シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

 
今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 

犬も歩けばフェイクに当たる

 
 


 
先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
 

しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

 
そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 

だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 
こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 

 
ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
 
 

ところで

 
ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。
 
 

ゲームで高まるエモーションのかけがえなさ──スプラトゥーン3と思秋期

 

 
9月9日、待ちに待った『スプラトゥーン3』がリリースされて、家族総出でプレイしている。ファミ通によれば、発売から三日間で345万本が売れたのだという。しかも国内に限った数だから怖ろしい。
 
そんなスプラトゥーン3について、はてな匿名ダイアリーでは以下のような投稿がプチバズっていた。
 
旦那のスプラトゥーン3のデータを消した
 
細かいところに粗があるといえばあるが、妊婦である妻の視点で語られているおかげで理解しやすい筋になっている、と私は読んで思った。
 
この場合、家族の大きな負担になっているのだから、夫はスプラトゥーン3のプレイをとおして家庭内に公害を引き起こしているようなものだ。大音量や振動もたいがいだが、エモーショナルな言葉がグサグサ聞こえてくるのもそれはそれで大変だ。家庭内でコンフリクトになるほどなら、なんらか、害をなくす工夫が必要だろう。
 
対戦ゲームをプレイしていて負けると (ときには勝つと) ディスプレイを前に激しい感情をあらわす人、プレイ中に言葉遣いが荒くなる人がいるのはわかる。私だって対戦ゲームをやっている時は多かれ少なかれ言葉遣いが荒っぽくなるし、家族の誰かがプレイ中、一緒にゲームについてしゃべっている時も、勝っていてすら語彙が荒っぽくなる。そういえばゲーム界隈のスラングにも2022年の基準からみて荒っぽいもの・けしからんものがあったし、20世紀のゲームセンターでも、ミスったプレイヤーがゲーム筐体をバンバン叩いたり、より甚だしい場合には蹴ったりしていた*1。で、当時のゲームセンターはそういった振る舞いがぜんぜんあり得る空間で、それはUFOキャッチャーやプリクラが流行った90年代になっても完全には変わりきらなかった。
 
では、そうしたゲームの世界にありがちな荒さがどこにどれだけ持ち込まれて構わないのか?
 
最近、eスポーツ選手の言動やゲーム実況で用いられるスラングが荒々しい……というより暴言が含まれていると批判されることが増えた。90年代、いや80年代の暗いゲームセンターの世界なら、荒々しいスラングや暴言も見て見ぬふりをされるのかもしれないが、2020年代の、全世界配信されるインターネットメディア上で許されるものとは思えない。
 
後で書くように、私はゲームをやっていて興奮してエモーションがたかぶること自体は否定したくないし、許容可能な場所や仲間内では、荒ぶる言動が飛び交ってもいいのだと思いたい人間のひとりだ。ゲームがただの暇つぶしならともかく、ゲーム体験をとおして大事なエモーションを受け取ったり、ゲーム体験に大事な何かが賭けられていたりする限りにおいて、エモーションが揺れるのは当然だし、多少なりともそれが言動にあらわれてしかるべきだろう。
 
といえ、そのエモーションの揺れ動きや言動が社会が許さないものだったとしたら、問題アリ、ということになる。別にそれは(コンピュータ)ゲームに限ったことではなく、スポーツファンが暴徒と化したとしてもそうだろう。
 
よって、ゲームをやるならルールを守って行儀良く。誰にも迷惑をかけるな、危害原理を破るな、害になりそうな振る舞いをするな、ということになる。あるいは自分自身に害が及ぶようなゲームプレイ、たとえば課金をし過ぎるだとか、ゲームで学業や仕事の生産性に影響が出るだとか、そういったことも厳につつしむよう啓蒙しなければならないのだろう。そしてこれらの要件から逸脱したゲームプレイヤーは、逸脱者として、なんとなれば精神疾患として、治療されなければならない──。
 
これは、精神医療がテリトリーを広げているという以上に、社会から治療を要請されているのだろう。
ゲームに際してのエモーションや言動に限らずだが、現代社会においては、個人のエモーションや言動は一定の枠内におさまっていなければならず、枠内におさまることで予測可能な個人、いつも生産的で健康な個人が保たれなければならない。
 
