シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「自分の市場価値」がついてまわる社会と、その疎外

 


 
 この手のメールを受け取ったことは、一度や二度ではない。けれども今回、携帯キャリア会社からこのメールが届いたことにはちょっと驚いた。さんざん使っているPCのメアドに届くなら理解できるし、珍しくないことなのだけど、ほとんど使っていない携帯キャリアのメアドに「自分の市場価値を測ってみませんか」が届くということは……全国のあらゆる人間にこんなメールが送られているのだろうか。
 
 人間の市場価値とは、どういうものか。
 
 お金をどれだけ稼げるか、どれだけ人気者か、どれだけ他人に好ましい影響を与えられるか、等々によって現代人は他人を値踏みし、と同時に値踏みされることにも慣れている。就活や婚活などはその典型で、純粋な就労能力だけでなく、性格や容姿、趣味や身振りなども含めた、トータルとしての人間の市場価値が測られる。いまどきは、SNSの被フォロワー数なども人間の市場価値の一部とみなされるかもしれない。
 
 だが、こうした値踏みの習慣が昔から一般的だったわけではないし、これほどあからさまだったわけでもない。少なくとも、携帯キャリア会社をとおしてあらゆる人間に「自分の市場価値を測ってみませんか」などというメールがばらまかれ、それが自然に受け取られるほど一般的ではなかったはずである。
 
 この、人間が値踏みされる習慣や通念について、最近読んだ『いかにして民主主義は失われていくのか』という本にスケールの大きい見取り図が記されていたので、それを引用しながら、私なりの考えを膨らませてみる。
 
 

あらゆるものの市場価値化としての「新自由主義」

 
 

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃

 
 
 政治学者のウェンディ・ブラウンは著書『いかにして民主主義は失われていくのか』のなかで、新自由主義のロジックが社会に徹底されるようになったことで、民主主義が危機に直面している、と述べる。教育や農業の現場で起こっている新自由主義的変化を紹介したり、人間の考え方や暮らしかたそのものの市場化(ホモ・エコノミクス化)のプロセスを説明したり、なんとも読み応えのある書籍だった。
 
 資本主義のロジックが人間に徹底されること、ひいては新自由主義のロジックが人間に徹底されることとは、人間がお金にがめつくなること、ではない
  

新自由主義とは理性および主体の生産の独特の様式であるとともに、「行いの指導」であり、評価の仕組みである。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P14

 

 本書が提案するのは、新自由主義的理性がその相同性を徹底的に回帰させたのだということである。人も国家も現代の企業をモデルとして解釈され、人も国家も自分たちの現在の資本的価値を最大化し、未来の価値を増大させるようにふるまう。そして人も国家も企業精神、自己投資および/あるいは投資の誘致といった実践をつうじて、そうしたことを行うのである。
(中略)
 いかなる体制も別の道を追究しようとすれば財政危機に直面し、信用格付けや通貨、国債の格付けを落とされ、よくても正統性を失い、極端な場合は破産したり消滅したりする。同じように、いかなる個人も方向転換して他のものを追究しようとすると、貧困に陥ったり、よくて威信や信用の喪失、極端な場合には生存までも脅かされたりする。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P14-15

 
 ブラウンのいう新自由主義 Neoliberalism とは、学校も、政府も、個人の価値基準や習慣も、すべてが企業化、法人化するような、そのようなものである。たとえば新自由主義のもとでは、学校の良し悪しとは、どれだけ自分の頭で考えられる自由な人間を作り出したかではなく、どれだけ収入の大きな人間を作り出したかによって測られる。
 
 人間もまた然り。人間が、生産価値や消費価値といったもので測られることはそれまでにもあったけれども、新自由主義の浸透した社会ではもっと進んで、投資効果や費用対効果にもとづいて人間が値踏みされる。人間の行動原理も新自由主義的になり、企業としての自分、法人としての自分のバリューを拡大することが現代人の関心のまとになる。学校を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、インスタグラムにアップロードする写真を選ぶのも、すべてこうしたバリューの拡大という関心に基づいたものとなる。
 
 ブラウンはさらに踏み込んで、そもそも今日のホモ・エコノミクスほど徹底的に新自由主義的となった個人は、もう「関心」というものを持たないかもしれない、とも述べている。企業化・法人化してしまった個人に、ほんとうに「心」などというものは必要だろうか? 
 
 政治の良し悪しも、どれだけ資本主義経済に仕え、貢献したのかによって測られることになる。ガバナンス、ベストプラクティスといった企業のボキャブラリーが政治のボキャブラリーになっていくと同時に、経済合理性の追求が政治の至上命題になっていく。
 

 端的に言えば、ベストプラクティスは、統治、ビジネス、知の活動を非市場的価値や目的をさりげなく追放する市場のエピステーメーへ親和的にするだけでなく、合併させてしまうのである。ベストプラクティスが新自由主義体制において、かつては明瞭に区別されていた統治、ビジネス、知の意図や目的を重ね合わせるとき、それはこうして重層化によって、規範への挑戦を新自由主義的理性へと去勢するか、あるいは逸脱させてしまうのである。
(中略)
 たんなる技術であると主張しながら市場価値を携えることによってこそ、ベストプラクティスはある種の規範を喧伝し、規範や目的についての議論をあらかじめ排除するのである。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P159

