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さすが。ぞくぞくする感想でした。
『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』を視聴した人の多くは、多かれ少なかれ、id:orangestarさんに近い感想も抱いたのではないかと思います。でも、ここまで言語化できる人はめったにいないんじゃないでしょうか。
「マクギリスは、秩序を知らないから、秩序と暴力の関係を読み損なった」とは、まったくそのとおりだと思います。なるほど、そういう風に言語化できるわけですか。
私は『鉄血のオルフェンズ』の感想をまとめようか迷っていましたが(今、いろいろ忙しい)、触発されて、自分の『鉄血のオルフェンズ』観を書き残したくなってしまいました。、時間が許す範囲で、orangestarさんへの私信として並べてみます。
素晴らしい骨格のストーリーと、肉付きが貧弱だった終盤の演出
まず、これを書きだしておかないと先に進めそうにないので、書いてしまっておきます。
『鉄血のオルフェンズ』を、私は傑作と評することはできません。ただ、ここでいう「傑作」とは、セールス良好で、みんなの話題と記憶に残るような作品になる、という意味です。この視点で言うと、『Vガンダム』『ガンダムF91』といった、一部の愛好家に熱烈に愛される作品は「傑作」に含まれません。もちろん『TV版の新世紀エヴァンゲリオン』も「傑作」に含まれず、どちらかというと『けものフレンズ』や『魔法少女まどかマギカTV版』あたりのほうが「傑作」という認識です。
私は、『鉄血のオルフェンズ』のストーリーラインと、それを貫く大原則を愛していました。
人間は、それぞれの所与の手札や立場のなかで最善を尽くして生きている。でも、生きるために行った所業は、因縁やカルマとなって蓄積し、それぞれの手札や立場に応じたかたちで、自分自身に返ってくる。クーデリアはそうやって自分自身の進退を定めていったし、それは、鉄華団の面々もマクギリスも同じでした。その、進退のコントロールというか、因縁やカルマの社会化というか、そういった手つきに関しては、クーデリアが頭一つ抜けていて、蒔苗先生に後継者と目されるだけのことはあったと思います。このあたり、orangestarさんが仰っているように、クーデリアと鉄華団のコントラストはくっきりしていたし、マクギリスとのコントラストもくっきりしていたと思います。
だから私は、クーデリアは“育ちがいいな”と思いました。因縁やカルマを背負ってマニピュレートする立場の家系に生まれた娘だけのことはあるな、といいますか。イオク様も、この点では良い線行ってたと思います。彼は無能でしたが、“育ちの良さ”によって身に付いた精神性によって、あれだけ無能でも部下に慕われていました。封建的な組織において、人の上に立ち、人に死ねと命令する立場に必要な精神性や物腰を、いつの間にか身に付けていたというか。
私にとってオルフェンズの怪しい魅力のひとつは、「因縁やカルマの蓄積が、手札や立場に応じたかたちで」蓄積していくという不平等感でした。ところが、それはあくまで原則でしかないんですよね。手札が良く、立場が高くても、序盤に鉄華団に挽かれた人達やカルタ・イシューのように、因業覚悟で突っ込んでくる連中の一刺しでちゃんと死ぬんですよね。イオク様が、最後の最後に巡り合わせに挟まれて死ぬのも、そういう感じがして楽しかったです。
あと、三日月にくっついていたハッシュが無意味に死ぬの、ご指摘のとおり素晴らしいですね。そういうこともあるのが鉄血世界なんですね。後述する理由で、私はその素晴らしさに気づき損ねましたが。
とにかく、原則性を背負いながら鉄華団が立ち上がり、人が死ぬたびに(そして殺すたびに)因業を抱えて重くなっていくのをニヤニヤしながら私は見ていました。不自由になっていく三日月の身体は、鉄華団が支払った代償と、背負った因業のバロメータとしてふさわしいものでした。
そして私の期待どおり、鉄華団は栄華から一転、反逆者に転落し、オルガは死ぬべくして死んで、三日月も死にました。最高です。ガンダムの新機軸です。アトラと暁が残り、クーデリア達が世界を引き継ぎ、死んでいった者達の因業を最も良いかたちで描いたエピローグは、これ以上ない着地点だと私は感じました。
だから、ストーリーとか原則性っていう点では『鉄血のオルフェンズ』は本当に素晴しかったんだけど、終盤になって、そのストーリーを見せるための手つきが雑になったのが私は気になりました。
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #48「約束」感想 - たこわさ
