シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

足りないのは承認欲求?それとも所属欲求?

 
 A.マズローの欲求階層説は、そのシンプルさのせいか、インターネットのライフハック記事・自己啓発書・ビジネス書などにしばしば引用されている。そのなかでやたらとクローズアップされるのは[承認欲求]と[自己実現欲求]という言葉だ。これって、おかしなことじゃないでしょうかね?
 
 
 マズローの欲求階層モデルは、[1.生理的欲求] [2.安全の欲求] [3.所属欲求] [4.承認欲求] [5.自己実現欲求] という風になっている。このうち、[1.生理的欲求] と [2.安全の欲求] は、衣食住が足りている人であればそれほど問題無いと思うし、だから気にする必要も無いだろう。
 
 しかし、[3.所属欲求] [4.承認欲求] [5.自己実現欲求] に関しては、衣食住が足りればそれでオーケーというわけではなく、人間関係のなかで充たされなければならない。[4.承認欲求]などは特にそうだろう。だから、コミュニケーション能力にあまり恵まれない人達において、承認欲求がなかなか充たされにくく問題だと指摘するのは確かにその通りで、承認欲求を充たす術を十分に持っていない人が、承認欲求ほしさあまりに、ネットゲーム依存や破廉恥なパフォーマンスなどに突き進んでしまう現象に注目することには意義があるだろう、とは思う。
 
 じゃあ、所属欲求はどうなのよ?
 ということになる。
 
 所属欲求は、集団や人間関係のなかに自分が受け入れられている・所属している・一体感を感じられるという情緒的体験が得られている時、充たされる。職業集団、血縁集団、地域社会、企業、といったものに自分が所属していると手ごたえを感じられる時に充たされるものであり、アイデンティティという言葉にもかなりニュアンスが近い……例えば「トヨタの社員としての私」「讃岐人としての私」「○○家の人間としての私」などといった具合に。
 
 しかし皆さんもご存知の通り、こうした所属欲求を充たしてくれそうな集団やアイデンティティというのはすっかり希薄になってしまった。血縁集団や地域社会を意識することは稀だし、企業と社員との“ご恩と奉公”みたいな蜜月関係も過去のものだ。近年、アイデンティティといえば思春期以降に個人個人が獲得するものとして語られることが多いが、本来は、育った土地や育った集団のような、もともとから所属していたものもアイデンティティを*1提供していたという点は見逃されるべきではない。
 
 そして現代人は、所与のものとしてのアイデンティティ・所属から見放されてしまっている。自由ではあっても何処にも所属していないのだから、無理も無い。すべて、自力で見出すか、所属欲求の不足をおぎなうべく承認欲求を多めに充たすしかない。
 
 にも関わらず、「所属欲求を充たそう」とか「所属欲求が足りない」とか、そういう話はあまり聞こえてこない。誰も深刻に考えていないのだろうか?本当は承認欲求なんかよりずっと機会が失われているはずなのに、である。アイデンティティの定まらない「自分探し」なども、単なる承認欲求の問題というよりは、むしろ所属欲求の問題として考えたほうが話がスッキリすることも多そうにみえるのだが、所属欲求について語られる機会というのは、驚くほど少ない。
 
 コミュニケーションに飢えている人達や、「自分探し」に奔走している人達をみる時、承認欲求というアングルだけで眺めるのと、承認欲求/所属欲求 の両方のアングルから眺めるのでは、見え方がかなり違ってくるはず。承認欲求に飢えまくって愚行を繰り返しているようにみえる人へのソリューションも、承認欲求をとにかく充たすとか、承認欲求を我慢しろとかいう一辺倒ではなく、その人の所属欲求が今どれぐらい充たされているのかまで意識して議論したほうが、まだしもマシなんじゃなかろうかと私は思う。承認欲求に飢えまくっているような見かけの人のなかには、所属欲求が飢えすぎているがためにそのぶんまで承認欲求を充たして代償としているような人だって、結構いるんじゃなかろうか。
 
 

所属欲求まで含めるなら、マズローだって案外いけるもんです

 
 A.マズローの欲求階層説というモデルは、シンプルでわかりやすいモデルだと思うが、やや単純すぎるのが欠点という気がしなくもない。けれども、そんなシンプルなモデルでも、承認欲求や自己実現欲求だけでなく、所属欲求まで含めて取り扱えば、もうちょっとは多角的なビジョンが得られよう。議論に際してA.マズローを引用したい、という人は、所属欲求のことも思い出してあげてください。
 

*1:そして所属欲求を