シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

悪くいうメンションが20%を超えないネットライフを心がける

 

(※画像は悪くいうメンションが高まりすぎたネットライフのイメージです)

これから書くことは、以前にも書いたかもしれないし、20%という数字も思いつきのものだ。厳しい基準を好む人は10%で、緩い基準がいい人は30%にしてもいいかもしれない。
 
twitterやはてなブックマークやヤフーニュースのコメント欄では、誰かを悪くいうメンションをたくさん見かける。そのなかには的を射た批判と言って良いものもあれば、感情的な罵倒と言って良いものもある。当否はともかく、そういう誰かを悪く言うメンションや、誰かにネガティブな評価を表明するメンションが現在のオンライン世界には溢れている*1
 
2010年代のいつ頃からか、そういう悪くいうメンションを少しずつ避けるようになっていった。全部遮断するわけではないし、私自身がそういうメンションをすることがなくなったわけでもない。でも、自分のメンションのうち(誰か・何かを)悪くいうメンションは少なめのほうがいいし、自分のタイムラインもそういうメンションが少なめのほうがいい。また、当否にかかわらず、そうやって誰かや何かを悪くいうメンションが猛烈に集まっている場所は長い時間みつめないほうがいい……と心がけるようになっている。
 
そうする理由は、おもに2つある。
 
ひとつは他人からの心証が悪くならないようにするため。
何かを悪くいうメンションが多めの人は、険しい人にみえてしまう。イライラしている人、怒っている人にみえるかもしれない。現代社会にはイライラしている人や怒っている人は居場所があまりなく、そういう人は評価も低くなりがちなので、心証を悪くしないためには、そういう見かけを避けるに越したことはない。また、はてな匿名ダイアリーの人気記事によれば、いまどきの若い人たちは批判をとかく悪いものと捉えているという。それなら的を射た批判も含めて、悪くいうメンションは必要最小限にするに越したことはないだろう。
 
もうひとつは、自分自身の心構えが険しくならないようにするためだ。
理由としてはこちらのほうが重要だと思う。
 
誰かのことを悪くいうメンションを呼吸するように述べていると、他人を批判・避難・断罪するのが当たり前の人間ができあがっていく。悪くいうメンションをズラズラと書き続けている人は、そのように自分を自己改造し続けている、と言ってもおかしくない。それがたとえ的を射た批判や客観的なエビデンスに基づいたものだったとしても、とにかく誰か・何かを悪くいうメンションを高濃度に吐き続けているということ自体が、私たちの心構えを険しくしてしまう、そのことをもっと怖がっておいてもいいんじゃないかと思うのだ。
 
誰かや何かを罰すること・裁くこと・けなすこと・低く評価することに慣れてしまってもなお、他罰的にならず、内省的であり続けるのは簡単ではない。これまでのインターネットの風景を振り返るに、そうやって悪鬼羅刹になっていった人は多く、内省的であり続けた人は少なかった。この場合、メンションがファクトかフェイクかはたいした問題ではない。どれほど正しい批判や非難だったとしても、そういうことをたくさんメンションし続けること自体をひとつのリスクと考えるべきではないだろうか。
 
 
また、誰かのことを悪くいうメンションを読みまくるのも危ない気がしてきた。たとえば世の中には批判されて当然の出来事や、断罪されてもおかしくない行動がある。いまどきのインターネットではそうした出来事や行動に悪くいうメンションが殺到するし、批判や断罪が的を射ていることも多い。
 
しかし、批判や断罪そのものが間違っていなくても、悪くいうメンションを読み、その姿勢に慣れること自体が私たちの心構えを(攻撃的・批判的に)変えてしまわないだろうか。批判・非難・断罪・あてこすり・皮肉──そういったメンションが渦巻く空間に長く滞在していれば、そういうメンションに慣れてしまうし、そういうメンションへの抵抗がなくなっていく。悪くいうメンションを(自分自身が)呼吸するように吐く前段階として、悪くいうメンションが瘴気のように存在している空間に慣れてしまう段階があるように思う。
 
