シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

痛いオタク・痛い人の行先は?

 
 2019年のヨイコノミライ - あままこのブログ
 
 
 上掲リンク先の"2019年の『ヨイコノミライ』"というタイトルを見て、歳月を感じずにはいられなかった。『ヨイコノミライ』が完結したのは2006年。それから13年の歳月が流れた。
 
 

 
 
 リンク先の筆者であるamamakoさんは、こんなことを書いている。
 

例えば、今のオタクは、自分のオタ話をするにあたっても、ほんと器用に相手の好みに合わせて話をします。いきなり初手でBLの話をする腐女子や、ロリコン漫画の話を男ヲタなんてものはもうほぼおらず、「カードキャプターってどうだった?」的な無難な話題から、BL的なものやロリコン的なものが受け入れられるか慎重に見極めて来ますし、またそこで相手を傷つけずに「いや、そういう話題は地雷です」みたいなサインを出すのも本当にうまいです。
また、今のオタクは、その場の空気がそういう空気でない限り、めったに作品の批評的な事は言いません。今の若いオタクたちは「語彙がない」なんて自嘲しますが、批評的なことを敢えて言わないだけで、「当たり障りのないボキャブラリー」の豊富さは、昔のオタクなんかより断然豊富です。
(中略)
つまり、今の若いオタクたちにとっては、『ヨイコノミライ』に見られるような幼稚なオタクは、どこか遠い国の、おとぎ話のキャラクター程度のもので、何もリアリティなんかないのではと、思ってしまうのですね。かくしてオタクたちはみんな改心し、自称批評家は僕が死ねばこの世から消滅する。良かったな吉田アミ!これが望みだったんだろー!

 私が2010年以降に出会った年下のアニメ愛好家やゲーム愛好家、いわゆる"オタク界隈"に首を突っ込んでいる若い人々を眺めても、昔のオタクに比べてコミュニケーションが上手いと感じることが多い。コミュニケーションのできるオタクの増加は、オタク差別の軽減と並行して進んだ。キモいオタク、つまりコミュニケーション困難なオタクに対する差別は厳然として残ったが。
 
 今、問題になっているのはオタクかオタクじゃないかではない。コミュニケーション可能な相手なのか、それともコミュニケーション困難な相手なのか──そういったコミュニケーションの意志と能力のほうではないかと思う。もちろんこれは、オタクという趣味ジャンルだけに限った話ではあるまい。
 
 『ヨイコノミライ』が連載されていた頃は、オタクが痛くてもおかしくないという認識があった。そんな有様だからオタクが外部から侮蔑されていたという側面もあったかもしれないが、ともかく、オタク同士の付き合いのなかでは"痛いオタク"がいるものというコンセンサスがあった。『ヨイコノミライ』にリアリティが宿っていたのも、若干の誇張はあったにせよ、同作品の登場人物が"痛いオタク"のステロタイプに沿っていて、"オタク界隈"の住人ならどこかで見たような出来事が描かれていたからでもある。
 
 『ヨイコノミライ』未満の"痛いオタク"だって沢山いた。たとえばTV版『電車男』に出て来る脇役のオタクたちなどは、いかにもコミュニケーションの不得手そうな振舞いをしていた。00年代の頃、不器用そうなオタクがテレビに映るたび、2ちゃんねるの実況板住人が「おまいら」「おれら」と呼び合っていたのも、「オタクは痛くてもおかしくない」、「オタクは不器用でもおかしくない」という認識が共有されていたからだったはず。
 
 それが、まさに『電車男』がヒットした頃から変わっていった。
 2008年に私が書いた文章を引用してみる。
 

オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
 当時、“脱オタ”がある程度の段階まで来ていた私は、オタク趣味の内外のそこらじゅうの文化圏に首を突っ込んで回っては、歓迎されたり叩き出されたりしていましたが、そうやって色々な文化圏と見比べて回るにつけても、オタク趣味界隈が最もコミュニケーション貧者が多いように感じられました。後々気づいたんですが、あの頃のオタク趣味界隈って、能力的にはコミュニケーション貧者が多かったかもしれないけれども、コミュニケーションの摩擦のかなり少ない状態でつるんでいられるという、ある種の楽園のような状況が保たれていたと思うんですよね。
 
