シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

キャラクターにときめいていられるのは若いうちだけ(だったのでは)

 
今週と来週は、「萌える」という、使われなくなったオタクのスラングについて書く。
 
昔、オタクの"界隈"には「萌える」という言葉があった。
 
自分の好きなキャラクターに対し、思慕が高まったり胸がときめいたり心を寄せたくなるような、そういった気持ちを「萌える」と言った。はじめのうち、「萌える」とは色欲丸出しの表現とは一線を画した、奥ゆかしさや恥じらいを伴ったオタクスラングだったけれども、『電車男』がヒットして秋葉原が脚光を浴びたあたりから、奥ゆかしさや恥じらいが失われ始め、その後、スラングとしては死語になっていった。
 
だが、「萌える」というスラングが消えていったからといって、キャラクターへの思慕やときめきや色欲のたぐいが死に絶えたわけではない。SNSやイベントやオンラインゲーム上では、そうしたキャラクターへの思慕やときめきや色欲がさまざまなかたちで表現されている。それらの表現に触れる時、私は懐かしく思う。「ああ、自分もこんな風に好きなキャラクターを好きだと言っていたなぁ……」、と。
 
と同時に、自分がキャラクターに対して思慕が高まったり胸をときめかせたり心を寄せたりできなくなってしまったことにも気づく。異性のキャラクターにあんなにときめいていられたのは若いうちだけだったのか。
 
 

あの気持ちはどこか遠くへ行ってしまった

 
十年以上前まで、私にもキャラクターにときめく気持ちはあったし、それこそ、「萌える」と呼べる気持ちは確かにあった。
  
その宛先は、惣流アスカラングレーだったり姫川琴音だったり涼宮ハルヒだったりした。感情移入や高揚感、親しみや色欲もあった。「このキャラクターにはどうにか幸福であって欲しい」という願いもあった。作中、または二次創作のなかで、そういったキャラクターが笑ったり頬を赤らめていたりするのを眺めていると、いろいろな感情がこみあげてきた。そういった感情があったから、キャラクターに対して自分自身が前のめりになっていた。
 
ところが三十代の半ばあたりから、そういった前のめりな思慕や感情がなくなってきた。
 
『シュタインズ・ゲート』や『まどか☆マギカ』や『インフィニット・ストラトス』の頃まで、そういった気持ちがどこかに残っていたが、『艦これ』や『ガールズアンドパンツァー』、さらに『ゆるキャン△』の頃になると、もうそういう気持ちはすっかりなくなっていた。
 
世の中には、キャラクターに心を寄せるのでなく、かなり遠い距離から見守りたい・眺めていたいオタクもいると聞く。じゃあ、自分の境地がそうなったかというと……たぶん彼らとも違う。
 
『艦これ』のキャラクターたちに対する気持ちが典型的だけど、今の私は、昔なら思慕が高まったりときめいたりしていたかもしれない女性形態のキャラクターたちに対して、若干の保護者的気分と、さばさばした気分をもっている。遠い距離から見守りたいわけではない。思慕やときめきにもとづいて想像力を膨らませるでもなく。どちらかといえば「こいつ世話しないと」みたいな気持ちに近い。
 
ほかのゲームやアニメのキャラクターたちに対しても似たり寄ったりで、「おいおい、危なっかしい娘さんだな」とか「ふう、どうにか切り抜けた」とか「頑張った頑張った」といった気持ちが先立ってしまう。
 
こういう、保護者的気分とさばさばした気分のミックスを何と呼ぶのか私は知らない。ただ、これが「萌え」だとはちょっと思えない。たぶん「推し」とも違う。
 
十余年以上前、自分がキャラクターにときめくことが困難になるとは思っていなかったし、同世代のオタクたちも、年を取った時の心境の変化を想定していなかった。ところが年を取ってみると、キャラクターにときめくための何かが足りなくなって、キャラクターを好きになることはあってもそれ以上のエモーションで心を湿らせられなくなった自分に気づいてしまった。
 
この文章を書いている途中で、心のなかで「それは、あなたがときめくのに必要な若さを失ったからですよ」という声がした気がした。そうかもしれない。そしてキャラクターに心をときめかせ、パトスを迸らせていられた私の一時代は、それはそれで幸せだったのだと思う。
 
今まさにキャラクターにときめいている人は、今という時間とキャラクターに心を寄せている自分自身の気持ちを大事にして、良い思い出を作って欲しいと思う。