シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

牧瀬紅莉栖は「どこにでもいるあざとい萌えキャラ」なのか――特定のキャラクターを好きになるという事について

 
 牧瀬紅莉栖かわいいよねっていったら
 そいつもおまえも、わかってないな。 あれは、女性化願望であって、女性に..
 
 正月、はてな匿名ダイアリー上で、『Steins;Gate』の牧瀬紅莉栖について、こんな文章が見つかった。
 
 

牧瀬紅莉栖かわいいよねっていったら
あー男のオタクって
・バカじゃない女で
・男側がある程度自由にコントロールできて
・オタクネタについてきてくれて
・世界で彼女だけは自分を理解してくれる   
みたいなやつ好きだよねー。
あのキャラ男オタクの欲望だだ漏れすぎて引くわー

http://anond.hatelabo.jp/20120103005033

 つまり、牧瀬紅莉栖は、美少女所有願望を充たすのに都合の良いキャラクターだからキモい、ということらしい。これに対して、以下のような反論がついている。
 

そいつもおまえも、わかってないな。
あれは、女性化願望であって、女性に求めてる要素じゃないよ。
オタ丸出しなのに、才能が有り、器量に恵まれ、世間に認められている。
そうした「理想」の女性化だ。
最近多い願望。

http://anond.hatelabo.jp/20120103013253

 こちらは、「牧瀬紅莉栖は男性オタクの女体化願望に適したキャラクターだ」と主張している。
 
 最近の深夜アニメやライトノベルの動向を知らない人がこの二つの意見を見比べたら、「どちらが正しいのか」「どちらが間違っているのか」と二者択一的に考えるかもしれない。けれども実際には、どちらも正しい。牧瀬紅莉栖は、「こんな美少女とキャッキャウフフしたい」という願望にも「こんな理想の美少女になりたい」という両方の願望に応えられる、ハイブリッドな萌えキャラクター、だと思う。
 
 

典型的なハイブリッド萌えキャラとしての牧瀬紅莉栖

 
 最近のオタク界隈では、「美少女を所有したい願望・美少女とキャッキャウフフしたい願望」にも「自分自身がこんな美少女になりたい願望」にも、どちらのニーズにも対応可能なキャラクターが幅を利かせている。
 
 

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない ポータブル」“俺の

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない ポータブル」“俺の"妹と恋しよっ♪ボックス

 
 その典型例とも言える『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』に出てくる美少女キャラクター達は、
 
 ・感情表出やコミュニケーションに難のある、オタクキャラ(感情移入に適した特徴)
 
 ・でも美少女。でも本当はいいやつ。男に惚れたら一途(男の立場から愛玩・所有したい美少女としての特徴)
 
 の両方を兼ね備えていて、「感情移入や自己投影の対象としての美少女」としても「男の立場から愛玩したい美少女」としても楽しみやすかった。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、男性主人公が美少女に取り囲まれるハーレムものの構図を取りながらも、個々のヒロインに男性オタク消費者が自己投影をしやすい特徴をちりばめた、あざとく洗練された作品だったと思う。(関連:『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にみる、マルチロールな感情移入と、その洗練 - シロクマの屑籠)
 
 そして2011年のアニメを思い出しても、『ベン・トー』のヒロイン達、『インフィニット・ストラトス』のシャルル、『魔法少女まどか☆マギカ』の暁美ほむら など、「感情移入や自己投影の対象」としても「男の立場から愛玩したい美少女」としても消費しやすいキャラクターは豊富だった。“男の娘”を含め、こうした「感情移入や自己投影の対象としても優れた美少女」をハーレムのなかに混ぜ込んでおくような手法は、オタク界隈では一般化して久しい。
 
 で、こういう視点で牧瀬紅莉栖というキャラクターを眺めてみると、
 
 ・2ちゃんねらー、オタク、勉強は出来るけれどもコミュニケーション下手なツンデレ、処女*1(感情移入に適した特徴)
 
 ・でも美少女。でもいいやつ。惚れた男にはとことん尽くす、男性のコントロールを受けやすい、処女。(男の立場から愛玩・所有したい美少女としての特徴)
 
 といった具合に、ハイブリッドな萌えキャラクターとして典型的な特徴を持っていると気付く。牧瀬紅莉栖はとてもあざとい萌えキャラクターの一人と言えるし、冒頭で紹介した匿名ダイアリーの意見はその通りと思う。
 
 

“牧瀬紅莉栖のかけがえの無さ”

 
 牧瀬紅莉栖を特段に好きではない人達はここで考えるのをやめてしまって構わない。「牧瀬紅莉栖は今風のあざとい萌えキャラ」。以上!――お疲れ様でした。
 
 
 しかし、牧瀬紅莉栖がとても好きになったファンにとっては、ここからが問題だ。
 
 牧瀬紅莉栖は、「どこにでもいるあざとい萌えキャラ」でしかないのか?それで終了なのか?
 