もちろん、空間に感化される度合いは人による。意志の強弱にもよるだろうし、ほかの社会活動やコミュニケーションをどれぐらい持っているかにもよるだろう。たとえば日常生活の社会活動やコミュニケーションが乏しく、意志の弱い状態にある人が悪くいうメンションが瘴気のようにたちこめるネットコミュニティを覗き続けていれば、ものの数か月程度で染まってしまうだろう。
 
じゃあ、意志が強くて社会活動やコミュニケーションに恵まれている人なら大丈夫かといったら、それはわからない。そういう人だって一時的に意志が弱くなることはあり得るし、数か月ではなく数年~十数年といった長さで悪くいうメンションを凝視し続けていれば、多かれ少なかれの影響は受けるように思われるからだ。
 
 

「悪くいうメンションを20%以下に調整する」というリテラシー

 
こうした、悪くいうメンション(を見たり述べたりする)に感化されるリスクは、意識的な抵抗が簡単ではない。なぜなら人間は、自分が慣れ親しんだ空間やコミュニティの通念や慣習に気付かぬうちに慣れてしまいがちな生き物だからだ。この問題については、自分の意志を信じるより、自分の意志は信じられない、という前提で考えたほうがたぶん安全だ。
 
対策の例を挙げるとしたら、たぶんtwitterが一番わかりやすい。
 
24時間365日他人や何かを批判しているアカウントに遭遇したら、そのようなアカウントのメンションを読み過ぎないよう、twitterの仕組みを使ったほうがいい。twitterにはフォロー・アンフォロー・ミュート・ブロック・リストなどの機能があるから、悪くいうメンションが視界に入る度合いをコントロールするのは難しくない。キチンとタイムラインやリストを構築すれば「批判が的を射ていることが多くて、面白くて惜しいアカウント」を取りこぼさず、タイムラインの悪くいうメンション率を20%以下に維持することも可能だ。10%以下だってそれほど難しくないだろう。
 
こうした対策をtwitterに限らずあらゆるメディアに適用すれば、悪くいうメンションに感化される度合いを減らせる。今日日は悪くいうメンションがあっちこっちに溢れているので、そうしたものが目に入る頻度や程度をうまくコントロールし、それらに感化され過ぎないよう意識しておくことも、いわば、リテラシーの一部なんじゃないかと思う。「良いタイムラインで、良いインターネットを」ってやつだ。
 
 

*1:実のところ、オフライン世界にも溢れている

女体化キャラ・競争社会のロマン・令和男性の生きづらさ

 
 


 
 
こんにちは。『宇宙よりも遠い場所』を楽しんでらっしゃったとのことで、ファンの一人として嬉しく思いました。ご指摘のような問題意識を持った時、『宇宙よりも遠い場所』は(理系)男性視聴者の自己投影に都合の良い作品……ということになりそうですね。私も12年前はそうした問題意識を持っていましたが、気が付けば、そんなことを気にせずアニメを視聴するようになっていました。
 
 
[過去記事]:『とある科学の超電磁砲』にみる、美少女キャラとの一体感 - シロクマの屑籠
[過去記事]:男性性欲を浄化する、美少女キャラへの自己投影 - シロクマの屑籠
 
 
で、すずもとさんのツイートを読んで問題意識を思い出しました。男性視聴者が「男のロマン」や「男性性欲」を捨てるわけでもないのに女体化したキャラクターと物語を消費するのは、問題といえば問題……かもしれません。アニメ(をはじめとするコンテンツ)は現実を侵食する以上に、理想を侵食するでしょうから。
 
でもそれだけではなく、市場淘汰という名の"ふるい"にかけられ、選ばれ親しまれているコンテンツに映し出されている理想のありようは、結果であると同時に原因でもあるように思います。選ばれ親しまれているコンテンツは、当該視聴者を取り巻く現実の反映だったり、当該視聴者に内面化された理想や要請*1をうかがうヒントだったりもするでしょう。そのあたりについて、思うところを書いてみます。
 
 

