シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

おれは嫁さんの自作パソコンみたいなもの

 


 
 
 「おれは嫁さんの自作パソコンだ」──結婚する前後に身に付けたソーシャルスキルや世間知に助けられていると感じる時、私はそんな風に思う。
 
 私は2005年末からこのブログを書いているけれども、書いている頃から、嫁さんに社会適応のことをたくさん教わってきた。服装選びやブログの書き方は100%自分流だが、社交辞令や一般的な慣習については嫁さんから教わる部分が大きかった。いわゆる「お勉強」の領域では私のほうが詳しかったけれども、「世間知」の領域では嫁さんのほうがハイテクノロジーだったので、嫁さんの指南をとおして私は世渡りの弱点をたくさん直した。
 
 嫁さんは恋愛市場で高値がつく前の段階の、弱点だらけだった私を見出して育ててくれたと言える。
 
 
 完成品の男性を選んだのでなく、私という、どうみても未完成品の男性を見定め、自分で組み立てていったのだから、私は嫁さんの自作パソコンのようなものだと思う。
 
 パソコンを買う際、ヤマダ電機やヨドバシカメラでクオリティの高い市販品を買おうとすると高くつく。自作のパソコンはそれに比べれば安い。
 
 そのかわり、自作パソコンは自分でパソコンを組み立てなければならないし、自分が求めるとおりの機能や信頼性を持ったパーツを自分で見定めなければならない。そもそも、組み立てる技能と甲斐性がなければパソコンができあがらない。
 
 たぶん、男性(女性)も同じなんだと思う。
 恋愛市場で完成品のパートナーを探し求めるなら、それにふさわしい「定価」を支払わなければならない。「定価」というか、「対価」だ。
 
 しかし、未完成品のパートナーはこの限りではない。少なくとも、未完成品の男性は完成品の男性に比べて「売れない」。私自身の経験と周囲の話を総合すると、どうやら女性の大半は、恋愛市場に出ている男性の現在の完成度しか見ていないようで、未完成品の男性のポテンシャルや発展性を見ている人はそれほど多くないようにみえる。無理もないことかもしれない。だって、パソコンを自作するのに技能や甲斐性が必要なのと同じで、未完成の男性を育てるのはそれなり面倒でテクニカルなことだろうからだ。
 
 うちの嫁さんは、その面倒でテクニカルなことをやってのけた。
 
 恋愛市場で高値がつく前の段階で私を拾い上げて、結婚前も、結婚後も、忍耐強く育ててくれたと思う。嫁さん偉い。そしてありがとう。私が自分で言うのもなんだが、結婚したあたりから私の社会性はかなり向上して、困ったことに、結婚前よりもモテるようになった。結婚してからモテたって何も良いことなんて無いのだが、自分が嫁さんに育ててもらったという実感は沸いた。
  
 「これは、ちゃんとクリエイトすればそこそこモノになる未完成品だ」と見抜いて未完成男性であった私を自作した嫁さんは、未完成品のポテンシャルを見抜く目があったうえに、男性を自作する技能と甲斐性があったのだから、たいしたものだと思う。ときどき辛辣なことを言うことはあるけれども、そのことも含め、ありがたい限りだ。
 
 

未完成品同士が自作しあう結婚

 
 パートナー選びに際して、完成品を求めるのはハードルの高いことだと思う。
 と同時に、自分が完成品でなければパートナーたりえないと考えるのもしんどい。
 
 実際には、未完成の人間が2人寄り添って、お互いを育てて、お互いに育てられて、完成品に近づいていくパートナーシップのほうが現実的ではないかと私は思う。人生には完成とか完璧という言葉は馴染まないから、成長、と言い換えたほうが語弊が少ないのかもしれない。
 
 私は嫁さんの自作パソコンみたいなものだが、嫁さんだって私から影響を受けて変わってきているから、嫁さんもまた、私の自作パソコンみたいなものだ。そうやってお互いに最適化した者同士がネットワーク接続して、生活や社会適応のあれこれを助け合っていくのは、こういってはなんだが、とても面白いゲームだと思う。
 
 いい結婚をしたいと思っている人は、完成品の異性にばかり目を向けるのでなく、未完成品の異性にも目を向けて、お互いに自作しあう──いわば最適化しあう──のもアリなんじゃないだろうか。少なくとも私たちは、そんな風にやってうまくいっている。
 

革命的非モテ同盟、いまどきの男女交際、資本主義

 
 
news.careerconnection.jp
 
 クリスマスイブにちょっと心温まるニュースを発見してしまった。
 革命的非モテ同盟が、2年ぶりにクリスマス爆砕デモを行ったのだという。リンク先の記事はこう報じる。 
 

“恋愛資本主義”の打倒を掲げる団体「革命的非モテ同盟」は12月21日、渋谷駅周辺で恒例の「クリスマス粉砕デモ」を実施した。ニコニコ生放送による中継が行われる中、参加者たちは約40分間にわたり、クリスマスの機運が高まる街中を練り歩いた。

 
 昔の私は、この手の非モテパフォーマンスをただバカバカしく思っていた。ところが歳月が流れても活動が受け継がれている。曲がりなりにも運動が継承されているのを見ると、ちょっと考えてしまう。それと、クリスマスやバレンタインを恋愛資本主義の象徴とみなしてデモンストレーションする、その姿勢が00年代当時よりも「さまになっている」と私は感じてしまった。
 
