シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

社会が非モテ論壇に追い付いてきた(という不幸)

 
恋心すらセクハラ…若い男性が抱える「新しい生きづらさ」(清田 隆之) | FRaU
 
 
若い男性が恋心を持つのは簡単ではない、ハラスメントに相当するような恋心を抑えながら恋心を持つのは難事業になっている、といった内容のウェブ記事を見かけた。
 
サークル内の女性への親切さから恋心を持つことがあったとして、それは下心あるセクハラとみなされるのか、そうでないのか。これは、当該男女のコンテキストによっても解釈者の考え方によっても色々だろうが、文中のSさんは繊細なリテラシーに基づいて、自分の振る舞いはセクハラに相当したと悩み、後悔していた。続いて紹介されるMさんも、男性の加害者性を自覚するにつれて自己矛盾に陥り相当悩んでいる様子だった。
 
このSさんやMさんほど悩んだり自己嫌悪に陥ったりしている男性はまだ珍しいかもしれないとしても、男性が女性に声をかけるということ、男性と女性のコミュニケーションで気を遣う感覚は、昭和、平成、令和と時代が変わるなかでずいぶん変わったし、一般に、そうした変化は進歩とみなされるものだったと思う。
 
ただ、そうしたなかで男性が女性に声をかけること、さらには恋心を持つこと自体も難しくなったのではないだろうか。もちろん女性が男性に声をかけることもだ。婚活のように社会契約のとおりに男女がコンタクトをとる場合を別として、20世紀に想定されたような恋慕や恋愛のたぐいはどこまで許容されているのだろう? たとえば男性の場合、セクハラ可能性や加害性可能性を意識しつつ誰かに対して恋心を抱き、まして、そこから女性に対するアプローチしていくことはどれぐらい可能だろうか。
 
恋慕や性欲のブレーキとアクセルを同時に踏み込めば、自己矛盾に陥るだろう。その自己矛盾を克服するには、いわば"ある種の器用さ*1"が必要になるわけだが、そういう器用さを万人が持っているとも思えない。不器用な人は、恋慕や恋愛を敬して遠ざけるしかない。
 
  

まさに、十数年前にはてな非モテが議論してきた道だ

 
ところで、私は冒頭リンク先を読んでいて懐かしい気持ちにもなった。
 
というのも、こうした男性の自己嫌悪や自己矛盾やセクハラ可能性・加害可能性については、十数年前に"非モテ論壇"といわれたブロガーたちが議論や慟哭を盛んにアップロードしていたからだ。フェミニズムの考えに基づいて考察を重ねる人もいれば、もっと朴直に自己嫌悪と女性に対する加害性、ときには女性に対する迷惑性を嘆いて泣いている人もいた。しばしば議論が空転し、散らかっていたけれども、とにかくもちょっとしたブームがあったことを私は記憶している。
 

電波男

電波男

  • 作者:本田 透
  • 発売日: 2005/03/12
  • メディア: 単行本
ルサンチマン(1) (ビッグコミックス)

ルサンチマン(1) (ビッグコミックス)

  • 作者:花沢健吾
  • 発売日: 2012/09/25
  • メディア: Kindle版
最強伝説 黒沢 1

最強伝説 黒沢 1

 
そうした非モテの議論のなかには、たとえば『電波男』や『ルサンチマン』や『最強人間黒沢』といった作品もしばしば引用されていて、議論が、意識の高い人たちの空中戦ばかりではなかったことを断っておく。
 
そうした00年代の非モテの議論は、はてなダイアリーを中心地とする一部のブロガーだけの出来事、いわばコップのなかの嵐のようなものだった。非モテの議論と00年代の多数派の通念や慣習には、まだ大きなギャップがあった。恋愛信仰の名残がまだ残っていた時代だったから、というのもあるかもしれない。
 
 
しかし2020年からみると、00年代の非モテの議論が世の中を先取りしていたようにもうつる。つまり、非モテの議論と多数派の通念や慣習との間にあったギャップは縮小しているのではないだろうか。非モテが議論し抱えていた自己嫌悪や自己矛盾が、ごく一部のブロガーや意識の高い人だけが抱え込むものから、もう少し裾野の広い悩みへと広がってきているとしたら……。
 
男性性について勉強を重ねている人々に限らず、いまどきは、男性が女性にアプローチすることにはさまざまなリスクもついてまわる。婚活のような(あるいは風俗業のような!)社会契約上の明瞭なコンタクトはさておき、そうでない社会関係のなかで男性が女性にアプローチすればハラスメントとみなされる可能性があるし、そうでなくても失恋というリスク*2もついてまわる。
 
こうした、恋愛をリスクやコストで考えたがる考え方じたい、非モテブロガーたちが盛んに議論していたものだが、実際、リスクやコストが可視化され喧伝されるなかでなおも恋愛や恋慕をやってのけるためには、リスクやコストを度外視するための飛躍が必要になる。本来、リビドーはそうした飛躍の原動力となるわけだけど、意識の高い若い人が、リビドーにエイヤと身をゆだねるのは勇気が要るだろうし、今日日、そうやって衝動に身をゆだねることに若い人々が慣れているのか、私にはよくわからない。思うに、昭和の"野蛮な"人々ほどには衝動に身をゆだねる訓練をしていないのではないだろうか。
 