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #49「マクギリス・ファリド」感想 - たこわさ
上記リンク先はちょっと辛口かもしれませんが、視聴当時、私も似たような感想を持ちました。なるほど、鉄華団は追いつめられなければならなかっただろうし、人は死ななければならなかったでしょう。オルガの死も、ほとんどの視聴者が覚悟していたはず。
でも、重要人物がアッサリと死んでいって、それで、物語がちゃんと盛り上がっていたでしょうか。
私は、この48話と49話を観ていた二週間、かなり苛立っていました。制作側が「どんな物語をやりたいのか」は伝わってくる。けれども「どう物語を魅せたいのか」が伝わってこない。キャラクター達の死亡フラグ管理は整然としているけれども、その死に、説得力が伴っていない。そんな説得力不在の物語のきわみに、オルガのあっさり風味な銃撃があったと私は感じました。なんだよ、オルガまでこんなにぞんざいな手つきで殺しちまうのか、と。
ハッシュの死に関しても、私はorangestarさんに指摘されてはじめて「なるほど」と思いましたが、視聴当時は全くそんな事は考えられませんでした。なぜなら、次々に、アッサリと(単に無意味に、ではなくアッサリと!)死んでいくキャラクター達の死に紛れていたから、気づかなかったのです。「あ、ハッシュもあっさり逝かせたか。ひでえなあ」ぐらいしか思いませんでした*1。
鉄華団が追い詰められていく、歌謡曲で言うなら「サビ」に相当する場面で、肉付きの良いドラマツルギーが伴っていなかった、と感じたわけです。第一期の終盤や名瀬の兄貴が死んでいく場面では、しっかりとドラマツルギーの握り拳が利いていたし、モビルアーマー復活の際にもラミネート装甲とビーム不在のギミックが明かされるぐらい気が利いていたので、なおのこと肉付きが乏しいと感じられました。これまで、あれだけ魅せてくれたのに、いよいよ鉄華団が散って行くという肝心な時に、どうして『ガンダムAGE』のごとく淡々と物語を進めてしまうのか?! そのことが、私には大変悔しく、食い足りないように感じられました。
マクギリスの顛末も、終わってしまえば「野良犬が、野良犬らしい最期を迎えた」の一言に尽きるし、この作品の原則性とも矛盾しないのですが、このマクギリスの立ち回りも、後半3話はあっさりし過ぎていました。ガンダムバエルがお飾りとして描かれたことも相まって、マクギリスはかわいそうな野良犬以上でも以下でもない落着点に辿り着きました。ちょっと古い表現で恐縮ですが、『ガンダムZZ』のマシュマー・セロとたいして変わらない討死をしたように思います。視聴時点において、マクギリスの死に対する私の感想は「もっと、重要キャラクターらしく死ね」でした。野良犬なら野良犬なりに、もっと頑張って欲しかった。
一気に視聴されたorangestarさんには、こうした問題点が目につきにくかったのかもしれません。が、毎週テレビに釘付けになっていた身には、終盤のスカスカ感というか、ドラマツルギーの欠乏状態は堪えました。感覚としては、以下のリンク先の作品にあったような欠乏感に近いといいますか。
[関連]:『俺の妹はこんなに可愛いわけがない』は恋愛を描ききれなかった - シロクマの屑籠
[関連]:ある三十代ガノタによるガンダムAGEの感想、または感傷 - シロクマの屑籠
そう、この作品はどこもここもこうなのだ。話の構図、戦闘の転帰、どれもハッキリしすぎていて、予想もしやすい。いや、予想のしやすさ自体は、必ずしも罪ではない。しかし、死亡フラグが立った人間の予測された死までのプロセスを「消化試合」と取られてしまうのか、それとも「ベタだけど凄かった」と評価されるのかは常に問われるところなわけで、残念ながら、ガンダムAGEのソレは「消化試合」と取られやすい、粗さが目立っていたと思う。「先読みのしやすさ」を説得力に化学変化させていくためのディテールを欠いていた、というか…。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20121005/p1
一気に視聴するのと毎週一話ずつ視聴するのでは、見え方が違うので、これはどちらが正しいとかそういう話ではありません。むしろ、新たに『鉄血のオルフェンズ』を見る人は、orangestarさんに近い感想を持つのかもしれません。ただ、中盤ならともかく、終盤になって、急にドラマツルギーの肉付きがガクッと削げ落ちるのは、「傑作」と言われる作品にはあってはならないことだと思います。あるいは、ドラマツルギーの肉付きの欠如を補うような、ストーリーをねじ伏せる怪物じみた力が欲しかった。