と同時に、技術や法治や制度が個人の感情生活や言動をマネジメントすることを可能にし、マネジメントされなければならない布置をつくりあげたってことでもあるだろう。だから現代社会で模範的な社会適応をやっていくなら、そうしたマネジメントに耐えうるエモーションや言動を維持できなければならない。たとえ、スプラトゥーン3が発売されたばかりであってもだ。
 
 

自分が落ち着いたのか。それともエモーションが禿げてしまったのか。

 
そうした、ゲームとゲームプレイヤーに対する社会からの要請をおぼえておいたうえで、これから私とスプラトゥーン3の場合について書きたい。
 
スプラトゥーン3は、案の定、めちゃくちゃ楽しい。
負けるとひたすら悔しいが、勝っても負けても炎のような時間を過ごさせてくれるゲームだ。私はこのゲームジャンルが主戦場ではないから、スプラトゥーン3にそこまでアイデンティティを賭けて挑んでいるわけではないけれど、それでも、勝利とファインプレーにこだわる瞬間にはエモーションの賭け金が上がっていく。
 
ところが前作『スプラトゥーン2』の時に比べると、負けても感情が落ち込まない。9月12日には信じられないほど大敗を喫したのだけど、私の言動はそこまで大揺れしなかった。それはなぜなんだろうか。
 
前作は販売500万本超え、『スプラトゥーン3』は敗者のメンタルケアまでを徹底した対戦ゲーム | DIAMOND SIGNAL
 
上掲リンク先記事によれば、スプラトゥーン3は、敗者のメンタルケアがよく考えられたゲームなのだという。そうかもしれない。実際、前作のガチバトルの、ぼっきり折れたような負け演出はとても似合っていた半面、グサリと刺さるものがあった。そういう、似合っているけれどもグサリと刺さる演出を、より無害に漂白した演出に置き換えていく改変は、いかにもゲームアーキテクチャによるプレイヤー管理、それも、とにかく安全・安心な方向への管理という、優良企業コンテンツじみた雰囲気がぷんぷんして嬉しいような憎らしいような気持ちになるが、ともかく私自身もそうした管理下に置かれ、前作より憤慨しにくくなっているとは思う。
 
でも、本当にそれだけだろうか?
 
私の子どもを見てみると、案外、ちゃんと憤慨していたりする。
 
負けがこめばイライラが出てくるし、勝てば調子に乗る。ゲーム体験とエモーションや言動がバッチリリンクしている。当然、ときには荒っぽい言葉が出ることもある。子どもを礼儀作法の無菌室で育てるのが最適解だと思っている人々の目線で想像すれば、スプラトゥーン3を巡る我が家の状況は好ましいものではないと思う。
 
しかし、そうやってスプラトゥーンの勝ち負けにむきになっている子どもの姿を見ていると、なんというか、これはこれで貴重な瞬間に見えるし、ひょっとしたら、ゲーム愛好家としての私が失いかけているものではないか、と思えたりもする。
 
何かを経験し、エモーションが揺れ動くことは、そんなにいけないことだろうか。
感情生活の起伏は、悪いものでしかないのだろうか。
 
こちらの記事の中盤に書いたけれども、中世においては、感情の起伏の大きさが人間に求められ、感情の起伏が少ない者が修道院に入らなければならなかった=社会からの逸脱とみなされていた。それから何世紀も経つなかで、社会から期待される感情の起伏の大きさは、小さいほうへ・なだらかなほうへと変化し続けてきた。今日では、感情の起伏が大きいことのほうが社会からの逸脱とみなされやすい。くだんの、ゲームで感情的になりすぎる夫もそうした逸脱者のひとりと(これからの社会では)みなされる一人だろう。
 
しかしゲームは遊戯だ。
単なる暇つぶしではなく、真剣に取り組んでいる人の多い、そういう遊戯のはずである。
ゲームの勝敗はしばしば冷静さによって決まる。しかし必ず冷静さによって決まるわけでなく、瞬間瞬間においてはエモーションによっても導かれ、ことの進行に沿ってエモーションも動いていく。言動だって動くだろう。
 