また、恋愛や恋慕といったものは、サークルや職場のノイズでもある。「趣味を共にする場所と関係」「仕事を共にする場所と関係」であるとお互いの同意にもとづいて集まっている集団のなかで、そうでない恋愛や恋慕が発生するのは社会契約からの逸脱である。もちろん20世紀の段階では、そのような逸脱が逸脱とみなされることは少なかったし、もっと多種多様な逸脱がサークルや職場でも起こり得た。ところが社会契約の通念や慣習がいよいよ極まってきて、より快適に、より便利に、よりお互いが迷惑にならないように意識が高まり続けてきた結果として、サークルや職場での恋愛や恋慕は忌避されるもの、そこまでいかなくてもノイジーなものへと変わってきた。
 
現在では、典型的な非モテ男性に限らず、女性とのコミュニケーションにある程度慣れている男性でも「自分が恋心なんか持ったら迷惑になる」可能性に思いを馳せないわけにはいかないだろう。それでも無神経な人はどこでだって恋慕するに違いない。だとしても、繊細な人ほど、誠実な人ほど、恋愛や恋慕に対して及び腰にならざるを得なくなる。
 
恋愛や思慕は、社会契約にもとづいた関係のなかではリスキーでコストがかかってノイジーだからだ。他人に対しても、自分自身に対しても。
 
 
 

社会が非モテ論壇に追い付いてきた(かのような)

 
00年代の非モテの議論は、全体として息苦しいものだった。異性にアプローチできないこと、異性を諦めていること、加害性や自己矛盾性を自覚して自縄自縛になっていること、いずれも朗らかさから遠い境地のように私にはみえた。どうしてこんな苦しみが生まれるのか──当時の非モテ論壇のなかには、恋愛市場主義を苦しみの源とみなし、なかにはバレンタイン爆砕デモやクリスマス爆砕デモといったものを企画する人もいた。
 
だが、その後も考え続けるなかで、恋愛市場主義はことの現れのごく一部にすぎず、社会全体のネオリベラリズム化や社会契約にもとづく人間関係の徹底化など、さまざまな変化の帰結として恋愛や恋慕は難しくなっていったと私は考えるようになった。言うまでもなく、恋愛や恋慕の難しさは結婚の難しさともリンクしているし、少子高齢化という大問題ともリンクしているだろう。『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の第四章から第七章は、まさにその周辺について書いたものだ。
 
私は、00年代の非モテの議論からたくさんのことを教わったし、当時のやりとりは有意味なものだったと今は思っている。それと、これは私がネットをやりすぎているからそう思ってしまうのかもしれないが、非モテの議論に限らず、00年代のブロガーたちの議論は10年代後半から現在にかけてのエクリチュールの流通に有形無形の先鞭をつけているようにも思う。もう少し具体的に言うと、現在のネットのアクターや弁士のなかには、00年代のブロガーたちの議論をさまざまに吸収し、自分たちの世代のかたちへ換骨奪胎して開花させている人が少なくない。00年代からブログを書いている者の一人としての私は、そうした継承を嬉しく思う。
 
それでも、社会が非モテ論壇に追い付いてきたということは、この手の悩みや自縄自縛が社会に現れやすくなり、間近になりやすくなった、ということでもある。非モテ論壇の悩みがみんなの間近になってしまう社会の先行きが明るいとは、私には思えない。どうしてこんなに男女のコミュニケーションは難しく、遠いものになってしまったのだろう。
 
[関連記事]:「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」 - シロクマの屑籠
 
 

*1:ここでいうある種の器用さのなかには、天真爛漫なものから自己欺瞞のたぐいまで、さまざまなパターンが想定される

*2:「失恋するのも恋のうち」「失恋も恋の大事な一部」「自分の気持ちをきちんと相手に伝えること」などを貴ぶ人はいまどきはあまりいないようにみえる

自分自身の動物性と和解しながら生きる

 
いくらカネを稼いでも、真の友人や配偶者を求める「我々の動物部分」は決して幸せになれない。 | Books&Apps
 
「いくらお金を稼いでも、人は、それだけでは幸せになれそうにない。」
 
はじめに私がこの疑問を持つようになったのは、バブル景気の真っただ中の1990年、経済的・物質的繁栄が頂点に達していた頃だった。
 
 

豊かさとは何か (岩波新書)

豊かさとは何か (岩波新書)

 
 
日本は経済的・物質的繁栄の頂点にたどり着いた。だからといって日本人がみんな幸せになるはずもなく。お金やモノに恵まれているはずの不幸せな人やお金やモノと引き換えに失っているものについて、たくさんの論説が記された。上掲の『豊かさとは何か』も、そんな本のひとつだ。
 
学生時代の私はこうした本を何冊か読み、「お金を稼ぐだけではどうやら幸せになれないらしい」ことをまず知識として知った。
 
この知識が実感へと変わっていったのは、学生時代が終わり、仕事やオフ会でいろいろな人に出会うようになり、無数の幸福と不幸を垣間見るようになった二十代なかば以降のことだった。
 
『豊かさとは何か』に登場する不幸や喪失は、なるほど実在していた。多少の金銭と引き換えに健康を失ってしまう人々、華やかな夫婦の仮面をかぶった寂しい人々、ブランドものや高級外車などに囲まれていても不幸な人相を顔に貼り付けている人々、等々……。
 
そうした人々をよそに、つつましい幸福を掴んでいる人、満足の境地にある人、つべこべ言いながらも生活を守り続けている人々もまた見てきた。経済的・物質的困窮はいけない。だが、経済的・物質的にある水準をクリアしてしまってからは、人は幸福に、いやそこまでいかなくても大して不幸にならずに生きていける。少なくとも、お金やモノさえあれば幸福になれるものではないらしい。
 
