シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

習慣や規律をインストールする街・東京

 
  

blog.tinect.jp
 
 
人間の意志というものは基本脆弱なものと思っておいた方が間違いなく、「〇〇しようと決意する」というのは基本無意味です。
(中略)
決意しただけで習慣を根付かせられる人というのは、存在しないとまでは言いませんが、まあ稀有でしょう。
 
恐らく「習慣を根付かせる方法」として最強なのは、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」という導線とインフラの整備なのではないかなあ、と。

 
 リンク先の話に限らず、「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」ような導線やインフラは、習慣や規律を身に付けていくにあたって重要だと思う。
 
 たとえば精神科病院などもそうで、病室、ホールの間取り、テレビやテーブルの位置関係次第で患者さんはかなり変わる。
 
 ホールでコミュニケーションをおのずと取りたくなるような病院もあれば、病室に閉じこもっていたくなる病院もある。患者さんが1人でいたい時に1人でいられて、それでいてコミュニケーションしたい時にはコミュニケーションが自然に生まれるような病院空間なら、休息と社会性の回復を両立させやすかろう。
 
 ほとんどの精神科医は、こういった導線やインフラの重要性をよく弁えているから、病院を建て替える際には空間のデザインに細心の注意をはらう。
 
 精神科病院では、医師や看護師のクオリティだけでなく、病院内の導線や空間のクオリティ──患者さんの回復を後押しし、コミュニケーションを促進し、なおかつ安全なインフラとしてのクオリティ──が問われると言っても言い過ぎではないだろう。
 
 
 こういった空間の設計は、もちろん一般企業にも見受けられる。
 
 
 [関連]:場所が変われば、アウトプットも変わる。たかが空間、されど空間。 | Books&Apps
 [関連]:私にはイオンが眩しすぎる - シロクマの屑籠
 
 
 クリエイティブな企業がオフィスに工夫を凝らすのも、ショッピングモールが明るく曲線的な空間づくりに腐心するのも、内部の人間に「自然に動くと、勝手にそれをやっていることになる」を促すためのものだ。いまどきの洗練されたオフィスやショッピングモールは、社員の生産性を高めたいとか顧客の行動を制御したいとか、そういった意図をあからさまにはしない。それでも、間取りから空間設計の意図を逆算する余地ぐらいは残っている。
 
 
 

「東京」というインフラについて考える

 
 このことを、もっと広い範囲で考えてみよう。
 
 東京。
 
 田舎育ちの私には、東京というメトロポリス全体が、行動や習慣を身に付けさせる巨大なインフラにみえてならない。
 
 と同時に、東京に住まう人々は、その東京という巨大なインフラによってすっかり習慣づけられ、規律づけられているとも感じる。
 
 

 
 
 たとえば東京人は、むやみに道路を横切らない。
 
 彼らは横断歩道や歩道橋を使って、定められたとおりに道路を横断する。車の往来が激しい場所はもちろん、車のほとんど通らない住宅地でさえ、横断歩道のない車道を斜めに走り抜けようとはしない。
 
 そして横断歩道でも、赤信号なら律儀に止まる。
 
 自動車がいなくても律儀に赤信号を守り、青になるまで待っている人が、田舎よりもずっと多い。稀に、うらぶれた雰囲気の中年男女や外国人が信号無視するのを見かけなくもないが、そうでない東京人、とりわけ子どもが、信号を無視したり横断歩道の無い場所で車道を横断しようとしたりするのをほとんど見かけない。
 
 これらは東京の平成世代には当たり前かもしれないが、田舎の昭和世代である私からみると、その習慣と規律の徹底ぶりに感動すら覚える。田舎育ちの昭和世代は、横断歩道の無い車道を平気で横断するし、東京の人々ほど(歩行者用の)赤信号を律儀に守ったりはしない。
 
 そして東京人は絶対に立小便をしない! 立小便は、田舎で生まれの昭和世代には珍しくなかったが、東京で立小便を見かけるのはほとんど不可能だ。私は都内の住宅地や周辺郊外を訪れるたび、立小便している男児や男性がいないかチェックしてまわっているが、いまだ、立小便には出会ったことはない。もちろん田舎でも立小便は少なくなっているが、東京に比べればまだまだ見かける。
 
 どうして東京人は、これほどしっかりとした習慣・規律を身に付けているのか?
 