そうしたことも含めてのゲーム体験、ゲームとのお付き合いではなかったかと私は自分の子どもを見ていて思う。これから大人になっていくにつれて、たとえばゲームで感情的になりすぎる夫のような存在にならないよう、私は注意をうながさなければならない。と思うと同時に、ゲームで悔し涙を流すこと、ゲームで負けて転げまわること、イカを立て続けに4キルして勝ち誇ること、その折々の瞬間をかけがえのないもののように感じる。
 
もちろん節制は必要で、私たちは社会的存在だから、社会の求めにあわせてエモーションと言動をフィルタリングしなければならない。その方法を子どもと一緒に学んでいくのも親のつとめではあるし、ゲームもまた、そうした技法を学んでいく題材のひとつではある。
 
しかし、ゲームをとおして、いやゲームに限らず遊戯やカルチャーと呼ばるものをとおして強いエモーションや言動が現れ出ること自体、貴重な体験であるはずだし、少なからぬゲーム愛好家はしばしばその貴重な体験を期待してゲームを購入する。あるいは、ゲームこそ、自分にとってそうしたエモーションや言動が現れる場所、自分がそれらをあらわにできる場所だと感じている*2
 
子どもがスプラトゥーン3のプレイに一喜一憂しているしているさまを見ていると、「大人になってもこれじゃ大変だな、正さないと」という思いと「今、本当にゲームの渦中にいて、本当にゲームを体験しているな、守らないと」という思いが相半ばする。
 
と同時に、スプラトゥーン3に大揺れしなくなった自分自身を省みて、「落ち着いて遊べている。いまどきのゲームプレイヤーのあるべき姿だ」という思いと「ゲームの渦中にとどまる力が弱くなって、エモーションが禿げてしまっている」という思いが相半ばする。大人になったといえば聞こえはいい。が、これは思秋期の兆候ではないか? そして現代社会にどれほどアジャストしているようにみえても、私は自分のエモーションを小さく折り畳んでしまっているのではないだろうか。
 
2018年から2019年にかけて、私はのめり込むようにソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』のガチャを回していた。あれも、いまどきの社会では褒められない、大変にエモーショナルな体験だった。だけど、今にして思えばあれは記念碑的な経験で、当時の私のゲーム体験に、ひいては2018~19年の人生にかけがえないアンダーラインをひいてくれた。スプラトゥーン2もそうだったし、90年代にゲーセンで遊んだゲームたちもそうだった。ゲーム愛好家なら、そういう人生にかけがえのないアンダーラインをひいてくれたゲームを複数挙げられるに違いない。社会がしのごの言おうとも、そのエモーショナルな体験それ自体は、やっぱり貴重な財産であるはずだ。
 
どこまで現代社会で許容されるのか/されないのかの線引きはいつも難しい。そしてゲーム症(ゲーム障害)に該当するような、尋常ならざる状態に陥る人がいるのもまた事実。それでも私は、ゲーム体験をとおしてエモーションや言動が揺れること、それそのものは貴重に思う。そして大人になったのか老いたのかわからない理由で揺れの振幅が小さくなってしまっている自分自身を、寂しく思う。
 
 

*1:ゲーム筐体のほうも、それはそれで頑丈だったが

*2:ゲームに限らず、自分にとってエモーションや言動が現れる場所が単一であることは、依存や嗜癖、耽溺など、コントロールの難しい状態に陥りやすいとは、よく事情を知っている人がしばしば指摘するところではある。だから、単一じゃないようにしなさいよ、依存や嗜癖、耽溺を避けなさいよ、という「アドバイス」も世の中には溢れている。そうだろう。そうでしょうとも。しかしだね……いや、これ自体とても長い話になるから今日はやめよう。

アブラゼミ 蟻がたかって 砂を積み

 

 
今年は八月の中旬ごろからだろうか、真っ青な空や雄大な入道雲を見かけなくなり、秋雨前線と見まがうような低い灰色の雲が垂れ込めるようになった。久しぶりに晴れたかと思ったら、早くもオレンジ色に染まった羊雲が並んでいる。なにが小さい秋見つけただ、ふざけんな、もうしばらく夏を楽しませてくれよ、と思う。
 