そのことに二十代の私は強く印象づけられた。
 
 

「人間である前に、動物であることを思い出せ」

 
ではいったい、どうすれば幸福に近づきやすく、不幸を遠ざけやすく生きていけるのか。心理学や哲学よりも参考になりそうにみえたのは、進化生物学や進化心理学だった。
 

マザー・ネイチャー (上)

マザー・ネイチャー (上)

 
ホモ・サピエンスの遺伝子がだいたい作られた頃の適応環境(environment of evolutionary adaptedness)に遡って人間の幸不幸について考えたとして、人間が幸福感や快感を感じやすい生き方とはどのようなものか。あるいは人間は、どのような状況を幸福や快感と感じやすく、どのような状況を不幸や辛さと感じやすいのか。
 
食欲、睡眠欲、性欲。これらは三大欲求などと言われるが、太古の昔から社会的生物として生きてきた人間の欲が、三つに分類して足りるほど単純だとは思えない。
 
進化生物学方面の書籍をみるにつけても、実際の人間たちの幸不幸の実相をみるにつけても、人間の欲はもう少しいろいろな姿をしている。性差や個人差もかなりありそうだ。そのことを承知のうえでいくつか挙げてみれば
 
・安定した家庭環境のなかで、親は、子どもが順調に育っていくのをみるとそのこと自体を幸福に感じやすい
・日常的に顔をあわせる人間関係のなかで、毛づくろい的なコミュニケーションができているほうができていないより幸福に感じやすい
・言葉によるコミュニケーションだけでなく、いわゆるスキンシップがあったほうが幸福に感じやすい
・なんらかの役割や栄誉を引き受けているほうが、そうでないより幸福に感じやすい
・喜怒哀楽が多すぎても少なすぎてもたぶん難しい
 
これらが人間すべてにあてはまるわけではないとしても、たいていの人間には多くあてはまり、私自身にもだいたい当てはまるだろうと、三十代の頃の私は推定していた。
 
それなら金銭に最適化した人生を選ぶより、これらの充足にも目配りした人生を選んだほうが幸福に近づきやすく、不幸を避けやすいのではないだろうか。お金やモノがもっと手に入る選択肢があったとしても、これらの欲を蔑ろにしてしまったら、ただそれだけで幸福になりにくく不幸になりやすくなると想定すると、あの不幸な人や、あの幸福な人も説明づけられるのではないだろうか。
 
お金やモノを欲しがる欲はいかにも近現代的で、上昇志向とも一致する。
だから、そういった欲がある程度はあったほうがいいのかもしれない。
 
けれども冒頭リンク先にもあったように、人間の欲は近現代的な、ホモ・エコノミクスだけでできているわけではない。もっと古めかしい、もっと動物的な欲も人間には備わっている。三十代になってからの私は、そうやって近現代的な欲と動物的な欲を折り合い付けることを人生の大目標にしてきた。「私自身の動物性と和解せよ」は今でも私の指針の一つだ。これからもたぶん守っていくと思う。
 
 

意識しなくてもやっている人はやっている

 
私はかなり意識的に動物的な欲に目配りし、自分自身の動物性と和解するようつとめてきたけれども、意識するまでもなく和解している人がたくさんいる。
 
噂話を絶やさない近所のおばちゃん、河川敷でバーベキューをやる家族連れ、地元の居酒屋で歓談しながらビールを飲む常連客のうちに、私は動物性と和解したスタイルを見出さずにいられない。彼らは下手に賢いホモ・エコノミクスよりも低収入で"遅れて"いるかもしれないが、そのぶん、自分自身の動物性を疎外していないようにみえる。動物性を疎外しない生き方を意識しなくてもやってのけられる彼らの姿を、私は羨ましく思う。
 
昨今は新型コロナウイルス感染症によって、いわゆる「新しい生活様式」というのが勧められている。そうなると、スキンシップや毛づくろいコミュニケーションといった三密に抵触するコミュニケーションがやりづらくなるわけで、動物性を疎外しない生き方も難しくなって不幸な人が増えるのでは、と思ったりする。まただからこそ、三密に抵触するとしてもカラオケに集まったり夜の街に繰り出したりする人が出てくるのだろうなとも思う。
 
や、こう書くと「獣は檻へ」とご指摘する人がいらっしゃるかもしれない。でも人間は純粋なホモ・エコノミクスでもましてや法人格でもないのだから、たとえ動物性を檻に入れるとしても、ときどきお散歩させたり毛並みを整えたりしてあげないとかえって危なくないですか、というのが私の意見。
 
 

朝日新聞朝刊にて『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』をご紹介にあずかりました

 
www.asahi.com

 
今朝(7月25日)の朝日新聞朝刊の読書面のコーナー「著者に会いたい」にて、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』に関してご紹介にあずかりました。朝日新聞を購読してらっしゃる方、是非読んでみてやっていただけたらと思います。
 
ところで今回、朝日新聞の記者さんと話していて「新聞というメディアの長所」について話題が盛り上がりました。
 
この「著者に会いたい」のコーナーのインタビューは2時間ほどにわたり、新聞記者のかたはレコーダーによる録音に加え、たくさんのメモを取り、また事前に私の著書などについて入念に下調べをしていらっしゃいました。他の新聞社さんの取材もそうですが、新聞記者のかたは非常にたくさんの情報をインプットするように見受けられます。
 
その記者さんに「新聞というメディアの極意のひとつは、"情報の取捨選択を経た圧縮"ではないでしょうか」と訊ねたところ、「新聞の長所のひとつは間違いなく"情報の取捨選択を経た圧縮"ですね」と答えていらっしゃいました。あるいは"編集"とか"まとめ"と言ってもいいのかもしれませんが。
 