 少し前に、私は資本主義的なパートナー選択を前に、旧来のロマンチックラブは敗北した、みたいな文章を書いた。
 
 「革命的非モテ同盟が恋愛資本主義の打倒を掲げる」と言った時、彼らが攻撃しようとしているのが恋愛=ロマンチックラブのほうなのか、それとも資本主義のほうなのか、それはわからない。しかし男女交際や配偶からロマンチックラブが後退し、婚活やパパ活も含め、資本主義のロジックが強まっていく昨今の事情を踏まえると、恋愛資本主義への反対は、恋愛を呑み込んだ現代の資本主義システムのありように対する反対のように、私には見えやすくなっている。
 
 いまどきの男女のバリューは年収だけで評価されるものではない。容姿や振る舞い、年齢、性格、人脈、趣味、そういったあらゆるものを評価したうえで恋愛市場・婚活市場でのバリューが決まる。このことをもって資本主義から遠ざかったとみなすのはもちろん間違っていて、個人の資質や属性のすべてが商品価値や生産価値として値踏みされるようになった、とみなしたほうが現実に即しているだろう。社会学者の本田由紀が語ったハイパーメリトクラシーの図式は、男女交際や配偶の領域にも当てはまる。
 
 

 
 
 ハイパーメリトクラシー化した恋愛資本主義が当たり前になった、この世知辛い世の中において、恋愛資本主義に反対するとは、現在の資本主義システムの成り立ちそのものに反対するようなものであり、現代社会を成り立たせている道理に反対しているも同然ではないか? 
 
 
 今から十年以上昔、はてなダイアリー周辺では、恋愛資本主義についてさまざまな議論があった。
 
奇刊クリルタイ4.0

奇刊クリルタイ4.0

 
 いわゆる「非モテ」論は玉石混交だった。
 が、「こんなのはおかしい」と声をあげている人々がいたのは事実である。
 当時の彼らも、現代の革命的非モテ同盟の人々も、世間の道理に難癖をつけるという、天に唾するようなことをやっているわけで、たくさんの人に笑われていたし、今でも笑う人はいるだろう。
 
 じゃあ、当時の彼らが天に唾したところの世間はその後どうなったのか?
 
 
若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

 
 1980~90年代にかけて、男女交際は資本主義化されていった。クリスマスやバレンタインデーをはじめ、若者の性を商品化し、消費個人主義の差異化のアイテムとして認識させ、恋愛を義務と錯覚させたマーケターたちの思惑に、すっかり世間は乗せられてしまっていた。では、そうやって商品化され、義務であると錯覚させられた男女交際の行先はどうなったのかといったら、当該世代は非婚化の道を歩み、少子化は決定的なものとなった。そしてイベントとしてのクリスマスもバレンタインも死に体になってしまった。
 
 不景気や高齢化が重なってのことだとは思うが、今年の街のイルミネーションはひときわ寂しく、浮かれた雰囲気はどこにもない。地方にも東京にも寂しいクリスマスがやってきた。
 
 この寂しいクリスマスをみるに、しゃにむに走り続けてきた資本主義化された男女交際には、なにか、大きな間違いがあったのではないか。それは資本主義の駆動という点では最適解だったのかもしれない。だが、社会の存続や個々人の福利にまで最適だったと言っていいのか、よくわからない。
 
 80~90年代の恋愛志向には女性の(または若い男性の)主体的選択という意味合いもあり、少なくとも親やきょうだいによって主体的選択を剥奪されるおそれが無くなったのは進歩だった。とはいえ、主体的選択ができるようになったからといって若い男女が皆ハッピーになったわけではないし、「主体的選択ができる」というこのお題目じたい、ハイパーメリトクラシーした恋愛市場において、すべての男女を利するものではない。
 
 「あなたには主体的選択ができる」というお題目をいくら与えられても、いわば、モテない男性、モテない女性には主体的選択の余地など画餅に過ぎないのだから。
 そのうえ、主体的選択ができるというお題目を唱える者は、自己責任という十字架を背負わなければならない。
 
 革命的非モテ同盟は、失恋の傷心を抱いていた創始者が『共産党宣言』を読み、興したものだという。創始者はお調子者の人物だったので、彼が本気だったのかはわからない。案外、モテない鬱屈をデモで晴らしたかっただけなのかもしれない。だがともあれ、彼の後継者たちは資本主義のロジックにもとづいた現代の男女交際に批判の声をあげ続ける。
 
 
 彼らを非常識、時代錯誤と笑うのは簡単だ。
 しかし、彼らを笑う側である私たちとその社会は、数十年かけて浮かれたクリスマスを沈鬱なクリスマスへと変貌させてしまった。
 だからまあ、ああいう活動もあったほうがいいのかなと今は思う。
 革命的非モテ同盟の皆さん、今後も活動頑張ってください。
 
 

