※途中からネタバレがあるので、気になる人は引き返してください。
雨降る日曜日、すずめの戸締りを観に行くことになった。事前に知っていたのは新海誠が監督だということ、それだけだった。
ぜんぶ見終わって、とても良い映画だったけれども自分のストライクゾーンとは違うと感じた。つまんなかったわけでも、感情的に癇に障ったわけでもない。まったく楽しい二時間だった。新海誠監督はこんな作品を日本社会に押し出せる/押し出すようになったのですねと驚いた。尺のテンポもキャラクターも良かった。創作のきわみにある人とその制作陣は、こんな創作ができちゃうのかと痺れまくった。舌を巻くしかない。
前作『天気の子』や前々作『君の名は』に引き続いて、この作品の舞台や出来事にああだこうだ言う人が出てくると予測される。制作側としては、そのように批判する人が出てくることも織り込み済みの仕事なのだろう。そうした、批判を織り込み済みであろう描写があちこちに登場して、なにより、物語の核心にあたるエッセンスを描くことそれ自体も一定の批判が不可避に思えた。しかし、そういった批判に無自覚なほど制作側が無神経にみえたかといったら、そうではない。丁寧だったと思う。丁寧に、批判をする人が癇に障るであろう描写や物語をやってくれたな、と私は感じた。私はそれって良いことだと思う。新海誠監督は、日本じゅうの人が見るアニメ映画の監督さんになってもなお、八方美人はやってない感じだった。
それでも自分のストライクゾーンとは違うと感じたのは、この作品が想定しているお客さんのリストというか、この作品のターゲットに自分自身が含まれていない気がしたからだ。この作品が想定しているお客さんとは、昔だったら『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を見に来るようなお客さんの、2022年バージョンのように私には思えた。もちろん90年代と2022年はイコールではないし、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を見に来ていたお客さんと『すずめの戸締り』を見に来るお客さんも同じではない。いずれにせよ、この作品がターゲットに捉えているのはきっとすごく広い人々だ。間口が広いから、私だってその広い人々の一部になることは可能ではある。それでもなお、この作品がじっと見つめているその目線の先に、私はいない気がした。
じゃあ、この作品がじっと見つめている目線の先に、誰がいたのか?
作中、たくさんの人々が登場する。九州。四国。関西。関東。それぞれの地方の人々が描かれていた。この作品がじっと見つめている目線の先にいるのは、第一に、それぞれの地方で描かれていた人たちじゃなかっただろうか。それは、看護師を志す高校生だったり、教師を目指す大学生だったりする。脇役にも、公務員や自営業の人々、農林水産業の人々が登場したが、彼らはどのように描かれていただろうか?
ネタバレなしで書くのはやっぱり難しい。
ここからは、ネタバレありで書いていくので、観てない人はここで回れ右をしてください。10行以上ほどあけてから、書きたい放題に書き散らそうと思います。
<ネタバレなし、ここまで。>
<ネタバレあり、ここから。>
ここからネタバレありで書いていく。ネタバレが困る人は、今からでもいいので引き返していただきたい。
本当に、気兼ねなくネタバレするので。
この作品は、東日本大震災の津波で母を失い、宮崎県のおばのもとで育てられた岩戸鈴芽(以下、すずめ)が常世と現世を繋ぐドアを閉じる生業をやっている草太に出会い、自分が開けてしまったそのドアを一緒に閉じる場面からテンポアップしていく。すずめは東日本大震災後の幼少期にも常世とのドアを開けてしまったことがあり、その影響でドアが見えてしまい、ドアから現世に向かって溢れ出る地震の源、作中ではみみずと呼ばれている存在も見えてしまう。常世と現世、みみずと地震の存在、さらに災害を抑える要石でもある神猫の右大臣と左大臣が登場することから、この作品では、地震は「戸締りすべき常世と現世の間のドアから溢れ出るみみずによって引き起こされるもの」とみなされていることがわかる。みみずが溢れ出はじめた段階では地震の規模は小さい。しかし、みみずが十分すぎるほど溢れ出て、地表に倒れ込むほどになると規模が大きい地震になってしまうことが、宮崎県でみみずが倒れ込んだ時の描写からみてとれる。