かつて新聞の長所の第一の点は速報性にありました。しかしテレビが出現し、さらにSNSなどが出現したことによって速報性は新聞のアドバンテージではなくなってしまいました。それでも新聞に残されている(そして雑誌などにも残されている)アドバンテージは、一枚のページ、または紙面の一行一行に圧縮された情報です。
 
「著者に会いたい」のコーナーにしてもそうですし、三面記事や政治欄の記事にしてもそうですが、新聞というメディアは限られた紙面を用いて余計なことを伝えず、必要なことだけを伝えることに非常に長けている──少なくとも私の目にはそのように新聞はうつります。世界じゅうのニュースや情報を圧縮することにかけて、新聞、そして雑誌は高いスキルとノウハウを持っていて、読者に提供する情報の質と量という点ではネットメディアの追随をいまだに許していません。
 
ヤフーニュースなどにしても新聞社自身が配信するデジタル記事にしてもそうですが、ネットメディアは、速報性と情報量では新聞を圧倒しているものの、だからこそ、読者が3分間に摂取できる情報の質と量という点では新聞に勝てているとは思えないのです。ヤフーニュースや朝日新聞デジタルを3分間読んだとしても、その日の新聞を3分間読むほどの質・量の情報をインプットするのは難しいでしょう。
 
先月私は「テレビがまとめサイトみたいにみえる」というブログ記事を書きました。
 
テレビがまとめサイトに見える - シロクマの屑籠
 
テレビも新聞もそうですが、ネットメディアが登場したことで失ったアドバンテージはいろいろあったことでしょう。しかし、今でもテレビにはテレビのアドバンテージがあり、新聞には新聞のアドバンテージがあります。テレビと新聞には、制限時間や限られた紙面で必要なことを伝えなければならない制約を負っているからこそ鍛えられた一面があり、速報性に優れたネットメディアに全面的に負けているわけではありません。。
 
ネットメディアが躍進する今日この頃ではありますが、テレビ、雑誌、書籍といった旧来のメディアにもそれはそれで長所があり、使い分けの余地が残っています。新聞記者の方とお話をし、そのことも再確認したので雑感として書いておきます。 
 

編集者という種族とコミュニケーションできなかった頃の話

 
 
 
昨日、twitterの片隅で「書籍を出版することについて」の問答を見かけた。
 
出版社をとおして書籍を出版したいと思う程度は人それぞれで、私は自分の考えていることを書籍にして、ぜひ世に伝えたいと思っていた。けれどもなかなか出版には至れず、ヤキモキした時期が数年続いていた。無駄にした原稿は10万字や20万字では済まない。
 
しかし今思うと、あれは完全に失敗だったし当時コンタクトを取った編集者の皆さん、およびコンタクトの口利きをしてくださった皆さんにご迷惑・ご面倒をかけて申し訳なかったと思っている。今日は、その頃の失敗について書く。

 
 

失敗その1:文章が下手だった

 
失敗その1。単純に、文章が下手だった。一冊の本は10万字前後必要だけど、10万字のボリュームを読み物にしきれてなくて、第一章と第三章でだいたい同じことをリピートしていることがあった。当時の私は今以上に文章が長ったらしくて、およそ不特定多数の読者に届けられるものではなかった。
 
わかりやすい表現で済ませられることを、難しい言い回しやボキャブラリーで書いてしまっている場所もたくさんあった。もちろん、難しい言い回しやボキャブラリーでなければ表現できないこともあるし、そういう時は難しい言い回しやボキャブラリーを選ばなければならないわけだけど、不必要に難しい言い回しやボキャブラリーを用いれば読みにくくなってしまうだけだ。また、ナルシスティックな文体にもなりかねない。
 
そういうことが十数年前の私にはよくわかっていなかった。当時の原稿を手に取った編集者さんは、読みにくくナルシ―な文体に閉口したことだろう。あれじゃあ出版なんてできっこない。ところが当時の私はそのことがわかっていなかった。
 
 

失敗その2:書きたいことと売り物になることの区別がついていなかった

 
失敗その2.自分が書きたいことと売り物になることの区別がついていなかった。これは今でもあまり区別がついていなくて、編集者さんの企画力でパッケージを整えてもらって、どうにか出版にこぎ着けているのが現状だ。
 
編集者さんとのコミュニケーションがうまくいっていなかった頃は、編集者さんの企画力を借りられなかったので、とにかく私は自分が書きたいものを書きたいように書いていた。
 
でも、自分が書きたいものを書きたいように書いて読んでくれるのは、ブログの常連さん、せいぜい数十人ぐらいでしかない。数百~数千人に読んでもらおうと望むなら、書きたいように書くだけでなく、読む人が読んで何かを得るように書かなければならない。それがわかっていなくて、とにかく書きたいことばかり書いてしまっていた。
 
私は今でも書きたいことと売り物になることの区別があまりわからない。これまでの個人ブログではそれは長所たりえたけれども出版の世界では短所、それもかなりの短所だと思う。たぶん私が編集者さんを介さずに(独りで)電子書籍や同人誌を出版しても売り物にならないと思う。
 
 

失敗その3:編集者さんとのコミュニケーションに失敗していた

 
失敗その3.私は編集者さんとのコミュニケーションがわかっていなかった。たとえば原稿を受け取った編集者さんが「ここの箇所は、こんな風になっていますね」と言った時に、それが手直しをしたほうがいい……というか手直しをしなければならない重要なポイントを指摘していることがあって、にも関わらず私は重要だと思っていなかった。
 