ベーシックインカムはきっと面白い人の味方

 
ITが単純労働を食い散らかした後にやってくること - orangeitems’s diary
 
 リンク先の文章は、ITが人間の仕事を奪っていった先に、労働や勤労の「権利」はどうなってしまうのか、を問うたものだ。人間の仕事がどんどんなくなり十分なベーシックインカムが普及したら、今度は「働く権利の喪失」という問題が浮上するのではないか、と書いている。
  
 世の中には、「人間にしかできない仕事をすればいい」という人もいる。では、人間にしかできない仕事がいったいどこにどれだけあるというのか? 人類史は、効率化とそれによる仕事の消失を繰り返してきた。産業革命がインドの機織り職人を壊滅させたように、オートメーション化によって単純労働の正規雇用がすり減っていったように、これからもテクノロジーは人間から仕事を奪い続けるだろう。少なくとも、狭い意味での仕事についてはそう考えたくなる。
 
 しかし、狭い意味での仕事に囚われないなら、この限りではない。噂話に夢中になること・憎悪すること・愛すること・生殖することなどは、人間にしかできないし、人間しかやりたがらない。また、機械やAIが完璧にこなしてみせることを、人間がやりたいようにやるのも仕事になるのかもしれない。ただし、21世紀に暮らす私たちはそれらの営みを仕事とは呼ばないし、仕事を「権利」と呼ぶ人々がありがたがるものでもあるまい。
 
 
 狭い意味での仕事を尊いもの・人間を救うものとみる見方は19世紀、さらにそれ以前にまで遡ることができる。
 

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

  • 作者:今村 仁司
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/10/20
  • メディア: 新書
 
 昔の偉い人達はしばしば仕事を神聖視してきた。いや、今でもそのような物言いをする人はまれではない。
 
 しかし狭い意味での仕事、ましてや嫌々働かなければならない仕事を、人間を救うものとみなせるものなのか。『近代の労働観』には、仕事が人に自尊心を与えて救うという時、それは仕事そのものが自尊心を提供しているのでなく、仕事をとおして他人から承認されたり社会と繋がったりしているから救われているのではないか、と疑問を投げかけるパートがある。
 
 この問いは、私たちにも間近に感じられるものだ。というのも、高収入というかたちで経済的に報われたと感じるか、仕事関連の社会関係をとおして承認欲求や所属欲求を充たされるか、ともあれ、自尊心の充足を伴った仕事を現代人は好むものだからだ。そして自尊心の充足を伴わない、ただキツいだけの倉庫番のような仕事に疎外を感じる。
 
 人間にとって肝心なのが仕事や労働そのものではなく、経済的、心理的、社会的な充足のほうだとしたら、機械やITが仕事をことごとく奪い、ベーシックインカムが実現した未来も案外悪くはないのかもしれない。狭い意味の仕事がなくなっても、さまざまな営みやレクリエーションをとおして承認欲求や所属欲求を充たせる暮らしが実現するなら、人は、それほどには疎外されないかもしれない。
 
 少なくとも、狭い意味での仕事がなくなっても疎外されず、おしゃべりやゴシップやレクリエーションや性行為をとおして満足に暮らせるタイプの人間がいるのは、間違いないと思う。
 
 

ベーシックインカムは面白い人・豊かな人を利する

 
 思うに、機械やAIが狭義の仕事を人間からとりあげて、高水準のベーシックインカムが実現した時、それが福音になる人間と疎外になってしまう人間がいるのではないだろうか。
 
 世の中には、おしゃべりやゴシップやレクリエーションをとおして自尊心を充たすのが上手な人がいる。特殊技能を持っているわけでも高収入なわけでもないけれども、人間関係を楽しむのが上手く、承認を獲得するのも、メンバーシップを実感するのも得意な人にとって、仕事からの解放は決定的にまずいものではないと思う。原田曜平がマイルドヤンキーという言葉で論じた人々のなかにも、そういう人は少なくないだろう。
 
 インターネット寄りの世界にも、ベーシックインカムが福音になりそうな人がたくさんいる。
 

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法

  • 作者:pha
  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 たとえば『ニートの歩き方』などで知られるphaさんは、ベーシックインカムの時代になっても困らないだろう。phaさんは、シェアハウスを立ち上げたり、面白い本を書いたり、面白いトークをやったり、楽しいことを自分で見つけられる人物だと思う。最近は、楽器をたしなんでいるという。
 
 従来の仕事の枠組みのなかでは評価のされようがなかったphaさんのようなタイプは、ベーシックインカムの時代には社会適応の王道を歩む人になるのではないだろうか。なぜなら、面白い話ができて、人の輪をつくることができて、楽器の楽しさを素直に楽しめるような人は、狭義の仕事に依存することなく自尊心を充たし、ひいては社会関係にも恵まれるだろうからだ。
 
 phaさんに限らず、面白いトークができる人、歌ってみたり踊ってみたりするのが上手い人、ゲームプレイで人を魅了できる人がインターネットの才人世界にはたくさんいる。グローバルな競争に勝てるほどの才能や技量がなくても、ライブで面白い人、小さな人間関係のなかでこそ輝く人なら、ベーシックインカム時代でも困ることはあまり無いように思う。
 
 ほんらい、収入という資本主義のモノサシでは高く評価されていなくても、やはり面白い人・豊かな人というのはいる。歌って、踊って、トークして、友情を感じたり恋をしたり、太鼓をたたいたり笛を吹いたりするのは、人間らしい豊かさだ。資本主義の尺度に忠実な機械やAIがやろうともしない豊かさを持った人が、ベーシックインカムの時代には光り輝く。
 