 ところが、『電車男』以後ぐらいから、どうも様子が違って感じられるようになりました。もう、秋葉原に行っても典型的な“アキバ系ファッション”ばかりとは限らない。秋葉原の本屋に『脱オタクファッションガイド』が平積みされ、メイド喫茶がテレビで紹介されるような時代を経て、いつの間にか秋葉原の服飾のアベレージはすっかり変化してしまいました。“臭いオタク”なんて過去の話で、小綺麗な男女が“とらのあな”の紙袋を持って中央通りを闊歩するのが2008年です。オフ会でも、ただお喋りなだけの五月蠅いオタクや、聞き取りにくい小さな声でしかしゃべれないオタクの割合が急速に減少している気がします。オタクだからコミュニケーション貧者だとか、オタクだからコミュニケーションへの意識が乏しいとかいう傾向は、少しづつ終わりに近づいているんではないでしょうか。

 
 2019年のオタクのありようは、この延長線上にある。オタクを自称する人のうちに全く痛くない、器用でコミュニケーションの上手い人が増えた。それこそamamakoさんの言うような、当たり障りのない会話もこなしてみせるオタクによく出会うようになったと思う。
 
 オタクの裾野も、オタク界隈に出自を持ったコンテンツの裾野も恐ろしく広がったから、いったいどこからがオタクでどこまでが非ーオタクなのか、2019年には判然としない。なにしろNHKがアニソンの番組を放送し、映画館では新海誠の作品がオリコンチャート一位を獲り続けるような時代なのだから。どこまでがオタクでどこからがオタクでないかなんて、わかったものじゃない。
 
 ちょうど最近、居酒屋で店員の兄ちゃんと姉ちゃんがアニソンの話をしていて、そこから「エロゲの歴史」を勉強しているという話が出てきてびっくりさせられた。ここでいう過去のエロゲとは、『Air』や『沙耶の唄』や『CROSS † CHANNEL』のことである。こういった体験にあちこちで出会うのだから、本当に裾野が広くなったのだなと思わずにいられない。
 
 

痛いオタクの行先はどこか

 
 では、痛いオタク、不器用なオタクはどこへ行ったのか?
 
 痛いオタクがたくさんいた頃は、痛いオタクであることはオタク界隈の内輪ではあまり問題にされなかった。外部の人々からオタクが忌避されることはあっても、オタク界隈の内輪では、痛いオタクであることは決定的にまずいことではなかった。まあオタクだしそういう人もいるでしょう、という理解もあった。
 
 ところがオタクでもコミュニケーションできるようになったことによって、オタクでもコミュニケーションができなければならなくなった。たくさんの人々が界隈に流入してきて、それこそ、劇場版『Fate/Stay night』をカップルで観に行く男女がいるような時代になって、「オタク界隈の内側だからコミュニケーションは不問に付す」というわけにもいかなくなった。
 
 もちろん、SNSに完全に背を向けて独りでコツコツとコンテンツに向き合えば、コミュニケーションから隔絶したオタクライフも不可能ではないだろう。だが今日の界隈のコンテンツはしばしばSNSと連動していて、情報はインターネットを駆け巡っている。このような状況下でスタンドアロンにアニメやゲームに向き合うのはそれほど簡単ではないし、どのみち、インターネットの内外で私たちが観測したり出会ったりできるのはコミュニケーションしたいという意志を持ったオタクだけだ。
 
 ここまで考えたうえで、『ヨイコノミライ』に登場するような痛いオタクは、今だったらどこにいるのかについて考えてみる。
 
 かつてなら痛いオタクとして界隈の内輪にいたであろう彼らは、現在ではオタクになる前にドロップアウトしてしまっているか、痛くないオタクになってしまっているのではないだろうか。
 
 「オタクになる前にドロップアウト」とは、思春期を迎える前に不登校を呈してしまったりメンタルヘルスの問題を呈してしまったりして、十分にオタクとして活動することもままならない状況に追いやられているのではないか、ということだ。
 
 不登校やメンタルヘルスの問題が、そのままオタクでいられなくなることとイコールというわけではない。たとえばコミケを往復するオタクのなかにも、精神障害者保健福祉手帳を持参している人をときどき見かける。とはいえ、思春期前半の面倒な時期にコミュニケーションで躓き、そこから人の輪のなかに入っていくのはなかなか難しい。四半世紀ほど前の校内のオタクグループはそういった躓きのある人でも参加しやすい人の輪であり、そういった躓きを避けるためのギリギリのセーフティネットでもあった。
 
 もちろん、オタクグループが躓いた人や躓きかけている人をすべて包摂したわけではないし、オタクグループだけが包摂していたわけでもない。ヤンキーやサブカルも、人の輪に入っていくことの難しい不揃いな林檎たちの所属先として有力だった。が、ともあれ、校内のコミュニケーションの秩序の最下層で踏みとどまれる居場所としてオタクグループがあるていど機能していたのもまた事実だ。こういう話をすると、私より年上のオタク・エリートの人々はだいたい渋い顔をするものだけれど。
 
