シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ある研修医が見た就職氷河期の記憶

 
 芽吹いてきた新緑を眺めていて、ふと、昔話がしたくなった。
 別に珍しい話ではない。
 一人の研修医から見た、就職氷河期当時の思い出話についてだ。
 
 
 1.
 私が研修医になる前から、それは始まりかけていた。私は医学部にこもりっきりなのが性に合わなくて、他学部の学生がたむろしている場所に好んで出入りしていた。そこで出会った他学部の先輩たちが「就職活動が大変だよ」と言っているのを耳にしたりもしていた。とはいえ1994年度、1995年度に卒業した他学部の先輩がたの就職先はなかなかのものだった。ゲームと登山に熱狂して留年しまくっていた先輩が、大手自動車メーカーに入社できた話を聞いた時はびっくりした。あのゲームばかりやって山ばかり登っている先輩ですら大手自動車メーカーに入社できる。そういう希望があった。
 
 1996年。1997年。
 この頃から様子がおかしくなってきた。私と同学年に相当する彼らは就職活動に苦戦していた。百社以上を回ってようやく内定獲得。内定が出ないから大学院に進学。そういった話が間近になってきた。今から振り返ってみれば「就職できないから大学院に進学する」とはハイリスクなルートに思えるのだけど、もちろん彼らはまだそのことを知らなかった。
 
 どうにか内定を獲得した同学年たちのホッとした表情。どうにも内定を獲得できない同学年たちの焦燥。なんともいえない曖昧な笑み。それでもゲーセンはたむろの場であり、たむろの場は社交の場だった。私は六年制学部の学生だったから、「就職活動という問題系」について十分に考えておらず、それらが意味するものも理解していなかった。当時の私には、就職についての問題は形而上学的な何かでしかなった。あるいは今でもそうなのかもしれない。
 
 
 2.
 1999年。研修医になって最初の一年は忙しくて、周りのことなど見ていられなかった。当時の研修医の年収はおよそ400万ぐらい、大学病院勤務による収入が3割ぐらいで残りは「いわゆるバイト」というやつで、大学関連病院のお手伝いの報酬としていただくものだった。もらったお金は医学書の購入以外にはほとんど使っていなかった。何かに使う暇が無かったからだ。
 
 2000年。研修医の生活にもいくらか慣れ、時間の合間に人に会うチャンスをつくれるようになったが、大学時代以来の知人はだいたい無事だった。境遇はさまざまでも、とにかく生活は成り立っているようだった。忙しいか? もちろんだとも! とはいえ研修医の自分以上に忙しい生活をしている人はいない様子で、周囲からは気の毒がられた。皆、携帯電話を持ち、皆、インターネットを始めていた。正社員になれたかどうかが意識される場面は、この段階でもまだ無かった。ゲームや飲み屋といった繋がりの紐は意外に頑丈にみえ、不況の影響はそれほどでもないな……などと思っていた。
 
 
 3.
 就職氷河期の影響を私がじかに見知るようになったのは、だから2001年以降になる。
 
 消息がわからなくなる人が出始めた。それはオフラインのゲーセンや飲み屋に限った話ではない。インターネットで知り合った人々も、00年代の前半からポツポツと消息がわからなくなる人が現れるようになった。楽しみにしていたウェブサイトが、管理人の失業からしばらくして更新停止になってしまう──そんな出来事も何度かあった。ハイパーリンクの網の目からひっそりいなくなる人のことは、あまり話題にならなかった。話題にしたくなかったのか、そういう作法だったのか。
 
 大企業の正社員になった人々も安泰ではなかった。退職を余儀なくされる人、うつ病などの精神疾患にかかる人がいた。発達障害という診断を受け、医療や福祉によるサポートを受けなければならなくなった人もいた。彼らは苦労し、疲弊していた。自分の手札で勝負し、手札が切れかけて、その場に踏みとどまるか、転戦しようとしていた。
 
