シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

"本当は正しくない『となりのトトロ』"が、受け入れられている

 

となりのトトロ [DVD]

となりのトトロ [DVD]

  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: DVD
 
 
『となりのトトロ』は子どもが妖怪に出会う物語だ。
 
妖怪が出るような、よくわからない場所が間近な生活圏にあったということだし、よくわからない場所に子どもが出入りする自由があったということでもある。
 
おばあちゃんの田舎へと引っ越してきたメイとさつきは、まず廃屋同然の新居を冒険する。
 
新居はほこりだらけで、ぼろくなっていて、まっくろくろすけ(すすわたり)が巣食っている。まっくろくろすけが巣食っているということは、新居はよくわからない場所で、そのよくわからない場所に、メイとさつきが踏み込んでいったわけだ。
 
床を踏み抜いてしまうかもしれない、リスクのあるよくわからない場所に子どもが入っていくのは、令和の子育て感覚では許容されない。親や周囲の大人が許容しないだけでなく、よく訓練された令和の子どもなら、よくわからない場所に勝手に入っていくことを警戒するだろう。
 
しかし、お父さんやおばあちゃんは軽く注意は促すにしても、それがいけないことだと思っている節はない。もちろんメイやさつきもだ。
 
メイやさつきが新居を飛び回り、まっくろくろすけに出会い、手足を真っ黒にしてしまうシーンは楽しげに描かれているが、令和の親御さんは、あのような振る舞いを子どもに許さない。清潔という観点からも、ハウスダストアレルギーといった健康という観点からも、まっくろくろすけは忌避されるだろう。笑い話にはならない。
 
そしてメイとさつきは森に遊びに行き、トトロに出会う。よくわからない場所に子どもだけで探検に出かけたからこそ、メイとさつきはトトロという怪異に出会えたわけだが、よくわからない場所に子どもだけで探検に行くという状況は、今日では、ネグレクトや児童虐待の文脈で語られてしまうもので、楽しげにみるべきものではない。
 
ところがトトロの話を聞いたお父さんは、その状況を禁止するでもおばあちゃんに深刻げに相談するでもなく、さも、良かったことのように話している。
 
令和時代のまともな父親なら、娘たちが勝手に森に遊びに行き、"トトロ"を名乗る正体不明の存在に会ったと聞けば震え上がるに違いない。
 
そうした状況の行きつく先として、ついにメイは行方不明になる。ご近所が総出でメイを探しにかかるが、見つからない。児童向け映画作品としてのトトロは、トトロとネコバスの助けによって大団円を迎えるわけだが、一歩間違えればメイは"神隠し"に遭っていたかもしれないし、そのような状況をつくったお父さんやおばあちゃんは厳しい詰問の目に曝されていたやもしれない。
 
 

令和では許されないトトロを、どうして私たちは楽しめるのか

 
こんな具合に、令和の子育て目線で『となりのトトロ』という作品を振り返ると、全体的に許されない感じが漂っていて、およそ、心穏やかに見ていられるものではない、はずである。いや、実際には令和の親御さんの多くは『となりのトトロ』という作品にホラーじみた危機感より、親しさや懐かしさを感じていることだろう。だが、冷静に考えると、トトロの物語は令和時代の親御さんが親しさや懐かしさを感じられるものではないはずだし、わが子をよくわからない場所に探検させ、妖怪に出会わせたいと思えるものでもない。
 
ところが『となりのトトロ』を正しくないアニメだ、不穏なアニメだという大人は少ない。どれぐらい少ないかというと、そこらじゅうの幼稚園や保育園で『となりのトトロ』が映され、国民的児童アニメという扱いになっているぐらいである。親御さんや子育ての専門家の多くも、普段は『となりのトトロ』の内容の不穏さや正しくないさまについてさほど意識しないのではないだろうか。
 
令和の子育て基準でみて、正しくもなければ穏やかでもない内容のはずの『となりのトトロ』が、これほど受け入れられているのはなぜだろう。
 
もちろん第一には、児童向けアニメとして『となりのトトロ』がつくられていて、しかも作っているのが宮崎駿監督だからだろう。
 
宮崎駿監督の手にかかれば、法から逸脱した物語はたちまち美しくなり、グロテスクな存在も魅力的になってしまう。本当はおぞましいかもしれないまっくろくろすけやトトロやネコバスも、児童向けアニメに本気を出した宮崎駿監督の手にかかれば、かくのごとしである。
 
最近、togetterで昭和時代の子育ては死と隣り合わせであった、といった内容のやりとりのものが注目を集めていたが、そこで語られていた内容は、トトロの舞台となった時代とそれほど遠くない。
 
硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった - Togetter
 
トトロの時代からさらに下った昭和の後半でさえ、子どもが死ぬこと、行方不明になることはそれほど珍しいことではなかった。私が通っていた小学校でも、各学年にだいたい一人ぐらいは中途で命を落とした同級生がいるものだった。私自身、四歳の時に子ども同士で一級河川の川辺に遊びに行ってサンダルを片方なくしているし、小学校三年生の時に子ども同士で沼に遊びに行って沼でおぼれかけたことがあった。もう少し運が悪ければ、私自身が"神隠し"に遭っていたかもしれないし、いわば、トトロに出会っていたかもしれない。
 
昭和の子育て環境を振り返り、当時の社会のコンテキストに当てはめて考えるなら『となりのトトロ』はネグレクトでも児童虐待でもなんでもない、当たり前の子育てのありようだった。子どもは近所をうろつくものであり、ときに妖怪に遭ったり、ときに"神隠し"に遭ったりするものだった。そして『となりのトトロ』の作中で示されているように、子育ては親が全責任を負うものではなく、地域共同体のなかで緩やかに・曖昧に行われるものでもあった*1。批判的にみるなら、責任の所在の曖昧な子育て、とも指摘できるかもしれない。
 