 言い換えるなら、『ヨイコノミライ』がリリースされていた頃のオタク・オタク界隈には、校内のコミュニケーションの秩序に対する対抗文化としての意味合いがあったと思う。
 
 ところがこの20年間に、オタクも、オタク界隈も、アニメやゲームといったコンテンツも、対抗文化という位置づけからユースカルチャーの本流に近い位置づけに変わってしまった。校内のコミュニケーションの秩序の真ん中付近にいる人までもがアニメやゲームの話をするようになったら、そこは、日陰者が気安く集まれる居場所ではなくなってしまう。
 
 今、どこかに過去のオタク、あるいは過去のサブカルやヤンキーのような、対抗文化たりえる居場所や界隈やはあるのだろうか。
 
 わからない。敢えていえば、twitterのあのへんに、そうした人々が群れているような感じはある。ただしtwitterのあのへんで楽しそうにしている人々は上澄みみたいなもので、痛い人とはいっても言語的能力に優れた、いわば才能のある人々だ。そうでない「痛い人」がtwitterをやると、たとえば、アライさん界隈みたいなところが到達点になるのではないかと思う。
 
 まだ校内にオタク・サブカル・ヤンキーといった対抗文化が存在していた頃、痛い人がいずれかの対抗文化に所属し、思春期をやり過ごす余地はあったように思う。校内に対抗文化の集まりが存在していれば痛い人でも群れることができ、痛い人なりにコミュニケーションや社会経験を積み上げることができた。
 
 

 
 
 だが、校内のコミュニケーション秩序、ひいては社会のコミュニケーション秩序に対する対抗文化が軒並み失効してしまったとしたら、痛い人が群れることができる場所、コミュニケーションや社会経験を積み上げられる場所はいったいどこにどれだけあるのだろう? 
 
 
 福祉が?
 
 いや違う、と私は思う。福祉はそれ自体として対抗文化ではない。たとえばメンタルヘルスの問題を抱えている人が集まれる場所を福祉が提供しているとしても、それが対抗文化だとはまったく思えない。福祉が提供しているのは、根本的に違った何かだ。
 
 
 話がそれかけたので本題に戻ろう。
 
 『ヨイコノミライ』という作品は、オタクが対抗文化として機能していて、そこに痛い人々も所属してオタクをやっていた頃の物語だった。そうした痛いオタクが寄り集まった居場所の、痛さゆえの過ちや弱さをしっかり描いた物語だったと思う。
 
 じゃあ、『ヨイコノミライ』的な痛い居場所がなくなって、痛いオタクがいなくなったほうが良かったのか? 
 
 社会のコミュニケーション秩序があまねく行き渡り、オタクがみんな優しくなって気が利くようになった現状が、20年前よりも良いと言えるなら、そうだと言える。反面、痛い人が所属できる対抗文化が見当たらず、twitterでアライさん界隈をやるほかない現状が厳しいと思えるなら、良くなかったと言うべきだと思う。
 
 私は……とりあえずオンラインとオフラインの双方を行き来できるような対抗文化があって欲しいと願うばかりである。
 
 

愛知県兼業農家に生まれてトヨタ入社は異世界転生か

 
 


 
 今、アニメ化されるウェブ小説といえば異世界転生モノだけど、現代に転生したらどうだろう。異世界もチートのたぐいもなく、平凡に現代、平凡な人生に転生したら、物語としては面白くなくなってしまうんだろうか。
 
 
現代社会で乙女ゲームの悪役令嬢をするのはちょっと大変 -小説家になろう
  
 転生モノだからといって異世界とは限らないわけで、上掲リンク先の作品は、主人公がバブル崩壊たけなわの日本に転生する。ウェブ小説連載だけあって、カタルシスには事欠かず、知識やネタの引き出しも多い。なにより、バブル崩壊に臨む喜び! 仮想戦記モノっぽさがある。悪役令嬢? なのかはさておいてすごく楽しいウェブ小説だ。
 
 それはそれとして、平凡な現代転生は物語にならないものなんだろうか。転生して「『CLANNAD』は人生」みたいな人生をゆく物語を描いたっていいんじゃないか。都会暮らしの効率至上主義にすり切れ、裏切られた主人公が「『CLANNAD』は人生」みたいな着地点に辿り着く転生モノが読みたい気持ちがある。
 
 結婚や子育てを物語るなら、地方、それも豊かな地方がお似合いだろう。
 
 愛知県がいいのではないだろうか。
 
 転生先は濃尾平野の兼業農家、公立学校を出て地元のトヨタ関連企業に入社して高校生時代に出会った少し病弱なヒロインと結婚してファミリーでエスティマを転がして、週末は、イオンモール常滑までゴーなのである。
 