 
 ブラウンは、人間の経済的特徴は近代以前から存在してはいるが、それは政治的な特徴と並び立っていたのであって、近代市民社会が実現した後も人間はホモ・エコノミクスであると同時にホモ・ポリティクスであった、とみなす。ところが人間も政治も資本主義のロジックに飲み込まれ、経済合理性に仕えるようになったことによって、近代市民社会を成立させていた民主政治が危機に直面している、というのである。
 
 『いかにして民主主義は失われていくのか』には、政治、経済、個人といった言葉にくわえて、統治、規範、様式といった言葉が多用されていて、ちょっと読みにくいところがあるかもしれない。しかし「自分の市場価値を測ってみませんか」というメールが届く社会、お互いに値踏みしあうことが当たり前になった社会のことを、よく説明していると私は思う。大学英語民間試験や東京オリンピック周辺で起こっている現象とも相性が良い。
 
 いろいろな意味で、日本もまた、新自由主義化しているのだろう。
 
 

「ところで、日本に近代市民社会は来ましたっけ?」

 
 ただ、この書籍を読んでいて改めて気になった点がある。
 
 ブラウンは、ソクラテスやアリストテレスからはじまり、近代市民社会へと脈々と受け継がれてきた政治のロゴスを踏まえたうえで、アメリカの新自由主義について議論している。なるほど。アメリカやイギリスやフランスには実際そのようなロゴスの継承があって、近代市民社会が成立してきたのだろう。
 
 ということは、この話は日本や韓国などにはあまり当てはまらないのではないだろうか。
 
 日本にも、近代市民社会を成立させるために頑張ってきた先進的な人々がいたことを、私は知っている。戦前には自由民権運動や大正デモクラシーがあったし、戦後も大都市圏の住宅地では市民運動が盛んに起こっていた。そうした人々には近代市民社会は到来し、彼らは実際、市民だったのだろう。 
 
 だが、そうやって近代市民たりえたのは、日本国民のいったい何パーセントぐらいだったのだろうか? 大正デモクラシーは、どこのどういう人々に、どれぐらい受け容れられたのか? 戦後の市民運動は、どれぐらいの期間、どの程度の人々に支持されていたのか?
 
 

団地の空間政治学 (NHKブックス)

団地の空間政治学 (NHKブックス)

  • 作者:原 武史
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2012/09/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 たとえば『団地の空間政治学』を読むと、戦後のニュータウンにおける市民運動の熱気が伝わってくるし、そのような市民のマスボリュームが小さくなかったことが窺われる。しかし、そのような市民運動の全盛期でさえ、地方では保守政党が支持され、その支持のありようは近代市民社会というよりは前近代的な、いささか権威主義的なものだった。少なくとも私が学生だった頃の北陸地方の自民党政治とは、そのような雰囲気のものだったと記憶している。
 
 そして各都道府県の自民党支持率の推移などを見るにつけても、この国が近代市民社会たりえた期間は短く、その程度や範囲は限られていたのでないか、と思わざるを得ない。
 
 周知のように、現在の自民党は「若返り」を果たしている。多分に前近代を引きずっていた自民党は、前近代ではない何者かになった。だからといって自民党が近代市民社会の政党になったようにもみえない。小泉元首相の改革からこのかた、自民党はおそらく、ブラウンのいう新自由主義に親和的な政党へと変貌し、そのように政策を推し進めてきた。
 
 
 [関連]:若者はなぜ自民党を支持するのか|研究・産学連携ニュース|中京大学
 
 
 そんな自民党を支持している若い人々は、みんなホモ・エコノミクスとしてカリカリに訓練されているのかもしれない。「仕方なく自民党を支持している」「ほかに頼れる政党がないから」と主張する人もいるだろう。だがそもそも「自民党が他の政党よりマトモにみえて、他の政党より仕事をしているようにみえる」その判断基準じたいがブラウンのいう新自由主義的ロジックに染まっていれば、非-新自由主義的な政党は正統性の乏しい、マトモではない政党とうつるだろう。
 
 だから私は、20世紀中頃に市民運動に参加した人々を例外として、この国の政治は前近代から新自由主義的状況にジャンプしたのではないかと考えているし、ひいては、多くの人々の意識や習慣も近代市民社会を経由することなく、前近代から新自由主義的状況にジャンプしたのだろう、と想像している。
 
 ブラウンの議論のうち、近代市民社会についてのくだりは、日本のかなり広い範囲には該当するまい。資本主義と並び立ってしかるべき近代市民社会のロゴスや、ホモ・エコノミクスと並び立ってしかるべきホモ・ポリティクスが根付かないうちに、モノも人も思想も習慣もとことん資本主義化した社会がやって来てしまった。
 
 

市場価値を問い続ける社会からの疎外

 
 だいぶ長い文章になってしまったので、そろそろ終えよう。
 
 資本主義化の徹底によってベネフィットを得た人も多かろう。が、この状況に疎外されている人もまた多かろう。そもそも新自由主義が徹底した国はどこも、たくさんの人々が疎外されていると同時に、そのような状況が新自由主義的ロジックにもとづいて正当化され、「筋が通っている」とみなされている。政治も人間も資本主義に飲み込まれてしまった社会のなかで、資本主義の徹底に抵抗するのは、カトリック全盛期のヨーロッパでカトリックに抵抗するのと同じぐらい難しいのではないだろうか。
 


