シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

子ども部屋から少子化を考えてみる

 
90万人割れ、出生率減少を加速させる「子ども部屋おじさん」:日経ビジネス電子版
 
 日経ビジネスに、随分なタイトルの記事がアップロードされていた。内容はリンク先を読んでいただくとして、さしあたり「子ども部屋おじさん」という語彙が生まれるほどには子ども部屋というのは定着したのか、と改めて思った。
 
 
 子ども部屋は最初から世のご家庭のスタンダードだったわけではない。
  

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌

 
 昭和以前の農村社会の間取りをみると、そこには子ども部屋というスペースが存在しない。家屋はイエのものではあって夫婦や子どものものではなく、そのうえ座敷や客間は地域と繋がりあっていた。そのような家屋しか無かった時代には「子ども部屋おじさん」という語彙は生まれようがなかっただろう。
 
〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 
 これは日本に限ったことではなく、子どもや夫婦がそれぞれにプライベートな部屋を持つ習慣はヨーロッパ社会でも比較的最近になって生まれたものだ。近世以前までは、夫婦や子どもはもちろん、使用人までもが同じ部屋で、同じベッドで同衾することが当たり前だった。農民のたぐいだけでなく王侯ですらそうだったというから、「子ども部屋」とは後代の発明品だ。
 
「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))

 
 日本に「子ども部屋」が本格的に浸透していった時期は、戦後になってからのことだ。『「いえ」と「まち」 住居集合の論理』で戦後の集合住宅の間取りを確かめると、戦後も間もない段階では、農家に近い間取りの集合住宅がつくられていたことがみてとれる。3LDKなどの現代的な間取りが定着したのは、高度経済成長期以降のことだ。大都市圏でつくられた真新しい住まいで暮らす若夫婦から生まれた世代からが、子ども部屋に馴染んだ世代、と言ってしまって構わないだろう。東京や大阪のニュータウンで1960年代に生まれ育った人なら、子ども部屋を与えられて育った可能性が高い。
 
 
 試みに、アニメに出て来る部屋の間取りを確認してみよう。
 
 『サザエさん』のカツオやワカメは、二人で子ども部屋を持っている。サザエさんとマスオさんとタラちゃんは三人で一部屋。磯野家には一応子ども部屋はあるが、子ども一人に一部屋ではない。
  
ozappa.com
 
 上掲の不動産屋さんのウェブサイトに行くと、磯野家の間取りを確かめることができる。廊下に電話が据え置かれ、家の隅に便所があり、廊下が軒下で外界と接している磯野家の間取りは、現代のマイホームとはかけ離れている。一応、若夫婦の部屋が別になっていて子ども部屋もあるにはあるが、家庭の、ひいては個人のプライベートに最適化しているとは言えない。
 
 
 『ちびまる子ちゃん』のさくら家も参考になる。
 
www.homes.co.jp
 
 不動産屋さんはこういうのが大好きなのか、さくら家の間取りを熱心に考察しているウェブサイトを見つけた。磯野家と同じで、廊下があって子ども部屋もあるけれども、まる子姉妹が別々に部屋を持つには至っていない。
 
 この不動産屋さんのウェブサイトにも記されているように、磯野家やさくら家には「廊下」が存在していて、この「廊下」によってそれぞれの部屋のプライバシーは一応保たれる格好になっている。こうした間取りは中廊下式住宅といって昭和時代に流行したもので、部屋と部屋が襖でじかに接しているそれ以前の住まいに比べればプライバシーに配慮されたものだった。過渡期の間取りといったところだろうか。
 
 
 ちなみに『妖怪ウォッチ』の天野家はどうかというと、こちらは2LDKとのこと。
 
iemaga.jp

 
 三たび不動産屋さんのウェブサイトを参照すると、ここでは子ども部屋が完全にケイタ君一人のものとして独立している。しかし子ども一人に一部屋だとしたら、この2LDKの住まいではこれ以上子どもを育てることはできないし、実際、ケイタ君は一人っ子だ。子ども部屋を一人に一部屋あてがう計算でいくなら、二人の子どもをもうけるには3LDK以上が、三人の子どもをもうけるには4LDK以上が欲しくなる。
  
 

少子化のボトルネックとしての「子ども部屋」

 
 冒頭リンク先は、少子化に関連した話題として子ども部屋と未婚男性を挙げている。が、子ども部屋と少子化を関連付けて語るなら、「個人のプライベートを重視した子育てでは、子どもが増えれば増えるほど部屋が必要になり、とりわけ大都市圏では子どもの数の上限を決定づける」のほうが筋が良いんじゃないかと私は思っている。
 
 さきほど、『妖怪ウォッチ』のケイタ君の家を挙げたが、子ども一人に一部屋を用意する感覚では、2LDKの間取りでは子どもが一人しか育てられない。ケイタ君が弟や妹が欲しいと言っても、それは家屋の間取りからいって不可能だ。とはいえ天野家のご両親が3LDK以上の家屋を用意しようと思えば、それなりの経済力が必要になる。
 