いや、重要なポイントかどうかがわからなければ編集者さんに尋ねればよかったのだ。けれども2000年代の私には、それができていなかった。それこそ今の私だったら遠慮なく編集者さんに「おっしゃっている点は、手直しが是非とも必要な箇所とお見受けしました。なら、どんな風に直したものでしょうか」などと食いついていただろうけれども、どこかで私は編集者という種族に遠慮していたというか、怯えていたのだと思う。
 
それと、編集者という種族が進捗を気にすること、それでいて進捗ペースについては筆者に裁量をある程度委ねようとする種族であることも当時の私はわかっていなかった。編集者さんが進捗を気にし、かつそのペースを筆者に委ねてくる以上、締め切りの時期を明らかにしたり進捗について報告したりしたほうが編集者さんとのコミュニケーションは上手くいく。というか信頼関係ができやすくなるというべきか。十数年前の私にはこれがわかっていなくて、進捗が曖昧になるうちに企画の卵が死んでしまうケースがあった。その時は担当編集の方には迷惑をかけてしまったと思うし、私も進捗があいまいになってヤキモキした。完全に、ディスコミュニケーションだったと思う。
 
筆者として能動的に進捗を報告したり締め切りを提案したりするようになってから、編集者という種族とのコミュニケーションはだいぶマシになったと思う。でも、はじめのうちはこれが本当にわかっていなかった。
 
あと、「出版企画として通るか通らないか」についてもよくわかっていなかった。
 
超絶有名人なら、何も書かないか、紙きれ一枚ぐらいの企画書でも社内の出版企画会議はパスするものなのかもしれない。しかし、木っ端ブロガーでしかない私が出版企画会議をパスするためにはかなりの手続きが必要だった。
 
少なくとも私の場合は、出版企画会議をパスするまでに最低限2~3万字クラスの「原稿のミニチュア」を提出するか、いっそ最初から10万字以上の「原稿のプロトタイプ」を提出するかしなければ通らないと思っている。これらをやっても通らないこともあり、憤慨したくなることもある反面、通らなかった「原稿のミニチュアやプロトタイプ」を後で確認するとだいたいツメが甘く、通らなくても仕方ないと思ったりもする。
 
編集者という種族は、書籍を書く助けになると同時に、売れる本を目指さなければならない使命を持っているのだから、売れそうにない企画は中止するしかないことだってある。逆に言えば、編集者という種族とコミュニケーションする際にはそのことを念頭に置いて、できるだけ編集者さんが企画をプッシュしても社内で困らないように(そして売れるように)意識しないわけにはいかない。
 
現在でも、編集者さんとコミュニケーションをとった結果として、企画の卵の卵ぐらいのものが消えてしまうことはしばしばある。企画の卵の運命は、筆者としての私の力量と知名度と都合、編集者さんの思惑や出版社の状況などによってさまざまに決まる。ただ、筆者としての自分にも編集者さんと出版社にも都合や責任があり、そのなかでできる限り良いコミュニケーションを心がけていかなければならないとは感じる。
 
たとえそれが、出版に結びつかない出会いと別れだったとしてもだ。
 
 

失敗その4:しぶとさが足りていなかった

 
失敗その4.しぶとさが足りていなかった。編集者さんにアドバイスを貰ったり「もう少しがんばりましょう」と言われた時に、私は粘るよりも折れてしまっていた。臆病な自尊心があってのものでもあると思う。「もう少しがんばりましょう」と言われたら、編集者さんが少しびびるぐらいがんばるべきだったのだ。熱意を見せるべきだった、と言い換えるべきか。
 
編集者という種族もまた人間の一種だから、熱意を検知するセンサーは装備しているはずだ。というか装備しているようにみえる。10万字書いて「もう少しがんばりましょう」なら、大幅に改造した10万字を再び送るべきだった。あるいは企画を固めていく段階なら、できるだけ早く・できるだけ充実した・できるだけ編集者さんの意を汲もうとした新しい企画書を書いて送るべきだった。
 
 

まだわからない部分もあるけれども

 
これまでに出会った編集者さんは、雑誌やネット媒体も含めて30人ぐらいではないかと思う。これでもって、編集者という種族のことがわかった、などとは言えない。まだわからないこともあるし、ときには失礼や非礼を働いてしまっているのではないかとも思っている(すみません)。
 
それでも、はじめの頃に比べればコミュニケーションの作法行儀や編集者という種族ならではの呼吸や都合について、いくらかわかるようになったと思うし、自分が一番書きたかった本をほとんど書きたいとおりに出版する幸運*1を掴むこともできた。編集者さんをとおして色々なことを教わったりもしたと思う。
 
この文章を書いているうちに、編集者という種族とうまくコミュニケーションをとるための作法書やプロトコルがあればよかったのに、と思ったりもした。いやでも作法書やプロトコルはしょせん形式でしかなく、もっと言葉にしづらい、何かが通じ合うような体験があってはじめてコミュニケーションが成ったと言える気もする。なぜなら編集者さんだって人間なのだから。
 

*1:『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は、日本の娑婆世界について私が書きたいことを85%の純度で書きたいとおりに書けた稀有な企画で、もう、このような幸運は二度とこないかもしれない。本当はもっと時間をかけてみたくもあったが、時機を逃すわけにいかないので2020年の東京オリンピックを目標期限としていた。結果としてオリンピックは消えてしまったけれども。