 
 人間という存在は、法人でも企業でもない。生身の、こころを持った、実存的存在である人間は、市場価値というモノサシのなかで簡単に疎外されてしまう。新自由主義が徹底した国ではたいてい、抗うつ薬が劇的に売り上げを伸ばしている。そのような疎外や抑鬱も、「筋が通っている」とみなされてしまってはどうしようもない。
 
 「自分の市場価値を測ってみませんか」というメールが届く社会を、その「筋の通っているさま」を含めて批判するのは、とても難しいことのように思える。だからといって、この社会状況を黙って肯定して構わないものだろうか? とても、そんな風には思えない。
 
 
資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者:マーク フィッシャー
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

「コツコツ努力する」への違和感、あるいは反発

 
anond.hatelabo.jp
goldhead.hatenablog.com
 
 二人が書いた二つの人生を立て続けに読み、何か書きたくなった。
 私の脳内で最近渦巻いている何かが出かかっている。
 うまく書けるだろうか。
 
 
  *    *    *
 
 
 「底辺を這うおれには努力というものがわからない」を記したgoldheadさんには、文筆の才能があると私は思っている。ところがgoldheadさんはコツコツと努力を積み重ねることができなかったか、やらなかった。できないとやらないは、ある程度は重なるが、ある程度は別の問題でもある。ともあれ、自分自身の能力や才能を、努力をとおして「社会化」することにgoldheadさんが長けていなかったことだけは間違いないだろう。
 
 対照的に、「追いつけ追い越せ」を記した匿名筆者さんはコツコツと努力を積み重ねることには長けていて、学歴に勝る同輩たちを追い越してしまった。
 
 匿名筆者さんの学力は凡庸だったのかもしれない。才能も乏しかったのかもしれない。が、コツコツと努力を積み重ねることには長けていた。この文章を読みづらくすることを覚悟のうえで例えるなら、匿名筆者さんはある種のライトノベルやウェブ小説の主人公にいてもおかしくないタイプだと、思う。光るものが無いようにみえて、実は汎用性の高い、特別なものを持っている主人公。匿名筆者さんは、「コツコツと努力を積み重ねる才能」があるのだと思う。あるいは「社会化の才能がある」とでもいうべきか。
 
 ここでいう社会とは、もちろん現代社会のことだ。中世ヨーロッパ社会で必要とされる社会化と、現代日本で必要とされる社会化では、その内実はだいぶ違う。バブル崩壊後、「努力より才能」という言葉が流行した時期があったが、中世ヨーロッパなどに比べれば現代社会は個人の努力がモノをいう余地が大きい。そして匿名筆者さんは、他の才能はともかく「コツコツと努力を積み重ねる才能」には秀でていたのだろう、と思う。特別な才能も何もないようにみえて、学歴に勝る人々を追い抜いて着々と出世する人に、私はそのような才能をみずにいられない。くだんの文章には記されていないけれども、人間関係を生かす力とか、意見を調整する力とかにも恵まれているのかもしれない。
 
 じゃあ、みんなコツコツと努力を積み重ねられれば現代社会でうまくやっていけるのか? そうではあるまい。goldheadさんのような人もいるし、自分ではコツコツと努力を積み重ねているつもりなのに、まったく花の咲かない人もいる。努力には、信用ならないところがある。にも関わらず、たとえば丸の内の高層ビルで働くようなサラリーマンになろうと思ったら、やはりコツコツと努力を積み重ねないわけにはいかないし、そのような個人を輩出する大学が良い大学、とみんなが考えるようになっている。
 
 
 それだけならまあいいのかもしれない。
 もっと陰鬱なことを考えてしまうこともある。
 
 goldheadさんは冒頭リンク先で、以下のようなことを書いている。
 

つーわけで、おれが言いたいのは……なんだ? なんだかわからん。おれを反面教師にしろといったところで、生まれつきやる気のない、気力のない、努力のできない人間というものもいるだろう。おれのように精神障害者になるやつもいるだろう。そういう人間は……生まれてきたのが間違いだったな、としか言いようがない。勉強し、成果を出し、出世できる人間、金儲けできる人間のためにこの社会は存在している。だから、そんな社会に生まれてきてしまった、競争に向いていないやつは不運だった。残念だ。おれからもストロングゼロを一杯おごろう。ロング缶じゃないぜ。

 勉強し、成果を出し、出世できる人々、金儲けできる人々が社会の中心で活躍している。そういう人はストロングゼロのロング缶を飲んだりはしないのかもしれない。持ち前のコツコツ努力で、フィットネスジムに通って健康的な生活をしているような気がする。
 
 そういうよくできた人々に及ばないまでも、そこそこ頑張って、まずまず安定した生活をして、苦楽のなかで生きている人も多い。
 
 では、努力する才能に恵まれない人々、気力のない人々、コツコツやれない人々は、現代社会でいったいどうなるのか? 苦しかないのか? いや、苦しかないというのは極端としても、goldheadさんがしばしば述べるように、不運や不遇、低い自己評価といったものを仕方なく受け入れるしかないのか。
 
 コツコツ努力できない人がおのずと低い自己評価を持たざるを得ない社会は、なぜ、そのような社会のままでも構わないとみなされているのだろうか?
 