 がしかし、「骨は歌う」さんのツイートを読んで少し考えが変わった。
 
 
 
 愛知県の兼業農家に生まれてトヨタに就職は、異世界でチートなんだそうです。
 
 そうかもしれない。地方に住む者が誰でも土地持ちというわけではないし、どこの都道府県にもトヨタがあるわけでもない。
 
 
寿がきや 即席SUGAKIYAラーメン 111g×12個

寿がきや 即席SUGAKIYAラーメン 111g×12個

 
 
 ナゴヤシティー。中京工業地帯。どこまでも広がる田園。それらを繋ぐ名鉄。南にはセントレア空港を擁し、高速道路網にも抜かりが無い。海にも山にも案外近い。スガキヤ。中日ドラゴンズ。
 
 こうやって長所を数え上げていくうちに、濃尾平野が豊穣の大地のような気がしてきたぞ。
 
 地方といってもいろいろで、とことん交通の便の悪い過疎地~イオンモールがつくられる地方都市~ナゴヤシティー周辺ではだいぶ違う。そこに家庭環境の違いまで加わるのだから、愛知県の兼業農家に生まれトヨタ入社というのは異世界転生も同然、いや、異世界転生そのものではないか。
 
 ということはだ、異世界転生モノの文法を用いて、濃尾平野で「『CLANNAD』は人生」を描くことも不可能ではないのかもしれない!
 
 頭がこんがらがってきたが、ともあれ、「現代社会だけど異世界みがある」はアリだろう。タイトルは「濃尾平野に転生した俺の人生は『CLANNAD』を越えていきます」でどうでしょうか。
 
 や、ウェブ小説では商業作品をタイトルに混ぜたら怒られるんだったか。だいたい誰がこういうウェブ小説を書いてくれるのか。誰も書いてくれないなら自分で書けばいいわけか。いやいや自分じゃ上手に書ききらない。ここまで考えたところで、背中から〆切のピシャリという音が聞こえてきたので今日はこれにて解散。(所要時間20分)
 
 

週末の国道には空気の読めない車がいっぱい

 
 
「IQ」ではなく「コミュニケーション能力」こそ、真の意味での知的能力なのかもしれない。 | Books&Apps
 
 リンク先の記事は、対人コミュニケーションが関与するさまざまな仕事や場面で「他者の考えていることを類推する能力」「社会的知性」が重要であることを紹介している。このあたりがコミュニケーション能力の大事な要素というのはたぶんそのとおりだろう。
 
 ここからお役立ちっぽい話もできそうだけれど、今日は日曜日なので、週末の風景の話をする。
 
 週末になると、地方の国道沿いに建ったショッピングモールに向かって乗用車の長蛇の列ができあがる。地方ではお馴染みの風景だが、ほかの車の挙動を観察していると「他者の考えていることを類推しながら運転しているドライバー」と、「他者の考えていることを類推せずに運転しているドライバー」がいることに気づく。
 
 「他者の考えていることを類推しているドライバー」は、他の車の細かな挙動に反応しているのがみてとれる。前方を走っている車が中央分離帯のほうに寄っていくと、これから右折するのではないかと読み、少し速度を落としながら左側に車を寄せたり、歩行者が横断歩道に近づきながら車道を見つめているのを素早く確認し、横断歩道の手前できっちり停止してみせる。トラフィックの流れを見極め、過不足のない速度を心がけてもいる。
 
 しかし週末の国道には「他者の考えていることをろくに類推せずに運転しているドライバー」もいる。前後の乗用車の挙動に反応の乏しい車、歩行者の目線や動きにも鈍感な車、トラフィックの流れとは無関係に、自分がこれと決めた速度で我が道を行く車。右折するまでそれなりの時間があるはずなのに、右折直前に急にブレーキをかけ、ブレーキをかけた後にウインカーを点灯させる車。etc...。
 
 不慣れな県外ナンバーがこれをやるのは、まだわかる。そのドライバーは道に迷っているのかもしれず、周りの車や歩行者に気を回すゆとりが乏しいのかもしれない。小さな子どもを乗せて運転しているおかあさんドライバーについても、子どもへの対応で気を取られているかもしれない。かなりの高齢者のドライバー。うん、運転お疲れ様です。
 
 だが、国道沿いのショッピングモールに週末に出て来る、地元ナンバーの車はそうではないはずだ。いつもの週末、いつものショッピングモールへ吸い込まれていく地元の車で、ドライバーもそれなり若いのに、他のドライバーや歩行者の意図をぜんぜん読もうとしない車が少なからず混じっている。
 
