抜いて構わないはずなのに、まだやっている。
こうやって付き合いの長いゲームたちを振り返ると、長く遊べていること、いや、気が付けば長く遊んでしまっていることが、長所なのか短所なのかわからなくなる。
ゲームを遊び始めた頃は、ひとつのゲームを長く遊べることは間違いなく長所だったはずなのに。
長く遊べるゲームが欲しかった過去と、そうでもない現在
子ども時代の私にとって、「ひとつのゲームが長く遊べる」とは間違いなく良いこと、ゲームの長所として数えられるものだった。
家庭用のゲームはとても高価だったから隅々まで遊ぼうとした。数千円もするゲームが数日で飽きてしまう・面白くなくなってしまうのは恐ろしいことだった。
昔の家庭用ゲームにはやたら難易度が高いもの・忍耐強い経験値稼ぎを必要とするものが珍しくなかったが、それは、高価なゲームは長く遊べなければならなかったからだと思う。たとえばファミコン版の『ドラゴンクエスト2』は、現代のロールプレイングゲームの基準で考えるなら難易度が高く、ロンダルキアの洞窟は恐れられていた。パソコンゲームも難しく、『ザナドゥ』や『シュヴァルツシルト』などは初手を間違えると詰んでしまう。
ゲームセンターでも「長く遊べる」は良いこととみなされていた。百円1プレイのゲームを長く続けるためには上達しなければならないし、長く遊べるプレイヤーはリスペクトされた。ゲームセンター側にとって、プレイヤーが百円で長く粘るのは困ったことだっただろうけれども、プレイヤーとしては、百円でできるだけ長く遊びたかったし、できるだけ先のステージにたどり着き、できるだけハイスコアを出してみたいものだった。ゲームセンターでも、長く遊べるとは良いことで、短くしか遊べないとはがっかりすることだった。
ところがゲームハードもゲームソフトも進歩していくうちに、長く遊べるゲームが珍しくなくなってきた。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』にも、エンディングが終わった後も遊べる"やりこみ要素"が備え付けられ、その気になれば長く遊べるようになった。シミュレーションゲームでも『シヴィライゼーション』をはじめ、長く遊ばせてくれるものが登場した。すっかり飽きるまで遊び尽くそうと思っても、これらのゲームはそう簡単には遊び尽くせない。
21世紀になり、ゲームはパッケージとして購入するものからダウンロードしてアップデートされるものへと変わった。ダウンロードされ、アップデートされるゲームは時間とともに姿を変えていくからいよいよ簡単には飽きない。少なくともオンラインゲームやソーシャルゲームにはそうした性質が目立つ。そうした大なり小なりのアップデートはたとえば以下のようにtwitter上で告知され、プレイヤーにも周知されていく。
こうした、アップデートされ続けるゲームを本気で遊び尽くそうと思ったら、それこそゲーム運営企業が運営をやめる日まで遊び続けなければならなくなってしまう。
ここまで来ると、長く遊べるゲームが必ず良いゲームで、短くしか遊べないゲームが必ずがっかりするゲームとは言えなくなってくる。ひとつのゲームを長く遊び"すぎてしまう"ことがプレイヤーにとっての新たな課題となり、どのゲームを始めるかだけでなく、どのゲームをやめるのかがひとつの手腕になってくる。
運営企業の側からすれば、長く遊んでくれて沢山お金を落としてくれるプレイヤーこそが良いプレイヤーで、そのようなプレイヤーをたくさん擁するゲームが良いゲーム、ということになるだろう。『FGO』などは定めし最優秀のゲームに違いない。
だが、プレイヤー側からすれば、長く遊ばせてくれるゲームが良いゲームとは限らない。少なくとも、自分が遊びたいのかどうかも曖昧なまま、可処分時間や可処分所得を延々と持っていってしまうゲームは、プレイヤー泣かせと言えるだろう。
ファミコン時代の『ドラゴンクエスト2』は小学生には高価な買い物で、総プレイ時間も長いゲームだった。それでも、ひとりのプレイヤーが支払う金額にも費やす時間にもおのずと上限があり、他のゲームに移っていくのは簡単だった。
対して、アップデートされ続けるゲームには金額的にも時間的にも上限が見えない。ひとつのゲームに対し、『ドラゴンクエスト2』が何本も買える金額を短時間に費やしてしまう可能性もあるし、『ドラゴンクエスト2』を100回クリアするぐらいの時間を費やしてしまう可能性もある。他のゲームに移っていくのも簡単ではなくなった。これまで費やしてきた時間や金額を惜しいと思うプレイヤーはサンクコストの陥穽にはまるし、そうでなくてもゲーム運営側はあれこれの方策でプレイヤーを長居させようとする。
プレイヤーは決断しなければならない。ゲーム体験が豊かであると実感できるゲームならともかく、惰性で続けているだけのゲーム、サンクコストに囚われているだけのゲームは、どこかで切り離さなければならない。さもなくば、その惰性で続けているゲームに可処分時間や可処分所得を寄生虫のごとく吸い取られ続けてしまう。
まとめ
ゲームが変わり、プレイする側の時間的・経済的な都合も変わっていくなかで、「良いゲーム=長く遊べるゲーム」とはもう言えなくなった。むしろ、運営企業のなすがままに、「長く遊ばなければならなくなる」リスクをきちんと取り扱い、どのゲームをどこでどうやってやめるかが重要になった。豊かなゲームライフを実現するための手腕として、そのあたりが問われるようになっている、と思う。