 現代社会は、メリトクラシー、能力主義によって給料や社会的地位が変わることになっている。能力主義が成立する前の、身分制度の世の中に比べればマシだというのは理解できる。ただ、その能力主義がすっかり隅々にまで浸透し、みんなの常識になった結果として、その競争ルールでは不利にならざるを得ない人々が不遇をかこつ状況までもが正当化されて構わないものなのか、その正しさが、私にはときどきわからなくなる。
 
 能力のある人々が頭角を現すのは、別に構わない。けれども当代に期待される能力が乏しい人々が、単に収入や地位が得られないだけでなく、その内面において「自分はどうしようもない」と思わざるを得ないのは、行き過ぎているのではないだろうか。
 
 ところがこの行き過ぎが社会の常識にまでなっているものだから、「能力も努力も足りなかったのだから仕方がない」の一言で片づけられてしまう。
 
 もうちょっと物分かりの良い人なら、「だから福祉が何とかしなさい」といったことをいう。福祉! もちろん福祉はあったほうが良い。だけど福祉は、この能力主義のピラミッドゲームを緩和しているのだろうか?
 
 福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人々を能力主義の枠内へと再収納することによって、しばしば救う。だが福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人を能力主義の枠外のまま救うようにはできていないように、私にはみえる。
 
 
 
 ……うまく書けている気がしないな。
 
 
 別の言い方を試みてみよう。
 なぜ私たちはコツコツと努力するのがさも人々の義務みたいな顔つきをしているのか。コツコツと努力できない人々がよろしくないような顔つきをしているのか。そのあたりがわからないのだ。わからないといって語弊があるなら、この、努力とか上昇志向といったものが浸透した社会の常識を胡散臭く眺めたくなる、と言い換えるべきかもしれない。
 
 社会は、何百年も前からコツコツと努力する人々で満ちていたわけではない。ましてや、コツコツと努力する人間をあるべきテンプレートとしてきたわけでもない。ところが今日では、それがテンプレートのようになって、私たちの罪悪感や劣等感や徳目とも結び付いている。
 
 私は今、現代社会では当たり前になっているものについて書いているから、ほとんどどうしようもならないことについてウダウダ書いているも同然だ。少なくとも私はこの常識にかなり染まっている自覚があって、たとえば、ガチャの荒ぶるソーシャルゲームを遊んでいる時ですら、マネジメントとか効率性とか、資本主義の呪文を唱えながら努力してしまっている有様だ。遊戯の時ぐらい、私はもっと気ままに、もっと自由に遊んだっていいはずなのに。
 
 コツコツ努力するという、現代社会を貫くイデオロギーに背を向けるのは高くつく。私のような人間は、コツコツ努力するというイデオロギーについてむやみに考えず、むやみに疑わず、もっとよく仕え、もっと賛美すべきなのかもしれない。だが、goldheadさんの文章を読むと、それでいいのかという気持ちになる。
 
 
  *    *    *
 
 
 私はまだ、脳内に渦巻いているものをうまく書けていない、と思う。「コツコツ努力する」は、私が言いたかったことの一部でしかない。goldheadさんが書いていたことのメインテーマ……でもなかったような気がする。ただし、「コツコツ努力する」をはじめとする現代社会の常識に、今の私が強い違和感をおぼえていることはよくわかった。私自身は「コツコツ努力する」が得意な部類とおもわれ、それで社会適応を助けられたが、すべての人にこれが求められるのは、何か違う、と思わずにはいられない。
 
 

オンラインゲームで社会勉強しているあなたへ

 ※この文章は、オンラインゲームをとおして社会勉強をしている人への個人的な手紙です。
 
 
 
 オンラインゲームをとおして社会勉強をしている、親愛なるあなたへ
 
 
 こんにちは。あなたは今、オンラインゲームからたくさんのことを教わっていますね。あなたのことを知っている者の一人として、そのことをうれしく思っています。
 
 オンラインゲームの世界は楽しいですか? もちろん楽しんでいることでしょう。あなたがプレイしている姿は一生懸命で、プレイヤー同士の会話も楽しんでいるようにみえます。一緒に遊んでいる年上のプレイヤーの人々は、あなたが年下だと知ったうえで、よく付き合ってくださっていると思います。
 
 インターネットには良い人間も悪い人間もいますが、彼らはそのなかでは付き合いやすく、礼儀正しい人々のように私にはみえます。オンラインゲームで最初に出会ったのが彼らだったのは、とても運の良いことでした。彼らとのゲーム体験はずっと忘れない思い出になるでしょう。仲良くなっても礼儀正しさを忘れず、感謝の気持ちをもって付き合って欲しいと、私は願います。
 
 最近はあなたもオンラインゲームにすっかり慣れて、お金の価値、アイテムの価値、狩場に必要なバフを理解しています。たった数%の攻撃力のちがいで、狩りの効率がびっくりするほど変わってしまうことを、あなたはもう知っていますね。それと、数%のバフやデバフの積み重ねによって攻撃力や回復力が100%以上高まることも体験しています。
 
