かつて、「オタクの欲望」というと、好きな対象をまなざしたいとか、好きな対象を手に入れたいとか、そういうのが中心だったと思うし、事実、オタクは色んなものを愛玩したり収集したりして欲望を充たしていた。
しかし、最近はそれだけでなく、愛玩されたいとか、欲しがられたいとか、そういう欲望も強まってきているような気がする。
欲しがるオタクから、欲しがられたいオタクへ。
または、
かわいがりたいオタクから、かわいがられたいオタクへ
まなざしたいオタクからまなざされたいオタクへ
という風な。
「欲しくなる美少女」から「自己投影したくなる美少女」へ
オタク界隈の美少女キャラクター達をみていると、特にそれが感じられる。
十年ぐらい前を思い出してみよう。
幼なじみ、病弱、メイドロボ、幼女 etc……。かつて人気を博していたのは、どちらかといえば受身で、保護欲や所有欲をストレートにくすぐりそうなキャラクターが多かったと記憶している。*1
ところが近年、どうも趣向の違うキャラクターが選ばれるようになってきたようにみえる。もちろん、愛くるしいキャラクターは今でも人気はあるし、伝統的な萌え属性も健在だ。しかし、それだけではなく、姿かたち以外は男性のようなキャラクター・男性オタクに酷似した特徴を与えられたキャラクター・“男の娘”など、ただ保護欲や所有欲をくすぐっているだけとは思えない、さも男性オタクが自己投影しやすいようなモディファイを受けたキャラクターが、人気を集めるようになってきている。
代表例は、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の高坂桐乃、『SteinsGate』の牧瀬紅莉栖、『とある科学の超電磁砲』の御坂美琴、などだろうか。これら、“オタクの自己投影”をはっきり狙ってつくられたキャラクターは当然として、『けいおん!』の秋山澪や『らき☆すた』の柊かがみのように、本来のキャラクター設定をいささかオーバーする形で、「コミュニケーションの苦手なオレの、自己投影の依りしろ」として消費されたキャラクターさえ珍しくない。
また、人気の衰えないツンデレ美少女も、楽しみ方のニュアンスが変わってきていると思う。古典的なツンデレは、『不思議の海のナディア』のナディアにせよ『月姫』の遠野秋葉にせよ、ツンとデレのギャップを愛でる対象として楽しまれてきた。「好意と関心を向けてはいるけれども、それを押し隠す姿が見ていてかわいらしい」というやつである。けれども、近年のツンデレはそれだけではない気がする。「素直な感情表現が苦手で、コミュニケーションの不器用さを持て余しているツンデレ」というニュアンスが強くなってきている。“ツンデレ属性は男性オタクの自己投影にも実は好都合”ということは、すでに暗黙の了解になっているんじゃないだろうか。
かわいがりたいという欲望・まなざしたいという欲望を充たすべく特化したキャラクターよりも、(自己投影を介して)かわいがられたい・まなざされたいという欲望を充たすにも都合が良いように配慮された美少女キャラクター、というのが、近年のトレンドのようにみえる。
「まなざす主体」としてのオタクから「まなざされる主体」としてのオタクへ
では、こうしたオタクの欲望の変化はどこに由来しているのだろうか?