もはや「男のロマン」ではなく「競争社会のロマン」では

 
すずもとさんがおっしゃるように、いまどきは、登場人物が女性キャラクターばかりで占められていたり、女性キャラクターが大きなウエイトを占めたりする男性向けコンテンツが珍しくありません。最近の例だと『ウマ娘 プリティーダービー』などもそうですし、ツイートにもあった『宇宙よりも遠い場所』もそうでしょう。
 

宇宙よりも遠い場所 1[Blu-ray]

宇宙よりも遠い場所 1[Blu-ray]

  • 発売日: 2018/03/28
  • メディア: Blu-ray

 
では、女性キャラクターばかりのコンテンツで男性性や「男のロマン」と呼べる描写や物語が取り除かれているかといったら、そうではありません。少なくとも、「男のロマン」と呼べそうな描写や物語がぎっしり詰まったコンテンツは枚挙にいとまがないでしょう。
 
『ウマ娘』も、わりと堂々と「男のロマン」を描いていますね。『ウマ娘』のキャラクターたちには女性キャラクター然とした外見が与えられ、姦しいやりとりも描かれていますが、ストーリーの大筋は「男のロマン」と言ってもおかしくありません。スペシャルウィークやトウカイテイオーといった主人公級のキャラクターはとりわけそうです。
 
才能をバックにしながら努力すること。 
仲間やライバルと切磋琢磨すること。
勝負すること。
根性をみせること。
そして勝つこと。
 
競馬馬がモチーフの『ウマ娘』だからこそでしょうか、なんとも堂々と「男のロマン」をやってのけているのが『ウマ娘』のキャラクターです。恥じらいも遠慮もないし、もはや恥じらいも遠慮も要らないのでしょう。外見が女性キャラクターで「男のロマン」を追いかける筋書きは、当たり前で、物珍しくもなく、気にするほどのものでもなくなりました。少なくとも、そういうコンテンツを引っかかりなく親しめるファン層のボリュームは大きくなっていると言えるでしょう。
 
ここまで「男のロマン」という語彙を用いてきましたが、いまどきのジェンダー観からいって(たぶん)好ましくないので、そろそろ語彙を変更したいと思います。競争したり切磋琢磨したり、根性みせたり勝ったりする「男のロマン」という語彙は、本当はとっくに「男のロマン」ではなくなって「女のロマンにもなってきている」のでは? かつて「男のロマン」とかつて呼び倣われていた理想と「男が背負わなければならない要請」と呼ばれていた男性役割は、ある程度までは男女双方の理想/要請ともなっています。
 
だとしたら、女性キャラクターばかりのコンテンツに描かれる「男のロマン」をそう呼ぶのはやめて、性別の壁を取り払って「競争社会のロマン」「メリトクラシーのロマン」と呼んでみませんか。
 
 

女体化キャラ、ジャニーズ、ユニセックスなファッション

 
「競争社会のロマン」「メリトクラシーのロマン」と語彙を変えたうえで『宇宙よりも遠い場所』や『ウマ娘』のキャラクターたちを眺めると、「男のロマン」や「男が背負わなければならない要請」は旧来の男性性を脱臭された状態で、または女性的な表象を身にまとったうえで達成するのが望ましい/達成すべきと要請されているよう、私にはうつります。
 
言い換えると、"「競争社会のロマン」を、より女性寄りの外観や所作で達成するよう期待されている"、となるでしょうか。
 
もし、昭和40~50年代の男性が女体化したキャラクターを愛好し、そこに理想や要請を自己投影していたら(当時の語彙でいう)「変態」に相当したかもしれません。
 
ところが、いまどきの男性の少なからぬ割合は、女体化したスペシャルウィークやトウカイテイオーに理想や要請を透かし見ることに苦労しないのです。混乱もしないし、自分を「変態」だと思うことも減りました。その理由のひとつは、20世紀から続く「戦闘美少女」の系譜に男性たちがずっと馴らされてきたせいでもあるでしょう。が、それだけでなく、そうした馴致も含めて男性の社会適応の理想や要請が女体化したスペシャルウィークやトウカイテイオーに近い方向へと変わってきた・変わってしまったからでもあるように、私などは思うのです。
 