 「おまえの知っている牧瀬紅莉栖とは、そんな没個性的な豚の餌でしかないのか?」とも言い換えられるかもしれない。
 
 「ブヒれるならなんでもいい」な人達にとっては、そうかもしれない。「知的で、一途で、コミュニケーション下手な、処女の、ハーレム要員」なんて今では珍しくもないのだから、後は、ブヒれる特徴ときちんと押さえているか否かが重要、ということになる。“薄い本”的な想像を膨らませるのに適した台詞や場面が揃っていればそれで良し、というわけだ。
  
 しかし、牧瀬紅莉栖に思い入れのある人なら、そういう萌え属性の消費だけで満足してしまうこともないだろうし、「牧瀬紅莉栖はどこにでもいるあざとい萌えキャラ」で考えるのをやめてしまうということもあるまい。
 
 牧瀬紅莉栖をキャラ属性的に分類するなら「知的で、一途で、コミュニケーション下手な、処女の、ハーレム要員」ということになろう。まぁ、今ならどこにでもいそうなキャラ設定ではある。しかし、だからといって彼女と全く同じキャラクターがどこにでもいるわけではない。岡部倫太郎と出会い、ラボメン女子とキャッキャウフフし、タイムマシン実験にのめり込み、白衣が似合い、「ぬるぽ」と言えば即座に「ガッ」と応じ、秋葉原で「処女で悪いか!」と叫んだキャラクターは、世の中には他にいない。タイムマシンの使用を自らに禁じ、一度きりの運命について自分なりの哲学を持ち、別れのメールにホラティウスを引用するキャラクターも、たぶんいないだろう。
 
 こうした言動がひとつひとつ組み合わさった結果、牧瀬紅莉栖というキャラクターは、「知的で、一途で、コミュニケーション下手な、処女の、ハーレム要員」というテンプレート的な括りでは掬いきれない、彼女独自のテイストを醸し出すに至っている。似たキャラクターも、似たシチュエーションも、似たストーリーも、ないことはない。けれども牧瀬紅莉栖という登場人物は、『Steins;Gate』のなかにしかやっぱり存在しないのだ。彼女の物語も然り。
 
 そうした“牧瀬紅莉栖を他のキャラクターと区別するもの”“牧瀬紅莉栖のかけがえの無さ”を見出し愛好するのでなければ、牧瀬紅莉栖を好きになったとは到底言えまい。
 
 

「特定のキャラクターを好きになる」ということ

 
 もちろんこの話は牧瀬紅莉栖だけに限ったものではなく、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の桐乃にしても『ベン・トー』の著莪あやめにしても、似たようなキャラクターは数多あれど実際にはみんな違っていて、細かな点まで含めてみれば換えが効くわけではない。そして本当の意味でキャラクターを好きになるというのは、その細かな点まで含めて好きになっているのであって、交換可能な萌え属性のデータベースだけ抽出して、それをしゃぶっているだけではキャラクターを好きになったとは言えない。後者はキャラクターを愛好しているというより、萌え属性を、データベースを、愛好している、と言うべきだろう。それではキャラクターに接近するなど夢のまた夢、遠ざかる一方と言わざるを得ない。
 
 二次元キャラクターの愛好家を自認するなら、「かわいい」「ブヒィ」で思考停止するのでなく、気に入ったキャラクターを精緻に眺め、そのキャラクターだけの魅力や言語化しにくい部分についての感覚を磨いてナンボだと私は思う。「貧乳ならなんでもいい」「レズっぽいならなんでもいい」みたいじゃ、面白くないじゃないですか。
 
 [関連:]二次元キャラは、本当に使い捨てられるだけなのか - シロクマの屑籠
 

*1:この場合は、=童貞