 当時は私も若かったので、友人のメンタルヘルスの相談に真正面から乗ることもあった。今だったら、少なくとも真正面からは相談に乗らなかっただろう。なぜなら、(補:精神科医として)友人関係のメンタルヘルスの問題に耳を傾けすぎると、友人関係が破壊され、まったく別の関係が始まってしまうことがよくあるからだ。この頃はまだそれを知らなかった。
 
 ゲームや飲み屋といった繋がりや、インターネット上の繋がりが、諸事情によって切れてしまうことがあることをようやく私は知った。そうした断絶は、人生のなかでは不可避的に経験するものなのかもしれない。ただ私の場合、この時期にそうした断絶がかなり集中していた。
 
 
 4.
 2005年~2006年頃になってようやく、私は"就職氷河期"とか、"失われた10年"とか、"「希望は戦争」"とかいった、わかりやすく出来事をまとめた言葉を知るようになった。ブログや2ちゃんねるでは、当該世代のたくさんの人がそうした言葉を駆使して不遇を語ったり世間を呪ったりしていた。少なくとも私が好きなインターネットの圏域では、それらの言葉が流行っていた。
 
 当時の私は個人の社会適応のことばかりネットに書いていたためか、そうした人々から恨みつらみをぶつけられることもあった。しかし彼らからさまざまな不遇のありよう・個人における不適応のバリエーション・社会にできあがった構造的困難について教わった。90年代後半~00年代前半に私が見た風景は、それでもまだ恵まれていたのだと思う。社会には、もっと持たざる人々・もっと厳しい人々が確かに存在していて、どうやら格差は広がり始めている。そういうことを教えてくれたのは、当時のはてなダイアリー(現:はてなブログ)でブログを書いている人たちだった。
 
 私は、はてなダイアリーを書いている人たちと対立していたはずなのだけど、気が付けば彼らに感化されて、彼らの文章の続きを、私自身の言葉で書きたいと思うようになった。もし彼らがブログを書き続けていたら、そうはならなかっただろう。けれどもはてなダイアリーで社会についてブログを書いていた人々、ここで心の叫びを書けば何かがあるかもしれないと祈っていた人々は去って行った。これは、就職氷河期とは直接に関係のない出来事で、きっとSNSの台頭やインターネットのテレビ化とか、そういった移り変わりのせいだろうと頭では理解しているけれど、私のなかでは就職氷河期終盤の別れの一部として記憶されている。
 
 5.
 就職氷河期は2005年頃には解消されたとされている。事実としてはそうなのだろう。
 ただ、その間に起こった出会いと別れの影響はなくならない。もちろん、就職難の大波をダイレクトに食らった人や(00年代あたりの)ブラックな労働環境に傷ついた人の時計の針も戻らない。そしてあの就職氷河期を境として、この国は格差ができあがる構造を暗黙の了解とした、表向きは自由競争とされる社会へとはっきり変わっていった。自由という言葉の響きも、今では違って聞こえる。
 
 こうして思い出してみると、就職氷河期の真っ最中に「これはひどい社会だ」「これはブラックな労働だ」とはっきり意識して、はっきり声に出していた同世代はそれほどいなかったように思う。皆が社会に適応するのに必死か、必死ななかでも楽しみを見出そうとしているか、その両方かで、なかにはみずから追い詰められながら自己責任論を叫んでいる人すらいた。就職氷河期がそのような悪しき時代としてハッキリ意識され、語られるようになったのはそれが出口に向かった00年代の中頃、それこそ往年の"ロスジェネ論壇"やその周辺のブロガーが声をあげるようになってからではなかったかとも思う。
 
 だとしたら、このパンデミックに伴う厳しい社会情勢も、今はあまり言語化されなくとも、一区切りついてから下の世代によって言語化され、語り継がれていくのかもしれない。厳しい状況の渦中においては、何かを語ったり考えをまとめたりすることは難しいからだ。いや、どうだろう? もう長文ではそういうことはあまり語られないのだろうか。歌かポエムか、140字ぐらいのつぶやきに収められていくのかもしれない。長文を書いたり読んだりする暇すら与えられないなら、そうだろう。