少子化の根っこにあるのは資本主義・個人主義・社会契約の浸透だと思う

 
BBCジャパンで、「世界じゅうで出生率が下がっていく」という話題を見かけた(以下参照)。
 
世界の出生率、驚異的な低下 23カ国で今世紀末までに人口半減=米大学予測 - BBCニュース
 
少子化は、ヨーロッパ諸国から東アジアへ、次いでそのほかのアジアへ、やがてアフリカへと広がっていくとされている。また少子化そのものが問題なのではない。リンク先で問題とされているのは「あまりにも急激な少子化」だ。
  

IHMEの研究による予測は次の通り。
・5歳未満の人口: 2017年の約6億8100万人から2100年には約4億100万人へと減少
・80歳以上の人口: 2017年の約1億4100万人から2100年には約8億6600万人にまで急増
マリー教授は、「巨大な社会的変化をもたらすだろう。私には8歳の娘がいるので、世界がどうなるのか心配だ」と付け加えた。
とてつもなく高齢化が進む世界で、誰が税金を払うのだろうか? 誰が高齢者のための医療費を払うのだろうか? 誰が高齢者の世話をするのだろうか? これまで通り定年退職できるのだろうか?
「我々はソフトランディング(大きな衝撃を伴わないよう着地)する必要がある」と、マリー教授は主張する。

ここでマリー教授が挙げるスピードが、急激でハードランディングな少子化だとするなら、たとえば韓国や日本やイタリアの少子化は既にハードランディングな、危ない少子化にさしかかっているのではないだろうか。
 
ではなぜ少子化が進んでいるのか。
 
 

「女性が教育を受けるようになったから」は半分未満の解答

 
少子化の理由についてありがちな回答は、「女性が教育を受けるようになったから」だ。もちろん、女性が教育を受ける程度が上昇し、女性が子どもの数を選択できるようになった国や地域では出生率は下がっている。間違った回答だとも思えない。
 
しかし私は、これは事実の四分の一程度を言い当てていても、全容を言い当てていないと前々から思っている。
 
第一に、今日では男性だって挙児(きょじ:子どもをもうけること)を大いにためらう。挙児について判断や決断を下しているのは女性だけではない。実際には男性も女性も子どもをもうけることを、否、それどころか男女交際さえもしばしば諦めている。韓国でいわれるn放世代という言葉は、男女ともに挙児や男女交際を諦めざるを得ない状況をうまく表現している。
 
第二に、そもそも、なぜ教育を受けるようになったら子どもの数を制限しなければならないのか? が問われていない。今日の社会でいうところの「教育を受けた人々」は、女性に限らず、男性もまた挙児をためらう。ときには男女交際さえもためらう。なぜ、教育を受けたら挙児や男女交際をためらわなければならないのか。
 
それは、教育をとおして女性も男性も経済合理性などを身に付けるからではないだろうか。ここでいう「教育を受ける」とは、数学や理科といった自然科学や国語や英語といった語学をマスターするだけのものではない、と私は思う。現代社会の教育プロセスのなかには、個人を経済的に自立した個人として自覚させ、社会契約をよく守った主体(individual)へと教え導く側面がぬぐいがたく伴っている。
 
個人として経済的に自立していなければならず、社会契約をよく守らなければならない(=たとえば虐待やネグレクトのようなことは絶対に避けなければならない)と家庭や学校で教え込まれ、その教えをしっかり内面化した人々は、結果として資本主義や個人主義や社会契約のならいに従って子育てをするべきか・しないべきかを決定する。子育ての方法についても資本主義や個人主義や社会契約のならいに従って見積もるし、実践しようともする。
 
かつて子育ては資本主義や個人主義や社会契約*1のならいに従って行われる以上に、そうした近代的なならいの外側、地域共同体*2の領域で行われるものだった。挙児や子育てには、資本主義や個人主義や社会契約に妥当しない側面がかなりあった。もちろん良いことばかりだったとは言わない──子どもの権利が守られなかったり共同体による抑圧が伴ったりもした。ともあれ、それがかつての世代再生産のならいだった。
 

ヒトの子育ての進化と文化 -- アロマザリングの役割を考える

ヒトの子育ての進化と文化 -- アロマザリングの役割を考える

  • 発売日: 2010/07/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
しかし、子育てが資本主義や個人主義や社会契約のならいに従って行われるようになると、青年期の男女は子育てできるかできないかを資本主義のアングルから、または個人主義や社会契約のアングルから考えるようになる。少なくとも十分に教育され、十分に判断力のある男女はそのように子育てを見据えるだろうし、事実、そのような考えに基づいて首都圏のたくさんの男女が挙児や子育てを(場合によっては男女交際をも)諦めたり先送りしたりしている。
 
だから「女性が教育を受けるようになったから」は事実の四分の一程度しか言っていない。この物言いは、教育による影響を男性も受けているという事実を軽視しているし、そもそも現代の教育全般が自然科学や語学だけを教える思想的にまっさらなものではなく、資本主義や個人主義や社会契約のならいに従うよう個人を導き、その思想や通念に従わせる性質を備えていることを無視している。
 
教育が資本主義や個人主義や社会契約のならいに従うよう働きかけることを、当たり前だと思っている人がいるのかもしれない。しかし、たとえば18世紀以前のキリスト教系の教育機関で行われていた教育などは、そうではなかったはずである。
 
あるいは資本主義や個人主義や社会契約のならいがあまりにも当たり前すぎて、それがイデオロギーであることが見えなくなっている人もいるかもしれない。あるイデオロギーを強固に内面化している人は、そのイデオロギーのとおりに考え行動することがあまりにも当たり前になってしまうので、そこにイデオロギーを見出すことはとても難しい。
 
