シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

男性性欲を浄化する、美少女キャラへの自己投影

 
 
 最近じゃ、自分自身の性欲に汚らわしさや否定的なイメージを持っている男性って、珍しくもなんともないようにみえますし、男性オタクも例外ではないように思えます。
 
 こういうネガティブな性意識を持った男性オタクでも、美少女キャラや“男の娘”に自己投影すればセーフティに快楽が得られ、しかも自己投影しているうちは汚らわしい自分の性欲も浄化できるんじゃないか、っていうのがこの話です。
 
 自分自身の男性性欲に汚らわしさや劣等感を感じている男性オタクにとって、「直視しがたい自分自身の性欲と童貞」「かわいい美少女のアンアンと処女」に転換できるアイテムって、使い勝手がいいと思いませんか?
 
 

男性性欲を肯定できない男性オタクの、葛藤

 
 古くから、かなりの割合の男性オタクは、美少女キャラを性的欲求を充たすツールとして消費してきました。けれどもその多くは、美少女キャラへの自己投影などという回りくどいものではなく、きわめてストレートに、美少女キャラを欲望の対象として・愛玩の対象とするタイプが中心であったように思えます。昔はまだ、美少女キャラに自分自身を重ね合わせてウットリするオタクの割合は、相対的に少なく、大抵の男性オタクは、美少女をアンアン言わせる側として・美少女に射精する側として・美少女をまなざす側として、コンテンツを消費していたと記憶しています*1
 
 けれども、こういう性欲の充たし方って、ストレートに男性的すぎるんですよね。
 
 「自分自身が女性を求める」という欲求をごく自然に肯定できる男性にとって、だからどうした、何が悪い、ってところでしょうが、男性性欲を肯定できない男性や、女性を求める自分自身に汚らわしさや後ろめたさを感じるような男性にとって、コンテンツのなかとはいえ、自分が女性を求めるという情念に直面するのはしんどくて気持ち悪いことです。性欲を充たすどころか、過剰な刺激に息苦しくなってしまうかもしれません。
 
 「性欲は充たしたい、けれども汚らわしい自分の性欲がストレートに発露されるような展開には耐えられない」;こういう人達にとって、“男の娘”をはじめとした、美少女への自己投影・自己仮託の快楽って、“使える”と思いませんか?
 
 

「アンアン言ってる美少女キャラに自己投影すればいいじゃない」

 
 男性性欲を肯定できない人や、男性性欲は汚らわしいと刷り込まれている人でも、かわいい美少女がアンアン言ってる光景や、頬を赤らめている光景はokって人、結構いると思うんです。実際には、女性性欲だって相応にグロテスクなところがあるわけですが、アニメやゲームの世界なら、都合の良い描写にモディファイできますし、また実際、男性オタク界隈に氾濫する美少女キャラの殆どは、そういうグロテスクさを脱臭されています。そうやってピカピカのイメージに磨き上げられた美少女が、頬を赤らめている姿を、性欲の望ましい姿・性欲のうらやましい姿として感じている男性オタクって、今じゃ結構いるんじゃないでしょうか?そして、そのような美少女に自分自身を投影することで、男性性欲のネガティブなイメージを迂回している男性オタクが、増えているんじゃないでしょうか?
 
 これって、便利ですよね。
 
 美少女への自己投影できる想像力さえあれば、美少女キャラとの一体感を感じていられる間は、ゲチョゲチョの描写を楽しんでいようが、過激なレズものを見ていようが、男性性欲の汚らわしさが脱臭された境地を楽しむことが出来るんです。男性性欲が肯定できなくても、これならノープロブレム。
 
 美少女を求める側として性欲を充たすのではなく、美少女に自己投影して美少女の側から性欲を充たす、というメカニズム。そのメカニズムに身を委ねられる限りは、男性性欲に否定的な人でも、汚らわしさを迂回しながら頬を赤らめることが可能になります。
 
 むろん、これは最近の発見というわけでもなく、オタクが「おたく」と平仮名で表記されていた時代から、自己投影の愉しみを知っている男性オタクは存在していました。「脳内補完や二次創作のなかで、美少女キャラに自己投影をしたうえで性欲を愉しむ」という様式や、ふたなりキャラクターや百合(レズ)ものなどが、一定のニッチを保っていたのも事実です*2。しかし、ごく近年まで、全体的傾向としては、ふたなりキャラクターや百合作品がメジャーな人気を勝ち取ることはありませんでした。そもそも昔は、男性オタクが自己投影するのに適した特徴をきちんと揃えた美少女キャラが、現在ほど整備されていなかったと記憶しています。あるいは当時はまだ、自分自身の男性性欲に否定的な消費者の割合がまだそれほど高くなく、自己投影なんてまだるっこしい快楽へのニーズが不足していたのかもしれません。
 
 ところがこちらにも書いたとおり、00年代の後半になってくると、自己投影に適したキャラクターが次第に人気を集めるようになり、遂には“男の娘”なるものが人気ジャンルに躍り出るようになりました。ストレートに美少女キャラを欲しがるというだけでなく、美少女キャラに自己投影するという欲望の形式までもがキャズムを超えたのは、おそらく、ここ最近のことでしょう。
 
 