 この疑問の答えを見つけるべく、私は数年間にわたって東京じゅうを徘徊してまわり、人の動きや街のつくりをつぶさに観察して回った。
 
 そうしているうちに、私は気がついた。
 
 「東京という街は、人々に好き勝手な行動をとらせず、おのずと習慣や規律をインストールしていくようなインフラにほとんど覆い尽くされている」。
 
 

 
 
 たとえばこの写真。
 
 都内では珍しくないものだが、この道路には歩行者に歩道を歩かせるためのガードレールが敷かれていて、歩車分離が物理的に徹底されている。
 
 交通量の多い場所はもちろん、交通量の比較的少ない場所でも、都内の道路は歩車分離のためのガードレールが敷かれていることが多い。田舎者の私が横断歩道や歩道橋のない場所で車道を斜めに渡ろうとすると、ガードレールに遮られ、鬱陶しいと感じたりする。
 
 だが、都内に住み続けていて、ガードレールによる歩車分離に慣れ親しんでいる東京の人々は、私ほどガードレールを鬱陶しがったりしないのではないだろうか。
 
 なぜなら、ガードレールや歩道橋や歩行者専用レーンといったインフラに囲まれて暮らしていれば、意識するまでもなく、ごく自然に「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣が身に付くだろうからだ。
 
 私は田舎で生まれ育ったから、「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣があまり身に付いていない。地方の道路にも歩車分離をほのめかす白線はひかれているし、道路交通法は、全国共通ではある。しかし歩行者に歩道を歩かせるための物理的なインフラや導線は都内に比べれば貧弱で、歩行者はいつでも車道にはみ出すことができる。
 
 歩車分離の徹底していない田舎で「歩行者は、何もないところで車道を横断してはいけない」という習慣を身に付けるためには、かなり意識的な努力を積み重ねなければならない。そもそも、中核都市の駅前大通りやバイパス沿いを例外として、そのような習慣は意味をなさない。
 
 ガードレールのほかにも東京には、習慣や規律を守らせ、人々に好き勝手に行動させないようなインフラや決め事がたくさん存在している。決まりきった時刻にやって来る電車を、決まりきったホームの決まりきったレーンで待つこと。標識やガイダンスに従って、立体交差する通路を定められたとおりに歩くこと。自動改札を必ず通過すること、etc...。
 
 東京で暮らす人々は、そういった導線の内側でつねに行動しているし、また行動しなければならない。インフラが提供する導線の内側で動くよう、絶えず訓練させられている、とも言えるだろう。その度合いは地方中核都市の郊外などと比べても顕著だし、まして、地方の町村部とはまったく比較にならない。
 
 と同時に、そのようなインフラと決め事のおかげで東京の人々の流れや行動はコントロールされ、このメトロポリスの秩序が維持されている。
 
 東京は、全国的にみても高い人口密度と、多様な価値観を内包したメトロポリスだが、このメトロポリスが秩序整然とした状態を維持できている背景には、東京の精巧なインフラや導線が人の流れをコントロールしているだけでなく、人々が意識するまでもなく習慣や規律をインストールし、訓練づけられるよう機能しているという側面もあるのではないだろうか。

 
 だとしたら、歩車分離のガードレールも、標識どおりに歩けば目的地に着くようになっている地下通路も、自動改札も、定刻どおりに運行されてホームの停車位置どおりに停車する電車や地下鉄のたぐいも、単に東京を整然とさせているだけでなく、そこで暮らす人々に習慣や規律をインストールし、たえず訓練するための社会装置としても役立っている、ということになる。
 
 
 

施策者の意図にかかわらず、インフラは人の行動や習慣を変える

 
 