 そういったドライバーの車が、周囲のことなど我関せずと我が道を行き、あっちをウロウロこっちをウロウロしているのを見ると、怖いなーという気持ちになる。そういうドライバーの車が、リアフロントに「お前をドラレコで観ているぞ、煽ってんじゃねえよ」などと表記していると、かえって煽りたい気持ちになる。もちろん煽ったりはしないけれども、「他のドライバーのことも歩行者のことも観てもいないのに、俺は我が道を行くぜと自己主張している車」という印象を持たずにいられなくなる。
 
 
 

「他者への思いやり」「譲り合いの精神」には社会的知性が必要不可欠

 
 
 自動車学校の教習では、ドライバーとしての心構えとして「他のドライバーや歩行者への思いやり」や「譲り合いの精神」を教えられる。これは、良い理念だと思う。
 
 しかし実際にこれらをやってのけるためには、まさに「他者の考えていることを類推する能力」、すなわち「社会的知性」が必要になる。
 
 自動車の運転、とりわけ日中の運転は、自動車そのものの挙動だけでなく、ガラス越しにドライバー自身の挙動も割と見えるので、他のドライバーの意図を類推する手がかりが豊富にある。ところが現実には、そういった手掛かりを読み取っているドライバーばかりというわけでなく、読み取ろうという意図すら感じられないドライバーも珍しくない。バックミラーをまったく覗いていないとおぼしきドライバーすらいる。
 
 自動車運転は、運転であると同時にコミュニケーションでもある。少なくとも自動車学校で習う「他のドライバーや歩行者への思いやり」や「譲り合いの精神」を実践するためには、歩行者とドライバー、ドライバー同士の間にコミュニケーションや意図の類推が行われなければならない。巧いドライバーは皆、自動車を操ると同時に他者とのコミュニケーションでもある運転という行為をしっかりやってのけている。
 
 ところがディスコミュニケーションなドライバーも結構いたりする。地方の国道沿いで安全な運転を心がけるためには、そういう社会的知性の発露がみられないドライバーを素早く察知し、そういうドライバーの車に特別な注意を払う判断も必要だと感じる。なにせコミュニケーションも意志の類推もきかない相手なのだから、次の挙動の予想のしようがない。予想のしようがないということだけは観察してわかるから、とにかく、遠巻きにするしかない。
 
 週末のショッピングモールへと続く国道を走っている限りでは、存外、社会的知性を発展させていない人が多いのではないかと疑いたくなる。それか、運転中には社会的知性がスリープモードになってしまう人がいるのかもしれない*1。なんにせよ、自動車学校で説かれている理念を実践するのに必要な社会的知性が、週末の国道にはちょっと足りてないように思う。
 
 

帰省ラッシュ時の高速道路もおっかない

 
 帰省ラッシュ時の高速道路でも同じようなことを感じる。高速道路では前後の車やドライバーの挙動にアテンションを回しやすいので、かすかな加減速やハンドルのブレなどからも、他のドライバーの意図を読み取ることができる。勝手な動きをするドライバー、慌てているドライバー、いろいろ気を遣っているドライバー、周りを何もみていないドライバー、様々だ。
 
 帰省ラッシュの高速道路の場合、ふだんは高速道路を走り慣れていなくて、高速道路上のコミュニケーション経験が不足しているドライバーも多いだろうから、ある程度は仕方がない。とはいえ、追い越し車線を遅いスピードでずーーーっと走り続けて、前も後ろも見ていないドライバーには困ってしまう。あのー、後ろがつかえているんですけど、バックミラーついてますかー?
 
 ちなみにドライバーの社会的知性が発揮されているのを見てみたい人には、日曜深夜の高速道路がいいと思う。日曜深夜は高速道路を走り慣れていないドライバーがあまりいない。ドライバーの社会的知性の欠如を見たいなら、週末の、ショッピングモールに向かう国道で十分です。
 
 

*1:この可能性を疑いたくなるのは、自動車というハコに移動するプライベート空間という側面もあるからだ。https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20131003/p1を参照。

「普通の男」を求める人には、恋なんてノイズみたいなもの

 
恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因|minami_it|note
 
 ストレートな文章で、読みごたえがあった。人の願望がこうやって言語化され、しかも長文で読めるのは喜ばしいことだ。はてなブックマーク上ではいろいろなコメントが飛び交っているが、まず、言語化されていることを寿ぎたい。
 