 
 さて、ここまではオンラインゲームの話でしたが、こうしたゲームの特徴は、あなた自身が強くなっていく場合にもそのまま当てはまります。
 
 オンラインゲームのキャラクターと同じく、あなたも毎日のように狩場に通っていて、毎日のように経験値を稼いでいます。学校に行くこと、仕事に行くこと、旅行に行くこと、オンラインゲームを遊ぶこと、これらはすべて、あなたに経験値をもたらしてくれる狩場です。
 
 オンラインゲームのキャラクターと同じように、現実の人間も、バフやデバフによって強さや経験値効率が変わります。
 
 たとえば夜遅くまで起きていて、朝早くに起きた日は、眠たいですよね? 眠たい時、私たちの仕事や勉強には数%~数十%のデバフがかかります。それどころか、ステータス異常の「眠り」が発生してしまうこともあります。オンラインゲームで「眠り」が狩りを中断させてしまうのと同じで、あなたが「眠り」になってしまうと狩りは中断されてしまいます。だから寝不足というデバフは、あなたが稼げる経験値の量を少なくしてしまうでしょう。
 
 ちゃんと食事をとる、気温にあわせた服を着る、こういったことの積み重ねによって私たち人間はバフを受けたりデバフを受けたりします。クラスメートや仕事仲間との人間関係がバフやデバフを生むこともあります。そうしたバフやデバフが毎日の狩場効率をすごく左右しているのです。
 
 あなたがキャラクターを大切にしているのと同じように、あなたはあなた自身を大切にしてください。そしてデバフがたくさんかかっていると思った時には、まずデバフを解除すること、言い換えると、あなたのコンディションをもとにもどすことを大切にしてください。寝不足や空腹をほったらかしにしていると、風邪をひいてしまうかもしれません。風邪ならまだ治しやすいですが、もっと重い病気になってしまったら大変です。
 
 バフやデバフ以外にも、オンラインゲームと現実の人間で共通しているものがあります。それは「限られた時間のなかで、どれだけ成長できるか」によって、おいしい狩場が取れるのかどうかが変わってしまうことです。
 
 あなたはオンラインゲームをとおして「なるべく早く成長して、なるべく良い狩場に早く行けると効率が良い」ということをすでに知っています。これは、現実の人間でもだいたい同じで、同じことを早くにやるのと遅くにやるのでは狩場効率はかなり変わります。狩場効率が変わるから、みんな一生懸命にがんばって、できるだけ良い狩場をめぐって競争している、とも言えます。
 
 「良い狩場に、混雑する前にたどりつく」という考えかたは、オンラインゲームでも人間でも同じです。同じだと思っておいて、だいたい合っていると私は思っています。
 
 このように、あなたがオンラインゲームで経験していることは、人間の生活にも当てはまることが多いので、オンラインゲームで学んだことはあなた自身の生活にもきっと役に立つはずです。残念ながら、オンラインゲームのプレイヤーのなかには、ゲームで学んだことを自分自身の生活でできない人もいます。けれども、あなたのまわりにいる年上のプレイヤーはそうではありませんし、私も、オンラインゲームから学んだことのおかげでこうして元気に生活しています。せっかくオンラインゲームをやっているのですから、たくさんのことを学んで、あなたの人生に役立ててください。
 
 なお、人間の生活は、オンラインゲームでいう「ハードコアモード」なので、たとえばあなたが交通事故で死んでしまったら、復活せずに消えてしまいますのであしからず。こうした違いにも気を付けながら、オンラインでもオフラインでも活躍していきましょう。それでは、また。
 
  

バトンの隙間を埋めてくれていた人々

 
 冠婚葬祭。子育て。生業。
 
 そういった処世の術は、祖父母から親へ、親から子へ、子から孫へと単線的に引き継がれていったわけではなかった。きょうだい、おじおば、近所の葬式ばあさん、そういう複線的なラインで下の世代に伝授されていった。
 
 ところが核家族化が進んだ現代では、冠婚葬祭にしても子育てにしても、親から子へ、子から孫へと、単線的にしか受け継がれていかない。生業は学歴というフィルターをとおして継承されるが、これも、核家族の文化資本と学校を経由して継承されるものになり、結局核家族の内側で、おおむね単線的に継承されていく。
 
 思春期の作法、成人期の作法、老人の作法といったものの継承も変わった。地域の生活とライフステージが不可分の関係にあった頃、ライフステージごとの作法は親以外の年長者複数名をロールモデルとし、地域の行事や風習のなかで学び取っていくものだったが、核家族化が進んだことに加えて、きょうだいの数が少なくなり地域の行事や風習が希薄になったことによって、両親以外の年長者からライフステージごとの作法を学びとるラインは相対的に、しかし着実に少なくなった。
 
 人間は、両親だけから人生を学ぶのではなかった。もっと沢山の人から学ばなければ足りないし、とりわけ学齢期以降の、親子の心理的な距離が広がっていく時期はそうだった。両親以外の年長者がことごとく「赤の他人」同然の子どもとて、学校や塾やメディアの年長者をとおして学べるところはあるだろう。しかしその学びのプロセスはどうしても他人行儀なものとならざるを得ない。
 
 処世術のバトンを世代から世代へと渡せなくなった、とは言わない。
 が、処世術のバトンを受け取るのも渡すのも、現代ならではの難しさはあるとは思う。
  
 親から子へ処世術のバトンを渡す際には、親子の年齢差もネックになる。ロールモデルとするにも、反面教師とするにも、親から子へのバトンの継承は年齢差が大きすぎて、いわば飛び石のようなところがある。
 