ところが令和社会のコンテキストでは、親が子どもの24時間に責任を負うべきで、子どもの健康と安全に神経をとがらせるべきで、子どもがよくわからない場所をうろつくことはあってはならない、ことになっている。そこには大きなギャップがあるのだけど、昭和社会の子育てから令和社会の子育てへの移行にかかった時代は、せいぜい2~3世代程度の短い時間だった。そして令和社会の子育ては、子どもの健康や安全には配慮している一方で親には大きな負担を、子には窮屈な生活空間と管理され尽くした日常を与えてやまない──。
 
思うに、令和時代に『となりのトトロ』をみている大人たちも、内心では、令和社会の子育てが正しく健康で安全ではあっても、窮屈なものになっていることに辟易しているのではないだろうか。『となりのトトロ』を穿った目でみれば、令和社会のコンテキストでは許されない不健康で危険で正しくない状況が描かれているのだけど、他方、昭和社会の子育てにあった豊かさや良かった側面をトトロほど理想的に描いている作品もない。
 
令和の親御さんまでもが『となりのトトロ』に親しさを感じるのは、もう正しくなくなったとはいえ、今の子育てに不足しているものがたっぷり描かれているからではないかと、私は思ったりする。昭和から令和になって、子どもは安全になった。それはいい。だが、良いことばかりではなかったはずだし、そのことを本当はみんなも直観しているのではないだろうか。宮崎駿監督のマジックが効きまくっているとはいえ、もはや正しくなくなったはずのトトロがこうも受け入れられているさまを眺めていると、私たちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、ちょっと考え込んでしまう。
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

*1:ただし、『となりのトトロ』においてはここでも宮崎駿マジックが発動している:地域共同体についてまわる余所者に対する目線は、せいぜい、カンタの意地悪のうちにデフォルメされてしまっているからだ。

桜の償いはこれからも続く──劇場版『Fate/stay night』雑感

 

 
www.fate-sn.com
 
お盆の終わりに劇場版『Fate/stay night』を見に行った。映画館は満席になっていて、さまざまな世代のファンが集まっていた。本来、今年の春に公開するはずだった本作がようやく公開された爪痕がパンフレットに残っていて、その広告欄には劇場版『Fate/Grand Order 神聖円卓領域キャメロット』8月15日公開などと書かれていた。ともあれ、本作がどうにか公開されて、原作の桜編(Heaven's feel)が完結したのは嬉しいことだった。
 


 
ああ、この泣いていたおじさんの気持ちはよくわかる。
原作と出会って16年、待ちに待った劇場版は、期待以上のものだった。
この感情はFateファンにしか伝わらないだろうけれども、わかる人にはわかるはずだ。
私も感極まったので、感極まっているうちに雑感を書き残すことにした。
  
 

 

・この作品は完全にFateファンのために作られたエンターテイメントであり、Fateに興味が無い人が視聴する可能性をフォローしていない。Fate系列の作品をまったく知らない人は観ないほうがいいだろう。最低でも、なんらかのFate系作品に触れたことのある人がみるべき映画だった。
 
2004年リリースの原作もややこしく、セイバー編・凛編をちゃんと覚えていないと桜編はわからなくなってしまう。そういう原作のなかから桜編(Heaven's feel)をピックアップしたのが劇場版三部作なので、ますます話の筋がついていきにくくなっている。それでも原作やFateシリーズを知っている人が話についていけるよう、親切なカットが多数用意されていたが、これらもFateファンでなければ理解できない内容だったので、Fateを知らない人はたぶん難破する。だからFateファンのためにつくられた映画だと言ってしまうほかない。
 
(日本で)映画化されるアニメはしばしば、原作ファンのほうをしっかり向いていて原作ファン以外のほうを向かない。それを批判している人がいるのを知ってはいるし、それが尤もだと思うこともあるけれども、原作ファンのほうを向いているからこそ出来ることもあるわけで、この作品は原作ファンをおもてなすことに徹していた。Fateシリーズをよく知り、聖杯戦争史を理解している人はもちろん、それこそFate/Grand Orderを遊んでいる人でもだいたいわかるようにつくられていた。
 
いやそもそもFate/stay nightの原作を遡ればエロゲーだったわけで、そのエロゲーから出発したアニメがこうして映画化されているのだから、日本全国の(それともワールドワイドの?)Fateファンだけを抱きしめる作風になっていて何が悪いというのか。素晴らしいとしか言いようがない。
 

・もともとの『Fate/stay night』は、サーヴァント・魔術師同士の戦闘シーンが華やかにみえて、ストーリーの要所要所は地味というか、意外と湿っぽい会話をとおして物語が進行していた。少なくとも昔のハリウッド映画のような、勇ましいヒーローがラスボスを退治してハッピーエンド……というようなつくりではない。今作もそうで、サーヴァント同士の戦いや魔術師同士の戦いは派手だったものの、最後の最後は割と地味というか、それこそエロゲーの選択肢によってストーリーが決まるかのような雰囲気が漂っていた。これは自分の記憶違いかもしれないが、大聖杯と対峙するシーンは原作のほうがまだ派手だったような記憶がある(あくまで記憶であって、実際にそうだったかはわからない)。セイバーオルタとライダーとの戦いが決した後はわりと落ち着いた展開だった。
 

