シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

おれたち、黙って死んでくれると思われてませんか?

 
togetter.com
 
上掲リンク先は、「氷河期世代が高齢になった時、若い世代のために切り捨てられる」的な話題のtogetterだ。私のタイムラインではよく見かける話で、実際、氷河期世代が高齢者になった時、今までどおりの社会保障が支えづらくなるのは多くの人が予想していることだ。
 
将来に限らず、就職氷河期世代、ロスジェネ世代とかロストジェネレーションとか呼ばれた人たちは、バブル崩壊後の影響をモロに受けて就職難に遭遇し、結婚や家族を持つ機会も逸し、これからは社会保障費のお荷物とみなされようとしている。それはそのとおりなのだろう。そんなわけで、当の氷河期世代はツイッター上で自分たちの不遇や見捨てられようとしている未来を悲観してみせる。
 
 

「おれたちを生かさないとただじゃおかないぞ」と氷河期世代は行動したか?

 
氷河期世代の境遇が不遇だったのはわかる。
では、その不遇な氷河期世代は「おれたちは不遇だから見捨てるな」「おれたちを生かせ」「おれたちを生かさないなら、ただじゃおかないぞ」と団体行動できていただろうか?
 
それを確かめる前に、昭和時代の日本人と、現在のフランス人に目を向けてみたい。
 
昭和時代も中頃の日本人は、しばしばストライキをした。団体行動権、ってやつだ。ストライキに限らず、団体行動はいろいろあった。日米安保を巡る運動、全共闘運動、等々。運動の成否はさまざまだったが、とにかく昭和の人々は徒党を組んで運動し、行動した。適法も違法も含めてだ。
 
現在のフランス人についてもそれが言える。フランスに限らず、ドイツやイタリアでもストライキは頻繁で、規模も大きい。労働者は団体行動する。黄色いベスト運動も凄かったし、新型コロナウイルス関連の規制に対しても、なかなか大きな規模のデモが行われ、為政者をうんざりさせていた。
 
こうした団体行動は、社会や経営者や為政者に対してどれぐらい有効だっただろうか? その成否や正否はさておき、為政者をうんざりさせる程度の意味、メッセージとしての意味はあったのだろう。そういった団体行動をとおしたメッセージを過去の日本人、あるいは現在のヨーロッパ人はやっていた。
 
で、氷河期世代にそれが出来ていたか?
 
私の記憶する限り、氷河期世代は団体行動をとおして為政者をうんざりさせたり、社会にモノ申したりはしていないよう回想する。
 
バブル世代という言葉が生まれる前、シラケ世代という言葉が生まれた。全共闘などの政治の季節が終わった後、政治運動などに関心を持たない個人主義的な若者につけられた言葉だ。
 
とはいえ、世代で区切って考えるなら、このシラケ世代なりバブル世代なりは恵まれていたほうだ。もちろんバブル景気の前には不況の時期もあったがバブル景気崩壊以降の長い停滞に比べればそこまでではなかった。個別の悲喜劇はあったにせよ、世代全体でみれば政治運動などしなくても豊かな個人生活を享受しやすい世代だったと言える。
 
対照的に、氷河期世代はそうではなかった。就職先に困り、結婚や家庭に困り、これからは老後に困ろうとしている。世代全体でみれば割りを食った世代だ。政治運動すべき、ストライキすべき、団結行動し社会に圧力をかけていくべき、そういう理由が若い頃からたっぷりあったはずの世代だ。シラケ世代より前の日本人か、現代のフランス人なら、きっと行動していたんじゃないだろうか。
 
ところが氷河期世代は何もしなかった。
氷河期世代がストライキを起こした、団体行動を取った、ロスジェネ一揆を起こしたという逸話は寡聞にして聞かない。
ごく一部の人が文章をとおして何かを言っていたかもしれない。
もう少し多くの人がツイッターで何かをさえずったいたかもしれない。
それだけだ。
 
 

なぜ、何もできなかったのか。

 
ではなぜ、氷河期世代は団体行動できなかったのだろう。
 
シラケ世代以降、個人主義と政治の敬遠は進み続けてきた。それだけではない。なにやら、団結すること・群れて行動し争うこと自体、次第にタブーになってきたのではないかとも思う。たとえば政治運動やストライキに対する氷河期世代以降の冷ややかなまなざしを見ても、それは想像されることだ。
 
