シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ゲームで自分を治す人々と、自分のためのゲーム/世間から逃れるためのゲーム

※前半の「ゲームで自分を治す人々の話」は無料です。後半の「自分と戦う依存症と世間と戦う依存症」は、読者を絞りたいので有料です。
 
ohtabookstand.com
 
松本俊彦先生の記事はいつもすごく面白い。ご自身もニコチン依存的である先生の記事には、依存症についての独特の「雰囲気」がある……などと言葉を飾らず主観を述べてしまえば「わかってくれている」感じがある。これは、松本先生がハームリダクションという、「ダメゼッタイ」ではなく「折り合いをつけながらなんとかやっていこうぜ」寄りのアプローチを唱道していることとも関連しているんだろう。
 
松本俊彦先生のめちゃくちゃ面白いエッセイ『誰がために医師はいる──クスリとヒトの現代論』には、駆け出しの精神科医だった頃の「ダメゼッタイ」にまつわる苦い思い出話が登場する。
 

 
「とにかく先生にお願いしたいのは、薬物の怖さを大いに盛って話していただき、生徒たちを震え上がらせてほしいのです。一回でも薬物に手を出すと、脳が快楽にハイジャックされて、人生が破滅することを知ってほしいんです」
 わかってない。後に薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽におぼれてしまった者などめったにいないのだ。快感がないかわりに、幻覚や被害妄想といった健康上の異変も起きない。あえていえば、多くの人にとってのアルコールや煙草がそうであったように、初体験の差異にはせいぜい軽い不快感を自覚する程度だろう。
 つまり、薬物の初体験は「拍子抜け」で終わるのだ。若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。その瞬間から、彼らは、薬物経験者の言葉だけを信じるようになり、親や教師、専門家の言葉は、耳には聞こえても心に届かなくなる。これが一番怖いのだ。

 
ハームリダクションが依存症治療の現実的なアプローチなのに対し、「ダメゼッタイ」には依存症治療の現実的なアプローチとは異なる成分が混じっていないだろうか? 罰のような、排除のような何かが。そういう懸念や違和感が先生の文章からは強く感じられる。そしてもし、そうした社会の側からの混淆物に医療者自身も乗っかってしまうとしたら?
 
文章から感じられるのと同じ「わかってくれている」感を、私は松本先生ご自身の公演からも感じた。学会会場でお見掛けした松本先生は、ぴしっとしたスーツを着てらっしゃってよくとおる声で、まさにこのハームリダクションとその周辺についてお話されていた。話し上手で、退屈を感じることはない。同業者のかたは演目を見かけたら聴きにいってみるといいと思う。臨床に役立つ興味深さと、人を魅入る面白さの両方お持ちだと私は感じている。
 
それよりも、ゲームで自分を治す人々のことである。 
 
それは私自身のことであり、私が今まで付き合ってきたゲーム愛好家、ゲーオタ(ゲームオタクの略称)といった人たち全般にもよく当てはまるものだ。たとえば私は不登校だった中学生の頃、ファミコン版『ウィザードリィ』にすっかりのめり込んでいて、そこが再起の出発点になっていた。高校、大学はゲーセンで『ダライアス』や『雷電』や『怒首領蜂』にのめりこみ、思春期の一番大事な時間はゲームと共にあった、と言っても言い過ぎじゃない。
 
松本先生も、『誰がために医者はいる』のなかでご自身のゲーセン体験、特に『セガラリーチャンピオンシップ』について語っている。
 

 毎日のようにやっていたのであたりまえの話だが、腕前はかなり上達した。それだけではない。コースの詳細はすべて頭のなかにインプットされてしまい、コーナーごとにブレーキングポイントはどこか、適切なギアは何速かといったことも身体が覚えてしまった。まもなく私は、その店舗の最速ランキング最上位の常連となり、そのゲームに興じていると、周囲には学校を終えた中学生や高校生が集まってきて、ちょっとした人だかりができた。自分がステアリングを操作していると、背後で「見ろよ。この人、すげえ」と噂する彼らの声が聞こえてきたものだ。
 あのころ、あの馬鹿げたゲームに一体どれだけの不毛な時間と小銭を費やしたであろうか。いま当時の自分に会うことができたなら、「おまえ、何馬鹿なことやってんだ」と懇々と説教したいところだ。

馬鹿げたゲーム? なんだとぉ??!!!
 