・というか、第二作もそうだったけど、サーヴァント同士の戦いがあまりにも素晴らしく、見栄えという点では群を抜いていた。セイバーオルタは相変わらず無茶苦茶で、圧倒的なエネルギーをそこらじゅうにぶちまけていた。それをかわしつつ魔眼を光らせ、決定的瞬間を作ろうとするライダー。サーヴァントの破壊力とスピードを2020年のアニメテクノロジーで再現するとこうなるのか! という驚きと喜びで釘付けにならずにいられなかった。セイバーオルタは真っ黒に染まっていながらも武人の佇まいをも漂わせ、ライダーのベルレフォーンが真っ白なペガサスとなってスクリーンを描けた。こんな美しいベルレフォーンを映画館で拝めるとは眼福としかいいようがない。ライダーは本当にがんばった。
 

・十六年ほど前、Fate/stay nightをプレイし終わった時の私が一番好きなキャラクターはライダーだった。なにかと不遇で、ときにはあっけなく倒され、セイバー編では悪役の気配が漂い、けれどもマスターである桜にどこか似ていて、そんなマスターのために尽くし、セイバーオルタにも果敢に立ち向かうライダーはFate/stay nightの他のサーヴァントたちと様子が違っていた。原作では目隠しを取るとすごい美人とされていたが、今回の対セイバーオルタ戦でも目隠しを取り払い、戦闘中も美人っぷりを遺憾なく発揮していた。日本アニメ美人顔だったが本望だ、やっぱりライダーは美人、それも本作第一といって良い美人だったんだ! ライダーファンにとって、こんなにうれしいことはない。
 

・そして桜はちゃんと桜らしかった。滲み出る不幸な娘感、嫉妬、蓋をされていた欲望が爆発してみんな大迷惑、ところどころ鼻につくぶりっ子しぐさ、凛々しい遠坂凛とのコントラスト、等々が重なり、典型的な正ヒロインのイメージにまったくおさまっていなかった。バッチリだね桜ちゃん!
 
こうした桜の性質は、第一回Fate/stay nightの人気投票の結果にも反映されていて、ほんらいFate/stay nightの正ヒロインと言っても過言ではないお姫様的ポジションにもかかわらず、人気投票第6位とセイバー*1や凛に大差をつけられていた。今、こうして映画館で桜の熱演をみていても、やはり桜は正ヒロインたりえないというか、罪深いヒロインの十字架を背負っていて、もちろんエンディングを迎えた後もそれは変わらなかった。
 
そのような桜の姿を、今、新世代のFateファンが凝視しているわけだ。桜の行いの善悪是非は、十数年の時を経て年下のFateファンの知るところとなっている。メタな視点になってしまって申し訳ないが、これこそ、衛宮士郎が語ったところの「生きて罪を償い続ける」ということではなかったか?
 
桜の償いは他にもある。Fate/Grand Orderにおいては、桜の眷属たちはひねくれた・めんどくさいヒロインとしての座を占めていた。凛やセイバー(この場合はアルトリア顔というべきか)の眷属がFate/Grand Orderのなかで獲得しているステータスと、桜の眷属がFate/Grand Orderのなかで獲得しているステータスには歴然とした差がある。いわば、Fate/Grand Orderの地において、桜は前世のカルマを支払い続けているのである。とりわけ、大奥イベントで大暴れしていた桜の眷属・カーマは非常にひねくれたサーヴァントだった。桜のカルマは今もこうして引き継がれ、裁きを受け続けている。
 
 
・ただ、そうやって後世のゲームにまでカルマが引き継がれて裁きを受け続ける桜の身の上には不憫なものを感じる。Heaven's feelではひとつの救済がなされたとはいえ、巨大IPと化したFateシリーズのなかでひねくれヒロインとしてこれからも語り継がれていくとしたら、なんと悲しい女性なんだ! 間桐桜!
 
他方、そういうキャラクターを貫徹してきたからこそ、こんな桜を慕うファンや桜に救われるファンがいることも想像がつく。桜というキャラクターが生きている限り、桜は罪を償い続けると同時に桜を慕うファンや桜に救われるファンに何かを提供し続ける。それは、凛やセイバーには提供できない種類のものだ。Fateファンのうちに桜を嫌う人や嘲笑する人がいるとしても、まさにその性質によって桜を慕い、桜に救われる人もいるのだとしたら、それは衛宮士郎のいう「生きて罪を償い続ける」の良い面だと思う。

メタ視点に立って考えるなら、桜が生きていて本当に良かったし、衛宮士郎の決断とFateシリーズという大河の流れはそれを可能にしてくれた。これからも桜は、胸を張って桜であり続けていいのだと思うし、ライダーが好きだった私としては桜は桜であり続けて欲しい。ライダーを触媒なしで召喚した桜は、桜であっていいのだと思う。
 
 
・そういえば、桜と私の付き合いもこれで16年になったわけか。新世紀エヴァンゲリオンの惣流/式波アスカラングレーに比べれば短いとはいえ、桜もまた、自分と一緒に年を取っていくタイプのキャラクターになった。これから桜はFateの世界でどんな風に変わっていき、どんな風に年を取っていくのだろう? どちらにせよ、Fateが今後もシリーズとして続いていくとしたら(商業上の理由から、その可能性は高い)、きっと私はこれからも桜の物語に出会えるのだろう。個人的には、いつかは桜のカルマも洗い清められ、もう少し明るいキャラクターになる日が来たっていいとも思う。
 
 
 
桜とFateの話を続けていたらきりがないので今日はこのへんで。
いいFateを観れて良かったです。
 

 

*1:注:この頃はまだ、アルトリア・ペンドラゴンというフルネームでセイバーのことをわざわざ呼ぶことは少なかった

お盆に還ってきた元ブロガーさんへ

※この文章は、はてな村と呼ばれたブログコミュニティで活躍した元ブロガーへの手紙です。興味のない人は畳んでください※
 
インターネットで表舞台に立たなくなってから、もうずいぶんと長い年月が..
[B! 増田] 諸般の事情によりブログをやめざるを得なくなった。んで、なにも書かなく..(※元文章は差し替えられているため、ブックマーク貼付)
 