 内容を読み、その後タイトルに戻ってみて、なるほどと腑に落ちるものがあった。
 
 なぜなら、「女子の求める普通」として書かれているリストは、恋以外の何かだったからだ。ここに書かれているリストに近いのは、たぶん婚活だ。
 
 異性のいろいろな属性をリストアップし、そのリストにもとづいてマッチングを行い、合意ができそうな者同士で婚活する。おそらく婚活場面では、ここに記されている「女子の求める普通」リストをすべて満たす男性は高嶺の花だろう。というより婚活市場に出る前に摘まれてしまう男性だ。そのような男性には希少性がある。
 
 しかし恋愛が実は尊いと思っている私にとって、希少か否かは小さな問題でしかない。それより、このリストが恋以外の何かであることのほうが大きな問題だと思う。これは、人に恋する者の考え方ではない。
 
 

「彼女が欲しい男性」に似ている

 
 「恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因」を読み、すぐに私が思い出したのは11年前に書いた以下のブログ記事だ。
 
「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠
 
 このリンク先で取り上げたのは、恋が始まる以前に「彼女が欲しい」と願うロジックが、恋とは違った何かであるように思われたからだ。「彼女が欲しい」男性にとって本当に必要なのは、コミュニケーション能力やらなにやら以前に、「一人の異性に惚れること」ではなかっただろうか。
 
 私には、「恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因」が、ちょうどこれの逆バージョンのようにみえる。恋をはじめるために必要な条件をリストアップしているその考え方が、そもそも恋とは異質な何かだ。このリストは、恋にアプローチするためのものではなく、違う何かにアプローチするためのもので、ひょっとしたら、恋を遠ざける邪魔者ですらあるかもしれない。
 
 「彼女が欲しい」と願う男性は、女性と付き合うために必要な条件を求めてはてな人力検索に質問し、「恋する以前に普通の男がいない」と悩む女性は、女性と付き合うにために必要な条件をリストアップしているわけだから、男女交際に必要な条件を想定し、それが足りないと考えている点は共通している。そしてこの必要な条件を満たしていなければ男女交際はできない、と考えている点も同じだ。
 
 両者はとても似たロジックにもとづいて男女交際のハードルについて考えていると思う──男性が問われる側で、女性が問う側であるという違いがあるだけだ。
 
 個別の男性、個別の女性について考えるのでなく、男性一般に必要とされている条件、女性一般が求める条件を想定しているところも似ている。男性は、男女交際のためにクリアしていなければならない条件を満たそうとし、女性は、男女交際のために男性に求めるべき条件を語っている。個別の男女についてではなく、男性一般を検品したうえで、合格か、不合格かを問うてもいる。この問いの立て方も、一人の人間が別の一人に恋するという現象から、遠いどこかだ。
 
 だから私は、上掲リンク先の「恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因」を読み、恋が始まらない本当の原因は、普通の男がいないことではなく、その男性全般を検品する男性観、個別の恋を求めるとは異なった何かを求めるロジックのほうだと想定せずにはいられなかった。
 
 このように男性一般を検品しても、男女交際じたいは可能だし、結婚も不可能ではないだろう。
 
 だが恋とは、このような検品やリストアップからは遠いどこかであるはずだ。
 
 こんなリストをビリビリに破いて、くしゃくしゃに丸めて、屑籠に捨ててしまうような何かが、恋ではなかったか。
 
 

恋より取引

 
 さきほど私は、「女子の求める普通」に書かれているリストは婚活に似ている、と書いた。人間を検品し、値踏みし、交際可能かどうか判断するのは、売買する商品を検品し、値踏みし、販売可能かどうかを判断する商人のソレに似ている。「彼女が欲しい」の男性も、自分が男女交際にふさわしいかどうかを検品し、商品としての自分に足りないところがあれば補い、商品たろうとつとめている。
 
 男性も女性も、お互いのことを商品だと理解し、商品として売れるのか、買うに値するのかを考えているとしたら、それらは恋ではなく、取引として理解するのがふさわしい。
 
 

恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)

恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)

 
 上掲書の時代からこのかた、恋がなければ男女交際や結婚ができないわけではない。
 
 恋というロマンではなく、取引のためのリストとして考えるなら、くだんの「女子の求める普通」は非常にわかりやすい。商品を検品するまなざしで男性を選んではいけない道理などどこにもない。婚活も、就活も、人間の交換価値や生産価値をディスプレイしあい、合意に基づいた取引を行っているようなものだから、私たちがお互いを商品や生産手段としてまなざすこと自体が批判されるいわれはない。
 
 ただ、それを恋と呼ぶのはどこか違うし、取引のロジックの内側にいて恋が始まらないとぼやくのは筋違いではないかとは思う。
 
 
中二病でも恋がしたい! コンパクト・コレクション Blu-ray

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 恋が恋たるためには、取引のロジックの外側にあるプラスアルファが必要だ。
 
 

恋は取引に敗れた

 
 
 それにしても、恋はどこへ行ってしまったのだろう?