機械のように正確なゲーム操作を身に付け、ゲームランク最上位に位置し、ギャラリーを沸かせるとはゲーセンの誉れではないか! 確かに医師のキャリアとして考えるなら、ゲームに時間と小銭を費やすのは「ばかげたこと」で「懇々と説教したいもの」かもしれない。だけどゲーオタのキャリアとして考えるなら、こういう体験を功徳のように積み重ねることが肝心、肝要ってもんじゃないかぁ!
 
失礼、少し燃え上がってしまいました。
 
冷静に考えるなら、松本先生はゲーオタというより、キャリアのある時期にゲーセンにふらりと立ち寄ったお客さんだったのだろう。ゲーセンは、たとえばサラリーマンレーザーで『雷電』をプレイするさぼりのサラリーマンのようなお客さんをも包摂する場所だった。また、精神科医になってから感じるようになったのだけど、ゲーセンは学業も仕事も定まらない人がたゆたうことを許してくれる場所、少し世間からはみ出ていたい人がはみ出ていられる場所でもあった(してみれば、大学時代の大半をゲーセンで過ごした私は、それだけ世間からはみ出ていなければならない人だったわけだ!)。ゲーム愛好家やゲーオタでない松本先生が、ゲーセンの体験談を人生の大きなエピソードとしてでなく、些末なエピソードとして回想したとしても、それは責めるべきではないとは思う。
 
でも、私たちゲーム愛好家/ゲーオタ勢は違いますよね?
 
ノーゲーム・ノーライフ。
 
ゲームは人生と社会を繋ぐデバイスドライバであり、アイデンティティでもある。そしてゲームは自分自身を治すもの、もう少し柔らかい言い方をするなら自分自身をメンテするもの、調整するものでもあったはずだ。たぶん、ある時期の松本先生にとっての『セガラリーチャンピオンシップ』もそういうものだったのではないだろうか。
 
私は医学部3年生の解剖学実習とその試験があまりにも嫌で、特に試験に落ちそうな危機に直面して一日15時間ほど勉強する羽目になった時、毎日かならず300円だけ持ってゲーセンに行き、『エアーコンバット22』という大型筐体空戦ゲームを命綱にしていた。昨今の『エースコンバット』シリーズと違って、この『エアーコンバット22』は(制限時間の許す範囲でだが)本当に自由に空を飛ぶことを許してくれ、私はF-14やF-22を駆ってドッグファイトに明け暮れた。
 
これに限らず、ストレスが嵩じてきた時に人生と社会をどうにか繋ぎあわせてくれたのがゲームだった。ある人には、それが煙草だったりアルコールだったりすることもあろうし、ゲームにも煙草にもアルコールにも依存に至る可能性はある。それでも私は『ウィザードリィ』や『エアーコンバット22』や『シヴィライゼーション3』や『ラグナロクオンライン』に助けられながら生きてきた。今だってそうだ。私はゲーム愛好家/ゲーオタとしての自分自身を、医師としてのキャリアのためと言って盲腸の手術のように切って捨てることはできない。
 
と同時に、私はゲームによって自分が成長した、いや、調整されたのだと強く信じている。
 
ゲームベースの「デジタル治療」をFDAが認可、小児ADHDの注意機能を改善 | 日経クロステック(xTECH)
 
アメリカではゲームベースのADHD治療が認可されたという話があり、その研究が進んでいるというが、これが「そりゃそうだよね」と感じるADHDみのあるゲーム愛好家/ゲーオタはかなり多いんじゃないだろうか。
 