 かつては、5~10歳年上の兄貴や姉貴のたぐいが間に挟まるかたちで処世術のバトンの継承は行われていたはずだった。親子という単位に限らず、地域共同体や血縁共同体といった単位をとおしてもバトンは渡され、受け取られていたはずだった。だから昔は、バトンを渡す者と渡される者の年齢的距離は親子に比べてずっと近かった。
 
 それが今では、これが親子という単位のなかでほとんど完結せざるを得ないようになってしまった。年齢差による断絶を克服し、親から子へ首尾よくバトンが継承された場合でも、親以外のエッセンスが混じる余地が少ない。町内のおっちゃんやおばちゃんから受け取るエッセンス、いとこや親戚の年上から受け取るエッセンス、そういったものが混じらない純化したバトンの継承。それで都合の良いこともあるだろうけれども、それで都合の悪いこともある。
 
 たとえば、親から継承された処世術のとおりに生きられなくなった時にスペアになるようなバトン、親とはちょっと違ったロールモデルになるようなバトンを、どこでどうやって子どもは手に入れられるのだろう? この、社会契約と合理主義の徹底した令和時代のなかで、いったいどこの誰が「赤の他人」ではない年上という役割、いわば兄貴や姉貴を引き受けてくれるものだろうか。
 
 どんなに科学が進歩しても、親の死・子の誕生・結婚生活といった出来事によって人が受ける衝撃は変わらないのではないだろうか。その当事者のよろめきや、よろめきから立て直す所作のようなものは、赤の他人ではない人間の、生の声を経由したほうが、継承しやすいのではないかと思う。そういった、教科書を読んでも心にインストールされることのないバトンが、先行世代から後発世代へと受け継がれにくく、よしんば受け継がれるとしても親から子へと単線的にしか手渡されないのだとしたら、これは、なかなか難しいことであると同時に、実のところ非効率な継承ではないだろうか。
 
 こうしたバトンの継承は、科学的でもなければ経済的でもないため、バトンの継承がうまくいかなくなったことを問題視する人はあまりいない。私がここでバトンと言っているものが継承されなくても、GDPが下がったりしないし、サイエンスやビジネスが停滞することもないだろう。だとしても、そうしたバトンの継承の喪失もまた、喪失には違いない。
 
 私たちはバトンの隙間を埋めてくれる人たちを失った。というより、バトンの隙間を埋めてくれるような社会関係を失った。
 
 鼻息の荒い人は、「処世術のバトンなど、経済力でどうにかしてしまえば良い」とか、「自発的な学習と自己選択でどうにかできる」、と言い切ってしまうかもしれない。そうかもしれない。だが、誰もがそんなに鼻息が荒いわけでも、経済力や自発的学習や自己選択に優れているわけでもないと、私は思う。個人が自由に生きたいと思う際にも、継承された処世術の手札は大いに越したことはないし、バトンを渡してくれる手は、ひとつであるより複数であるほうが望ましいはずだ。
 
 しかるにバトンの隙間を埋めてくれていた人々と、その社会関係のことは、あまり思い出されないし、あまり語られない。だから私は、時々こうやってバトンの隙間を埋めてくれていた人々のことを思い出し、インターネットに放流したくなる。たとえ、それがバトンを渡すことの代償行為に過ぎないとしてもだ。
 
 

他人と話さないで済ませられる現代社会

 
 以下に記すことは、おそらくポストモダン思想が流行した1980~90年代にどこかの誰かが文章化しているとは思う。そういう意味では新規性のある文章だとは思えない。
 
 ただ、20世紀に流行したポストモダンなるものは、最も経済資本や文化資本に恵まれた「シラケ世代のエリート」たちに専ら該当する話で、なおかつ、彼らの間で消費される言説でしかなかった。2019年の現在のほうが、社会の末端にまで「シラケ」というより「不信」が広がっているので、今、こういうことを考えるのも無意味ではないと思うので書いてみる。
 
 現代社会を生きる私たちは、ロクに他人と話していないのではないか、というのが今日のお題だ。
 
 


 
 先日、上掲のツイートを読み、そうだよね、と私は思った。
 
 法律化という言葉だけでなく資本化・経済化といった語彙を当てはめてもよく似合う。話し合いによって個人と個人の問題を解決するのでなく、法制度やお金によって問題を解決する。それに加えて、たとえばSNSのブロックやミュートがわかりやすいが、アーキテクチャ(空間設計)によって揉め事を減らすようにする。これらの問題解決方法では、従来的にいわれていたところのコミュニケーションが占めるウエイトは小さい。たとえば法制度やお金で問題を解決する時には、それらが媒介物となってやりとりが進んでいくから、人と人とがじかに出会って話す際に特有の問題は顕れない。法制度やお金で問題を解決する時には、私たちは法や金銭を媒介物として、法的解決や売買に即したコミュニケーションだけを実践している。
 
 逆に言うと、法的解決や売買の場面で、それ以外のコミュニケーションを差し挟むことは歓迎されていない。たとえばコンビニで弁当を買って温めてもらう際には、そのためのコミュニケーション以外は基本的にノイズとみなされる。売買のやりとりと、弁当を温めるという仕事上のやりとりがあるだけだ。世間話をしたり、店員さんの近頃の悩みについて質問したりするのは無粋なことである。逆に、私たちがスムーズにコンビニで弁当を温めてもらえるのは、コンビニでのコミュニケーションが売買に特化していて、お金と仕事以外のコミュニケーションが除外されているからだ。
 