個人主義化が進んでいくなかで、デモやストライキや一揆が社会通念にそぐわなくなっているようにもみえる。それはシラケ世代以降の思想の産物だろうか? そうかもしれない。個人主義、多様性のある生、それらは耳障りの良い言葉だが、それらをとおして実は私たちはアトム化した個人になってしまい、分断することばかり上手になってしまい、共通のイシューに関してまとまることができなくなってしまったようにもみえる。
  


 
個人主義や多様性のある生、それらに親和的な社会通念やインフラは良いものとされてきた。だけど、それらを実現する社会通念やインフラをとおして、私たちが集団の利を活かせなくなっているとしたら……。巡り巡って、個人でしかものが言えず、集団ではものが言えない、そんな人間に私たちが変わってしまったのだとしたら……。
 
私たちは、為政者やエスタブリッシュメントの側にとって非常に都合の良い人間につくりかえられてしまったのではないだろうか。
 
 

為政者やエスタブリッシュメントにしてみれば、笑いが止まらないでしょう

 
かくして日本人は、団体行動できない、社会に対して群れてものが言えない国民になった。主語を氷河期世代から日本人に変えたが、これは間違いではない。団体行動できない・社会に対して群れてものが言えないのは、氷河期世代よりも若い人々だって大同小異だからである。
 
日本人が団体行動できなくなり、デモもストライキも違法適法の集団行動もできなくなったことで、日本は飛行機や電車やサービスが止まることが少なく、騒がしくなく、秩序だった国になったとは言えよう。そのかわり、どんなに生活が苦しくなっても、社会がおかしいとみんなが思っていても、政治的に有意味な、社会的圧力になるような集団的運動のことは忘れられてしまった。そういう方法で為政者やエスタブリッシュメントにメッセージや警告や出すすべを忘れてしまった。
 
これって、体制側の、為政者やエスタブリッシュメントからすれば笑いが止まらないことじゃないだろうか。
 
モノ言わぬ大衆、ツイッターで不満をさえずることしか知らない大衆ほど、為政者にとって都合の良いものはない。ツイッターでさえずる声は確かによく響く。しかしそれはバラバラの言葉であり、アトム化した個人の声の点描、烏合の衆以下でしかない。こと日本の場合、ツイッターでのさえずりは為政者がうんざりしたり脅威を感じたりするようなものではない、ということだ。
 
なかには個人単位で社会に対してモノ申そうとする人もいるだかもしれない。テロリズムを起こす個人などはその極端な例で、そういった事例は21世紀以降の日本にもそれなりある。
 
しかし個人単位で社会にテロを起こしても、それは個別の犯罪や精神鑑定の対象として、個人化されてしまう。個人的なテロリストがどんなに社会的メッセージを行動に仮託したとしても、結局それは個人的な行動上の問題として、司法や医療をとおして処理され、体制に回収されてしまう。かりに、総理大臣経験者が凶弾に斃れるほどのテロだったとしても、個人が個人としてそれを行っている限り、それは個人的なものでしかない。体制はびくともしない。それどころか、個別のテロは体制側の対策を生み、かえって体制を強化したり利することさえあるかもしれない。
 
政治は、個人のスタンドプレーでは動かない。個人の行動は、しょせん個人の行動でしかないから司法や医療に回収されて脱ー政治化されてしまう。だから集まること、集まって行動しメッセージを出していくことが大切なのだが、それが私たちにはできなくなっている。
 
だとしたら、私たちは、黙って死んでくれる都合の良い大衆だと思われっぱなしではないだろうか。
 
為政者やエスタブリッシュメントも世代交代を繰り返していくので、氷河期世代がその枢要を握ることだってあるだろう。しかし、氷河期世代の為政者やエスタブリッシュメントも、大衆がなんにもモノを言わなくて、なんにも行動しなくて、黙って死んでくれる都合の良い大衆であり続けるなら、気兼ねなくゆでガエルをゆでるコンロの火力をあげることだってできるだろう。それは氷河期世代だけの問題ではない。為政者やエスタブリッシュメントだけの問題でもない。黙ってゆでられることしかできなくなった私たち全員の問題でもある。昭和の日本人やフランス人のように行動できなくなって、黙って死んでくれると為政者やエスタブリッシュメントに思われてしまいやすい私たち全員の問題でもある。
 
「おれたちを生かさないとただじゃおかないぞ」を失ってしまったのは、本当はとんでもなく大きな損失だったのかもしれない。