『すずめの戸締り』では、このみみずが溢れ出てしまう描写が宮崎→愛媛→兵庫→東京と西から東へと描かれていく。宮崎や愛媛で描かれているということは、日本のどこにでもみみずは現れる=地震災害は起こるということだろうし、兵庫が選ばれたのは阪神大震災の起こった土地だから、東京が選ばれたのは過去に関東大震災が起こり、今後も大規模地震災害が発生する可能性の高い土地でもあるからだろう。作中、東京の皇居近くの地下のドアからみみずが溢れ出る場面があり、地震が起こったら百万人が死ぬとか誰かが言っていた。この作品では東京は猥雑に描かれてはいない。そのかわり、実は明日をも知れない、いつ地震災害が起こってもおかしくない土地として描かれている。日本列島全体もそうだ。描かれる日本の景観は、どれも美しい。しかしその美しい景色のそこかしこに廃墟があり、失われた過去があり、地震災害が起こるものとして描かれている。
最後に一行は、震災被害地の東北にたどり着き、そこで常世に向かったすずめは要石になってしまった草太を救い出すと同時に(草太と共同で)地震災害を防ぎ、常世からも帰還した。その過程で震災以来のすずめの色々が救われ──ところで、あれを救われたと言って片づけてしまうのはなんとなくしっくりこない。供養? それも違う気がする。うまい語彙が見つからなかったので、ここでは仮に救いという語彙をあてがっておく──、すずめ達は日常へと帰っていく。それが、この物語のいわば主旋律だろう。
では、この物語のベース、通奏低音はどんなものだったのか?
うまく書ききれるか自信がないけれど、それは「生きるって本当はこういうことだ」だと私は思う。
本作品に出てくる生のありようは、現代社会において否定されていたり、遠ざけられてしかるべきもの、防がれてしかるべきものと看做されているものをいろいろ含んでいる。
その際たるものが地震災害による死だろう。死はあってはならない。死は防衛されなければならない。現代社会において死が存在して構わないのは、たとえば病院や施設において人間が最善を尽くしたうえでの旅立ち、そこまでいかなくても秩序だった、ゴロリと現れないような死だ。
私たちは事故死や災害死をあってはならないものとみなし、もちろんそれを避けるために最善を尽くしている。しかし作中で示されるように、本当はそれらを防ぎきることなんてできない。ひょっとしたら地震災害のない、いわばみみずの現れない土地なら可能なのかもしれないが、こと、日本列島に住んでいる限りは自然災害とは背中合わせである。田舎に住んでいても大都市圏に住んでいてもだ。
かけまくもかしこき日不見の神よ 遠つ御祖の産土よ 久しく拝領つかまつったこの山河 かしこみかしこみ 謹んで お返し申す
草太のこの詠唱は、そんな日本列島に住んでいる者の自然に対する態度、ある意味アニミズム的な、『天気の子』の気象神社の神主さんの言葉を連想させる。地震災害も豪雨災害もけっきょくは人智を超えてくる。自然を服従させてきたテクノロジーと思想を西洋から拝借している私たちは、それでもなお、自然はコントロール可能であるべきで、実は自然の一部でもある自分自身の命までもがコントロール可能であるべきだと思いたがっている。しかし現実にはまったくそうではない。災害のるつぼであるこの日本列島では、とりわけそうだ。
と同時に、すずめの振舞いもまた、生きるってのは本当はこういうことだ、を思い出させる。
すずめは家出をする。親に心配をかける。東京では交通規則を守ることができない。服が破れ、靴も履かないでコンビニに入り、そのまま電車に乗る。東京の人々はそれを見て「やばい」とひそひそ話をするだろう。血まみれになった足の血を洗い落とすシーンが私にはすごく良かった。確かに「やばい」。すずめはしばしば「命を失うのは怖くないのか?」とも問われてもいる。そしてすずめは答える。怖くはない、と。
のみならず、スナックでは皆が酒を飲み、芹沢はたびたび煙草を吸う。おいおい、命を失うのは怖くないのか? これらは全て、現代社会の生のありようとして褒められないものかもしれないし、リスクを想起させるもの、生のために避けるべきことかもしれない。
では、すずめの行動は、人々の営みは、否定的に描かれていただろうか?