 これと対照的なのは、地域共同体での売買、たとえばご近所の日用雑貨店での売買だ。お店を訪れると、世間話や噂話と一緒くたになったかたちで売買の話が始まる。付き合いによって値段が変わったり、義理で買うとか、そういったことも起こる。こうしたコミュニケーションは売買に特化していない。地域共同体のご近所関係の一環として売買は位置付けられ、ご近所同士のコミュニケーションは、お互いのことを知り過ぎてしまいがちでもある。
 
 学会やカルチャースクールでのコミュニケーションも、実はこれに近いと思う。
 
 学会でのコミュニケーションは、その学会の研究にまつわるものが中心だ。一定の雑談は許容されるが、基本的に、学会に関連しない話を延々とされることは歓迎されていない。カルチャースクールでも、お稽古ごととその周辺にまつわるものが会話される。学会でもカルチャースクールでも、共通の関心事が媒介物となってコミュニケーションが行われていて、会話がその媒介物から遠ざかれば遠ざかるほど、その会話はノイズとみなされるおそれが高くなる。
 
 学会やカルチャースクールで人と人がコミュニケーションする時、私たちは学会や稽古事という媒介物についてはどこまでもコミュニケーションできるが、媒介物の外側についてコミュニケーションすること、知り合うことは基本的に歓迎されていない。たとえばカルチャースクールで出会ったメンバーにプライベートに踏み込んだ話を持ち掛けるのは、かなりの勇気が要る。へたをすれば、相手からハラスメントとみなされる可能性もある。
 
 いまどきの職場でもそれはあまり変わらない。職場では、仕事という媒介物にまつわるもののコミュニケーションが行われるのであって、そうでないコミュニケーションは歓迎されない。天気の話ぐらいなら大丈夫だが、プライベートな悩みについて上司や部下と会話することは歓迎されない。
 
 そう、いつも私たちは「○○にまつわる話」や「××についての話」をし続けているし、それが望ましいとされている。○○や××の話、あるいは法制度や金銭が媒介物となった会話にあまりにも慣れている。そうすることによって私たちのコミュニケーションは目的に特化し、効率的なものになり、ノイズやハラスメントが混入する心配をしなくて済むようになる
 
 だからこれは文明化された、効率化されたコミュニケーションに違いない。契約社会化したコミュニケーション、と言ってしまっても構わないだろう。契約社会化した2019年の日本の暮らし、たとえば東京での独り暮らしは、何かを媒介物とした「○○にまつわる話」や「××についての話」で専ら構成されていないだろうか。少なくとも地域共同体で長い時間を一緒に過ごすメンバーシップ同士のコミュニケーションとは、質的に異なったコミュニケーションが行われているのではないだろうか。
 
 

「人と話さないで済ませられる社会」の功罪

 
 だから私はこう言ってみたい:現代人はもう「他人と話さずに済ませられる社会」を生きているんじゃないか、と。
 
 職場でもコンビニでもカルチャースクールでもそうだが、私たちはその場のコンテキストにあわせた、媒介物を介したコミュニケーションしている。これは、話題や媒介物と会話しているのであって、職場の同僚やコンビニ店員やカルチャースクールの仲間と会話しているとは言えないのではないか。
 
 お互いのことをやたらと知ることがなく、話題や媒介物とだけコミュニケーションする社会になって、便利になったことは色々ある。
 
 まず、コミュニケーションの効率化。弁当を買って温めてもらう際に余計なコミュニケーションをしなくて構わないコンビニは、世間話をしなければならない地域共同体の日用雑貨店より、コミュニケーションの効率が良い。少なくとも売買に関してはそうだろう。
 
 仕事やカルチャースクールでも、余計なコミュニケーションをしなくて構わないほうが煩わされることがなく、効率の良いコミュニケーションができる。効率の良いコミュニケーションができる社会は、生産性が高い社会、とも言えそうだ。
 
 それと、プライバシーを守りやすい。地域共同体ではコミュニケーションの話題にならないものはなく、お互い、なんでも知り合い過ぎてしまう。対して、その場その場で「○○にまつわる話」や「××についての話」を繰り返している限り、私たちはプライバシーをお互いに守りあうことができる。
 
 媒介物を介したコミュニケーションで私たちがプライバシーを守りあえるのは、余計なコミュニケーションをしないことに加えて、私たちがバラバラに暮らしていて、職場やコンビニやカルチャースクール以外に接点を持ち合わないからでもある。
 
 だからこれは、お互いのプライバシーが守られるような現代風の街に住んでいなければ実現しようのない話だ。たとえば噂話がたちまり広がり、ウチとソトとの垣根がしっかりしていない百年前の農村では、何をどうしたってプライバシーは筒抜けになってしまう。いまどきの街・いまどきの住まいといった、プライバシーをしっかり守れるアーキテクチャが整備されてはじめて、媒介物を介したコミュニケーション、ひいては、他人のことを知らずに済ませられるコミュニケーションが現実のものになる。
 