 付け加えると、他人をアトラクトしてやまない宗教家・政治家・芸能人のたぐいも、ベーシックインカムの時代にはますます活躍するに違いない。
 
 しかし逆に考えると、狭い意味での仕事しかできない人、あまり面白くない人は、ベーシックインカムの時代には光り輝かない、ということでもある。
 
 AIを制御するような一握りのスーパーエリートを例外として、ほとんどの人間がベーシックインカムに養われる時代が来たとき、狭い意味での仕事をとおして自尊心を充たすよう特化してきた人は、自尊心の宛先を見失ってしまう。冒頭リンク先の記事に書かれている内容は、そのような人々にこそ当てはまるだろう。
 
 人間らしい豊かさを犠牲にしてまで仕事に能力を振り分けてきた人々が、ベーシックインカムの時代に最も疎外されるのではないだろうか。
 
 誰もが面白くて豊かな人間になれるなら、ベーシックインカムの時代は薔薇色に違いない。ところが世の中には、仕事を失ってしまったら自尊心の宛先もモチベーションも見失ってしまう人々がいたりもする。歌や踊りやトークにもともと向いていなかったのか、それとも資本主義の下僕として真面目にトレーニングを積み重ねてきた結果としてそうなのか、ともあれ世の中には仕事に救われている人間、仕事がいちばん向いている人間が存在する。そのような人々にとって、ベーシックインカムの時代はユートピアとは言い難い。少なくとも、面白さや豊かさに恵まれた人間に比べると分が悪いだろう。
 
 
 ※12/1717:00追記。そうそう、上掲ツイートみたいなことが起こる。
 
  
 現代のような狭い意味での仕事の時代と、ベーシックインカムの時代では、人間に求められる資質が変わる、と言い換えることもできる。考えてみれば、そういうことは人類史のなかでは珍しくもないことだった。農耕社会が到来して移住の資質が要らなくなり、暴力が国家に束ねられるようになって腕力で争う資質が要らなくなった。20世紀後半には単純作業を繰り返す資質が要らなくなり、21世紀にはホワイトカラーの仕事をこなす資質が要らなくなりつつある。
 
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

 
 『ホモ・デウス』のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、テクノロジーの進歩の果てに人間が要らなくなる未来、または超人間が爆誕する未来をみる。そうかもしれない。しかしハラリ氏の未来予想は資本主義のロジックにちょっと忠実すぎると私には思える。それと、なんだか禁欲的で、享楽が足りないとも感じる。 
 
 たとえ資本主義の神に見放されても、歌って踊り、群れやカップルをつくって子どもを育てて、愛したり憎んだり噂話したりするユニークな動物としての人間は、滅ばない。AIや超人間が資本主義システム全般を我が物にした時、野生動物としての人間は資本主義の主人公でなくなると同時に、資本主義の軛から解放されて(または放逐されて)、良くも悪くも旧来の"人間力"を試されるのではないだろうか。
 
 もちろん資本主義の神そのものは冷酷きわまりないので、野生動物に戻った人間が資本主義に貢献しなくなったら害獣とみなされる可能性はある。別にジェノサイドしたりする必要はない、ただ、人間の繁殖確率を減らせば良いだけのことだ。しかしその緩慢な衰退のプロセスにおいて、ベーシックインカムという状況をいちばん楽しく過ごせるのは、きっと面白い人々、ある種の豊かさを捨てなかった人々だ。人々は再び、ユニークな猿として生きていく。
 
 
 
  *      *      *
 
 
 
 この文章を書き始めた段階では、「ベーシックインカムの時代になったら、文化資本のある人が人気者になって、文化資本の乏しい人が不人気者になるから、結局なんらかの格差は残るのでは?」と書くつもりだった。
 
 ところが「ベーシックインカムが導入される」という夢のような話にあてられているうちに、私の空想もどんどん膨らんでしまった。
  
 人間は社会的生物だから、どんな時代になっても、承認や所属を求めてやまないユニークな動物のままだと思う。そして人気や影響力を巡って競争し続け、勝者と敗者が生まれるのだろう。その度し難い性質は、ベーシックインカムが実現して100年やそこらぐらいでは変わるまい。
 

2010年代のお気に入りアニメ6選+番外

 
 2010年代が終わろうとしている。

 年末の片付けをしていたらアニメの録画やディスクがふきだまっている場所に捕まってしまった。中年になればアニメを見なくなるかと思いきや、そんなことはなく、素晴らしい作品に恵まれた10年だった。手が止まったついでに、心に残った2010年代のアニメを振り返っておこうと思う。
 
 ※私個人の好みに基づいたチョイスなので悪しからず。
 
 

ベスト6選

 
 
1.ゾンビランドサガ
 

ゾンビランドサガ フランシュシュ The Best

ゾンビランドサガ フランシュシュ The Best

  • アーティスト:フランシュシュ
  • 出版社/メーカー: エイベックス・ピクチャーズ株式会社(Music)
  • 発売日: 2019/11/27
  • メディア: CD
 