不浄な男性性欲を清める儀式としての、美少女キャラへの自己投影

 
 第二次性徴を迎えた人にとっての性欲って、もともと、わけがわからなくて制御困難なものですし、生育環境次第では、罪悪感や背徳感を孕んだ不浄のシロモノとされてしまうことも珍しくありません。巷には“童貞をこじらす”なんてスラングも存在しますが、実際問題として、自分の性別の性欲を肯定的に捉えきれずに、呪われた重荷のように感じている男性は増えてきているように観察されます。
 
 そんな状況のなかで、“男の娘”に萌えたり、美少女キャラに自己投影することが、不浄な性欲のイメージを浄化する「お清め」に近いfunctionを担っているというパターンの人も、いるのではないでしょうか。*3 そのままでは直視に堪えない自分自身の男性性欲を、“男の娘”や秋山澪や御坂美琴などを介してカワイイ姿に浄化する「お清め」としての自己投影、というわけです。ついでに、「童貞」というネガティブに捉えられがちなイメージを、「処女」という好ましい(と彼らが思うところの)価値に転換できる、というオマケの機能までついています
 
 つまり、
 「直視しがたい男の欲望」「直視しがたい童貞」を、
 「かわいい美少女の欲望」「かわいい処女」に変換するための、
 浄化強迫としての「美少女キャラへの自己投影」というわけです。
 
 自分に属する直視に堪えないモノを、かわいい姿にコンバートするための装置・または儀式としての、“男の娘”“美少女キャラへの自己投影”というニュアンスが、近年の「萌え」には潜んでいるような気がしてなりません。
 
 

でも、リアルなオルガスムは捨てたくない→じゃあ男性器つけましょうか

 
 ただし、この手の美少女自己投影による性欲の浄化には、ひとつの問題が残ります;それは、理想の美少女に自分自身を重ね合わせるのは良いとしても、自分自身は実際には女性ではないから「美少女の気持ちよさ」がいまひとつピンと来ない、というものです。
 
 当たり前のことですが、女性の性欲やオルガスムの形式を男性オタク達は経験したことがありません。どだい、身体のつくりが違うんですから、想像したってよくわかりません。「アンアン」という声が甘く聞こえるにしても、男性でいう“射精”に相当するような状態が想像できませんし、体の震えや言葉でいくら快感を表現したところで、射精の描写ほどの“わかりやすさ”には至れないのです。
 
 このため、男性器の無い美少女キャラにうっかり自己投影してしまうと、男性オタクはオルガスムを想像する際にかなり面倒な想像力が必要になる、という問題が発生します。じゃあどうすれば良いのか?男性器を書き加えて、射精の描写を付け足してやればいいのです。あるいは射精が可能な身体という設定にしておけば良いのです(“男の娘”は、デフォルトでこの設定を持っています)。
 
 こうすれば、オルガスムを慣れ親しんだ射精にコンバートできるぶん、想像力の敷居はグッと低くなります。*4。自己投影の対象は、“男の娘”でもいいし、自己投影しやすそうな美少女キャラクターに必要な時だけ男性器を書き加える形でも構いません。とにかく、オルガスムの形式だけは男性のソレを残しておけば、この問題は解決できます。
 
 つまり、「射精する美少女」を創りあげてしまえば、男性性欲の汚らわしさを排除しつつも、想像力をあまり必要としない快楽の形式を保つことが出来る、ということになります。“男の娘”などはその最たるもので、自分自身の男性性欲に直視することを回避しつつも、自分にとって身近なオルガスムの様式はキープできるという離れ業を、コンビニエントに提供できています。
 
 例えば……【基本、マグロで清楚、マゾで不器用な美少女のボク。そんなボクが受身に快感を体験したい。けれども、射精という慣れ親しんだ様式は残しておきたい】……こういうニーズに応えるには、“男の娘”やその眷族はうってつけというものです。
 
 
 やっぱりこれ、べんりな発明ですよ。
 
 時代が“男の娘”に追いついたというべきか、女性オタクがかつて問題視していた問題に男性オタクがようやく遭遇したというべきか……そのあたりはともかく、男性性欲を肯定することが困難なイマドキのオトコノコが、アクロバティックに欲求を充たすにあたって、“男の娘”タイプのキャラクター・“自己投影しやすい美少女”タイプのコンテンツというのは、有効な装置として機能している可能性は高いと思います。
 
 

ちょっとだけ追記

 
 このあたりの快楽の屈折形式や、自分の性を否定しつつクリーンな異性に自己投影する形式は、たぶん“やおい”というフィールドで女性オタク達が存分に開発してきたものだと個人的には思います。このあたり、技術とニーズの面でやっと“やおい”に追いついた、という気がしますが、長くなったので、またいずれ。
 
 

*1:また、そうであればこそ、一昔前のエロゲー界隈では“前髪で顔が見えなくなった主人公”のような工夫が、高頻度にみられました

*2:そうした作品は、私の知る限りでも、80年代には既に出現しています

*3:近年の、磨き上げられたようにピカピカの美少女キャラ達・“男の娘”達は、もともと過剰な理想化の対象になっているわけなので、「お清め」的なニュアンスをそこに仮託しても、別にキャラ立ちのうえでも何の負荷もかかりません。

*4:twitter上で女性の方に指摘されて気付いたんですが、女性と違って男性って、オルガスムを想像するにあたって、射精やそれに近い描写があったほうが、想像力が働きやすいんじゃないでしょうか。射精そのものや、射精を想起させやすい描写を伴っているか否かは、利便性の面でけっこう大きいような気がします