 1990年代ぐらいまで、恋は特別に価値のある体験とみなされていた。恋に恋する人も少なくなく、結婚は、恋愛をとおしてするのが常識だと思っている人も多かった。

 今はたぶんそうではない。
 
 表向き、人々はまだ恋という言葉をありがたがっている。けれどもその内実として、いったいどれだけロマンやパトス、代替不可能性といったものをすかし見ることができるだろうか。内実としては、今日の男女交際はますます取引の度合いを深め、私たちはお互いを値踏みする習慣にますます慣れている。就活も婚活もそうだ。それが当たり前で、コストとベネフィットとリスクにかなった方法だと理解している。
 
 恋より取引。
 
 みんな利口になったともいえるし、みんな余裕が無くなったとも言えるのかもしれない。いずれにせよ、恋が形骸化し、取引のロジックにもとづいた男女交際が行き着く先は、全員が婚活アプリに登録し、全員がAIによって交換価値や生産価値を算定され、自動的にマッチングがなされる未来だろう。それが一番効率的で、一番経済的で、一番公平だろうからだ。そして男性も女性も、今日の就活よろしく、全員が婚活アプリにかなった交換価値や生産価値を身に付けるようになっていく。この趨勢が続くなら、そういう未来が来てもちっともおかしくない。
 
 恋は取引に敗れつつある。
 いや、もう敗れたのだろう。
 
 取引のロジック、資本主義のロジックが透徹したこの時代には、ロマンやパトスなんて、社会適応のノイズみたいなものなのかもしれない。
 
 

駅チカに、効率至上主義なブルジョワの夢を見る

 
 
 
タワーマンションと駅徒歩何分のお話 - novtanの日常
 
 
 リンク先の文章を読んで、駅徒歩数分といった、いわゆる「駅チカ」と呼ばれる住まいの魅力を私はかえって理解したような気がした。駅チカ、都会生活に最適化されている人には非常に魅力的な住まいなんじゃないだろうか。
 
 リンク先のNOV1975さんは、以下のようにおっしゃる。

駅直結のタワーマンションで云々、という広告を見るたびに「へー誰が住むんだろうね」という感想をみんなで漏らしながら、その街の良さはどこだったろうと心を巡らすのだ。
言ってみれば、駅徒歩何分にこだわるということは、都会の忙しさに直結する住まいを選択するということにほかならないのではないか。魂を都会というものに縛られている。

 
 ここでいう「都会の忙しさに直結する住まい」とは、都会の忙しさに最適化した住まい、と言い換えることができる。ここでいう都会の忙しさの正体は、時間とお金のコストパフォーマンスや効率性だ。
 
 「時は金なり。」という言葉が流通しはじめたのは、フランドル地方の商業者の間でだったという。確か、プロテスタントな第三身分(ブルジョワ)だったと記憶している。いち早く時計が普及し、時間を節約し生産性を向上させるブルジョワ的ライフスタイルが生まれた頃に「時は金なり。」という言葉ができあがった。
 
 

技術と文明 (1972年)

技術と文明 (1972年)

 
 
 駅チカとは、「時は金なり。」を地でいく住まいだ。通勤の時間を最小化するための住まい。駅にフィットネスジムやスーパーマーケットが併設されていれば、最小限の時間で、生活のたいていのことが間に合う。駅チカの眼目は「その街の良さ」ではなく、効率性と生産性の向上を採ること、つまりブルジョワ的ライフスタイルの忠実な実行にあるのではないか。
 
 
 また、上掲リンク先に対して、「不動産屋のラノベ読み」のLhankor_Mhyさんは以下のようなブックマークコメントを付けている。
 
タワーマンションと駅徒歩何分のお話 - novtanの日常

居住性以外のものを見てるからだと思う。駅近だとリセールバリューが高く、賃貸相場も高いので、資産価値を考えると駅徒歩は重要視せざるを得ない。30歳で築10年のマンションを買うと、70歳で築50年。どうしても、リセ

2019/10/16 18:56
b.hatena.ne.jp
 
 駅チカの住まいはリセールバリューも高く賃貸相場も高いのだという。
 不動産屋さんがおっしゃっているのだから、そうに違いない。
 
 住まいの資産価値を云々し、機を見て売却するという発想もきわめてブルジョワ的だ。機を見て売却するということは、「その街の良さ」という要素はブルジョワ的な駅チカ族──いや、世間にならって空中族と言うべきか──にはなさそうである。
 