 アイドルとゾンビと佐賀県、食い合わせが悪そうにみえて、ビックリするほど噛み合っていた作品。
 
 私はアイドルもゾンビもジャンルとして好みではないけれど、つくりが丁寧で、やたら笑えて、それでいてアイドルものやゾンビものを見たような気分になってしまった。両方のジャンルに詳しい人にはまた違った風に見えるのかもしれないが、詳しくない人でも楽しめるつくりなのは間違いない。
 
 中毒性のある主題歌も好きだが、あの、卒業式のようなエンディングテーマを聴いていると、アイドルとゾンビ、かりそめの命を与えられた者が前のめりに生き、やがて旅立っていく無常さがこみあげてきて胸がいっぱいになってしまう。2010年代の深夜アニメのなかで、一番子どもにウケが良かったのはこの作品で、去年の冬の我が家はゾンビランドサガの話でもちきりだった。
 
 
2.機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ
 
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ Blu-ray BOX Flagship Edition (初回限定生産)

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ Blu-ray BOX Flagship Edition (初回限定生産)

  • 出版社/メーカー: バンダイナムコアーツ
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: Blu-ray
 
 ブログには傑作になり損なった、なんて書いたけれども2019年になってもオルガと三日月のことは忘れられない。鉄華団という名前の示すとおり、彼らは花を咲かせて散っていった。アトラたちが残されたとはいえ、それでも男たちは散っていったのだ。その顛末を、視聴者である私はまだ覚えている。
 
 後半のゆるい展開、ガンダムという存在の取り扱い、マクギリスの結末に不満がなかったわけではない。それでも主要キャラクターがちゃんと立っていて、因果因縁の筋の通った作風は貫かれたと思う。「踏み外したことをやれば、そのけじめは支払わなければならない」という世界観を、オルガや三日月たちはガムシャラに走り続けた。彼らも作品そのものも不器用さが目立ったけれども、案外、そのせいで記憶に残るのかもしれない。
 
 
3.ガンダムUC
 
機動戦士ガンダムUC Blu-ray BOX Complete Edition (初回限定生産)

機動戦士ガンダムUC Blu-ray BOX Complete Edition (初回限定生産)

  • 出版社/メーカー: バンダイナムコアーツ
  • 発売日: 2019/02/26
  • メディア: Blu-ray
 
 初代ガンダムから始まる宇宙世紀系ガンダムの作品のなかで、心の底から楽しめた作品はこれで最後になるのかもしれない。ガンダムNTやガンダムORIGINといった最近の作品が、原作ファンのニーズを汲んで細かくつくられているのは理解できる。けれども、その細やかさが「くどい」と最近は感じるようになった。そういう変化が起こる直前に私はガンダムUCに出会ったので、ギリギリセーフ、ガンダムファンを喜ばせるための細かな配慮を喜んでいた。
 
 ガンダムUCは宇宙世紀系ガンダムらしさがはっきりと示されている。と同時に、ガンダムというモビルスーツの特別さ、「ガンダムが戦局を変えていく」という手ごたえを感じさせてくれる作品だった。ストーリーや人間模様を楽しむ以上に、モビルスーツの細かなデザインや挙動、ガンダム史を追いかけるのが楽しい作品だったとも思う。
 
 いや、細かな御託はいい。本当は、ひいきにしている脇役モビルスーツがすごく格好良かったので無理やり6選に組み込んだ([関連]:ああ、ジェガン!――俺が選ぶジェガン名場面ベスト5 - シロクマの屑籠)。これを外すなら、選外の『宇宙よりも遠い場所』をここに入れると思う。
 
 
 4.シドニアの騎士
  
 2010年代は、はじめの期待以上にロボットアニメがつくられた10年だったと思う。そのなかで一番恰好良くて、一番思い出に残った作品はシドニアの騎士だ。
 
 『進撃の巨人』のように登場人物がバタバタ死んでいく作品もあるけれども、そうしたなかでは『シドニアの騎士』が自分の肌に合っていた。私はみずから剣をふるう主人公より、ロボットや戦闘機を操縦する主人公にシンパシーを感じるらしい。
 
 メカニックがとにかく恰好良い。播種船のフォルムやヘイグス粒子砲の輝きを見ているだけでも幸せに生れる。、主人公・谷風たちが乗るロボット型戦闘機「衛人」の武骨にみえて華奢なデザインも、日本語でまとめられたコンソールも、実体弾の軌跡すら美しいのだから困ってしまう。3DCGをベースにした作品だからか、『シドニアの騎士』の戦闘機動は観ていて気持ち良く、今までのロボットアニメとは趣が違うと感じた。谷風周辺の人物描写も良かった。今、NHKのBSで再放送しているので、こういう作品が好きな人はそちらを。
 
 
 5.君の名は
 
「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション

「君の名は。」Blu-rayスタンダード・エディション

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2017/07/26
  • メディア: Blu-ray
 
 2010年代でいちばん売れたアニメ作品。と同時に『秒速5センチメートル』で打ちのめされた気持ちを精算してくれた尊いアニメ。
 
 40年ほどアニメを観続けてきた人間の感覚だと、『君の名は。』は、会えそうで会えない男女の物語を綺麗なビジュアルでまとめた部分がウケた、と考えたくなる。でも、たぶんそうではないのだろう。
 
 なぜなら、この作品は一定のアニメリテラシーを求めるというか、ストーリーのあちこちに時間遡行の要素があり、「三葉と瀧の時間が一致していない前提がわかっていないとわかりづらい」部分があるからだ。
 
 にも関わらず、この作品はメチャクチャにヒットした。私自身、時間遡行の厳密さはどうでもいいと思いながら眺めていた。時間遡行が読み取れるリテラシーを、いまどきの視聴者は身に付けているのか? それともリテラシーが足りなくても引っ張っていける牽引力をこの作品が持ち合わせていたからか?
 
