シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「学園都市は養鶏場、御坂美琴は極上ブロイラー」 (とある科学の超電磁砲)

 
 

とある魔術の禁書目録外伝 とある科学の超電磁砲 (1) (電撃コミックス)

とある魔術の禁書目録外伝 とある科学の超電磁砲 (1) (電撃コミックス)

 

 『とある科学の超電磁砲』。界隈では人気のように見えるし、かく言う私も大好きだ。
 
 本編筋『とある魔法の禁書目録』はともかく、この『とある科学の超電磁砲』の舞台背景って、かなりおっかなくて窮屈だと思う。けれども、美琴も黒子も伸び伸びとしている様子だし、背景に描かれる風力発電のプロペラも、のどかにみえる。このギャップが、なんとも不気味じゃありませんか?
 
 

「デキの良いブロイラーを生産するための学園都市」

 
 『とある科学の超電磁砲』の舞台になっている学園都市について振り返ってみよう。入ってくる子ども達に“能力開発”なるものを施し、現れた能力をレベル0〜レベル5までに分類してレベルアップを奨励する。表面だけみれば、子ども達にすばらしい超能力を与え、切磋琢磨する機会を与えているようにも見えなくもない。
 
 
 “大人の定めたルールのなかで、大人の定めたカリキュラムをこなしながら、能力開発を競い合う”
 
 
 『超電磁砲』にでてくる生徒達の姿は、みようによっては、受験勉強というルール・受験勉強という枠組みのなかで“上位”を目指す優等生の世界に見えなくもない。ほとんどの学生は、大人に与えられた評価制度やカリキュラムにもさして疑問を持つでもなく、レベルの高低に汲々としながら行儀良く勉強している。定期的に身体検査(システムスキャン)が行われるさまも、学力テストっぽい。
 
 こういった、受験勉強的・良い子的な構図だけでもかなりグロテスクなのに、学園都市の実態はもっとひどい。子どもをモルモットにしてみたり、御坂美琴のクローンを売り物にしようと企んでみたり、かなりろくでもない。御坂美琴そっくりのクローンを大量生産・虐殺する有様などは、まさに養鶏業者がブロイラーを屠殺するがごとくだ*1
 
 さしずめ、レベル0の佐天さんは“並のブロイラー”レベル5の御坂美琴は“極上のブロイラー”といったところだろうか。高レベルの能力者以外は役に立たないようにみえるけれども、実際には、たとえレベル0であってもAIM拡散力場の関係で全く役に立たないというわけもなく、“飼っておくだけの値打ちはある”。このあたり、当人達の幸せのための能力開発というよりも、学園都市という名の養鶏業者のための能力開発、というニュアンスが多分に含まれている。
 
 「入学時に怪しい処置を受け、天気すらコントロールされた環境のもとで能力開発に励む子ども達」という構図は、ほんとうは、もっと物憂げで抑圧的な描写になっていても不思議ではない。
 
 

屈託ないブロイラーとしての御坂美琴

 
 ところがどっこい、『超電磁砲』で描かれている学園都市には、葛藤とか屈託といったものが感じられない。登場人物達はあくまで陽気で、学園生活を謳歌しているようにさえみえる。なかなかレベルが上がらないことを悩む姿こそ描かれるけれども、そんなものは学力テスト前の一喜一憂みたいなもので、能力開発や学園都市そのものの枠組みに疑問を持つような類のものではない。
 
 学園都市側が提供した秩序に、彼ら/彼女らの大半は体よく収まってしまっている。養鶏場の主が準備した枠組みにすっかり馴染んでしまって、そこからはみ出したがる学生が極端に少ない世界。思春期特有の反抗とか、大人が用意した枠組みやレールに対する苛立ちとか、校則破りとか、そういった秩序の殻を食い破って外に出たいという衝動が、あれだけハイレベルな黒子や美琴のようなキャラクターにさえも――あるいはハイレベルだからこそかもしれないが――非常に希薄で、能力開発という名の餌と、レベルという名のヒエラルキーの構図にすっかり埋没してしまっている。思春期を迎えた子どもであれば、自分達を束縛する透明な檻にはすぐ気付くだろうし、気付けば葛藤や苛立ちのひとつも感じて良さそうなものだが、『超電磁砲』の面々にはそのような葛藤や屈託が欠落している。大人の敷いたレールの幅から、はみ出そうともしない。
 