 2LDKや3LDKといった家屋のサイズは、そのまま家族構成の人数を決めてしまう。少なくとも「子ども一人一人に子ども部屋をあてがうべき」という習慣に沿って子育てしようと思うなら、そうだと言える。「子育てにはカネがかかる」とはしばしば言われることだが、それは教育費だけが問題なのでなく、家屋の間取りにしてもそうだ。現代の習慣に従うなら、小さな家屋では現代的な子育ては不可能だから、子どもをたくさん育てたければ大きな家屋を用意しなければならなくなる。地方に住んでいるならともかく、住まいのスペースに汲々としなければならない大都市圏、とりわけ東京で大きな家屋に住むのは簡単ではない。
 
 教育費の高騰だけでなく、「子ども部屋」にかかる経済的コストもネックになっているから、東京に住まう男女が子どもをたくさん育てるのはいかにも難しい。
 「子ども部屋はあってしかるべき」というプライベートに関する習慣さえなくなれば、この限りではないかもしれないが。
 
 

「プライベートな部屋、プライベートな個人生活」の根は深い

 
 
 「個人のプライベートな生活」についての習慣はしかし根深い。
 
 先にも触れたとおり、それは近代以降の西洋社会に始まって、中~上流階級の家庭から庶民の家庭へと広まっていった。子ども部屋の誕生と個人のプライベートな生活の誕生は、おおむね軌を一にしている。
 
 日本で個人のプライベートな生活が持て囃されるようになったのは1980年代あたりからだ。戦後の新しい家屋で育った、まさに子ども部屋を持った都市部の若者から順を追って、個人の生活はプライベート化していった。その最たるものは、1980年代に登場した「オタク」と「新人類」だ。
 
 少なくとも20世紀の段階では、オタクは子ども部屋がなければできないものだった。なぜならSF小説にせよ漫画にせよアニメのLDにせよ、本気で追いかければ追いかけるほど収納スペースが必要になり、誰にも邪魔されずに観賞できる空間が必要になるからだ。たとえば昔の農家の家の家庭環境では、だからオタクはやりようがない。
 
 それ以前の問題として、時間や空間を一人で占有するというプライベートな感覚が、農家の家では生まれにくい。地域共同体での生活、特に農家の生活は時間や空間を他人と共有するのが当たり前だったから、そういう意味ではオタクを生んだのは子ども部屋と言っても過言ではない*1
 
 新人類もまた、消費個人主義の先端を行く人々だった。ワンルームマンションに住み、朝シャンをして、コンビニでスタンドアロンに用を済ませる当時最先端の消費生活は、とりもなおさず個人のプライベートに根差していた。ある意味、ワンルームマンションは子ども部屋の延長線上に位置付けられるインフラと言っても良いかもしれない。地域共同体からはもちろん家族からもセパレートされた、個人のプライベートの内側だけで生活を完結させるためのインフラが、ワンルームマンションだった。
 
 そして新人類たちはオタクをユースカルチャーのヒエラルキーの底辺に位置付けると同時に、非-消費個人主義的な、昔ながらの地域の若者をもダサいと見下したのだった*2
 
 新人類とオタクは1980年代には新しいライフスタイルの具現者だったが、彼らのスタイルは1990年代以降は希釈化されながらも全国に定着化していった。その全部ではないにせよ一因は、子ども部屋の普及にあると思う。全国の団塊世代が郊外のニュータウンにマイホームを構えはじめた時、その新居には子ども部屋があった。子ども部屋を与えられ、自分だけの時間と空間を過ごす習慣を身に付けた団塊ジュニア世代は、オタクや新人類のフォロワーたりえた。時代のトレンドもまた、そのような個人消費主義を望ましいものとして称え続けてきた。
 
 令和時代の私たちは、そうした習慣やカルチャーの流れの延長線上にいて、個人のプライベートな感覚をしっかりと内面化している。そんな私たちがプライベートな感覚を撤回したライフスタイルをやってのけるのは、おそらく簡単ではない。たとえば2LDKの家屋で子どもを3人育てるのは物理的には不可能ではないが、個人のプライベートを守りながらそれをやってのけるのは、やはり不可能だ。個人のプライベートな意識が確立し、それに見合った機能が家屋に求められる習慣のもとでは、子どもの数だけ部屋も必要になる。
 
 

子ども部屋を撤廃できるものか

 
 戦前から戦後にかけて、私たちの家屋は大きく変わり、個人のプライベートな感覚もすっかり定着した。このことを踏まえて考えると、子ども部屋もまた、これはこれで子どもの数を制約する一要素と考えたくなるし、子ども部屋と少子化を関連づけて考える余地はあるように思う。
 
 では、私たちは子ども部屋やプライベートな個人生活を捨てることができるものだろうか。
 
 子ども部屋は、私たちの個人としてのプライベートな意識や生活を象徴するとともに、それと不可分な関係にある。
 
 個人のプライベート化が近現代の先進国にほぼ共通してみられた流れだけに、それらを本当に捨てられるものなのか、私にはちょっとわからない。
 
 

文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

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*1:このことに加えて、たとえば放課後の塾通いのような個人のスケジュール化によっても個人化は促されるが、それはまた別の機会に。

*2:補足すると、子ども部屋がなければオタクも新人類も、サブカルもやれない。他方、1970年代以前の不良や1980年代以降のヤンキーは、子ども部屋がなくてもやれなくはない。