 たぶん両方なのだと思う。アニメリテラシーの浸透した機の熟したタイミングに、しっかり整形された新海誠アニメが出てきて話題をさらった──それが『君の名は。』だったのだと思う。
 
 
 6.魔法少女まどか☆マギカ
  
 2010年代のはじめに突然現れ、当時のタイムラインを席巻したアニメ。久しぶりに観ると、魔法少女たちの豆腐のような顔立ちが気になるが、そんなのは些末なことでしかない。顔立ちに慣れる頃にはすっかり虜になっていて、魔法少女たちのファンになっていた。
 
 この作品をきっかけとして魔法少女を歪んだ目で見るようになった人は多いと思う。そして魔法少女をもともと歪んだ目で見ていたベテランのアニメファンには最高級のエンターテイメントだったに違いない。はじめのうち、私は斜に構えて眺めようと努力していたが、マミさんが敗北し、さやかのソウルジェムが濁り始めた頃にはすっかりやられてしまって、毎週毎週テレビにかじりつくことになった。振り返ってみれば王道の展開だったのかもしれない。が、当時はそんなことを考えている余裕は無かった。気が付けば、魔法少女5名のねんどろいどを買い集めてしまっていた。
 
 2010年代のアニメを一本だけ推薦しなさいと言われたら、私はこの『まどか☆マギカ』を推すと思う。少なくともアニメをよく見ている人にはこれを推挙したい。アニメをあまり見ていない人に勧めるなら『君の名は。』しかないだろう。広く受け入れられやすい素地を持ち、いまどきのアニメらしさを備えていて、知名度も優れているから、あれを第一とする人がいてもおかしくはない。
 
 
 ともあれ、この6本は私には思い出深く、忘れがたい。やや偏ってはいるけれども、どれも人の心を動かす潜在力を持った作品だとも思う。2010年代のアニメを私が他人にお勧めするとしたら、間違いなくこのなかから選ぶ。

 

選外

 
 挙げるときりがないけれども、選外の作品もいくつか。
 
 
 ・這いよれ!ニャル子さん
 

這いよれ! ニャル子さんF Blu-ray *初回限定版

這いよれ! ニャル子さんF Blu-ray *初回限定版

  • 出版社/メーカー: エイベックス・ピクチャーズ
  • 発売日: 2015/06/19
  • メディア: Blu-ray
 
 ニャル子さんがちゃんとかわいい。主題歌が作風によくフィットしていて、あらかじめ客層を絞っているのは好感が持てた。原作と同じく、くだらなさにしっかり振り切っていてバカみたいな顔をして眺めていられる。
 
 クトゥルフだけどみんなかわいくなってしまうのは、現代日本文化だと思う。
 
 
 ・シュタインズ・ゲート
 
STEINS;GATE コンプリート Blu-ray BOX スタンダードエディション

STEINS;GATE コンプリート Blu-ray BOX スタンダードエディション

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA メディアファクトリー
  • 発売日: 2018/04/25
  • メディア: Blu-ray
 
 ゲーム原作のテイストをほとんど残しているのに意外にゴチャゴチャしていないというか、これも巧くアニメ化した作品だった。「世界線が変わり、萌えが無くなった秋葉原」のシーンをはじめ、アニメという媒体を存分に生かしていたと思う。2019年から見て、2000年代の秋葉原文化のタイムカプセルのように見えるのもポイント高い。
 
 
 ・宇宙よりも遠い場所
  
 『ゆるキャン△』か、『宇宙よりも遠い場所』か、どちらか迷って最終的にこちらをここに。『ゆるキャン△』も、あれはあれでいいものだと思う。
 
 こういう「女性キャラクター複数名がどこかに出かけるアニメ」は苦手意識があって敬遠していたのだけど、これらの作品を観て考えが変わった。良いものはやっぱり良いのだ。
  
 あと、未婚十代の人がこの作品を見るのと、既婚四十代がこの作品を見るのでは、見え方がぜんぜん違うと思う。私は中年になってからこの作品に出会ったけれども、それはそれで良い出会いだった。
 
 
 ・侵略!イカ娘
 
侵略!イカ娘 1 [DVD]

侵略!イカ娘 1 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • 発売日: 2010/12/24
  • メディア: DVD
 
 深夜アニメなのに非常に子供向けっぽくつくられていて、それでいて手を抜いている感じがしなかった。うちの子どもも本作品が気に入っていたが、さしあたり「子供向けアニメらしきものを深夜に大人が見る」という目的に最適化された作品、だったのだろう。この作品の後に『スプラトゥーン』がリリースされたのも印象に残った一因だったのかもしれない。
 