 仕事や生活にかかる時間的コストを効率化し、住まい自体のリセールバリューや賃貸相場に目配りするような人々とは、都会の忙しさに最適化した人々であり、とどのつまり、資本主義に最適化したライフスタイルと感性を持った人々なのだと思う。少なくとも、そのような人々になら駅チカの住まいは魅力的とうつるに違いない。彼らが重視しているのは「その街の魅力や愛着」などではなく「効率性と生産性と資産価値」なのだろうから。
 
 
 

ホモ・エコノミクス的・ブルジョワ的な住まい

 
 
 駅チカな住まいのブルジョワ的な特徴を簡単にまとめてみる。
 
 

  • 単位時間あたりの生産性の高さ。通勤、旅行、買い物、その他暮らしのあらゆるものの時間効率性が高い。時間効率性が高いということは、現代人にとって経済生産性が高いこととほぼ同義。移動時間を省くことで、余剰時間をつくりだし余剰生産性を獲得することができる。

 

  • 物件そのもののリセールバリューや賃貸相場の高さ。住まいそのものに資産としての価値を期待できる。土地への愛着など意に介さないなら売り抜けることさえ可能かもしれない。

 

  • プライベートとセキュリティを重視した住まい。盗みに入られないだけでなく、生活する個々人のプライバシーやプライベートが守られる。詳しいことは別の機会にゆずるが、ブルジョワ的なライフスタイルとプライバシーには密接な関係があり、原則として、ブルジョワ的なライフスタイルを採用する人ほどプライバシーの保たれた生活が必要になる。

 
 駅から遠い旧来の住まいでは、これらの特徴はここまで徹底されていない。逆に、駅チカではこれらの特徴が徹底されている。ブルジョワ的なライフスタイルを徹底させたい人なら、土地への愛着よりもお金や生産性への愛着のほうが深かろうから、駅チカを選び、あわよくば空中族になってやろうと望んだりもするだろう。
 
 これは、街への愛着とは正反対のライフスタイルと生存哲学だ。駅チカに魅力を感じるような人は、すすんで魂を都会に差し出しているのだ、いや、魂を資本主義に差し出していると言ってもいいのかもしれない。ある人にとって最適とは思えない選択が、別の人にとって最適かつ魅力的な選択にみえることがあるのが世の中なので、駅チカでどんどん資本主義的な生活を極めていく人もいれば、駅から距離を取り、住まいへの愛着というちょっとノスタルジックな生活を続けていく人もいるのだろう、と思う。
 
 
 

子どもはホモ・エコノミクスとして生まれてこない。

 
 
 ただ、注意を喚起するに値することはある:たいていの駅チカは、子育てに最適化されているとは思えない点だ。
 

タワーマンションと駅徒歩何分のお話 - novtanの日常

子育て入ると交通量の多い駅近は避けたくなる。公園・小学校・お気に入りのチェーンのスーパーからの近さ重視かな。

2019/10/17 08:48
b.hatena.ne.jp
 
 望ましい駅チカの物件には、フィットネスジムやスーパーが併設されていることもあり、そういった点ではあてになるとしても、子育てに最適化されているかといったら、そうは思えない。子どもは最初からホモ・エコノミクスやブルジョワとして生まれてくるのでなく、現代社会の習慣や通念に曝されて少しずつホモ・エコノミクスやブルジョワとして成長していくのだから、駅チカ最大の利点である「(電車での)移動時間が短い」というメリットを子どもは十分に生かせない。子どもが学校や公園に気軽に行けるような駅チカともなると、それはもう、首都圏中枢からほど遠い、リセールバリューのあまり高くない住まいになってしまいそうだ。
 
 言ってしまえば、空中族などという生き方じたい、成人の生産性や経済合理性に最適化されているのであって、子育てに最適化されているものではない。だから子育てに適していないとしても些末なことなのかもしれない。駅チカの多くはゆっくり子育てするのに向かない住まいだろうけれども、ゆっくり子育てをするという行為じたい、成人の生産性や経済合理性にそもそも適っていない。
 
 いまどきは、猫も杓子もコストパフォーマンスで、生産性といった言葉が金科玉条のようにありがたがれる時代だから、駅チカに夢をみる人は割と少なくないと思う。コストパフォーマンスや生産性を追求することに美意識すら見出すような真性のブルジョワならば尚更だ。まだまだ駅チカはありがたがられ、物件は増えていきそうだ。