 

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

  • 作者:斎藤 環
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 文庫
 
 
20世紀の後半から21世紀にかけて、アニメやゲームの世界では「戦闘美少女」と呼ばれたような、それか『とある科学の超電磁砲』の登場人物たちのような「役割は男性と変わらなけど女性の姿をしたキャラクター」がどんどん増えていきましたが、それと並行して、現実の男性に期待される所作や外観も女性化していきました。現実の男性が女性化と書くと「そんなバカな」と思うかもしれませんが、中性化、ユニセックス化と書くなら、心当たりがある人も多いのではないかと思います。
 
たとえばジャニーズは、ジャニーズファンに人気だっただけではありません。男性の社会適応の理想や要請、いわば、「イケメンとはどんな表象なのか」をも背負い、かたどっていました。ジャニーズが人気になったのと軌を一にして、日本男性に期待される表象やファッションは中性的に、ときには女性的になっていったのではないでしょうか。
 
まだ若者が百貨店で服を買い漁っていた頃の日本男性の恰好は、他国男性の恰好に比べて中性~女性的だったと私は記憶しています。ユニクロすら高価と言われるようになり、新型コロナウイルスのせいで他国男性の恰好をまじまじと眺める機会が少なくなった2021年においてもそうだと断言はできませんが、少なくとも十年以上前はそうでした。
 
だから私の視点からみると、女体化したキャラクターに「競争社会のロマン」が仮託されるようになったいきさつ・ジャニーズの流行・日本男性の表象やファッションの移り変わりは底で繋がった社会現象のようにみえます。かつて私は、女体化したキャラクターを「男性性からの逃亡」ぐらいにしか思っていませんでしたが、今は、男性にとっての理想の変化や、男性に対する社会からの要請の変化の一側面ぐらいに考えるようになっています。
 
汗臭い偉丈夫が完膚なきまでに駆逐されたわけではありませんし、日本のサブカルチャー領域は懐が深いのであらゆるキャラクター・あらゆるコンテンツが温存されているとはいえます。それでも、昭和40~50年に比べて旧来の男性性をストレートに描いたキャラクターのニーズは下がっているとは言えるでしょう。ストレートに描いているようにみえる場合も、どこかしら脱臭され、男臭さが襲い掛かってこないよう整形されていることの多いこと! 
 
そして汗臭い偉丈夫がそのままの姿で生きやすい社会でもなくなっているでしょう。
 
 

でも、読み取るより楽しんでいたい

 
私は、こうした男性にとっての理想や責務が女性寄りになった(または中性化していった)話を書籍のなかで何度かしました。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: Kindle版
 
残念ながら、あくまで社会の話のオマケとしてであって、メインの話としてまとめられたことはありません。どこかで一度、「女体化するキャラクターから現代社会病理を読み取る」みたいな平成っぽい本を作ってみたいものです。
 
でもそんなことより、『宇宙よりも遠い場所』がつくられたり『ウマ娘』が大ヒットソーシャルゲームになったりする現状を、現代日本大衆文化の一風景として面白がっておきたいし、面白かったという記憶を書き残していきたいと私は願っています。それらは日本社会の歪みや軋みを反映しているでしょうし、令和男性の生きづらさの影絵なのかもしれません。だとしても、これは現代日本大衆文化の豊穣な産物、たとえばフランス社会やアメリカ社会が生み出すことも育てることもなかった(できなかった)、そういった何かには違いありません。
 
そういう産物を同時代人のひとりとしてタイムリーに楽しめることを、現在の私は憂う以上に喜んでいます。や、もちろん、そういう何かが流行する社会で俯いている男性(や女性)がいることを否定するわけではありませんけどね。
 
『ゾンビランドサガ』と『ウマ娘』の、サイゲームス挟み撃ちで女体化こわいになっている現場からは以上です。
 
ゾンビランドサガ リベンジ SAGA.1 [Blu-ray]