まったくそうではない。肯定的に描かれていた。もちろん、すずめのように東京の道路で車道を横断するのが好ましいと描かれていたわけではない。すずめの行動は危険だった。けれども、全体としてのすずめの行動のありようは良いものとして描かれていた。少なくとも腫物に触れるような描かれ方からはかけ離れていた。すずめの行動のありようを腫物のように扱う者がいるとしたら、それは、彼女を見て「やばい」とひそひそ話をする者だろう。
と同時に、この災害の国に暮らす人々の営みも、明るく描かれていたように思う。もっとしみったれた、悲観的な営みを描くことだってできただろうけれども、『すずめの戸締り』は、それらをも肯定的に描く。スナックで皆が酒を飲むことも、芹澤が煙草を吸うことも、すずめがおばと言い争いになるシーンもだ。人が生きるということには、そういう部分だって含まれているんじゃないか、そういう問いが『すずめの戸締り』にはないだろうか。震災の後に生きること、この災害の絶えない国で生きていること、明日をも知れない今を生きていくこともだ。
この、「生きるって本当はこういうことだ」を肯定的に描いてみせ、希望を示すこと、それが今作『すずめの戸締り』の通奏低音で、前作『天気の子』ではあまり聞こえてこず、前々作『君の名は』でもそんなに強く聞こえてこなかったものだった。私は、ここが本作のいちばん濃いエッセンス、主題に限りなく近いものだと想像する。
このあたりが、同じく自然災害が登場する『天気の子』や『君の名は』とも異なっているところだし、『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『雲の向こう約束の場所』などのテイストを期待して観に行ったら肩透かしを食うところではないかと思う。たとえばセカイ系という語彙は、この作品にはおさまりのわるい語彙だと思う。要石になった草太を救う/救わないの逡巡は端折られていたし、結局、要石の役割は右大臣と左大臣という神猫が引き続き引き受けることになる。もっとセカイ系くさい物語にすることもできただろうけれども、それはオミットされたのだろう。ということは、セカイ系というスコープで本作の良し悪しを推しはかるのは、筋違いではないだろうか。
本作の生の描かれ方、「生きるって本当はこういうことだ」の描かれ方は、現代社会において人間が定めた死生観、特に自然を飼い馴らしてきたテクノロジーと思想の延長線上に生きている人、リスクマネジメントに基づいて自他の生きるということを思科するのが専らの人には not for me ではないかと思う。また、新海誠監督はそのような人のほうを向いて本作を作ったのではなく、まさに今「生きるって本当はこういうことだ」のように生きている人々、いわば、すずめやルミや芹澤のように生きている人のほうを向いて本作を作ったのではないだろうか。
ここまでを読んで、じゃあすずめやルミや芹澤のように生きていない人ってどういう人だい? と思った人もいるだろう。答えるなら、それは本作で描かれている「生きるって本当はこういうことだ」から隔絶された死生観を内面化し、また、そのように生きることが許されていた人々だと思う。それは、色々な意味でへいわぼけした世代のことであり、東日本大震災以降の社会の様相を通常運転とみることができない人々のことでもある。私には、今の人々は氷河期世代などと比較しても、すずめやルミや芹澤のように生きているようにみえる。一面としては、今の若い世代は未成年犯罪を犯すパーセンテージも低いし、食習慣もより健康的だし、団塊世代や団塊ジュニア世代と比較してもリスクマネジメントに基づいた生活を身に付けているが、その一方で、自他の命がたやすく失われるものであり、脆くてはかない基盤のもとに生きていること、そうした死生観にたったうえで生を謳歌することを知っているようにみえる。そういった反映として、すずめが愛媛や神戸を発つ時、千果やルミとすずめは今生の別れであるかのように印象的な挨拶を、約束を交わしていたのだろう。
こういう作品が大手を振って上映される時代とは、不幸な時代なのかもしれない。それでも、いつの時代でも人は生き、生きていく限り希望はある。災害が発生する国でも、先行きが見通せなくても、人は笑い、幸福を求め、また会おうと約束しあって別れるだろう。そういうことを『すずめの戸締り』は訴えかけているように私にはみえて、それはそれで好ましいものだった。私は引き返しのできないほど年を取ったが、それでもすずめのように生きたい。でも、私はすずめのように真っ直ぐ生きられているだろうか? そういう自問がよぎる。ああ、そうやって考えてみれば、自分のストライクゾーンではなくても、この作品は私になんらか効果があった作品だったわけだ。生きて、生きて、いつか私は死ぬのだろう。その日まで、良く生きたい。──そんなことを私はこの作品から受け取ったのかもしれない。