お盆の季節に、はてな匿名ダイアリーに相次いで二つの投稿があった。00年代~10年代にかけて活躍した元ブロガーが書いた文章であることは明白で、当時を知っている人ならすぐに判っただろう*1
 
この元ブロガーさんはアニメやゲームに対しても、世間や人間に対しても独特の感性を持っていて、我流の文体とあわさって唯一無二の面白さをみせていた。単に面白いブロガーなのでなく、一度覚えたら忘れられないブロガーだったと思う。
 
二つ目のリンク先でご本人が吐露しているように*2、この元ブロガーは書き手としては「終わった」のだと思う。最盛期に比べると、ご自身の宿業と他人に読まれたいという望み(と同時に読まれ過ぎることを疎ましいする望みの二律背反)がかみ合っていない。在りし日の氏なら、ご自身の宿業と他人に読まれたい(が読まれ過ぎたくない)気持ちががっしりかみ合って、もっと生命力のある、ギトギトした文章になっていただろう。
 
それでも音信が伝わってくるのは嬉しく、私はありがたく思う。かつて「はてな村」と呼ばれていたブログコミュニティの、賑やかかりし頃を思い出しながら夕日を眺めた。そして元ブロガー氏にまた手紙を書きたくなった。
 
 
1.
 
ようやく梅雨が明けて夏が始まったかと思いきや、夕焼け雲に秋の気配が漂い始めた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
こうして店長の消息がつかめ、今もインターネットのどこかから娑婆世界をご覧になっていることを嬉しく思います。
 
今回の便りで店長は、自分は「親戚に一人はいる妙な大人」をやりたかったんじゃないか、とおっしゃりました。確かに店長は「親戚に一人はいる妙な大人」と呼ぶにふさわしい存在かもしれません。少なくともテンプレート的な成人男性の行く道を歩んでいるとは言えないでしょう。
 
ただ、この"やりたかったんじゃないか"、という気持ちは最近になって生まれてきたもので、戦略的に目指されたものでも、強い意志をもって貫徹されたものとも思えません。少なくとも、店長がご自身のことを(妙か妙でないかはともかく)大人と自認なさるようになる前は、そのような表明が無かったように記憶しております。店長がご自身を大人と自認なさるようになったのは、旧はてな村を出るか出ないかの頃ではなかったでしょうか。
 
「親戚に一人はいる妙な大人」になることがいけない、と申したいわけではありません。旧はてな村の出身者にも、SNS世界や動画世界にも「親戚に一人はいる妙な大人」と言えそうな人がたくさんいらっしゃいます。店長も含め、たくさんの「妙な大人、または妙な大人予備軍」が人生を前へ前へと進んでいきます。皆、後進のロールモデルになっていることでしょう。ロールモデルというと、一般的には憧れの対象や理想像とみなされるかもしれませんが、「ああいうふうにだけはなりたくない」と思われるのもロールモデルだと私は思っています。反面教師ってやつですよね。そして年を取っていけば、多かれ少なかれ人はロールモデルにならざるを得ません、ポジティブにもネガティブにも。
 
店長は、ブログを通してご自身の感性や価値観、人生、ワークスタイル、等々を赤裸々に語っていました。いずれも後進や同輩からみて参考になるもので、うまく言えないのですが、とてもリアルな手触りを伴っていました。だからこそ、たくさんの人に親しまれたし、たくさんの人に憧れられましたし、たくさんの人に疎まれました。
 
店長の人生そのものはコピー不可能で、文体も同様でしたが、まさにそのようにブログを書き綴るさまはロールモデルと呼ぶにふさわしいものでしたよ。知名度の階段を駆け上っていったphaさんが、旧はてな村における「親戚に一人はいる妙な大人」の表の代表だとしたら、店長は裏の代表、少なくともその一人ではないでしょうか。当時、店長がどこまで自分のことを大人と自認なさっていたのかはわかりませんが、年上のブロガーとして店長を仰ぎ見るような気持ちでみていた人は結構いたんじゃないかと思います。その必然として、「ああいうふうにだけはなりたくない」をも引き受ける結果ともなったでしょうけど。
 
店長は、インターネットの表舞台から退いて長い年月が経ったとおっしゃいました。インターネットでは、「親戚に一人はいる妙な大人」が誰かのロールモデルたりえるためには、ネットの表舞台──いや、舞台のすそでもいいのですが──に立っていなければなりません。なぜならロールモデルとは(おもに年下に)観測されてはじめて成り立つものだからです。
 
もし店長が本当に「親戚に一人はいる妙な大人」としてロールモデルになりたいのでしたら、文体を変えても変えなくても構わないので、即刻、インターネットに戻ってきてください。そこはもちろん世間から乖離していた00年代~10年代の旧はてな村と同じではありません。しかし「親戚に一人はいる妙な大人」が誰かのロールモデルたるには、メディアに戻ってくるしかないんです。少なくとも二次元美少女についての性癖などを語る存在としての店長がロールモデルたりえるには、そうするしかないのではないでしょうか。
 
いちおう、店長が勤務先や道端で二次元美少女について語ってみせることで「親戚に一人はいる妙な大人」のロールモデルとして努める道がないわけではありませんよ? ですが、きっとコミュニケーションに失敗するでしょう*3。店長がロールモデルとして輝く空間は、インターネットしかありますまい、と私は考えています。
 