「ガンダム」である必要はあったのか
で、ストーリーをねじ伏せる怪物じみた力が、終盤のガンダムバルバトスやガンダムバエルには無かったんですよね。
orangestarさんは、「これまでのガンダムと違うものを作った」ことを評価されていますが、私は、この作品のガンダム達のふがいなさには落胆しました。いや、スペースヤクザな点とか、実弾-装甲主義とか、いろいろと冒険をされている点には感服するほかないのですが。
でも、「ガンダムにはガンダムであって欲しい」と、私は思ったんですよ。
歴代のガンダムには、ストーリーをねじ伏せるジョーカーのような力がありました。最近だと『ガンダムUC』のユニコーンガンダム&バンシーなどが典型的ですが、おいおい、そこまでやるのかよ、という強引さがあってナンボのガンダムだと、少なからぬ視聴者は期待したのではないかと思います。
でもって、「鉄血のオルフェンズ」にも、そういう場面はあるんですよね。第一期の最終話、三日月が無茶をやることで、ガンダムバルバトスは素晴らしい活躍をみせました。文字どおり、ガンダムが血路を開いた格好です。これは、今までのガンダム作品におけるガンダムの描き方と遠くありません。
火星のモビルアーマー退治の時もそうです。ああ、まさにガンダムだ、ガンダムが局面をつくっていく、と胸を弾ませて見ていました。それに感化されたジュリエッタが人間性を見失いかけていくのも、いかにもガンダムらしくて似つかわしい。
もし、これらの場面が無かったら、私も、終盤のガンダムの鳴かず飛ばずに納得していたかもしれません。
ところが終盤において、ガンダムバルバトスも、ガンダムバエルも、「これが、ガンダムの力だ!」というものを魅せてくれませんでした。やだー、こないだまで頑張ってたじゃないですかー!
終盤のガンダムバルバトスは善戦していたけれども、ただ善戦していたに過ぎず、局面をつくるには至りませんでした。で、体よく討たれて「悪魔のガンダム」ですよ。
ガンダムバルバトスが「悪魔のガンダム」として討たれる場面は、本当はもっと劇的でなければならないのに、と私は思いました。なにせ、主人公の乗るガンダムが、悪魔として討ち取られるほどの場面なのですよ?ジュリエッタがバルバトスの首級をあげるシーンは、それ自体はよくできていたけれども、三日月とガンダムバルバトスが終盤に何も活きなかったので、もったいないと感じました。
三日月とバルバトスが運命に流されて処分されていったこと自体は、ストーリーの整合性や原則性には合致しています。けれども、ガンダムという作品におけるガンダム主人公としての役割としては、納得のいくものではない――私は、そう感じました。
ガンダムバエルにしてもそうです。
ギャラルホルンの権威の象徴だというのはわかる。わかるんだけど、あんただってガンダムだろ、それも、一番のガンダムでしょう、だったら何かやってくれよ、と思った視聴者は、私だけではなかったように見受けられました。
歴代のガンダムなら、終盤ともなれば、インチキで理不尽な力のひとつやふたつ見せつけて、ストーリーをかき回すものです。『ガンダムUC』はちょっとやり過ぎでしたが、でも、『ガンダムUC』を作った人達は、ガンダムのなんたるかを理解して終盤を描いたのだと思います。
こういった諸々は、「ガンダム」の名を冠していない作品だったら気にすべきではないのですが、この作品は「ガンダム」と銘打たれていたわけで、私は、ガンダムという存在に終盤をかき回して貰いたかった。それと、これは邪念かもしれませんが、こんなんじゃガンプラが売れないじゃないですか。ガンプラを売るためには、ガンダムが活躍して、視聴者を魅了しなければなりません。にも関わらず、ガンダムバルバトスは獣のように狩られて、ガンダムバエルは良いところがありませんでした。ガンプラを商う気の無いガンダムとは、本当にガンダムなんでしょうか?
ガンダムバルバトスは、歴代のガンダムに比べるとサイコガンダム寄りというか、三日月の身体機能を蝕んでいくのも本作品の原則性に一致していて、とても楽しいモビルスーツでした。それが、同じくサイコなアインを仕留めた25話は、私にはとても楽しかった。だったら、それと同等以上の何かを終盤にみせてくれなければ、竜頭蛇尾になっちゃうじゃないですか。
そう、ガンダムの活躍にしても、鉄華団が散って行くプロセスにしても、二期は全体的に「竜頭蛇尾」だったように思います。かろうじて、戦後の描写で失点を取り戻した感はあったけれども、こと、ガンダムの活躍と男達が散って行く過程のドラマツルギーに関しては、疑問を禁じ得ないものでした。もったいない!