ゾンビランドサガ リベンジ SAGA.1 [Blu-ray]

  • 発売日: 2021/06/25
  • メディア: Blu-ray
 

*1:要請、と言ってわかりにくければ責務、と読み替えていただいてもだいたい構いません

そうだ「ヤンキー的なもの」は規範だったのだった。

 
ゆうべ、twitterをぼんやり眺めていた時に、哲学者の千葉雅也さんの何気ないツイートが流れてきた。今日は、そこから色々と考えさせられたことをログとして残しておきたい。
 


 
「学校をサボって昼に出かけていた、だがヤンキーではないというのが僕にはわからない」という千葉さんの言葉から、私はサボれる機会に学校をサボっていた過去の自分自身のことを思い出した。

私は荒れた中学からなんとか進学校にたどり着いた。けれども進学校の友人たちと授業をサボって街のゲーセンに行ったり、学校近くの友人宅で麻雀を打ったりしていた。
 
もちろんサボって成績が下がるようなことはしない。出ても出なくても構わない授業、授業中に内職しかしないだろう授業、配られたプリントを片付けてしまえばOKの授業などを見計らってサボった。高校生のこうしたサボりがどれぐらい一般的だったのかはわからない。が、私の身の回りでは幾つかのグループがこうした計画的サボりを実践していた。
 
で、千葉さんの引用ツイートを思い出す。
 
ゆうべまで私は、「自分のサボりは平成初期の進学校だからできたこと」とみなしていた。ちょうど大学生の授業サボりと同じような感覚で。しかし千葉さんはおっしゃる──「学校をサボって昼に出かけていた、だがヤンキーではないというのが僕にはわからない」と。
 
……そうだったのかもしれない。進学校に在学しているからといってヤンキーではないとは限らない。学校をサボって街で遊んでいれば、進学校だろうが、実業高校だろうが、それは規範からの逸脱であり、ヤンキー的な振る舞いだ。そういわれればそのとおりかもしれない。
 
そして私が生まれ育った地域には「勉強するのはダサい」とみなす児童生徒がたくさんいて、学校規範からの逸脱やヤンキー的な振る舞いを誘うような雰囲気が充満していた。
 
未成年の縄張り争い。
万引き自慢。
タバコを吸い、それを大人にも隠さない中学生たち。
 
周囲の大人たちもまた、法や制度からの小さなはみ出しを悪いとも思わない態度を取っていた。ヤンキー的な振る舞いがそこらじゅうに存在していたとも言える。その多くは、令和3年の人々が逸脱とみなすものだったに違いない。
 
 

「ヤンキー的なものは逸脱じゃなくてロールモデルだ」

 
だとしたら、私は逸脱した十代を過ごしていたのか?
そうしたことを考えながらしばらくツイッターを眺めていた時に、ひざを打つような横やりが入った。
 


 
このツイートを見て、私の目と手が止まった。
 
「ヤンキー的なものは逸脱じゃなくてロールモデル」。
 
これも、なるほどと思わずにいられなかった。私の授業サボりは、中央の規範(または令和3年に望ましいとされる規範)からみれば逸脱とみえるが、私の生まれ育った地域・生まれ育った時代・一緒に過ごした同世代や年上世代の規範から逸脱しているわけではなかった。
 
むしろ逆だったわけか。
 
私(たち)は進学校に進んだ後も、生まれ育った地域の同世代や年上世代の規範を遵守し続けていた、といえる。そして借金玉さんがおっしゃるように、そのように振る舞うロールモデルが同世代にも年上世代にもたくさん存在していた。地域の規範を守り、地域のロールモデルの振る舞いをなぞらえることを、逸脱と呼ぶのはおかしい。地域全体が逸脱しているのでなく、それが地域の規範だったのだ。
 
そういう見方で自分自身を省みると、私は規範意識の強い人間だった、ということになる。石川県の方言になぞらえるなら「かたい子」「かてえもん」というか。授業はサボっても、法や制度を少しだけはみ出すことがあっても、地域の「かたい子」「かてえもん」からはみ出さないことはあり得る。反対に、法や制度を遵守し、学校が皆勤賞だったとしても、地域の規範やロールモデルから逸脱していれば「かたい子」「かてえもん」と呼ばれない可能性もあったわけか。
 