でも、ここまで書いて勝手に思い始めたのですが、店長は、そうしたロールモデルとみなされることに倦み疲れてブログを捨てたのではないでしょうか。好かれ、喜ばれ、憧れられるばかりがロールモデルではなく、疎まれ、ときには憎まれることもあるなかで、店長がくたびれてしまった可能性を、私はなかなか否定できません。加えて、店長はまさに好かれ、喜ばれ、憧れられるということ自体にもくたびれてしまったのではないですか。
 
昭和時代にたくさんいたであろう「親戚に一人はいる妙な大人」は、お盆や正月に専ら観測されるものでした。今の店長の出現頻度は、そういう意味ではぴったりと言えるやもしれません。また、ロールモデルを引き受け過ぎると苦しくなってしまうに違いない店長の性質を思うと、その点でもちょうど良い、と言えるやもしれません。
 
だけど、

たとえば30とか40越えてなお「変」でありつづけるっていうのは、これはかなりの難事業だと思うんですよ。なぜ変なのかといえば、自分の内部にどうしようもなく世間と折り合いがつかない部分があるからで、その折り合いをつけないまま生きていくためには「どうしようもない部分」以外の折り合いはつけなきゃいけない。それってかなりの知性が必要な作業で、俺が「いいなあ」と思う変な大人は、みなそれを持っているように見える。変と見られることを恐れていないように見える。
それがね、いいなあと思うんですよね。そういう人が呼吸できる場があるということが。文章なりなんなりを発表できる場所があって、それに共感する人たちがいるということが。ひょっとしたら、変な人が変な大人でありつづけていることで、救われているだれかがいるかもしれない。かつて救われたかった子供だった俺は、そういう人たちを見て「いいなあ」と思うのです。

このようにお考えになっておられるなら、もう少しだけで結構ですから、あなたのおっしゃる難事業を引き受けて、ネットのどこかで呼吸して、発表して、あなたに共感している(いた)人やあなたの存在に救われていた人にメッセージを送っていただきたい。お盆と正月に加えて、春と秋の彼岸にも汚れたインターネットに戻ってこられて所感を語ってくださると喜ぶ人がいるように思います。
 
世俗化・世間化して汚れきった今のインターネットは、定めし、店長にとって窮屈なものでしょう。しかしそれは今を生きる「親戚に一人はいる妙な大人」という言葉が似あうすべてのブロガーやインターネット発信者にも当てはまることです。窮屈ではあっても、観測されるためには発信しなければなりません。だから店長、本当にその気がおありなら、はてな匿名ダイアリー界から衆生の世界に降りてきてくださいよ、ねえ。
 
 
2.
 
ところが二つ目のリンク先には、店長は終わってしまったと書いていらっしゃいます(しかも伝聞によれば、数年前の記事だそうでs)。
 
終わった自覚もなしに、発信する手段があるから声をあげているような状態に陥ったら老害と呼ばれるだろう、とも。
 
そうおっしゃられると耳が痛いですね。私も、自分が終わってしまった、終わっている真っ最中だと思うことが増えました。たとえばtwitterで年下のアクターたちが熱弁をふるい、あれこれの社会問題に言及するのを見ていると、現在の自分にはできないことだと感じます。noteの若い書き手を見ていても同じですね。私はnote時代の書き手になれないし、かないません。
 
この点では、終わったと割り切って匿名ダイアリー界に旅立ってしまわれた店長が羨ましい、と思うこともあります。店長は、
 

声をあげるというのは、やむにやまれぬ内的必然性によってすることだ。かつての俺がそうだったように。もちろん、そうでなくても声をあげる必然性を持っている人はいるが、俺はそうではなかった。聞いてくれる人がいるから声を出す、というのは俺にとっては本末顛倒だった。正しくなかった。

このように書いておられるし、聞いてくれる人々の磁場に巻き込まれていくことを潔しとしてませんでした。たくさんの人に読まれるブロガーでありながら、たくさんの人に読まれるという状況や影響に巻き込まれないよう意識すれば、人気が出る都度、ブログを畳むしかありますまい。ですが、そうすることで保たれていた純度やスタイルもあったことでしょう。
 
私は四十代の半ばになりましたが、まだブログを書いています。6月に出した新著は私にとって悲願の達成なので、勝利宣言をしたうえでブログをやめてもいいんじゃないかとも思うこともありましたが、結局、のうのうと文章を書き続けています。
 
さいきん私は、自分が声をあげる必然性を持っているのか、聞いてくれる人がいるから声を出しているのか、よくわからなくなっていました。と同時に、店長のおっしゃる人間が終わるときを迎えつつあるのも自覚しています。私の場合は、玉ねぎの皮をむくように一枚一枚、何かが終わっていくと感じています。私は自分の社会適応の限界年数を六十歳と想定し、とにかくそこまでは全力で生きようとつとめていますが、その想定でいけば私の盛期はもう間近か、もう通り過ぎたと考えられます。たとえばゲームプレイヤーとしての私はもう終わってしまいました。二次元美少女に萌える、という感情もそうでしょう。三十代まで終わっていなかったものがどんどん終わっていくなか、私はまだブログを書き続けています。
 
私は店長のように、その終わっていく私自身に対してどうでもいいなどと思うことができません。私は、終わっていく私を鏡に写して深刻な顔をせずにいられませんし、剥かれて地面に落ちている終わった私の抜け殻に未練を感じています。私は私自身に執着していますし、それは私のナルシシズムとも深くかかわっているのでしょうけど、とにかく、玉ねぎの皮をむくように終わっている私自身を諦めきれていません。私はエイジングについて二冊も本を書いてしまいました*4が、それは私が終わっていく私と折り合いをつけるための方法を必要としていたからだと思っています。そして私のことだから、五十代になってもまたエイジングを云々していることでしょう。そうやって云々しながら年を取っていくのが、私の妙な(多分に馬鹿げた)性質なのだと思います。あっ。ここには終わっていない課題があるか。ごめん、私まだ終われないかも。あと十年しても、執着に導かれて何か書いている自分が想像できる気がしてきました。
 
