シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ウイルスまみれの世界でグローバル化とは何だったのかを考える

 
 
今日は不安な気持ちを言語化して、頭のなかを整理しようと思う。
 
新型コロナウイルス感染症がパンデミックとみなされて、いくらかの時間が経った。この間、人の行き来は少なくなってマーケットは素人にはよくわからないことになっている。実体経済はきっと冷え込んでいることだろう。ただ、マーケットの値崩れも含め、これらの出来事はグローバリゼーションと関連のある出来事、というかグローバリゼーションの負の側面や反動として起こっているようにもみえる。
 
グローバリゼーションが進めば、良いことも起これば悪いことも起こる。シルクロードで往来が盛んになった時や大航海時代を思い出せば、それは連想されてしかるべきだった。たぶん誰かが「グローバリゼーションには良いことだけでなく悪いことだって起こるんだよ」と警告してもいただろう。けれどもベルリンの壁が崩壊し、旧東側諸国までもがグローバリゼーションの環のなかに加わった時、あるいは増長しきった西側諸国が「新世界秩序」などという言葉を口にしながら湾岸戦争に興じていた時には、グローバル化の負の部分にハラハラドキドキしていた人はあまりいなかったように思う。
 
やがて、グローバリゼーションの環のなかに中国が加わって急激な経済成長を遂げた。世界じゅうの人々が中国の人々とモノの売買をして、人の行き来をして、たぶん、お金持ちになった。皆がお金持ちになったわけではないけれども、国全体、社会全体、世界全体としてはお金持ちになったはずだった。
 
1.まずグローバリゼーションに対する反動が、人の手によって起こった。
 
グローバリゼーションを良いこととしている人々の大半はあまり意識していなかった(というより意識できなくなっていた)かもしれないが、グローバリゼーションは人やモノを媒介するだけでなく、イデオロギーをも媒介する。資本主義や個人主義や社会契約の考え方に慣れ親しんだ人にとって、グローバリゼーションは無色透明な純-経済的な現象と思えたかもしれないが、そんなはずがない。回教圏からびっくりするような反動が起こった。旧来型の戦争は起こらなかったが大規模なテロは起こり、アメリカがイラクを蹂躙し、その周辺では今も火種がくすぶっている。
 
やがて先進国の内側からも、グローバリゼーションに倦み疲れた人々の声があがってきた。確かにグローバリゼーションは国全体、社会全体、世界全体のお金を増やした。しかし誰もがお金持ちになったわけではないし、誰もがグローバリゼーションについていけたわけでもない。世界経済や経済成長のほうばかり見ていた富裕層やテクノクラートたちはグローバリゼーションの恩恵にありつけない人々を「能力のない人々」とみなし、世話をするよりはお荷物とみなすようになった。グローバリゼーションが能力主義という正しさによって補強されている限りにおいて、グローバリゼーションについていけない人々は、救無能や怠慢のゆえに低賃金に甘んじている自己責任な人々として矮小化されてしまう。
  
そういう風にグローバリゼーションから取り残され、グローバリゼーションを主導する人々から軽んじられた人々もまた、さまざまに声をあげた「世界は豊かになったかもしれないが、俺たちの生活に未来はない」。そうしてツイッター大統領が誕生したりイギリスが大陸から切り離されたりした。世界全体が豊かになること、それ自体に彼らが反感を持っていたとは思えない。しかし、グローバリゼーションに適応している人々が肩で風を切って歩いている一方で適応しづらい自分たちが顧みられず、顧みられなくても構わないということになっている社会の論理には本能的に反感を抱いていたようにみえる。そしてグローバリゼーションの仕組みは容赦なく労働力を値切っていく。彼らがへそを曲げるのも無理はない。
 
