シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

"「萌え」の時代から「推し」の時代へ"について

 
オタクの"界隈"で「萌える」という言葉を見かけなくなって久しい。
かわりに、「推し」という言葉を見かけるようになった。
このことについてtwitterの片隅で幾つかの意見を見かけ、私も何か書き残したくなったので、先週の続きとして書いてみる。
 
「推し」という言葉は、どちらかといえば実在アイドル方面で用いられてきた言葉だったと記憶している。アニメやギャルゲーのキャラクターに対して「萌える」という言葉が頻繁に使われていた90年代後半~00年代中盤にかけて、「推し」という言葉は"界隈"ではマイナーで、いわゆる二次元の美少女キャラクターは専ら「萌える」対象だった。
 
「萌える」という言葉は『電車男』が流行した2005年以降はニュアンスが単純化していったけれども、もともとは多義的なニュアンスを含んだ言葉だった。
 

「萌える」という表現がオタク達のボソボソオタク談義のなかで広がった要因のひとつに、「エロい」とかに比べて恥ずかしさや性的願望を何とかオブラートに包みたい、包みこもう、という必死の願望&努力があったんじゃなかったかと俺は考えている。例えば俺が「茜に萌える」「琴音に萌える」っていう時には、オタク仲間との会話のなかで贔屓キャラを何とかプッシュしたいんだけど(セクシャルな願望を萌えキャラは牽引したりしてるものだから)恥ずかしかったり勘繰られるのが嫌だった。そういう時に「萌える」ってのはなかなか便利な言い回しで、「愛してる」とも「ヤりたい」とも言えず、まして「俺の女」だなんて到底言えっこないオタク的状況下において重宝した。
[参考]:弛緩した「萌え〜」からは、萌えオタ達の複雑で必死な心情が伝わってこない - シロクマの屑籠

 
2006年に書いた上掲リンク先にも記したように、「萌える」という言葉にも「推し」に近いニュアンスは含まれていた。ただし、それだけではない。美少女キャラクターに惹かれていることや性的願望を抱いていることへの気恥ずかしさのようなニュアンスもしばしば込められていて、実際のところ、そういった複数のニュアンスの混合物として「萌える」という言葉がしばしば用いられていた。
 
00年代の中盤以降、"界隈"で「俺の嫁」という言葉が優勢になった時期もあったが、ときには「萌える」という言葉に「俺の嫁」に近いニュアンスを込めている人もいた。そういった、「萌える」という言葉の多義性や融通性は、前後の文脈や語勢などから判断するものだった。
 
ああ、こうやって振り返ってみれば「萌える」という言葉が衰退したのもよくわかる。"界隈"で多義的に使われていた「萌える」という言葉は、『電車男』以降のブームに際して、単純化されなければならなかった。なぜならオタクでない人でも「萌え~」と言えるようになるためには、文脈や語勢とは無関係に使用可能な、単純化された言葉でなければならないからだ。
 
多義性や融通性を前提とした魅力を湛えていた「萌える」という言葉は、ブームをとおして単純化され、単純化されたからこそ死語にならなければならなかった。
 
他方、「推し」という言葉は00年代あたりから"界隈"でも見かけるようになり、10年代以降も用いられている。私もいつの間にか、二次元-美少女キャラクターに「推し」という言葉が用いられることに違和感を感じなくなっていた。それでも「萌える」という言葉を使っていた頃の自分たちの感覚と、「推し」という言葉にはギャップがあると感じてはいるし、私自身は「推し」という言葉をあまり使わない。
 
  


 
matakimikaさんのおっしゃっていることと、私がこれから書くことは一致しているかもしれないし、一致していないかもしれない。
 
当時の「萌える」という言葉には、他人に打ち明けても構わない部分と、打ち明けにくい部分、オブラートの内側に秘めたままにしておく部分があったように思う。「萌える」という言葉の話者のうちに美少女所有願望があってもおかしくなかったし、「萌える」オタクと対象キャラクターには一対一の関係というか、最終兵器彼女的というか、セカイ系的というか、とにかく、オブラートの内側に抜き差しならぬものが隠れていてもおかしくなかった。控えめに言っても、そういう抜き差しならない願望が潜んでいてもおかしくないという暗黙の了解が、「萌える」という言葉のもうひとつの側面だった。
 
「推し」はどうだろう? ひとりのオタクが特定の二次元-美少女キャラクターを「推す」時、「推し」のキャラクターと一対一の関係、セカイ系的な抜き差しならなさは存在するだろうか? たぶん、存在しないのではないかと思う。「推し」という言葉を用いながら美少女所有願望を内に秘めるのは簡単そうではない。代わりに、「推し」にはみんなでそのキャラクターを応援するような、一対多数のような、あるいは御神輿をワッショイするようなニュアンスが潜んでいると感じる。
 
もちろん在りし日の「萌える」オタクたちも、みんなで同じキャラクターに「萌える」と表明しあう時には、御神輿をワショーイするような感覚をシェアすることもあった。「萌える」という言葉の交歓に際して、そういうシェアリングが欠如していたわけではない。が、そういうシェアや交歓の最中でさえ、ハートのなかには自分とキャラクターだけの世界があり、実在の人間に注ぎ込むには過剰で迷惑なパトスがたぎっていてもおかしくないのが「萌える」ではなかったか(にもかかわらず、一方でオタク同士のシェアや交歓をも許してくれる多義性があったからこそ「萌える」という言葉が重宝したのではなかったか?)。
 
ここまで書いてきたことは、"界隈"を眺め続けてきた個人の感想でしかない。だけど個人の感想としては、「萌える」という言葉が衰退し「推し」という言葉が広く用いられるようになったなかで、あの、表向きは奥ゆかしい気持ちの表明のようにみえて、じつはオブラートの下に溶岩が潜んでいるか液体ヘリウムが潜んでいるかわかったものじゃない「萌える」のニュアンス、あるいは美少女所有願望も含めた、実在の人間に投射するにはあまりにも身勝手で過剰でベタベタっとしたニュアンスが消えてしまったような印象を受けなくもない。
 
「尊い」って言葉も、こういう身勝手なエモーションとはちょっと違うように感じられますね。
 
"界隈"からそういう身勝手で過剰でベタベタっとした気持ち自体が消え去ってしまったわけではないことは、さまざまな二次創作からも語りからも窺える。とはいえ、そういった気持ちを簡潔に表明して、それでいて角の立たない表現として「推し」や「尊い」が機能しているとは、あまり思えない。
 
「推し」や「尊い」といった言葉では汲み取りきれないニュアンスは、別の言葉や別の表現に託さなければならなくなっているんだろう。まあ、だからどうしたという話ではあるけれども、「萌える」が流行っていた時代と「推し」や「尊い」が流行っている時代では"界隈"のエモーションの取り扱いの作法も違ってきているのかなーという想像はやはり膨らむわけで、これを書き残しておくことにした。