 だから「人と話さないで済ませられる社会」には間違いなくメリットがある。いちがいに否定できるようなものではない。
 
 ただ、良いことばかりでもないように私は思う。
 
 第一に、プライバシーが守られるようになって、私たちはナルシシズムにのぼせあがりやすくなってはいないか。
 
 媒介物を介したコミュニケーションに専心しているおかげで、私たちはそれぞれの場所で"良い恰好"ができるようになった。職場の顔、コンビニでの顔、カルチャースクールでの顔。そうやって使い分けることで"良い恰好"ができるおかげで、私たちはナルシストになれる。だから少なくともある部分では、ナルシシズムはプライバシーの産物とも言える。"良い恰好"ができなければナルシストはナルシストを貫けない。
 
 ナルシストでいいじゃないか。
 そうかもしれない。
 
 ただ、八方美人ナルシストというのは疲れるしコストもかかる。そして孤独だ。どこでも"良い恰好"な自分を演出してまわるうち、いったいどれが本当の自分なのか? などという益体もない疑問を抱いてしまう人もいる。そこから発展して、役割ごとに態度を変える「ペルソナ」や「分人」といった考えを持つ人もいるけれども、その「ペルソナ」や「分人」を束ねている人格は結局ひとつなのだから、「ペルソナ」「分人」の運用コストを私たちは払わなければならなくなり、その辻褄をひとつの人格のなかであわせもっていなければならなくなる。これは、得意な人は得意だが、誰もが得意なものとは思えない。人格の辻褄合わせが苦手な人にとって、それは心理的コストの源たりえる。
 
 もうひとつは、他人と出会うことにいつまでも慣れることができない、ということ。
 
 塾でも職場でもカルチャースクールでも媒介物を介してコミュニケーションをして生まれ育っていると、それが板について当たり前になってくる。売買や就労に関しては効率的で生産的なコミュニケーションだから、さしあたり問題ないだろう。だが、誰かと親密になりたい時、誰かと多チャンネルでコミュニケーションしたい時には、この方法は通用するものだろうか。
 
 たとえば友達や恋人とより親密になりたいと思った時、仕事を媒介物として、お金を媒介物としてコミュニケートして、いったいどこまでお互いのことを深く知り合うことができるだろうか。
 
 できるだけ沢山の媒介物を持ってくることで、ある程度はそれがカバーできるかもしれない。たとえば複数の趣味、複数の興味話題を媒介物とすれば、さしあたってコミュニケーションのチャンネルは増えるだろう。だが、これだけでプライバシーの壁を突破できるだろうか。そうはいかない。ではプライバシーを侵犯しあうのか? そのとおり! しかし「○○にまつわる話」や「××についての話」を繰り返している現代人には、そのための流儀がよくわからないし、慣れてもいない。プライバシーを侵犯しあって親密さを深めるプロセスを、塾や職場やカルチャースクールは教えてくれない。
 
 なんということだ。プライバシーを侵犯しあうための方法は契約社会の教科書には乗っていないのですよ!
 
 私たちは売買のようなコミュニケーション、媒介物を介したコミュニケーションの方法については社会からみっちりと教え込まれる。けれども、その正反対のコミュニケーション、お互いにうまくプライバシーを侵犯しあうための方法についてはあまり社会から教えてもらえない。ここのところは独学で何とかするか、生まれた家庭でたまたまハビトゥスとして身に付けているか、どちらにせよ運に任せなければならなくなっている。
 
 子どもをもうけた時、媒介物を介したコミュニケーションに慣れきった私たちの困惑は最高潮に達する。
 
 なにせ子どもには媒介物を介したコミュニケーションが通じない。流行りの映画についてとか、雨模様についてとか、そういった「○○にまつわる話」や「××についての話」が乳幼児にはまったく通じない。プライバシーの欠如した一体状態から親子関係がスタートするので、子育ては、私たちを現代社会から最も遠いところへと遠ざける。現代社会のコミュニケーションの流儀に特化している人は、子どもとコミュニケーションができない。だがそれでは子どもも困るし親も困ってしまう。なにせ、言語という最も根源的な媒介物すら子どもには通用しないのだ。
 
 「言語という最も根源的な媒介物」すら通用しないのは、幼児期、学童期もだいたい同じだ。子どもは言語を少しずつ身に付け、使いこなせるようになるが、言語を主な媒介物としてコミュニケーションできるようになるのはだいぶ後だ。「自分の気持ちは、なにごとも言語化できるようになるのが望ましい」と現代人は考えるかもしれないし、それこそが現代人に求められる資質なのかもしれないが、成長途上の子どもにそれを求めるのは酷なことだ。
 
 だから、ざっくばらんに言って、「他人と話さないで済ませられる現代社会」というやつは、子育てには、あんまり向いていないんじゃないだろうか。これが少子化の原因だと言ったら言い過ぎだろうが、まったく無関係というわけでもあるまい、と私は思う。
 
 

「わかりあわずに済ませられる」幸福と不幸

 
 お互いのプライバシーが保たれ、効率的で生産的なコミュニケーションが実現した結果、ある面では人間にやさしい社会ができあがったと言えそうだし、別の面では人間に厳しい社会になったとも言えそうだ。
 
 どちらが良いとか悪いとかは私にはわからない。
 ただ、そういう社会でそういう生活をしているのだと振り返っておきたい。