 
2.続いてグローバル化の負の側面が感染症となって現れた
 
人の行き来が盛んになれば、経済が発展すると同時に病原菌も媒介されやすくなる。
もちろん防疫に気を遣う人々はそのことを知っていたから、エボラ出血熱やデング熱などには細心の注意を払っていた。家畜の感染症に対してもそうだ。
 
21世紀に入ってSERSやMERSが起こり、今回のCOVID-19がパンデミックになった。「人の行き来が盛んになった時、ローカルな風土病が世界を席巻する」というパターンは天然痘やペストを思い出せば歴史の定番だが、実際にパンデミックになってみるまで専門家以外は気楽に構えていただろう。少なくとも私は全く身構えていなかったので不意を打たれたし、世界でもそういう人はたくさんいたことを示唆する兆候は多い。
 
東アジアで始まったのも、21世紀のパンデミックとして似つかわしかった。中国は世界的な人口密集地帯であると同時に、あまりにも急速に経済発展し、あまりにも急速に人の往来が盛んになった。秘境をいくつも抱え込み、清潔習慣や衛生観念の立ち遅れた人々をも大量に抱えていたはずの地域が、日本よりもずっと早いスピードで経済発展を成し遂げ、全土を高速交通網で覆ったというシチュエーションは、ローカルな病原体が拡散するにはとても都合が良かったのではないだろうか。
 
中国に限ったことではないけれども、あまりにも急速に発展した新興国では、経済発展や交通網の発展に清潔習慣や衛生観念の習得が追い付けないのではないか? 日本ですら、1980年代にデオドラント革命が起こった時、真っ先にそれに適応したのは若い世代で、その若い世代の加齢とともに清潔習慣や衛生観念が徹底していった。そして日本ほど軟水資源に恵まれた国は他所にはあまり無い。
 
清潔習慣や衛生観念が徹底していくスピードよりも、人の行き来が盛んになって病原体が媒介される頻度や程度が上回るようになれば、なんらかの感染症が流行するのは道理。今回流行したのはたまたま2019~2020年にかけて、病原体は新型コロナウイルスだったけれども、実のところ、これが起きなかったとしてもいつかどこかでなんらかの病原体が大流行していたのでは、という思いはぬぐえない。なぜなら、実際に大流行が起こるまでは、人々は経済活動に無我夢中のままで、急速なグローバリゼーションの進行にこのようなリスクが胚胎されていることに関心も予算も差し向けていなかっただろうからだ。
 
 
3.では、これからどうなるのだろう。
 
John__Bullshitさんは、以下のようなことを記していたし、それは、いかにもありそうなことのように思える。
 

 
 
パンデミックが起こったとはいえ、グローバリゼーションの恩恵にあずかっている人も多いわけだから、グローバル化が全面的に否定されるとは思えない。それでも、一連の反動によって調整局面に入ったとは言えるし、考えてみれば、ツイッター大統領の誕生やイギリスのEU離脱などのかたちで政治的には先に調整局面に入っていたとみることもできる。たまたま疫学的・経済的な調整局面が後になっただけのことで、野放図に肯定され、副作用や弊害をあまり顧みてこなかったグローバリゼーションがようやくこれから調整されていくのだろう。
 
そうした調整に伴って、社会の道理──何が正しくて何が正しくないのか、どのような振る舞いが正当とみなされ、どのような振る舞いが不当とみなされるのか──も変わる。グローバリゼーションを正当化してきた思想や倫理もいくばくかの修正を迫られるだろうし、そういう修正をやってのけられるか否かが知識人たちに問われるのだろう。一番単純なことだけ言えば、清潔習慣や衛生観念が世界レベルで変化し、そうした習慣や観念の変化に伴って、期待される現代人像がますます漂白されていくかもしれない。
 
どうあれ、いかに名残惜しくても2019年までのグローバリゼーションはこれでおしまいだ。おしまいと言って、それほど間違ってはいまい。これから、経済も人の往来も私たちの暮らしの習慣や観念も、たぶん思想までもが変貌していく2020年代が始まる。