一例を挙げると、私からみた日本経済新聞はイデオロギー色の強いメディアとうつるが、資本主義や個人主義や社会契約のならいを徹底的に内面化している人からみれば、日本経済新聞は思想的には無色透明なメディアとみえるだろう。
 
現代人たるもの、経済的主体として自立していなければならず、その結果としてファイナンスやキャリアアップを合理的に追及しなければならない。そのうえ、個人主義や社会契約のならいに従って生活し、子育てをも実践しなければならないとしたら、子育てをわざわざ始める必然性自体が乏しい。経済的にも倫理的にも健康面でも出産や子育てにはリスクがあり、ベネフィットのリターンは確かではない。資本主義や個人主義や社会契約のならいをよく内面化し、子育てに挑むゆとりが足りないと感じている人なら、以下のフレーズにおおよそ同意するのではないだろうか。

 できるだけ経済的であれ。できるだけ合理的であれ。社会契約を成り立たせる決まりごとには忠実であれ──親も教師もメディアもそのように説き、不経済な選択を愚かとみなし、不合理な選択を間違っているとみなし、社会契約からはみ出した選択を許されないものとみなす社会のなかで私たちは育てられる。そのような決まりごとをありとあらゆる方向から注ぎ込まれた結果、私たちはそのような超自我を内面化し、ほとんどの人はそうした決まりごとに疑問を持つこともないまま暮らしていく。
(中略)
 骨の髄まで資本主義や社会契約の考え方に馴染んでいる人が、みずからのイデオロギー体系では説明できず、可視化することもできない経験に、時間やお金や体力を費やすとは思えない。少なくともそれは合理的な選択ではないし、収益の期待できる事業とも言いがたい。
 一方、メディアには虐待やネグレクト、子どもにまつわるリスクの話題があふれている。子どもにお金をいくら費やしても、しょせん、親と子どもは別々の主体なのだから、純―経済的には子育てにリソースを費やすより、自分自身にすべてのリソースを割り当てたほうが経済的ではないか──少なくとも私は、子育てを始めてみるまでそうした疑いの念を晴らすことができなかった。
 昭和時代の田舎で育った私ですらそう疑うのだから、令和時代の東京で育つ世代に、私が見出したところの〝子育ての意味〟をあらかじめわかってもらうのは難しそうに見える。そもそも彼らは、そんな資本主義や社会契約の外側に存在するサムシングを理解したいと思っているのだろうか。
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについてより

 
今日でも、ごくまれに資本主義や個人主義や社会契約の考えに馴染まないままの人、いわば「教育の足りない人」ともいうべき人は存在する。
 


 
だが、そのような後先を考えない妊娠や子育てを現代社会は逸脱とみなす。そして社会の秩序から逸脱している点があらわになるや、刑事的・医療的・福祉的な介入によってすみやかに矯正しようとする。そうした矯正の存在も含めて、私たちは資本主義や個人主義や社会契約にもとづいて考え、振る舞うようたえず訓練されている。だとすれば、よほど経済的に自信があって、よほど子育てに関心があって、なおかつ生殖適齢期をたまたま迎えている人でなければ子どもなんてつくれるわけがない。
 
このような見方でみれば、首都圏で子どもが増えないのが至極当たり前のようにみえる。生きていくために沢山のお金が必要な首都圏に住み、なおかつ(田舎者とは違って)資本主義や個人主義や社会契約のならいをしっかり内面化している人々が、よく考えた末に挙児や子育てを避けるのはきわめて合理的な選択だ。今日のイデオロギーに照らして考えるなら、合理的なだけでなく、正しい選択だとも言える。
 
だとしたら、できるだけ合理的で、できるだけ正しく生きようと思えば思うほど、子どもなんてもうけられないし、子どもなんて育てられるわけがない。自分の子供が他人に迷惑をかけてしまうリスクまで考えれば、まさに子育てはナンセンスとしかいいようがない。
 
資本主義や個人主義や社会契約をよく内面化している人々は、この「子育てはナンセンス」を越えるような強い動機や衝動を持たない限り挙児や子育てに至らないのだから、この思想にみんなが馴染めば馴染むほどその地域や国は子どもが少なくならざるを得まい。少子化の要因はほかにもいろいろなものがもちろんあるけれども、この、思想やイデオロギーに根ざした少子化圧とでもいうべきものはほとんどすべての国にかかっていて、ヨーロッパの次は東アジア、東アジアの次は東南アジア……というように思想の伝播とともに広がっている。
 
移民国家は、移民によって少子化を緩和し、労働力の不足をも緩和しているが、あれを見ていると、「まだ資本主義や個人主義や社会契約にイノセントな人々をよそから連れてきて出生力と労働力を搾取している」ようにみえてしまう。いや、それを搾取と呼ばないためにポリティカルコレクトネスをはじめとする大義を彼らは掲げているわけだが、その大義は移民の権利を守り移民を引き寄せるものではあっても、自国の庶民の慰めになるようなものではない。
 
こうした構図は日本国内にもある程度当てはまる。よく教育された首都圏の青年はなかなか子どもをもうけないが、首都圏に集中する仕事や教育や文化に釣られて地方から青少年が集まってくることによって、世代再生産の難しさは誤魔化され、いわば、地方の青少年の血を啜ることによって首都圏は成り立っている。
  