道を歩いていても、否応なしに夏の終わりが目に留まる。今年はセミの当たり年だったのか、とりわけたくさんのセミの声を聴き、住宅地の電信柱や鎧戸にまで張り付いているのを見かけたが、そのぶんセミの死骸に出くわすことも多いと感じる。せめて、その短い晴れ舞台が生殖の喜びに満ちたものであって欲しいと願う。ふとジジジッと断末魔のような声を聞いてそちらを見やると、弱ったオスのセミをスズメが突いていて、やがて、くわえてどこかへ行ってしまった。自然界にはいつも元気な生き物しかいない。なぜなら元気のなくなったものは食べられてしまうか分解されてしまうからだ。
 
そうしたなか、先日、いつも通るアスファルトの路上でアブラゼミの死骸を見かけた。
その死骸は新鮮だったのか、無数の蟻がたかっていた。蟻はなんでも食べるけれども、この場合、蟻は生態系でいう分解者の役割を担っているわけか。蝉の死骸が無数の蟻におおわれているさまを見た私は、私は世の無常を思うと同時に、夏の終わりって残酷だなどと思ったりしていた。
 
ところが翌日、同じ場所を通ってみて驚いた。アブラゼミが「埋葬」されていたのである。
 
正確には、アブラゼミの死骸を覆うように、砂利のような、砂のようなパラパラしたものが積み上げられていた。だいたい円錐形のそれは、まるで賽の河原に積まれた石のようにも見えた。
 
よもや、蟻が砂利や砂をよそから運んできたわけではあるまい。そのパラパラしたものはセミを分解する際に生じた破片か何かなのだろう。それにしても、セミが蟻に分解されると、こんなにストレートに土に還るとは知らなかった。そして蟻が分解したセミを覆い隠すようにそれを積み上げるとも知らなかった。夏がこんなに好きで四十余年を生きてきたのに、まだまだ新しい発見があるものだ。
 
日本人になぞらえると、石を積むという行為には、供養する意味合いや、何かを封じる意味合いがあるようにみえる。だから日本人である私には、それがセミを食すると同時に弔う、蟻の菩提心の発露のように見えた。蟻の行動に菩提心だの供養だのを見出すのは私の勝手ではあるのだけど、そんな私からみた蟻は、まるで死んだアブラゼミを餌にしつつも浄土に向かわせる送り手のようにもみえた。実際、生態系における分解者とは送り手にほかならない。
 
この、アブラゼミの弔いを見知って以来、近くの路上や公園にも同じような円錐形の、ぱらぱらしたものがあることに気が付いた。それらもセミのかたちをとどめていないか、かろうじて羽の残骸が埋もれているだけで、以前だったらセミの亡骸とは気づきもしなかっただろう。この街ではこんなにセミが死んでいて、こんなに蟻がそれを葬り、弔っていたのだ。それとも今年がセミの当たり年だからことさらにそれが目につくだけなのだろうか?
 
これまで私は、セミは盛者必衰のことわりを象徴する昆虫だと思い込んでいたのだけれど、少なくとも最後まで生き残り、路上で息絶えた者はこのように蟻が弔ってくれるのだとしたら、なにごとも苛烈な娑婆世界にあって随分と情け深いことだな、などと私は思った。もちろんこれは私の宗教観、死生観に基づいたものの見方でしかない。いやしかし、夏は終わってしまい、盛者の季節は、必衰の季節に移り変わろうとしている。
 
 

ウマ娘プリティーダービーにハマった。以来ずっと養分をやっている。

 
 
 
ウマ娘プリティーダービーにハマった。
以来ずっと養分をやっている。
 
 

 
 
2021年から2022年にかけてあなたがハマったゲームは何? と聴かれたら、私は『ウマ娘プリティーダービー』と答えなければならない。ここでいうハマったとは、「熱中した」という意味だけでなく、「ぬかるみに落ちた」「やられた」という意味を含んだものだ。
 
