個人的なプレイヤー視点でゲームの話を書くよ。オチも脈絡も無い。 島国大和のド畜生
上記リンク先の文章に、色々考えさせられた。
そしてゲーム好きな人間の一人として、個人的なことを書きたくなる文章だと思った。
学生時代からこのかた、私はゲームというと「集中する遊び」「技能を高めて達成する遊び」というイメージを持っていた。本当の事を言うと、今でもそういうイメージを持っている。昔、オリンピックのキャッチコピーに「より早く、より高く、より強く」というのがあったけど、私にとってのゲームとは、まさにそれだった。より少ないプレイ回数でゲームをクリアすること・より高いスコアをたたき出すこと・より強い対戦相手を倒すこと。動体視力、推理力、正確なレバー捌き、パターン作成能力etc…そうやって、自分の能力の限りを尽くし、どこまでも上達を志し、どこまでも挑戦する――私にとってのゲームとは、そういうものだった。
シューティングゲームや格闘ゲームのいっぱい置いてあるゲームセンターは、そうやって自分の限界に挑むのにおあつらえ向きの場所だった。カウンターストップ狙いで『コラムス』を何時間もプレイするのは、長距離走のようなものだったし、『怒首領蜂』の二周目は未踏峰への挑戦みたいな気持ちで攻略していた。どうせなら本物のスポーツをやれば健康的で良かったのかもしれないけれど、ゲームを好きになってしまったからにはしようがない*1。
もちろん私も、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーのような“遊び”も大好きだった。けれども、それらはキャラクターの成長は必要とされても、プレイヤーの技能の成長はそれほどには必要とされない。だから中二病全開だった頃の私は、それらをゲームとは呼ばず、ゲームの形をしたエンターテイメントと呼んでいた。当時の私は言っていたものだ――脳神経をギシギシ言わせなくても楽しめるようなものは、ゲームっていうより、映画やドラマみたいなもんじゃないか――、と。*2
けれども、皆が皆、そういう価値観のもとでゲームを楽しんでいるわけじゃない。
ここで、リンク先の文章を引用してみる。
快感密度というと聞こえがいいが、これは集中を要するという意味なので、ゲームするにも真剣にやらねばならぬ。格闘ゲーマーはどの技にはどの技で割り込めて、ガードが成功すれば安定して決まる技が無いかというのを、フレーム単位で把握していたりするが、こんな遊び方を普通の人に求めるのは間違っている。
http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-1979.html
集中力の限界を試すようなゲームプレイ、敵と戦う以上に、まず自分自身と戦うようなゲームプレイは、現在では主流ではない、らしい。いや、そもそもスペースインベーダーの時代から、そんなスポーツみたいなゲームプレイを求める人は少数派だったのかもしれない。今、売れているゲームの多くは、時間に余裕のある学生や、集中力の鍛錬の場にしたがるマニアを“お客さん”にしているわけではない。学生時代の私ならゲームの形をしたエンターテイメントと呼んだであろう、そうしたゲームは、実際、カジュアルな娯楽として、時にはリラクゼーションの手段として、たくさんの人達のたくさんのニーズを充たしているのだろう。それ自体は、貴重なことなんだと理解している。
そういうことを頭では理解しつつも、いや、理解したと自分に言い聞かせても、私個人はいつまでもスポーツみたいにゲームを遊びたい、と願う。
もはや歳を取りすぎ、社会人になって練習時間を確保しづらい私は、ゲームプレイヤーとしての盛りを過ぎてしまっている。三十代にさしかかれば、動体視力の面でも集中力の面でも、ゲームプレイヤーとしては“老兵”だ。それでも、シニアなスポーツ愛好家が自分の能力の許す範囲で全力を出し切るように、私もディスプレイに食らいついていきたいし、自分自身の限界に挑むようなプレイ志向を捨てたくない。もちろん、こういうゲームの遊び方を捨てないということは、身体が衰えていく自分自身を直視し、受け容れなければならない道でもある。それでもいい。それでもいいから、歳を取っても、スポーツみたいにゲームを遊びたい。そういうゲームが、好きになってしまったんだから、しようがないじゃないか。
もう、昔のような上達も、動体視力に依存した弾避けも期待薄だけど、そこにゲームがあり、そのゲームを通して限界に挑みたがる自分のある限り、私は、挑みかかるようにゲームを遊び続けたいと思う。願わくは、10年後の私自身がこの文章を読んで「歳を取っても、まだまだゲームって楽しいね」と回想していることを。
[関連]:ゲームはいつの間にか「攻略」して遊ぶモノじゃなくなってたのね(´・ω・`) - 世界のはて