 
 ・けものフレンズ
 
Kemono Friends: Complete First Season [DVD]

Kemono Friends: Complete First Season [DVD]

  • 出版社/メーカー: Discotek Media
  • 発売日: 2019/10/29
  • メディア: DVD
 
 二期ではインターネット上でさんざんな評価だったけれども、一期は紛れもなく良くできた何かで、単なるかわいい動物擬人化アニメでもなく、ミステリアスなSF近未来アニメとも言いきれず、手触りが独特だった。後発の『ケムリクサ』のほうが、その独特さ加減が現れていると感じるけれども、総合的には『けものフレンズ』一期のほうがまとまりが良く、とっつきやすかった。
 
 
 ・PSYCHO-PASS
  
 職業上の理由から、「『サイコパス』なんて名前のアニメ、きっとあら探ししてしまうから視ないでおこう」と敬遠していたのが大間違い、市民のメンタルを厚生省が徹底的に管理する近未来ディストピアが舞台の、胸が熱くなる作品だった。『ハーモニー』同様、管理社会についてつい考えたくなる。
 
 公安局刑事課の「つかみの良い」キャラクター造形のおかげか、重たいテーマでもすんなり受け入れられる気持ち良さがあった。シビュラシステムの核心に触れる一期はもちろん、意外にも二期もかなり面白く、現在オンエアー中の三期はなんと一話46分!作品からは潤沢な予算と気迫が感じられて頼もしい。どうか、2019年の締めくくりにふさわしい結末を迎えて欲しい。
 
 
 

2020年代も楽しんでいきましょう

 
 10年間を振り返ってみると、ここに挙げた作品だけでもおなかいっぱいというか、本当にアニメがたくさんある時代なのだなぁと思う。日本のアニメは間違いなく生きた文化で、そのタイムリーな文化を満喫できることを幸運に思う。2020年代も楽しみたい。
 
 

「努力の目利き」は必要。では、どれをどうやって身に付ける?

 
 ※お世話になった方をとおして、ときど『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』の献本をいただきました。この文章は、それについての私個人の感想文です。
 
 

世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0

世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0

  • 作者:ときど
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/12/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 
 筆者のときどさんは、三十代のeスポーツ現役プレイヤー。中学生時代から大船のゲーセンに通っていたというから、アーケードゲームのプレイヤーとして早くから鍛錬していたようだ。そういう経歴の持ち主だけあって、eスポーツ以前の時代、それこそ『ゲーメスト』や『アルカディア』でスコアを集計していた頃の話も出てきて、私は90年代のアーケードゲームシーンを思い出さずにいられなかった。
 
 現代のeスポーツでは、20世紀よりもずっと試合の回数が多く、録画をとおしてプレイを分析することも当たり前になっている。才能任せなプレイや場当たり的な練習では戦いきれず、キチンと考えて練習しなければ勝ち続けられなくなっているという。ときどさんは、昔はそうではなかったことを踏まえたうえで現代のプレイヤーがどう努力すべきなのかを書いている。ひとつひとつの勝敗にこだわるのでなく、長い目で見て自分自身のスキルアップに繋がるような努力を積み上げ、それでいて情熱を枯れさせないようなクンフーを積まなければ、eスポーツの最前線で活躍し続けるのは難しいように読めた。
 
 また、新人として脚光を浴びることと、長く現役のプレイヤーとして活躍し続けることはイコールでなく、長く現役のプレイヤーとして活躍するために様々な要素に注意を払っている様子も読み取れた。ときどさんが語るeスポーツ観では、実際にプレイしている時だけが勝負なのでない。自分の生活に負担をかけない暮らしをデザインすること、心身のコンディションを整えられるよう心掛けたりモチベーションを守ったりすることも、プレイを左右する工夫の範疇、あるいは努力の範疇となっている。
 
 こうした『努力2.0』の話は、もちろんeスポーツに限定されているようには思えなかった。eスポーツであれ、創作であれ、その他の仕事であれ、他人にどうしても勝ちたい人は、プレイヤーとしての自分自身がいつも良い状態で戦場に臨めるよう、また、最も効率的に努力の成果を得られるよう、あれこれ考えておかなければならないのだと思う。才能を誇ったり努力をひたすら積み上げたりするだけでは、激しい競争世界で勝ち続けることなどできない。
 
 本書は、そういう激しい競争世界で勝ち続けるための努力についての本、ということになる。
 
 

昔のトッププレイヤーに似ているところもある

 
 内容のすべてが目新しいわけでなく、eスポーツ以前の、『ゲーメスト』や『アルカディア』の紙面でトッププレイヤーが全国一を競っていた頃と共通している、と感じる部分もあった。
 
 たとえば強いプレイヤーとの対戦を求めて他所のゲーセンに遠征する点、「なんとなくできる」をキチンと言語化・ロジック化できるスキルに落とし込む点などは、20世紀のトッププレイヤーもしばしば注意しているものだった。私も近場のゲーメスト掲載店のトッププレイヤーから似たような話を何度も聞かされたし、彼らはいちように「努力は必要だけど」「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」と言っていた。
 
 私に「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」と言っていた20世紀のトッププレイヤーの言葉を、より新しく、より精度の高いものにしたら、本書に書かれている内容になるのではないかと思う。
 
