zuisho.hatenadiary.jp
ズイショさん、こんにちは。文章拝見しました。
「子は意味もなく生まれるし、人は、意味にとらわれず生きたっていい」「他人に宿命づけられてたまるか」「世界にいる意味は、自分自身で見つけりゃいい」といった主旨だと、ここでは捉えることにしました。
もし、個人が人工孵化装置から生まれてきて、その段階で一人の人間として・一人の判断主体として世間に立っていられるのなら、これは完璧なオピニオンです。他人に勝手に生きる意味を押し付けられるのは、とりわけ個人主義に馴染んだ私達にとって、嫌なことですからね。
ただ、私自身が子育てに本格的にエネルギーや時間やお金を費やしてみてからは、それだけでもないな、と思うようになりました。
そのあたりについて、ズイショさんへの反論というより、たぶん、似たようなテーマを少し違った角度から記してみたくなったので、書き連ねてみます。
現代日本に「意味もなく生まれてくる子ども」はどれぐらいいるのか
まず、私が考えたのは「子は意味もなく生まれる」なんて状況が現代社会に一体どれぐらいあるのか、という点でした。
たしかに、遠い昔の農村では、子どもは意味もなく生まれてくるものだったのかもしれません。「子どもは天からの授かりもの」で「七つ前までは神のうち」と言ったとおり、子どもが生まれるのも、成長するのも、割とあやふやでした。江戸期あたりになるとバースコントロールの発想があったとはいいますが、現代社会ほど徹底していたわけではありません。
子どもが生まれる/生まれないは、親の意識的な選択、ましてや戦略的な選択ではあまりなかったでしょう。
それに比べると、現代社会の親は、バースコントロールや家族計画を徹底させるのが常です。
乳児死亡率が低下し、不妊治療や中絶や避妊技術などが浸透した結果、子どもは、戦略的に「つくる」ものになりました。親にとって必要な時に、必要なだけ子どもを「つくる」――つまり、子どもが生まれるという自然現象に、親の意志を介在させるためのテクノロジーが食い込んでしまったんですよね。そして、そのようなテクノロジーの使用を現代社会は悪いものとみなしていません。
このような社会では、ほとんどの子どもは「親の意志の介在のもとで」「つくられます」。子どもは「授かる」ものである以上に「つくられる」ものになりました。もちろん、不妊治療などの領域では「授かりもの」的な要素が残っていますが。ともかく、子どもが親の意志や戦略性にもとづいてもうけられるようになったってのは、すごく重要な変化だと思います。
親の意志や戦略性が子どもの誕生に反映されてるってことは、「子どもは意味もなく生まれる」のでなく「子どもは親にとってなんらか有意味な意志や戦略性にもとづいて生まれる」ってことですし、少なくとも誕生の段階では、子どもは親の意味や意志を背負って生まれてきている、ってことです*1。
思春期以降の個人にとって、意味とは、自分自身の手中であらねばならないし、宿命も、自分で自分が見出すものでしょう。でも、生まれて間もない頃~物心つくまでは、意味も宿命も、まずは親の手中にあって、親だけが意識した状態から始まるのだと思います。
子育てに熱心な親が、子どもの成長に意味を見出さないことは可能か
さて、子どもが親にとって意味ある存在として生まれてきた後、親は、子育てを通じてますます子どもに意味を見出していきます。いや、ズイショさんの表現に沿うなら「子どもに意味を背負わせてしまう」というべきでしょうか。
子どもを熱心に育てるのは、骨の折れる、掛け金のかかった行動です。語弊があるかもしれませんが、「コストのかかる行動」と言っても良いでしょう。時間、情熱、体力、お金――子育ては多くのコストを必要とします。子育てに熱心に取り組んでいる親ほど、そうでしょう。
さて、人間は欲深い存在なので、コストをたくさんかけたものには執着が生じます。これは、子育てに限ったことではありません。何十年も続けてきた趣味。何十年もローンを支払って手に入れたマイホーム。おこづかいを貯めて買ったハイエンドゲーム機。どれも、苦労してコストを費やしてきたがゆえに、執着せずにいられません。そして、意味も見出さずにはいられないのです。
たとえばですが、ある高校生がおこづかいを一年分貯めて買ったハイエンドなゲーム機が、鳴かず飛ばずだったとしましょう。セガのメガドライブとか、セガのドリームキャストとか、そういったゲーム機を想像してください。そうやって苦労してコストを支払ったゲーム機が鳴かず飛ばずだったとして、無意味な買い物だったと割り切れる高校生はあまりいないのではないでしょうか。きっとその高校生は、メガドライブのことをクソゲームハードとは思わず、「メガドライブで良かった、スーパーファミコンを選ばなかった俺の選択は有意味だった」とか言い始めるでしょう。あるいは意味を無理にでも探し始めるでしょう。
なお、名誉のために断っておきますが、メガドライブは、あれはあれでハイエンドゲーム機でしたよ。私が言うんだから間違いありません。実際、『アドバンスド大戦略』『ヘルツォーグ・ツヴァイ』ほか、良いゲームがいっぱいありますからね……。
話を戻します。
でもって、子育てには物凄いコストがかかります。ぶっちゃけ、人生の相当部分を賭けることになるでしょう。そのような対象である子どもに、意味を見出さずに子育てできる親なんて、滅多にいないのではないでしょうか。