でも、楽しみましたよオルフェンズ
そうは言っても、私は『鉄血のオルフェンズ』を楽しみました。だからこんなに感想を書きたくなるんでしょう。以下、細々としたことを。
・スペースヤクザなガンダムという構図は素直に楽しめた。そうか、路上でパイロットが銃撃されて死ぬのかと、感心した。この点と、オルガ&三日月の死が約束されているストーリーが、『鉄血のオルフェンズ』の新機軸だと思っていた。
・私は人型ロボット兵器が実弾武器主体で戦うのはさほど好みではない。けれども、この作品において、実弾をメインに据えるための説得力は感じられた。宇宙艦のデザインとかも含めて。モビルアーマーのビームをモビルスーツの装甲が弾いた描写は、白眉。
・でも、あのビーム兵器を見た時に「ああ、俺ってビーム兵器やレーザー兵器が好きなんだなぁ」と思い知った。ちなみに私は大学生ぐらいまではビーム兵器が好きで、その後しばらくだけ実弾兵器万歳になって、歳を取るにつれて、再びビーム兵器万歳に戻った。個人の感想です。すみません。
・orangestarさんが書いたように、クーデリアが一番たくさん人を殺したのだと思う。たぶん、これからもそう。そのかわり、クーデリアが一番たくさんの人を救う。そうやってクーデリアは「老人」になっていくのでしょう。にも関わらず、クーデリアは因業を手懐けながら、人を使う立場として屹立していて、人間をやめてもいない。マクギリスには無いものをことごとく持った人だと思う。英雄だ。
・同じ野良犬でも、誰も信じず誰も寄せ付けず一人で暴走して自滅したマクギリスと、皆で寄り集まって暴走して行き詰まった鉄華団、この両者のコントラストも割と面白かった。正直、マクギリスがここまで不器用に振る舞うとは想像していなかった。いや、不器用だからこそ、ああするしかなかったわけか。
・イオク様が生存するのか死ぬのか、最期までドキドキした。私は「イオク様は生き残って名君になる」にチップを賭けていたが、因業が巡ってきてサンドイッチになった時には、なぜか笑いがこみあげてきた。なんだろう、とにかくイオク様は良いキャラクターだったと思う。最期まで憎めない馬鹿者だった。
・ジュリエッタはいいキャラクターだった。彼女がいなかったら、イオク様周辺は寂しかっただろう。三日月とガンダムに引き込まれて、人間やめそうになるのも良かった。ちなみに昔の冨野ガンダムだったら、彼女は確実に死んでいたように思う。
・というか、ジュリエッタに限らず、この作品の女性キャラクターはみんな魅力的だった。男性キャラクターもだいたい魅力的だった。
・なかでも、名瀬の兄貴はまさに兄貴だった。この人も、死ぬしか無さそうな雰囲気を漂わせていたが、折り目正しく死んだ。兄貴~!!
・ガエリオは、良い奴だった。彼の成長物語としてのオルフェンズ。なるほど、『鉄血のオルフェンズ』は群像劇というのはそうだと思う。イオク様の愚直さもそうだが、ガエリオの甘さが欠点として描かれるだけでなく、彼の持ち味としても描かれる(そして、野良犬連中にはそれが無い!)のは、とても良かった。こういうところは、びっくりするほど凝っていたと思う。
・戦後描写にアルミリアが登場しないのはちょっと気になった。大丈夫なんだろうか。ガエリオは気にしている様子は無かったが……。
・orangestarさんが詳述しているが、葬儀や教育も含め、鉄華団に文化がもたらされていくプロセスは味わい深いものだった。なるほど、ヒューマンデブリがデブリであるゆえんは、彼らが文化を持たず、歴史を紡がない(紡げない)ことによるのか。鉄華団は消失しても、アトラと暁は残り、歴史は紡がれていく。終わり際、鉄華団のお墓が出てきたカットには感激した。
そろそろ時間切れなのでやめますが、私は、『鉄血のオルフェンズ』は傑作になり損なった意欲作だと思いました。orangestarさんのような、感受性の強い人が一気に視聴すればバッチリだろうけど、これじゃあガンプラもブルーレイも売れないだろうなぁ、と。でも、ガンダムシリーズってそういう作品が多いし、円満な傑作である必要は無いので、これはこれで良かったのかな、と思います。なにより、こんなセールスの悪そうなガンダムを、日曜の5時に長々と放送してくれたこと自体、眼福と言わざるを得ません。
なんか、まだ書き足りないのでもう一度視聴したいところですが、現在多忙につき、諦めようと思います。orangestarさん、楽しい感想ありがとうございました。おかげで、2時間ほどキーボード叩いてしまいましたよ。ぼくのだいすきなジュリエッタちゃんが幸せになりますように。
*1:しかし、よく考えると、ハッシュの野心って、戦後世界には要らないですよね。そういう意味では「処分」されてもおかしくはなかったわけですかね