シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

実写版『惡の華』についての個人的メモ

 
www.cinra.net
 
 
 リンク先のCINRA.NETさんに、映画『惡の華』についての文章を寄稿させていただきました。実写映画について寄稿するのは今回が初めてで、どうして私にお鉢が回ってきたのか少し不思議だったのですが、実際に作品を観てみると、なるほど、私に声がかかってもおかしくなさそうな内容でした。
 
 数年前に放送されたアニメ版は、ちょっと尻切れトンボな展開だったこともあって、思春期を茶化しているのか美しく描こうとしているのかわかりにくかったのですが、こちらはそんなことはありませんでした。間違いだらけの中学時代を間違いだらけのものとして描き、なおかつ、それが貴重な一時代で、普遍的なものであるというメッセージが含まれていると、私は感じ取りました。
 
 主人公である春日の行動はとことん恥ずかしく、間違っていて、痛々しいものでした。が、中学生男子とは本来そのようなものではないでしょうか。「文学少年を気取った中学生男子が二人の女子に挟まれる」、というのは本作のフィクショナルな設定ですが、そのフィクショナルな設定をとおして描かれる中学生男子の実態がとてもリアルで、本作の見所のひとつだと思います。
 
 すなわち中学生男子の実態とは、未熟で、自己中心的で、リビドーの抑えが効かず、多感ゆえに流されやすく、大人を気取りたいけれどもまだ気取れない、そのような実態です。
 
 いまどきの中学生は、中学生になる前から中二病という言葉を知り、オンラインで繋がるようになってしまっているため、『惡の華』で描かれたとおりに中二病を炸裂させるのは難しいでしょう。中学生が大人の定めたルールからはみ出して構わない範囲は、昔より狭くなっているようにみえます。
 
 でも本当は、中学生という境遇には春日や仲村さんのように大人の定めたルールからはみ出せる力があったはず。それでも社会に戻れる余地もあったはず。そういうことを思い出させてくれる作品ではないかと思います。以下、冒頭リンク先には書きようのなかった、気に入ったところや考えたことなどを箇条書きにメモっておきます。
 
 
 
  
 
 (以下、ネタバレを含んでいるのでこれから観に行く人はご注意ください)
 
 
 
 
 
   
・春日がクラスメートの男子と帰る時の猥談がめっちゃいい。このシーンでは、春日がプリミティブな性欲を文学少年というキャラクターで一生懸命に繕っているようにみえた。もちろんこれは取り繕いでしかなくて、春日は体操服を拾ってしまうし、胸チラや透けブラにも滅法弱いのだけど。一人の視聴者である私からみると、それこそが春日の魅力だ。
 
・春日ぐらいの年齢の男子が性欲がちゃんと露わになって、未熟を未熟にやってのけられるのは発達の順序として良いことなのだと思う。女子たちもそうだ。未熟と未熟が出会いながら大人になっていく。ただ、それがお互いを傷つけることもあるし、大きな逸脱を生むこともある。本作ではそうならなかったけれども、帰らぬ旅路になることさえあるだろう。それらを危ういと否定するのか、それでも尊いと肯定するのか。この作品は後者の立場に重心が置かれている。
 
・図書室で仲村さんに体操服とブルマを着せられる春日は、口ではやめろと言ってはいるけれども真面目に抵抗していないようにみえた。で、体操服とブルマを着せられて、めっちゃ嬉しそう。どこかボーっとした、恍惚とした表情。仲村さんに比べると春日はどこか受身だ。あれはマゾい表情だと思う。
 
・佐伯さんは、アニメ版に比べて硬いキャラクターとして演じられていて、これが仲村さんとはトーンの違う危うい感じになっていて良かった。仲村さんは、思春期が次第にテンパっていく過程がよくわかる感じで、高校編では憑き物がとれたみたいになっていた。佐伯さんのキャラクターのほうが「引きずりそう」な感じがあって、事実、引きずっていた。心療内科に通っても引きずるものは引きずるだろう。
 
・この作品では、ボードレールの『惡の華』がたびたび踏みにじられていた。中学生には『惡の華』はまだ早く、「あの山の向こう側」に辿り着くことなどできやしない。春日と仲村さんは、そういう重たい日常の外に出ようとあがいていたが、河川敷の小屋は燃え、祭りの屋台では取り押さえられてしまった。まあよく頑張っていたと思う。現実の中学生にできることは、せいぜい、本をを読み耽ったり踏みにじったりすることだけだから。
 
・仲村さんの親父さんは、昼間から瓶ビールを飲む(そして瓶ビールを母親に出してもらう)キャラクターで、そんな親父さんが舞台乗っ取りのシーンで仲村さんを制止し、おそらく母親のもとに仲村さんを送るよう決意したのは美しい話だと思った。春日の親父さんも、文学趣味のこれまた不器用そうな人物像で、高校編で大宮に移ってからの、ウイスキーのグラスを前にうずくまる姿が印象的だった。この年齢になると、親父さんがたの行動や境遇に身を寄せたくもなる。果たして私は、あんな風にうずくまる父親になれるのだろうか? と自問せずにいられなかった。
 
・河川敷でいろいろあった後の佐伯さんが、仲村さんに「方言」をぶつけるシーン、そうか、佐伯さんはもともと方言を話していたのが標準語で取り繕うようになっていたんだ……という発見があった。この映画の舞台になっているのは群馬県桐生市、首都圏との距離がこれぐらいだと、思春期になって方言を隠すようになるんだろうか。そうかもしれない。佐伯さんの自宅は「育ちの良い家」のようにみえたけれども、小学生まではちゃんと方言を話していたのだろう。地方都市では、それはむしろ豊かなことだと思う。そんな佐伯さんが無軌道に突っ走ってしまうのが中学生という季節なのだからたまらない。親御さんとしては、肝の冷える思いがするだろうけれども。
 
・中学編のクライマックスである舞台乗っ取りで、春日と仲村さんがテレビに映っていた。この事件をきっかけとして春日と仲村さんは転居したのだろうけれど、2000年代以降にこういう事件が起こったらネットに流れて拡散し、学校氏名が特定され、たぶん学校で起こった下着泥棒の件なども芋づる式に匿名掲示板に曝されて、再起不能になると思う。『惡の華』が物語として着地点に着地するためには、インターネットが普及していない世界が必要だった。この作品は令和時代の中二病のありかたではなく、ネットが普及する以前の中二病のありかたに即していると思う。ブルマやブリーフが登場する点からいっても、この『惡の華』の時代設定は校内暴力や暴走族が流行っていた時代よりも後で、中二病という言葉をみんなが知り、みんながインターネットで繋がってしまう前ぐらいと想定した。
 
・とはいえラストシーンで「こういう思春期のドライビングが終わったわけではない」ことが仄めかされている。では、令和時代に思春期がグイングインと音を立ててドライブする場はどこにあるのか? ちょっと昔なら、迷わずオンラインの世界がそれだと言うことができた。インターネットがアングラの地だった頃は、オンライン空間全体が作中の河川敷の小屋みたいなものだった。しかし今日はどうだろう? ローカルなやりとりでも簡単にスクショを撮られる現在のオンライン空間は、いわばガラス張りの地だ。かといって、オフライン空間に思春期をドライブさせられる場があるのかどうか。なにしろ小学生のうちから「中二病は痛い」と悉知されている世の中なのだ。そのことの難しさに思いを馳せずにはいられなかった。