人間が、執着に導かれて何かを選び何かを捨てるのだとしたら、店長には、きっとブログや文章より大切なことがおありなのでしょう。私もそうだと思っていましたが、この手紙を書いているうちに、私にはまだ、ブログを書く(または書籍を書く)ための執着が残っていることをさきほど発見しました。私はまだ終わっていないし、終わってはいけない。終わらないついでに、こうして店長ことや旧はてな村のことをときどき思い出していきたいとも思います。
 
書き始めた頃は、「匿名ダイアリーの高みから、いけしゃあしゃあとロールモデルを語ってみせる店長を激詰めする手紙」を書くつもりでしたが、書いているうちにそういう気持ちが薄れてきて、挙句、最後には自分に都合の良い気持ちができあがってしまいました。これでは、施餓鬼のお供え物を用意して自分で食っているみたいですね。すみません。でも、旧はてな村にもこうやってお盆が到来したので私は嬉しいです。
 
 

*1:そもそも誰が書いたのか思い出すヒントが冒頭にちりばめられており、当時を知る人間が即座に気付く手がかりとなっていた。元ブロガー氏が書き手を特定されたうえで読まれることを期待して書いた文章と想定される

*2:この文章じたいは過去の再投稿である、とのこと

*3:勤務先できびきびと働く店長が、そういう方面でロールモデルになっている可能性もなくはないですが、きっとそれ、資本主義に最適化された部分をつまみ食いされる感じで店長が期待するロールモデルの方向性とは違っていると思ってます

*4:『若者をやめて、「大人」を始める』『「若作りうつ」社会』

『健康的で清潔で、道徳的な~』のたのしい参考文献たち

  
 
 

 
 
おかげさまで、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は重版となりました。8月10日現在、Amazonでは売り切れ状態となっていますが、前より本屋さんで取り扱っていただけているので、本屋さんで見かけた折には、是非手に取ってみてやってください。
 
この本は、私が書きたかったことを85%の純度で書けた稀有な本なので、私自身、再読するとつい面白いと感じてしまいます。ですがその面白さの大半は、参考にした書籍や文献の面白さに由来するものだと思っています。
 
宣伝もかねて、今日は『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の参考文献から興味深いもの・恩義を感じているものをいくつかご紹介します。どれも、当該分野について興味を持っている人ならきっと楽しめる良書に違いありません。おすすめです。
 
 
 

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』

 

 
 
現代社会では常識となっている、「子どもは保護されるべき・教育されるべき・かわいがられるべき」という通念が昔からのものではなく、たかだか数世紀で定着してきたものであることを教えてくれる本。子供についての常識が昔は常識ではなく、家屋の空間設計・教育制度の変化・遊戯や服装の変化とシンクロしながら次第にできあがっていくさまに私はびっくりしてしまった。
 
現代の子育ての難しさについて考える土台として、過去の子育てを振り返っておくのは有意義なことだと思うので、興味のある人は読んでみたら収穫があると思う。
 

"中世において、また近世初期には、下層階級のもとではさらに長期にわたって、子供たちは、母親ないしは乳母の介助が要らないと見なされるとただちに、すなわち遅い離乳の後何年もしないうちに、七歳位になるとすぐ大人たちと一緒にされていた。この時から、子供たちは一挙に成人の大共同体の中に入り、老若の友人たちと共に、日々の仕事や遊戯を共有していたのである。"
『<子供>の誕生』より

 
 

ピーター・コンラッド『逸脱と医療化』

 

 
 
何が病気で、何が病気でないのか。どこからが医療や福祉の対象で、どこまでが対象ではないのか──その境目が決定されていくプロセスをひも解いていく医療社会学の本。
 
この本は医療(とりわけ精神医療)の営みが自然科学的な営みであるだけでなく、社会科学的・政治的営みでもあることをどちらかといえば批判的に論じている。この本が書かれたのは反精神医学運動が盛んだった時期なので、2020年から振り返ると、他の医療社会学の書籍に比べてアグレッシブで勇み足だと私は感じる。とはいえ、医療と社会、福祉と社会がお互いに影響を与え合うメカニズムについて、わかりやすい構図を提供してくれる。この本だけでは危ういけれども、この本をスルーして医療社会学をつかむのは骨が折れるんじゃないかという気はした。
 
この本の最大の難点は、かなりのプレミアがついてしまっていること。大きめの図書館で借りて、第一章~第二章と、関心のある章を読むといいんじゃないかと思う。
 
 

"ある特定の社会では、ある特定のパラダイムが支配的となるだろう。現代のアメリカ社会では、法-犯罪パラダイムと医療-病パラダイムの間には、たとえ両者が公的な調停を達成しうるとしても、しばしば緊張が存在する。それぞれのパラダイムは相対的に高い地位の制度的支持者(すなわち法律作成者と裁判官、医療研究者と医師)を有している。科学が現実の究極の裁定者とみる世界では、科学的研究によって支持できる逸脱の認定は、信用を得る可能性が高い。逸脱認定のポリティクスにおける要因は複雑なので、われわれは「可能性が高い」という言葉を用いた。しかしながら、他の条件が一定であるならば、逸脱の医療的概念は、科学という名のもとに提案される可能性が高いだろう。"
『逸脱と医療化』より

 
 

アラン・コルバンほか『身体の歴史』

 