ウマ娘プリティーダービーは現在、1.5thアニバーサリーなるものをやっているから、足かけ一年半、私はこのゲームに付き合っていたことになる。それは、ひたすら「養分」をやる時間、養分としてのソーシャルゲームプレイだった。
 
以前にも書いたが、はじめ私は、ウマ娘のガチャの仕組み、完凸というフィーチャーがよくわかっておらず、後手に回ってしまった。他のプレイヤーと競争する要素のあるゲームで後手に回るとは、すなわち養分になった、ということにほかならない。リソース整備の面でも知識・経験の面でも大きく出遅れてしまった。
 
でもって、よせばいいのに、ウマ娘のかわいさに魅了されるまま、この遅れをどうにかしようと頑張ってしまった。
 
無理のない範囲で課金を続けて、完凸という仕組みに合わせてリソースの整備をこつこつと進めてきた。重課金ではないから、ジュエルを積み上げてリソースを整備するには時間がかかる。何十日も時間をかけて、その間、他のプレイヤーとのレースで負け続けながらリソースを整備していった。ジュエル購入のお金を積んだという意味で養分だった以上に、可処分時間を献上し、他のプレイヤーを喜ばせるやられ役を続けたという意味でも、まさに私は養分だった。私はウマ娘たちのこやしになったのだ。
 
 

 
 
けれどもその甲斐あって、2022年の夏、ようやくリソースが整ってきた。戦局をひっくり返すことになったのは、この「玉座」というサポートカードだ。2022年の夏の段階では、このサポートカードを持っていることが決定的優位のように思われた。「玉座」という”人権”カードがある限り、自分は食われる側から食う側へ、養分から捕食者へと変わるはずだ!
 
 

 
 
実際、その直後のプレイヤー同士のレース、「レオ杯」では初めて他のプレイヤーをさんざんに打ち破った。お、おれの育てたウマ娘がAリーグで優勝したぞ! 脳汁が出た。手がぷるぷると震えた。これで勝つると思った。
 
ところが8月のお盆明けに再び環境が変わり、"人権"カードとしての「玉座」はわずか一か月半の寿命を終えて、「便座」と呼ばれるようになった。インターネットの都大路に流れる、玉座、便座、玉座、便座といった言葉に私の心は千々に乱れた。短い栄光の時間は終わった。今は心を入れ替えて、ウマ娘たちのために、それと重課金プレイヤーや利口なプレイヤーのために再び養分をやるという決意を新たにしている。
 
 

「かわいいから、推しだから養分をやる」というマインドと資本主義の摂理

 
こうして私は、かわいいウマ娘たちのために、それと自分のソーシャルゲーム音痴のために、ウマ娘プリティーダービーでもっぱら養分をやっている。こうした、レースに勝てない状況に自覚的に養分をやるというゲーム体験は初めてで、『FGO』の時も『アズールレーン』の時も意識していなかった。これは、ウマ娘プリティーダービーがレースを中心につくられているからだろう。でもってそれなり悔しい。
 
じゃあ、いったいなぜ私は、レース場をジュエルで敷き詰める養分の一匹をわざわざ続けているのだろう?
 
それは単純に、キャラクターの魅力のためだと思う。
ウマ娘のデザイン、特にゲーム版のデザインは私の好みのストライクゾーンを撃ち抜いている。ライブ映像などは、どれだけ眺めていても飽きない。3Dみがちょっと残っているので、苦手な人には苦手なデザインだろうけれども、私の場合、この適度に残った3Dみがかえって良くて、見た目だけでいえば、自分史上、いちばん好みだと思う。
 
そのウマ娘が走って、笑って、駆け抜けるのが見たくて今もウマ娘プリティーダービーにかじりついている。本来それは、ゲーム愛好家・アニメ愛好家のありかたとして好ましいものだったはずだ。
 


 
けれども上掲ツイートで言われているように、「好きなキャラクターを推す」という感情や活動は、とっくの昔に資本主義のロジックに組み込まれている。たとえばウマ娘プリティーダービーも、それを作ったサイゲームズにしてみれば成功した集金スキームってことになるのだろう。そのような集金スキームがなければ、あの綺麗なライブ映像も誕生しなかったのかもしれない。
 