ひとつの要因として、「まなざす主体」onlyだった男性オタクにも、「まなざされる主体」としての意識が芽生え始めたせい、というのが関係しているのではないか、と私は考えている。
80年代〜2000年代前半ぐらいまでの男性オタクの大多数は、美少女キャラクターにせよ、アイドルやゲームや漫画にせよ、あくまで対象をまなざし、値踏みし、所有する側だった。前世紀のオタクの自意識には、観察者としての自分・値踏みする側としての自分は濃厚でも、被観察者としての自分・値踏みされる側の自分は希薄だった。前世紀のオタクの多くが、ファッションなど完全放置で自分のコレクションや所有物だけを追いかけていられたのも、当然といえば当然かもしれない……彼らには「まなざされる主体」としての意識が乏しかったのだから。
しかし、21世紀に入って間もなく、オタク界隈にも「まなざされる主体」としての意識が流入してくるようになった。『電車男』『脱オタクファッションガイド』『ハルヒダンス』などは、90年代の男性オタクとは明らかに異なった自意識の傾向を示していたと思う。秋葉原やコミケで遭遇するオタクの服装がはっきり変化し始め、オタクのコミュニケーション志向が強まったのも、この時期からである。やがて、アニメやゲームにオシャレっぽい御利益を期待する人達が流入してくるようになってくると、「まなざされる主体」としての自意識は、男性オタク界隈にいっそう浸透するようになった。オタクは、他人にまなざされる痛みと快感に芽生えはじめた。
「まなざす主体」だけのオタクから、「まなざされる主体」を併せ持ったオタクへ。
この、オタクの自意識の変化のなかで、「まなざされる主体」としての欲望をイージーに充たすためのアイテムとして台頭してきたのが、自己投影を介して「かわいいと言ってもらえる欲望」を間接的に満せるコンテンツ群だったのではないだろうか。
ここで、「まなざされる欲望を充たすなら、女装なりファッションなりやればいいじゃないか」と反論する人がいるかもしれない。
けれども男性オタクが、美少女キャラクターと同等のレベルで「まなざされる主体」として理想的な状態になるのは、かなり難しい。女装するには根性・勇気・金銭が必要だし、どんなに頑張っても、ディスプレイの向こう側で微笑んでいる美少女達のツルツルっとしたかわいらしさには絶対にかなわない。また、ファッションとして“男性としての格好よさ”を目指す場合にも、センスやコンプレックスとの戦いが待っているし、中二病だの邪気眼だのと揶揄されるリスクを冒さなければならない*2。ノウハウを身につけるにも時間がかかる。
「女装であれファッションであれ、自分自身がリアルでやるのは、アニメを録画予約するよりもずっと面倒くさい」;この事実は動かない。
その点、キャラクターへの自己投影なら、お手軽である。自分自身によく似た特徴を持った美少女キャラクターをみつけて我が身に重ね合わせれば、『らき☆すた』『けいおん!』『とある科学の超電磁砲』の世界に埋没してのキャッキャウフフも余裕である。脳内補完なら、お金も手間もかからない。必要なのは想像力や妄想力ぐらいだが、これも、近年のライトノベルやアニメにおいては敷居が低い。例えば“男の娘”などは、自己投影するには最もイージーな属性といえる。
「まなざされる自分」「欲しがられる自分」という欲望を充たす手段が、自分自身が直接的にそうしてもらうだけだと思うのは、たいへんな間違いである。自己投影に適した依りしろさえあれば、幾らでも間接的に「まなざされたたい」「欲しがられたい」という欲望を充たすことが出来る*3。
「自分自身を省みなくても、かわいいキャラに自己投影!」
こうした背景もあって、男性オタク達は「まなざす主体」「まなざされる主体」としての両方の欲望を充たしやすい美少女キャラクターを選ぶようになってきたんじゃないだろうか。
世の女性達のように、「まなざされる」ための苦労を引き受ける覚悟もなければ、“イケメン”を目指すにも自信がない、だけど「肯定的なまなざしを集める」欲望は充たしたい……。そういう人達にとって、自己投影に好都合な美少女キャラクターや“男の娘”というのは、きわめて便利な道具だと思う。
自己投影のためのちょっとした想像力さえあれば、ツルツルっとした肌の美少女キャラと一体化できて、「まなざされる主体」「愛される主体」としての欲望を満足させられる;これは確かにひとつの発明だった。
しかもこれ、「まなざす主体」「欲しがる主体」としての欲望を捨てたわけでもないから、欲望と願望の充足には隙が無い。これじゃあ、わざわざ恋愛しようと頑張るより、コンテンツの花園に溺れてウットリしているほうを選ぶ男性オタクが増えるのも仕方がない。恋愛パートナーがいなくても、「まなざす主体」「まなざされる主体」/「欲しがる主体」「欲しがられる主体」両方の欲望を、たんまりと、苦労せず、スタンドアロンに充たせるようになったんだから。
いい時代になりましたね、オタク。
*1:鳴沢唯、美坂栞、マルチ、柏木初音、といった名前を思い出すと心が疼く中年オタクの人も多いことだろう。
*2:また、選んだファッションの方向性によっては、男性としての身体性や社会性を引き受けなければならない場合もあるかもしれない。尤も、近年はユニセックスなデザインの服が巷に氾濫しているので、そこは選び方次第だが
*3:ちなみに、この視点で、現実世界に時々いるような、やけに世話焼きな人のことを見てみると興味深い。異様に世話焼きすぎる人のなかには、世話される相手に自己投影することで、世話されたいという欲望をガンガン充たしている人が少なからず存在する。このような自己投影の濃厚なタイプの世話焼き人は、ときに、世話をしすぎて相手の自立の芽を摘み取ってしまうことすらある。