 断っておくが、だからといって東京のインフラを作った人々が東京人に習慣や規律をインストールしてやろうと企んでいたとは、あまり考えにくい。
 
 たとえば歩車分離のガードレールの設置目的については第10次東京都交通安全計画に以下のように記されている。
 

(2) 防護柵の整備
歩行者の横断歩道以外の場所での車道横断の抑止と、車両の路外等への逸脱防止を図ることにより、歩行者の安全を確保するとともに、乗員の傷害や車両の損傷を最小限にとどめるため、防護柵を整備します。
(関東地方整備局、都建設局)

 
 ガードレール以外の整備についても、その目的は安全のためや流通の維持のためとされていて、習慣や規律をインストールするといった意図は見受けられない。*1
 
 鉄道会社やメトロがつくりあげた通路網にしても、規則正しい交通機関にしても、本来はトラフィックを維持するためのものであって、地域住民に習慣や規律を埋め込んでやろうなどという意図はおそらく無いだろう。
 
 しかし施策者に意図があろうがなかろうが、インフラや導線は、人を習慣づけて、人に規律を与えて、決め事を守ることが当たり前になった人間をつくりあげていく。交通安全やトラフィック維持のためにつくられたインフラが、結果として習慣や規律にも影響していくのを批判する筋合いはないが、さしあたり、その影響は意識されるべきだろうし、見定められるべきだろう。
 
 東京の諸インフラが、そこに住まう人々に習慣や規律をたえずインストールし、たえず訓練し続けるシステムとして機能して(しまって)いると考えるようになってから、私は東京の街並みが面白くてたまらなくなった。東京のインフラ、導線、決め事が人々に影響を与え続けているということは、ある種、東京は習慣や規律を人々にインストールする超巨大メディアである、と言い換えることもできよう。この、東京というメディアは、なんと面白いのだろう!
 
 さらにここから遡って考えると、「ある時代・ある地域において優勢な習慣や規範意識は、その社会環境のインフラや導線によって少なからず左右される」という一般論を想定したくなる。
 
 どのような思想が流行してどのようなメンタリティが一般的となるのか、ひいては、どのような精神疾患がトレンドとなるのかは、都市のインフラ構造によってかなり左右されるのではないだろうか?
 
 

監獄の誕生 ― 監視と処罰

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メディア論―人間の拡張の諸相

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 この現象のヒントは、もちろんミシェル・フーコーがあれこれ書き残しているし、都市全体をメディアとして捉えるなら、マクルーハンとその弟子筋からもヒントが得られそうではある。とはいえ、「インフラ・導線・決まり事によって、ある地域・ある時代の習慣や社会病理やメンタリティがどのような影響を受けるのか」をテーマにした有力な書籍を、私はまだ知らない。
 
 もし、これをお読みになった人でご存じの方がいらっしゃったら、教えていただけるとありがたい。もし誰もやっていない場合は……できる範囲で調べてみようと思う。
 
 
 

田舎者のほうが考えやすい

 
 
 今の私には、東京のインフラに含まれている導線や決め事と、そこに住まう人々の挙動や意識は、かなり一致しているようにみえるし、おそろしく秩序だってみえる。だから興味が沸くし、そのメカニズムがちょっと恐ろしくもある。
 
 とはいえ、東京に長く暮らしている人には、この感覚はなかなか共有してもらえないかもしれない。
 
 東京というインフラの内側で暮らし続けている人々が、意識するまでもなく身に付けた習慣や規律を省みるのは大変だろう。なぜならこれは、東京というインフラのなかで生活しているだけで、無意識のうちにインストールされるたぐいのものだからだ。
 
 だからこの現象は、東京の人々ではなく、私のように東京を外側から見つめている田舎者が語るのがお似合いではないかと思う。私はこれからも東京のあちこちを巡って、東京というインフラについて、田舎者ならではの視点を書き連ねていきたいと思う。
 
 

*1:交通にかんする習慣や規律については、別個に啓発活動が行われている。