いやしかし、一歩身を引いて考えると、私はその集金スキームが生んだ集金装置に群がった蛾の一匹でしかなく、正しく資本主義の養分をやっていると考えざるを得ない。
 
人生は短く、なすべきことは多い。
 
二十代の頃なら「これも人生の彩り」などと言ってしまえただろうが、中年のみぎり、こうしてディスプレイの向こう側のかしましさに囚われて本当に良かったのか、考え込まずにはいられなくなる。今のところ、このハマったぬかるみから抜け出す目途は立っていない。
 
 

『リコリコ』のかわいさ・気味悪さ、それからいまどきの搾取

(※この文章は『リコリス・リコイル』のネタバレを含んでいるので読みたくない人は回れ右をしてください)
 
 
anond.hatelabo.jp
 
はてな匿名ダイアリーに、アニメ『リコリス・リコイル』(以下、『リコリコ』)の気味悪さを指摘する文章が書かれていた。気持ち悪い・鼻につく、等々と書かれているので批判的な言及として受け取っていいのだろう。
 
でも私は、ここで批判的に書かれているところが嫌いになれない。その鼻につく成分が、都合良くデフォルメされた『リコリコ』の世界に添えられたリアリスティックな薬味になっていると感じられるからだ。
 
 

「大人による無自覚な搾取構造」というリアリティ

 
上掲のはてな匿名ダイアリーでは、

前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。

と記されている。
 
この気味悪さには共感をおぼえるし、リコリスの犠牲や献身のもと、平然と・無自覚に成り立っている穏やかな社会を気味悪く思った視聴者は(程度の差はあれ)多いんじゃないだろうか。
 
じゃあ、それが作品の面白さを毀損するかといったら……私の場合、面白さを毀損するというより、面白さにアクセントを与えていると感じる。ゆるふわ百合ガンアクション作品に付け足された一種のスパイス、薬味のたぐいで、それが効いているとも感じる。
 
私にとって、この『リコリコ』の薬味の加減がめちゃくちゃ好みで、一話を観たとたん、すっかりやられてしまった。もっと薬味がきついほうがいいという人もいれば、薬味なんて入れずにもっと砂糖マシマシにしろ、ゆるふわ百合アクションに徹しろって期待する人もいるだろう。人それぞれの好き好きがあるのだから、それは仕方ない。私は自分好みの味付けの作品がここまで作り込まれている幸運に感謝して、最後まで視聴するのみだ。
 
無自覚な大人たちによる、若者たちの搾取と犠牲、その描写。
それが戦場ではなく穏やかで秩序ある社会で、人知れず起こっているということ。
リコリスたちが搾取されるべく育てられ、実際搾取されてバタバタ死んでいるこの世界観って、今の日本社会の直喩にはなっていないけれども、暗喩としてはいい塩梅のように私にはみえる。
 
上掲リンク先の引用文に『エヴァンゲリオン』の名前が挙がっていたので、それでいうなら。
1990年代中頃、『新世紀エヴァンゲリオン』の作中では碇シンジたちが繰り返しテストを強要され、エヴァに乗せられ、無茶苦茶な戦いに投入されていくさまが描かれた。それが『エヴァンゲリオン』という作品のメインテーマだったとは思えない。が、それを見た視聴者の少なくない人間が、エヴァに乗せられる碇シンジたちを自分ごとのように感じ、感情移入した。
 
同じように、リコリスリコイルを2020年代の日本社会の暗喩として眺めるとしたら。
まだ明かされない部分が多いけれども、『リコリコ』の世界は秩序が行き届いている。刑事さんが千束を見て「ああいう子が安心して暮らせるなら、誰が何を隠蔽していたっていいだろう」と言うぐらいには穏やかで好もしい社会であるらしい。と同時に刑事さんすら知らないように、『リコリコ』の世界は誰も知らないところで献身し搾取され犠牲になっている若者たちによって成り立っていて、それらは省みられることがない。
 