身体の歴史 3 〔20世紀 まなざしの変容〕

身体の歴史 3 〔20世紀 まなざしの変容〕

  • 発売日: 2010/09/18
  • メディア: 単行本
 
『身体の歴史』は全三巻からなる大著で、身体についての通念や習慣の移り変わりのあらましを知ることができる。テーマは健康・ジェンダー・スポーツ・清潔・芸術などあらゆる分野に及んでいて、『健康的で清潔で、道徳的な~』に関しては、19世紀について書かれた第二巻をあれこれ参考にしている。
 
この本はほとんどプレミアがついておらず、ジュンク堂や紀伊国屋書店に行けば割と並んでいたりもする。ただ、とにかく分厚い本で全部買いそろえると結構な値段になってしまう。これも、まずは図書館で一読してみて、良いと思ったら購入するのがいいと思う。
 

 微生物が発見されたことにより、世紀のかわる頃、清潔さや身体のイメージの根拠となるものが、再び変化する。皮膚は、近くできない、何らかの攻撃者にさいなまれ、菌保有者は、集団的な意味で脅威とみなされるようになる。伝染の危険とともに、強調されることがらも変わる。「衛生学において、細菌理論がどこで終わりになるかは予測できない」。入浴と沐浴が、はじめて、目に見えない敵と闘うことになる。「上品な女性のつややかな肌」にも、恐るべき危険が隠されているかもしれない。細菌の大集団が表皮全体に住みついているかもしれないのである。
(中略)
 この清潔概念により、まなざしのあり方もたしかに変わってしまった。見えもしないし、感じられもしないものを消し去ることこそ、この新しい清潔さなのである。もはや、皮膚の黒っぽさ、匂いだけが、身体を洗うことを命ずるしるしなのではない。きわめて透明な水でも、コレラ菌を含むあらゆるビブリオ菌が潜んでいるかもしれないし、どんなに真っ白な肌でも、ありとあらゆるバクテリアが住みついているかもしれない。知覚自体、もはやそれによって「汚れたもの」を見分けることはできない。見分けるための指標は消滅するのに、要求は増大する。こんなことは初めてのことだが、衛生学者は、完璧なやり方を提案しては、撤回を余儀なくされる。懐疑が深まる。
『身体の歴史 第二巻』より

 
 

東畑開人『野の医者は笑う』『居るのはつらいよ』

 

野の医者は笑う―心の治療とは何か?―

野の医者は笑う―心の治療とは何か?―

  • 作者:東畑開人
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: Kindle版
 
心理療法や精神科デイケアや民間療法の景色を描きつつ、みずからの苦悩をユーモラスに吐露し、それらを資本主義社会の仕組みと照らし合わせて論じるすごい二冊。『健康的で清潔で、道徳的な~』で直接引用したのは『野の医者は笑う』だけど、間違いなく『居るのはつらいよ』からインスピレートされた部分もある。『居るのはつらいよ』の特定箇所から引用したというより、全体から何かを受け取ったというイメージ。読みやすくてユーモラスな文体で、重たいことを論じている。
 
 

“マインドブロックバスターに至っては、起業してお金を稼ぐことこそが癒しだと考えている。だからスクールを受けると、次のような考えを抱くようになる。
お金の話をするのは恥ずかしいことではない。深いことを言ってても、食べられなくてはどうしようもない。軽薄だっていい。マーケティングに成功することが何より大事。マインドブロックバスターにはそういう哲学が深く染み込んでいる。
(中略)
資本主義による傷つきは、資本主義的な治療によって癒される。
これが面白い。傷つけるものは癒すものであると、ギリシアの神様が言ったではないか。
早い、安い、効果がある。そういう時代に傷ついた人が、そういう治療法に癒される。そういう治療法は、そういう価値観の人間を生み出すから、そういう時代に生きることを支えるのだ。”
『野の医者は笑う──心の治療とは何か?』

 
 

ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』

 

 
資本主義、とりわけ新自由主義的の広がりとミシェル・フーコー的な考え方を接続するヒントを与えてくれたありがたい本。この本を東畑開人さんのツイッターアカウントで発見しなかったら、『健康的で清潔で、道徳的な~』はぜんぜん違う姿になっていたと思う。新自由主義を論じた他の本はフーコーとの繋がりをわからせてくれなかったし、自分が読んだことのあるフーコーの本とその解説書のたぐいからも新自由主義との繋がりは思い至らなかった。でも、この本のおかげでかなり繋がった。新自由主義のもとで教育機関や農業が直面している問題を論じる箇所も、悲壮感があって読みごたえがある。
 

“新自由主義とは理性および主体の生産の独特の様式であるとともに、「行いの指導」であり、評価の仕組みである。
(中略)
本書が提案するのは、新自由主義的理性がその相同性を徹底的に回帰させたのだということである。人も国家も現代の企業をモデルとして解釈され、人も国家も自分たちの現在の資本的価値を最大化し、未来の価値を増大させるようにふるまう。そして人も国家も企業精神、自己投資および/あるいは投資の誘致といった実践をつうじて、そうしたことを行うのである。
(中略)
いかなる体制も別の道を追求しようとすれば財政危機に直面し、信用格付けや通貨、国債の格付けを落とされ、よくても正統性を失い、極端な場合は破産したり消滅したりする。同じように、いかなる個人も方向転換して他のものを追求しようとすると、貧困に陥ったり、よくて威信や信用の喪失、極端な場合には生存までも脅かされたりする。”
『いかにして民主主義は失われていくのか』より

 
 

面白書籍を教えてくださる皆さんには感謝しかない

 
ほかにも、参考文献に記したものもそうでないものも含め、たくさんの面白い本から面白エッセンスをわけていただきました。いや、本だけでなくアニメ『PSYCHO-PASS』あたりからも影響を受けているでしょう。ブログやツイッターを介して面白い本やコンテンツを教えてくださる皆さんには感謝しかありません。いつもありがとうございます。
 
