年を取って、報恩、ということを考えるようになった。
報恩。恩に報いること。私には恩義のある人がたくさんいる。そのような人がたくさんいたこと、且つ、そのような人がたくさんいたと認識可能であることは幸福なことだ。このふたつの条件が揃っている人は必ずしも多いとは言えない。ゆえに、輪廻の輪のなかでそうであることが次にいつ訪れるか想像もつかない。
では自分は、恩義のあった人々に応えることができているだろうか。
恩義を返すといっても、世代差、教える側と教わる側の差、そういったものがある。だから恩義を返すといった時、いわゆる親孝行のようなかたちで直接的に恩義を返せる間柄は思うほど多くない。自分が研修医だった頃を思い出す。そのとき、教授や指導医をはじめ、多くの人から教えをいただきお世話になった。その範囲は自分の科だけではない。医師という職業だけに限ったものでもない。なかには、比較的短い期間だけお世話になり、顔は思い出せても名前が出てこない人も混じっている。
私の職業はいちおう医師、ということになっている。分野によっては独力で専門家になれることもあるのかもしれないが、私の業界では、専門家が専門家たるためにはさまざまな人との関わりと教えが必要だった。私は決してできの良い生徒だったとは言えなかったけれども、それでも臨床能力をなんとか獲得できたのは恩義ある人々のおかげあってのことだ。と同時に、ブロガーとして・物書きとして自分の関心領域にコミットできているのも、同じく恩義ある人々のおかげあってのことだ。ここには数多の編集者、ブロガー、twitterをはじめ色々なネットメディア上でコミュニケーションしてきた人たちが含まれる。
あたかも縁が集まってひとつの出来事が起こるように、私もたくさんの恩義があつまってひとりの個人として今ここにあるから、恩義のあるひとりひとりの源に遡って、直接的に恩返しをすることはできない。すでに鬼籍に入った人も幾人かいることを踏まえるにつけても、それは不可能だ。
では、そうでないかたちで恩を返すとはどんなかたちだろうか?
それは、あの時私に教えてくれた人々のように私が今度は伝えたり教えたりする番なのだと思う。そうやって恩義は世代から世代へと受け継がれていく。その継承は、ラディカルな個人主義者には封建的とか家父長的とうつるかもしれない。だが、恩義の継承を無視し、すべての成果や成長は独力のもの・自分だけのものと胸を張れるものだろうか。それは思想としてはアリかもしれないが事実とは思えない。実際の人間はすべて、もれなく、自分より年上の人々や自分より先を進んでいた人たちからなんらかの恩義を受けている。もちろんそれを恩義という言葉を用いず表現する余地はあろうし、わざわざそこで恩義とか報恩という言葉を用いるのが家父長的なのだ、儒教的なのだと指さす人々を想像するのもたやすい。悪縁や悪影響だってあることも知っておかなければならない。が、この文脈のなかではお許しいただきたい。恩義や報恩という語彙の似合う継承の語り口も世の中にはあると、私などは思っているので。
私はまだ自分自身の成長と自分自身の可能性にチップをいくらか賭けなければならないし、自分の戦いも終わりきっていない。けれども私にとって恩義ある人々だって、だいたいそうだったはずなのだ。にもかかわらず教えを授けてくれたことを思えば、私だって、自分の戦いを戦いながらも、なんらか、自分より後を進む人々に提供できるものは提供したほうが良いと思うし、それは自分の血を分けた者に限定してはいけないはずだとも思う。
ほかの業界のことは知らないけれど、私の業界はそうやって、上の世代から自分たちの世代へ、自分たちの世代から下の世代へと色々なものが継承されていて、そういった継承の有意味性の高い業界のようにみえる。知識は書籍や論文から手に入るとしても、知識と実践のあいだにギャップがあるから、それをつなぐ人間の介在が今でも必要とされている。その介在物を私に授けてくれたのは、書籍や論文でなく、上の世代の先輩がただ。
どうせ継承するなら、悪癖のたぐいでなく、好ましいもの、役に立つことが伝えられたらと思う。どうやって? 先代たちがやっていたことをできるだけ継承し、それができている必要がある。できたうえで提供していく心構えが必要で、且つ、押しつけがましさのないかたちで伝達できたらいいなと願う。幸い、私に恩義を与えてくれた人々には押しつけがましさがなかった。それを私は見習えるだろうか? 思い出しながら、私も彼らのようにありたいと願う。願うだけではだめなので実践を心がける。
実際には、ひとりの中年としてできることなんてたいしたことじゃない。それでも、耳学問とか色々をとおしてできること、上の世代からの恩義に報いる気持ちで下の世代への報恩できることは意識していかなければならない、と思う。けして私は責任感が強いほうでなく、社会性に優れたほうでもなく、いわばちゃらんぽらんだから医療の外側をどうしても見たくなってしまったし、ブロガー・物書きになってしまったけれども、その状況が許す範囲で何かができたらいいな、と願いつつ資料を作っている。
恩義と報恩に乗ってミームは伝わる
ところでドーキンスの言葉にミームというものがあって、たとえば遺伝子は子々孫々に受け継がれていく遺伝情報ってことになっているけれども、ドーキンスは他にもミームと呼べるものはあるよね、と言った。情報や食習慣、流行などもミームと言えるかもしれない。それらは少しずつ改変されながら自己増殖し、受け継がれる。
学問や職業分野にも、知識や技能のミームが後世に受け継がれていくところがある。遺伝子と同じく、学問や職業分野のミームも折々に改変され、あるものは受け継がれ、あるものは忘れられたり途絶えたりしながら後世に向かって流れていく。そういう意味では、みずからが授かった知識や技能を若い世代に伝えることには生殖性……と言ったら誤解されるかもしれないが「ミームを増やす」「ミームを誰かに引き渡す」ニュアンスが含まれる。発達心理学の古典『幼児期と社会』に記されている中年期の発達課題も「生殖性」と呼ばれていて、これは世話をすることや育てること等々を色濃く含んでいる。
恩義と報恩に限らず、ミームを残すという点において、後進に何かを授けたり何かを残したりすることは「生殖性」すなわちミームの継承に相通じることで、それは、これから朽ちていきつつある私ぐらいの年齢にとって心地よいミッションと感じられる。ありがたいことに医療という仕事ジャンルは(私がここまでつらつら書いてきたように)恩義と報恩をとおしたミームのバトンリレーがしやすいほうだと思うので、私に授けてくれた人々のことを思い出しながら、授けるべき人々に何かを授けられたらいいな……と思う。