 さまざまな面で、本書に書かれている努力や心構えに近いものを20世紀のトッププレイヤーたちは持っていた。おそらく、ときどさんは大船のゲーセン文化*1をとおして、そういったノウハウの一部を継承していたのではないかとも思った。
 
 後で述べるように、ときどさんには努力の目利きをきかせる才能があると私は想定しているけれども、その才能の一部を大船の先達プレイヤーから譲り受けていたとしたら、「努力の目利き」には文化資本として継承できる余地がある、ということになる。
 
 
 

鍵を握るのは「努力の目利き」力

 
 先週私は、コツコツ努力することへの違和感のなかで、こう記した。
 

努力には、信用ならないところがある。にも関わらず、たとえば丸の内の高層ビルで働くようなサラリーマンになろうと思ったら、やはりコツコツと努力を積み重ねないわけにはいかないし、そのような個人を輩出する大学が良い大学、とみんなが考えるようになっている。

 たとえば学校で身につけさせられる努力の習慣、たとえば課題や宿題をこなすような習慣そのものにも一定の効果はあり、それは継承されやすい文化資本ではある。
 
 ところが、みんなが努力しても最終学歴や年収や経歴がバラバラであるように、努力をとおして得られる実力や成果には恐ろしいほどの個人差がある。
 
 だからこそ「ただ努力するだけではダメ」で、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」なのだろう。
 
 問題は、「どう努力するのか考えなきゃダメだよ」の部分をどうやって鍛えていけば良いのかがわからないことだ。
 
 さきに触れたように、大船のゲーセンのような生え抜きのプレイヤーが集まる場所に属していれば、どう努力すれば良いのか、いわば、努力の目利きをきかせる力が一定程度は継承されるのかもしれない。
 
 けれども私はまだ、努力の目利きをどうやって鍛えれば良いのか、本当のところはわかっていない。トッププレイヤーの集まるゲーセンと同等程度の環境に属していれば、ある程度は努力の目利きがきくようになるだろう……という漠然とした予感はあるが、努力の目利きそのものを狙って鍛える方法論を私はまだ知らない。
 
 『努力2.0』で述べられているさまざまな工夫やスタイルは、ときどさんがeスポーツの選手にならなかったとしても有効だっただろう。たとえばゲームについては徹底的に自分の道を追求する一方、受験勉強のメソッドは予備校に完全にアウトソーシングするくだりなどは、努力の目利きを利かせているエピソードの最たるものだと思う。
 
 どの努力を・どんな風に・どれぐらいの割合でやっていくのかを選ぶセンスがときどさんにはある。そのうえ、失敗や危機に直面した時にも、何が足りなくて、どのような努力が必要なのかを見抜き、それにふさわしい努力をビルドするセンスにも恵まれているとも思う。こういう人なら、どこの戦場でも、勝っていても負けていても、その努力が無駄になることはなさそうだ。
 
 『努力2.0』には、自分を持つことの重要性も述べられている。が、私が思うに、自分を持って努力するのが効果的な人とは、自分でどんな努力をすれば良いのかがちゃんとわかる人、努力の目利きができている人ではないだろうか。努力の目利きができない人、つまりいくら頑張っても無駄な努力をそびえたつクソのように積み上げてしまう人は、自分に従って努力するより、努力の目利きをコンサルやコーチにアウトソースしたほうが良いと思う。
 
 ときどさんにしても、受験勉強については予備校にアウトソースしてしまっているわけで、必要に応じて他人を頼るのはまったく恥ずかしいことではない。
 
 ただし、「自分は努力の目利きが苦手」と自覚するのも、「この分野はコンサルやコーチにアウトソースしたほうがいい」と判断するのも、これはこれで簡単ではない。努力の目利きができない人ほど自分の苦手なところを他人にアウトソースしたほうがいいはずなのに、その判断自体、努力の目利きができなければ困難というパラドックス。
 
 どんなジャンル・どんな境遇でも努力をとおして糧を得る人もいれば、努力と称して同じ回廊をぐるぐる回り続ける人もいる。ひとことで努力と言っても、努力の効率性や鑑識眼には大きな個人差があり、歳月の積み重ねをとおしてその差はどんどん大きくなっていく。
 
 『世界一のプロゲーマーがやっている 努力2.0』は努力のノウハウについてプロゲーマーが語った本ではあるのだけど、私個人は、その語り口から努力の目利きの卓抜さ、いわば筆者自身の才能を見てしまった気がした。書かれている内容じたいはビジネスや創作にもよく当てはまるし、このような努力の積み方を知っている人が勝つというのはよくわかる。どういう努力を積む人が勝つのかを知るには、読みやすく、わかりやすい書籍だと思う。
 
 残念ながら、私が長年わからないままでいる「努力の目利き力をどこでどうやって身に付けるのか」については、本書を読んでもまだ、わかったと言い切れない部分は残った。努力の目利き力やセンスに、天賦の才能が絡んでいるという印象は、いまだに拭えない。努力の目利き、努力をデザインする力を、人はどこでどうやって獲得すればいいのだろうか?
 
 

*1:注:大船にはアーケードゲームのトッププレイヤーが集まっていた