 その点、落ちこぼれの少数派であるスキルアウトの連中のほうが、よほどそれらしい思春期をやっているようにみえる。彼らは脇役っぽい描写をされていたし、心情的背景として能力者への劣等コンプレックスがあるのは明らかだけど、それでもまだ、自分達の置かれている境遇に葛藤や疑問を感じる余地が与えられていたし、その葛藤や疑問を(きわめて粗雑なやり方ではあっても)表出しようという意志が残っていた。
 
 対して、美琴や黒子達はどうか?学園都市という名の透明な檻に包まれながらも、かわいく微笑んでいるわけだ。特に美琴は、学園都市のグロテスクさに気付く機会にいろいろ恵まれていたにも関わらず、自分の境遇や能力開発の背景に疑問を抱くよりは、むしろ気付きたがっていない素振りすらみられた。黒子も黒子で、養鶏場の秩序を乱す者を“審判”してまわる姿は、まるで番犬のようでもある。学園都市に疑問を抱くこともなく、最高の種馬をやってのける美琴と、学園都市の秩序を守る優秀な番犬としての黒子の二人は、学園都市側からみれば、じつに都合の良い、極上のブロイラーといえる。
 
 

この、ディストピアを素直に楽しめてしまうという感性

 
 グロテスクで怪しげな舞台背景にもかかわらず、そこに葛藤や屈託を抱えるでもなく、“かわいく微笑んでみせる”“優等生をやっちゃえる”ヒロイン達の日々。かわいらしさと超能力ですっかり隠蔽されているけれど、『超電磁砲』は養鶏場のブロイラーのような少女達の物語、という一面も持ち合わせている。それも、自分達がブロイラーであることに疑問や葛藤を抱くことすら忘れてしまったという意味で、最もヤバい意味で家畜化された少女達の物語でもある。高レベル能力者であることを誇る生徒などは、さしづめ「わたくし、レベル3のブロイラーですことよ」と言っているようなものだろうか。品質管理されて育てられた行き先は、屠殺場かもしれないというのに…。
 
 それにしても、と思う。
 
 こんなに閉塞感たっぷりの、大人に管理されまくりなディストピア的作品だというのに、ファンの多くは閉塞感に苛立つでもなく、ごくスマートに作品を受容できているっぽい。いくら、養鶏場臭さを“かわいらしさ”や“超能力”で脱臭しているとはいえ、あの閉塞感や窒息感、鼻につかないんだろうか?
 
 個人的には、『超電磁砲』は「作品そのものよりも、作品が受け容れられている状況が興味深い作品」だと思う。もちろん、作品そのものも良く出来ている。けれども多くの視聴者が、かわいらしさのテクスチャの内側にまとわりつく閉塞感にイライラするでもなく、屈託なく受け入れてしまえているさまこそが非常に興味深く、考察に値する状況のようにみえてならない。
 
 これがもし一昔前の作品だったら、美琴や黒子がもうすこし学園の秩序からはみ出してみたり、学園都市的な秩序の息苦しさに顔をしかめてみたりしたほうが、ウケが良かったんじゃないのかな、と思う。けれども、実際の『超電磁砲』はそういう風にはなっておらず、養鶏場のなかのブロイラー達をかわいく微笑ませる作風を採用し、げんに、男性オタクの皆様からの篤い支持を集めるに至っているわけだ。
 
 もしかすると、『超電磁砲』の消費世代は、レールからはみ出さないこと・大人に管理されるというディストピア臭に抵抗感を感じないか、むしろ、花園の装いのなかで大人に管理されることを夢見るような、そういう感性を持ちあわせているんじゃないか。そう、疑いたくもなった。もしそうだとしたら、この作品が映し出した消費者の感性というものは、作品そのもの以上に閉塞していると言えるし、作品そのものより不気味と言わざるを得ない。
 
 

本編主人公・上条さんの「そげぶ」*2に期待するしか。

 
 ここはひとつ、『禁書目録』本編の主人公・上条さんの活躍に期待しよう。養鶏場のような学園都市も、かわいらしい虚飾でごまかされた閉塞感も、まとめてぶっ潰して頂きたいところだ。養鶏場のなかで可愛くまどろむブロイラー達の幻想を醒ませるのは、たぶん、彼だけだ。
 
 この先、『禁書目録』本編のストーリーがどのように展開し、どのように話の大風呂敷が畳まれるのか、気になってきた。
 

*1:実際に存在する養鶏業者は、もちろんああいう残酷さを持ち合わせているわけではないが。

*2:注:「そのふざけた幻想をぶち殺す」の略。上条さんの決め台詞のような。