このままいけば(そしてこのままいく公算が高い)、リンク先にあるように移民や人口集中がすべての国や地域に必要になり、移民に来ていただくことの難しい国は人口や地域はどんどんやせ細り、高齢化が進み、社会制度が荒廃するにまかせるしかなくなってしまうだろう。 
 
 

どう考えても、思想や通念を変えていかなければならない

 
資本主義や個人主義や社会契約の内面化がどんどん広がっていくと同時に全世界規模の少子化が進まざるを得ないとしたら、いったいどうすればいいのか。
 
机上の空論はいくつか思いつくけれども、現代において正しいとされている思想や通念に変更を加えない限り、どれも難しそうではある。家族という概念も壊さなければならないかもしれない。
 
いちばん空想的でテクノロジー的にも倫理的にも難しそうなのは、子ども工場だ。人工授精や人工子宮などを駆使し、家族を解体し、すべての子どもの権利をスタンドアロンに確立する。
 

 
子ども工場で子どもが生産される社会といえばハクスリーの『すばらしい新世界』を思い出すが、『すばらしい新世界』を読んだ人の多くがそれをディストピアと捉えるように、それは思想や倫理の次元でも現代の私たちから遠く隔たった、到底実現しそうにない地平ではある。
 
もう少し現実に近い可能性としては、出産や育児を専門家の領域とし、子育てについて素養や専門性のある男女が出産や育児をまとめて請け負うような未来だ。専門家による子育て制度は、資本主義や個人主義や社会契約の思想ともそれほど矛盾せず、官僚制とも馴染みそうだ。出産や子育てを担う専門家が社会のサステナビリティの枢要を担うことをみんなが認識し、社会的尊敬や社会的収入を得られるよう配慮したうえで、子育ての専門家が生涯に10~20人程度の子どもを育てる未来は、少なくとも物理的には不可能ではない。ただ、この場合も家族という概念は完全に壊さなければならない。
 
家族という概念を破壊することなく、この問題を解決する方法もなくはない。それは、「青年期の前半を勉強やキャリアアップに費やし、青年期の後半から壮年期に子育てをオマケのように行う」という現代のライフコースを変えてしまうことだ。
 
今日一般的なライフコースは、出産や育児を他人任せにし、収入やキャリアアップに専心する男性ブルジョワをお手本としたもので、産む側の都合や育てる側の都合に最適化したものではない。近年は女性の権利の獲得が進められてきたけれども、それとて、結局のところ女性が男性ブルジョワのように働くことを可能とするものであって、産む主体、育てる主体に重心を置いたライフコースをオルタナティブに確立するものには(少なくとも私の知る範囲では)みえなかった。
 
ために、現代人のライフコースは事実上、収入やキャリアアップと子育てを天秤にかけることを私たちに強いてやまない。資産家の男性や人並外れたポテンシャルとバイタリティを持った男女だけが、収入やキャリアアップと子育てを無理矢理に両立させられる。そして新自由主義の思想は、このような無理強いを正当化し、基調としては、収入やキャリアアップを子育てよりも優先させることを強いてやまない。
 
だがもし、このライフコースが変更できたら? 
現代人の人生はとても長くなっている。だったら、教育やキャリアアップの時期と産んだり育てたりする時期を入れ替えたとしても人生の残り時間は足りるはずである。十代に一定の教育を受けた後、二十代から子育てに専心し、三十代~四十代にかけて高等教育や本格的なキャリアを積んでいくライフコースに転換できるなら、家族という概念を破壊することなく、資本主義や個人主義や社会契約に背反することもなく、ホモ・サピエンスの生物学的制約に縛られることもなく世代再生産を実践できる。
 
もちろんこれはこれで机上の空論だ。今日のライフコースは社会制度と密接に結びついているため、一朝一夕にこれを書き換えることはできない。だが、技術的にも倫理的にも不可能ではないし、社会のサステナビリティと私たちの生物学的制約を考えるなら長い目で見て現代の無理強いよりはずっとマシなはずである。
 
 
 
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いずれにせよ、資本主義や個人主義や社会契約をますます強固に内面化し、それを判断の基準として生きていく現代人がそうやすやすと少子化を解決できるとは思えないし、この傾向はそれらの思想が途上国に向かって広がれば広がるほど世界的傾向を深め、加速していくだろう。20世紀はそれで構わなかったし、それらの思想を主導する国々が"やりたい放題"をやったところで弊害は少なかったかもしれない。
 
だが、これからもそうだとは思えない。現に東アジアの国々は早すぎるスピードでそれらの思想を取り込み、急速に少子高齢化が進み、移民を獲得する目途のたたない国も多い。移民を働かせ慣れている(そして新型コロナウイルスの蔓延にみるように、移民を大切にしているとも思えない)シンガポールのような国はともかく、韓国やタイ、日本といった国は移民に依存はしきれないだろう。
 
資本主義と個人主義と社会契約のセットは間違いなく社会を豊かにしてくれたけど、たとえば少子化などの領域では、これが足かせとして顕在化しているように私にはみえる。だからそれらの功罪や長所短所をもう一度考え直し、東アジアの国々でも社会が存続できるよう変えられるところは変えていかなければならないとも思う。今はまだ夢物語だとしても、将来のために予備的な議論はスタートしてしかるべきだと思うので、こういった議論にふさわしい人たちによる議論を期待している。
 
 
[関連]:日本の破局的な少子化と、急ぎすぎた近代化 - シロクマの屑籠
[関連]:「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」 - シロクマの屑籠
[関連]:そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。 - シロクマの屑籠
 
 
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*2:ゲマインシャフト