 

コンテンツに出てこない"強い女性"について

 
 
昨日、非モテ昔話をしたので、もうちょっと陰気な話を続けたくなった。そうする。
 
強い女性、強い男性、といった言葉を人は使う。
では、強い女性とはどういう女性のことなのか。
 
先日、この「強い女性とはどういう女性のことなのか」について、辛口ツイッタラーの小山さんが以下のようなことを記していた。
 


 
 
なるほど政治家の小池百合子さん。女性的でしたたかで、男性社会を見事に遊泳しきっているあの強さは、クシャナやハマーン・カーンや南雲警部といった、"オタクにとって都合の良い強い女性"と雰囲気が違う。クシャナやハマーン・カーンや南雲警部の強さとは、男性オタクにもたやすく理解でき、たやすく理想化できてしまう強さでしかない。それと、ハマーン・カーンには男性社会を見事に遊泳しきってみせる強さは足りないように思う。ほかのガンダム系作品で"悪女"とみなされている面々にしても、小池百合子さんのような強さやしたたかさやタフさを持ち合わせていなかった。
 
ガンダムシリーズに登場する女性のなかには、小池百合子さんとは違ったタイプの強い女性像らしきものをみせてくれたキャラクターがいる。それは『機動戦士Vガンダム』に登場するシャクティという少女だ。シャクティは弱冠11歳でしかないのに、作中に登場するどの女性と比べても強靭にみえた。戦闘で強いとか、政治家として優れているとか、そういった強さだけでシャクティは説明できなかった。男性社会を泳ぎ切ってみせる現実の女性政治家のしたたかさとも違う。それでも富野由悠季監督が描いたシャクティというキャラクターは、どうしようもなく強いようにみえた。
 
 
   *     *     *
 
 
ところで私が日常的に出会う"強い女性"として連想するのは、男性に強い女性、男性を率いる女性ではない。女性コミュニティのなかで屈託なく暮らしている女性、これが(私から見て)一番強くて謎めいていて、それでいて世の中のあちこちで活躍していると感じる。
 
男性との付き合いを大筋では間違えず、男性に侮られることのない女性で。
男性社会にのめり込みすぎるわけでもない女性で。
いわゆるマウンティングともほとんど無縁で。
同性との付き合いにも長け、同性との付き合いにあまり悩むことなく、シンパシー豊かな女性は。
とても強い女性だと私は思う。
 
同性異性とだいたい上手く付き合い、女性コミュニティにもよく馴染んで適応している女性が、私にはよくわからない。わからないから怖くもある。
 
小池百合子さんタイプの強い女性キャラクターがオタク作品になかなか描かれないのと同じかそれ以上に、私がおそれ、それでいて世の中のあちこちで活躍しているあの"強い女性"もたちもまた、コンテンツやメディアの世界、とりわけ男性オタク向けのコンテンツやメディアではなかなか見かけない。
 
そういう"強い女性"がコンテンツやメディアになかなか登場しないのは、その強さが(主に男性視聴者からみて)わかりにくくて、その強さがドラマチックな起承転結のなかでは目立ちにくくて、派手さを欠いているから、なのかもしれない。ガンダムのようなドンパチの激しい作品はもちろん、『宇宙よりも遠い場所』や『ゆるキャン△』などを眺めていても、ここでいう"強い女性"の強さがくっきり描かれているようにはみえない。もちろん『Fate』シリーズや、私の知っているweb小説にも出てこない。
 
たまたま女性向けのweb小説を見かけた時も、この手の"強い女性"が描かれていないか注意を払ったりするのだけど、積極的に描かれている風ではない。
 
ここまで書いてみて、もしかして私が"強い女性"だと思っている女性の強さは、世の中ではそれほど強くないとみられているか、高く評価されていないのではないかと、と自分を疑いたい気持ちになってきた。
 
いやしかし、しなやかに社会に適応し、男性ともわたりをつけ、女性コミュニティでもうまく咲いているあの女性たちはやっぱりとても強い存在のはずなのだ。得体のしれないその強さを、私ははっきりと畏怖している。少なくともそういう女性ならではの強さは実在していて、それは小池百合子さんやシャクティの強さとも、もちろんクシャナやハマーン・カーンや南雲警部の強さとも違っていて、コンテンツの世界では脚光を浴びないしメディアにも露出しないだけで、私はそれを知っているし畏怖せずにいられないのだ。
 
政治や経済や論説や戦闘といった、これまで男性が競争していた領域に切り込んでいった女性の強さとは異質な、コミュニケーションやシンパシーに秀でた感性と感覚を持ち、同性にも異性にも子どもにもそれらを投射し、しなやかに社会に適応してみせる女性の強さを、なんと表現すればいいのだろう。
 
ただ、間違いなく言えるのは、そういう"強い女性"は男性向けコンテンツの世界ではほとんど見向きもされていないし、そういう強さはタロットカードでいう剣のスート(武力や権力や言葉を司る)とはまったく違ったタイプの強さだということだ。同じくタロットカードでいうなら大アルカナの8番「strength(力)」や、金貨のクイーンがイメージに近い。タロットカードを知っている人なら、ここでつかさず大アルカナの3番「empress(女帝)」を挙げるかもしれないけど、脚光を浴びないしメディアにもまず露出しないあの女性たちは、いわゆる女帝肌ではない。女帝よりもずっと捉えにくく、しなやかな強さを身に付けていて、そのことを誇る様子もないように思う。
 
タロットカードを挙げてみて、ちょっとだけ自分がイメージしている"強い女性"について言えたような気がした。これで言語化し尽くしたとは思っていないし、これからも言い尽くせはしないだろうけど、今日はこれで満足しておきたい。