私は『雷電』や『ダライアス』や『怒首領蜂』シリーズをプレイし続け、腕を磨くなかで集中力の緩急を随分学んだと思う。ゲーセンに通い始めた頃の私はランダムな攻撃をかわすのは上級者にひけをとらなかったかわりに長時間集中すること・計画的・戦略的にゲーム内外のリソースを使用し、最適なパターンを構築することが苦手だった。そうしたことを身に叩き込んでくれたのはゲーセンのゲームたちだったし、私がいわゆる効率厨となったのだって『シヴィライゼーション』シリーズや『Hearts of Iron』シリーズのおかげだ。
 
これは、自分の子どもを見ていても感じられることで、私の子どもは『スプラトゥーン2/3』や『テトリス99』をとおして注意力を維持すること、忍耐強く、あきらめず、気分のムラによらず戦うことを随分と学んだようにみえる。特に『スプラトゥーン2/3』は、独りよがりにならず、他のプレイヤーのこともよく考えプレイする習慣を提供してくれて良かった。我が家の子育てはゲームアクセスフリーでやっているし、もちろん親子ともにゲームをよく遊ぶ。幸いにして依存症の気配は皆無で、二時間ほど遊んだらぱたりとゲームをやめる。それは、集中してプレイできる限度がそれぐらいであることを、親子ともどもよく知っているからかもしれないが。
 
こういう、ゲームが人生と社会を繋ぎ合わせてくれる点や自分自身のネジを巻きなおしてくれる点は、ゲームをよくやっている人ならだいたい実感しているだろう。そして「ノーゲーム・ノーライフ」という言葉が象徴するように、そこに、なにがしかのアイデンティティが乗っかる場合もある。
 
世の中には確かに、ICD-11のゲーム症に該当するような重たいゲーム依存状態の患者さんが存在し、田舎で精神科医をやっていても「これはいかがなものかと思う」な患者さんが絶無というわけではない。だからゲーム症の治療が不要だとは私も思わない。けれどもゲームを愛好する人には愛好する人なりのことわりがあり、メリットがあり、それで救われているものや調整がきいているものがあるという視点は、ゲームに目くじらを立てる人にも知ってもらいたいものだ。たぶんゲームに限らず、この世にあるさまざまな依存になりそうなものには、やる人なりのことわり、メリット、救われているもの、調整がきいているものがなんらかある。それは仕事でもセックスでもゲームでもアルコールや煙草でもそうだ。ただし、そのような自己治療や自己調整のホメオスタシスが崩れてしまった時、なるほど、それは依存症といわれる姿を呈する。
 
ワーカホリックにしてもセックス依存にしてもゲーム症にしても、社会適応を助けていたはずのものが、社会適応を破壊するようなものに変貌してしまう、いわば「一線」が存在するのかもしれない。not 依存症な人は、その一線を無意識のうちに心得て、それらに頼りつつも身を持ち崩さないよう注意を払っている。
  
私は精神科医ではあるけれどもゲーム愛好家/ゲーオタなので、ゲームで自分を治していそうな人々の、そうしたさまに対して、「ゲームやるな」ではなく「これからもうまく付き合いなよ」といつも思う。でもって、そのように言える人とは、診察室の内側でも外側でも依存症といった病的でコントロール不能な状態にあるのでなく、その人なりの一線を必ず持ちながらやっているものである。逆に言うと、その人なりの一線が決壊した堤防のようになっている時には、確かに依存症治療がゲームという分野に対しても適用されるのは理解できることではある。*1
 
たまたまこの文章を読んだゲームで自分を治していそうな人々にも、私は「これからもうまく付き合いなよ」と言ってみたい。いや、本当は言うまでもないことか。ゲームとうまく付き合っている人は思うよりもたくさんいる。少なくともゲームに自分が破壊されそうになっている人よりはずっと多いだろう。そのことは、こうして折に触れて確認しておきたい。
 
 
 
※本文前半はここまでで、ここまででも文章は完結しています。後半は読む人を絞りたいので有料領域にしてあります。

*1:それともうひとつ。当人にとっては一線を踏み外さないようにしているものでも、社会が、家庭がそれを許さない可能性はあり得る。そうした社会や家庭からの要請は、時代や環境によって案外左右されるものだと思うが、それはこの文章では取り扱わない

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