「親が子どもに意味を見出してしまう」と書くと、子どもをまだ育てていない人、とりわけ親ウゼーとか思っている人には、傍迷惑な話にみえるかもしれません。「親は子育てに意味なんか見出すんじゃねー。」「俺は俺で、お前はお前だ。」「親の過干渉が子どもを駄目にするんだ、過干渉型の毒親をみてみろ」はい、それら自体は間違っていません、特に思春期の人がそう主張するのは、親離れ/子離れに必要なことです。あなた達は何も間違っていません。
他方で、「親が子どもに意味を見出す」って悪いことばかりでもないと思うんですよ。
子どもにコストを熱心に投下すると、親は子どもに意味を見出さずにいられなくなる、と私は書きましたが、逆もまた然りではないでしょうか;つまり、親が子どもになんらかの意味を見出すからこそ、親は子どもに熱心にコストを投下する、それで時間や情熱や体力やお金をかけられるって部分もあるんじゃないでしょうか。
両方あわせて表現するなら、「親が子どもにコストを投下する」ことと「親が子どもに意味を見出すこと」がシンクロする、といったところですかね。
正反対に、親が子どもに意味を見出せない場合を考えてみてください。子どもに意味を見いだせない親が、子育てに時間や情熱や体力やお金を費やすのは、きっと不可能です。ワインに意味も興味も持たない人がロマネ・コンティや五大シャトーのワインを買うのと同じかそれ以上に難しい*2。いわゆるネグレクトの問題の相当部分も、あれは、親が子どもに意味を見いだせてないからだと思うんですよ。子どもに執着して、子どもに意味を見出していれば、少なくともネグレクトというかたちはとらないはず。
それでも、親が子どもに意味を見出すのは、思春期的な立ち位置からみれば傍迷惑なことで断罪の対象となるでしょう。そして、親という立場は、子どもからそのような断罪を受けたとしても、反論できない立場ではあります。けれども、親が子育てに本格的にコストを費やし続けるためのモチベーション源として、「子どもに意味を見出す」ってのは必要なことでもあると思うんです。このあたりは、思春期以降の「誰にも人生を邪魔されずに俺は俺の生きる意味を見出す」的な感覚に慣れていると見逃しやすいところかもしれませんが(私は見逃していました)、いざ育てる側に回ってみてモチベーションとコストの調和について考えると、コストをしっかり支払いながら子育てに意味を見出さずに過ごすのは、超人芸だと思わずにいられないです。
「親が子どもに意味を見出す」と「子どもの自由な意味づけ」の両立
むろん、親が子どもに意味を見出すのをさせるがままにしておけば良いわけでもありません。
親が子どもに人生の敗者復活戦を担わせ、やれ高学歴だ、やれプロスポーツだと、勝手に意味付けのゴリ押しをした挙句に子どもがパンクしてしまった、なんて事例はいくらでもあります。いや、極端な事例でなくても、たとえば「我が子には健康であって欲しい」――こんな当たり前っぽい親の願いですら、ときには子どもを磨り潰してしまうかもしれないと思うのです。
だから、親が子どもに意味を見出し過ぎてこじれる状態ってのは「親が子どもにどういう(what)意味づけをしているのか」だけでなく「親が子どもにどんな風に(how)意味づけをしているのか」の両方によって起こるのだと思います。それ以外にも、親が子どもに意味づけしている内容と、等身大の子どもの素養とのギャップも問題かもしれません。ここに、発達障害的な問題が挟まると、話はもっとややこしくなると思われます。
じゃあ、この問題は一体どうすれば良いのでしょうか?
・親のコスト投下や意味づけが、一人の子どもに一点集中しないようにすること。子沢山でコストも意味もたくさんのきょうだいに分散するも良し、仕事や趣味といった他のジャンルをきちんと維持するも良し。
・子どもをよく見て、子どもに合わない意味づけは避けること。
・子ども自身の意志の芽生えに敏感であること。
・意志の芽生えの程度にあわせて、親子の心理的な間合いを少しずつ広げていくこと。子どもが大学生になっても小学生時と同じぐらいの間合いのままで、密着してお世話しているようでは、親も苦しいが子どもも苦しい。
・言い換えると、年齢に合わせて「意味づけ」の主体を親から子ども自身へ段階的に譲渡していくこと。
他にも色々ありそうですが、ここらへんがメインの柱になるのかなとは思います。
はじめにも書きましたが、私がここで書いていることは、ズイショさんがリンク先で書いていることを否定するものでも反論するものでもありません。正反対のように読めてしまう人もいるでしょうけど、そういうつもりではなく、物事の二つの側面を並べているつもりでいます。
で、こうやって二つの側面を並べて思うに、一見、矛盾しているようにもにみえる視点を両方抱えて調和させることが、子育てにはあったほうがいいのだと思います。そして子どもの年齢・意識・認知機能の変化に伴って、調整していかなければならないのでしょう。
エリクソンの発達課題の話なども、「矛盾しているようにもみえる視点を両方抱えて調和させる」って視点でみない限り、なんだかわけがわからないでしょう。そういう視点で見る・実践するのは潔癖な人にはテクニカルかもしれませんが、それでも必要なことではないかと思います。
バテてきたので、今日はこのへんで終わりにします。
- 作者: エリク・H・エリクソン,仁科弥生
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1977/05/30
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (5件) を見る