DA本部のディストピアっぽい描写も相まって、この、無自覚・無感覚な構図じたい、なにやら巨大な搾取構造を示唆してやまないし、視聴者がそう感じるよう、『リコリコ』はつくられているようにみえる。ヒロインたちのかわいらしさや楽しいガンアクションの背景として、この作品の制作陣は、若者をすりつぶして無自覚に成り立っている安全・安心社会をみせておきたいらしい。
 
もし『リコリコ』世界の大人たちや、組織、社会構造の無自覚・無慈悲さが外道だとしたら。
その外道っぷりは私たちの生活、私たちの社会にも染みついた外道さでもあるんじゃないだろうか。外道なるものは、現代日本の、安全・安心な社会とその成立基盤にも本当は根深く絡みついているのではなかったか。外道な風景が視界外に追いやられ、無感覚でいられるよう、私たちの社会だってできているんじゃなかっただろうか。
 
こうやって考えると、作中の無自覚・無感覚・無反省な若者搾取の構造は、この作品に仕込まれたリアリティを想起させる仕掛け(のひとつ)とみたくなる。もとより、このゆるふわ百合ガンアクション作品はなにからなにまで現実的な作品ってわけじゃない。あっちこっちがデフォルメされて、脱臭されて、かわいくまとめられて、そうやって商業的成功を保障しなければならないのも『リコリスリコイル』の一面ではあるのだろうし。
 
だけど、優れたアニメはしばしば、作品のリアリティラインやデフォルメの湯加減からはみ出すことなく、視聴者に現実の一側面を想起させる。『まどか☆マギカ』や『天気の子』だってそうだったじゃないか。
 
『リコリコ』を、純度100%のゆるふわ百合ガンアクションアニメとみるなら、こうした気味の悪さは不要だし、制作陣は、その気味の悪さを描かないという選択だってできたはずだった。ところが実際には第一話から不穏なディストピア感が宿っていたから、この作品はゆるふわ百合ガンアクションアニメでありながらも、なにやら社会や社会構造について思わせぶりな作品なのだろうと私は解釈し、そういう姿勢で視聴していくことに決めた。
 
で、『リコリコ』に宿る不穏さを現代社会と照らし合わせながらみるにあたって、すりつぶされるリコリスの若者たちに無自覚な大人たちの姿、すりつぶされる当の若者がすっかり秩序を内面化している姿はお似合いだ。中途半端な自覚や罪悪感を出すより、ああいう風に、誰も何も気づかないまま若者をすりつぶしていくほうが「らしい」と感じる。だってそのほうが2020年代の若者の搾取って感じがするじゃないか。
 
 

このまま進んでも、路線変更しても、最後まで楽しみたい

 
そういうわけで、若者の命や未来を、罪悪感も欠如したまま構造的にすりつぶし、それで平穏で秩序ある社会を維持して世の中は良くなったって顔をしている人間の一人として、『リコリコ』に感じる気味悪さ、鼻につく感覚を存分に吸い込んで、咳き込んでおきたい。居心地の悪い思いをしておきたい。かわいい千束とたきなの応酬を楽しむ作品に、蛇足のように付け加えられた現実っぽさを気味悪がっておきたい。
 
 
……こんな風に書いてはみたけれども、もちろん、作品がこれからどうなるのかはわからない。
 
私個人は、この路線のまま、構造的な搾取が温存されたまま突き進んでも案外楽しいだろうなと思う。そんなディストピアめいた作品が専らゆるふわ百合ガンアクションアニメとして消費されることになっても、きっと私は最後までニコニコしながら楽しみつづけるだろう。あるいはDAの司令以下、大人たちが相応のリアクションしたり、千束たちが秩序に一矢報いたりして「答え合わせ」や「清算」が行われるのかもしれない。それもそれで楽しみな展開だ。
 
視聴者としての私は、どっちに物語が転んだって構わない。もうここまで入れ込んだら、どっちに転んだって楽しむっきゃないのだ。よくできたアニメなのはおそらく間違いないのだから、自分のストライクゾーンから作品が逸れていっても最後まできっちり追いかけ、その面白さ・その趣向をしっかり捕まえたいと思う。作品は、まだ半分残っている。どうあれ後半で息切れすることなく、しっかりつくられた作品・何かを考えさせられる作品・かわいくて仕方がない作品であり続けて欲しい。