 

地方の規範が変わった。そして地方は貧乏になった。

 
何が規範で何が逸脱かは、見る者・語る者によって変わる。コミュニティや時代によっても変わるだろう。ヤンキー的な振る舞いが規範とみなされたのは、地方でももう過去のことだ。
 
や、一部の政治活動やオリンピック周辺の諸々のうちにヤンキー的エッセンスを透かし見ることも無理ではない。そのことをもって「ヤンキー的なものは今の日本でもマジョリティだ」と言い貫くことだってできるだろう。
 
それでも平成のはじめと現在を比較すれば、ヤンキー的な振る舞いが逸脱とみなされる頻度と程度が高くなったことは否定できない。たとえば高校生が授業をサボったり喫煙したりすれば、現在のほうがより逸脱として厳しくマークされるのは確実だ。中央はもちろん地方でも、ヤンキー的な振る舞いはより多く逸脱とみなされるようになり、中央が定めた法や制度、または中央で好ましいとされる礼儀作法どおりの振る舞いが規範的とみなされやすくなった。たとえば役所・地銀・地元を代表する企業などに就職したい地方の学生は、ヤンキー的な振る舞いではなく、ホワイトカラーにふさわしい振る舞いを身に付けていなければならない。
  
ところで、中央が定めた法や制度や礼儀作法が地方に浸透し、ヤンキー的な振る舞いが漂白されていったプロセスと、地方のカネの糸目を中央が差配するようになったプロセスは、私には平行したもののようにみえてしまう。地方の規範がヤンキー的でなくなっていくプロセスと、地方からカネがなくなっていくプロセス(特にヤンキー的な振る舞いの圏域からカネがなくなっていくプロセス)は、統治という名のクランクシャフトで繋がっているのではなかったか。
 
かつて、ヤンキー的なものと呼ばれていた諸々の生存圏は急速に縮小して、残っている生存圏も金回りが悪くなっているようにみえる。それは、中央の法や制度や礼儀作法を完全に内面化している人には絶対的に好ましい変化とうつるはずだけど、そうではない人にはきっとそうではないようにうつる変化だと思う。というか、私も、そうした変化を絶対的に肯定することができずにいる。もちろん否定などできるわけもないけれども。
 
まだうまく言語化できない。だけどヤンキー的なものが逸脱とみなされやすくなっていくのと、カネが地方から中央に流れていくのは同根の現象で、私には、これがきれいごとではなく容赦のない何かにみえる瞬間があったりする。
 
……話が変な方向に脱線してしまった。筋の良くない脱線だ、元の話に戻る気持ちがなくなってしまった。今日はここでやめよう。個人のブログ記事なので、ヤマもオチもイミもない文章ですがどうかご容赦ください。
 
 

ある研修医が見た就職氷河期の記憶

 
 芽吹いてきた新緑を眺めていて、ふと、昔話がしたくなった。
 別に珍しい話ではない。
 一人の研修医から見た、就職氷河期当時の思い出話についてだ。
 
 
 1.
 私が研修医になる前から、それは始まりかけていた。私は医学部にこもりっきりなのが性に合わなくて、他学部の学生がたむろしている場所に好んで出入りしていた。そこで出会った他学部の先輩たちが「就職活動が大変だよ」と言っているのを耳にしたりもしていた。とはいえ1994年度、1995年度に卒業した他学部の先輩がたの就職先はなかなかのものだった。ゲームと登山に熱狂して留年しまくっていた先輩が、大手自動車メーカーに入社できた話を聞いた時はびっくりした。あのゲームばかりやって山ばかり登っている先輩ですら大手自動車メーカーに入社できる。そういう希望があった。
 
 1996年。1997年。
 この頃から様子がおかしくなってきた。私と同学年に相当する彼らは就職活動に苦戦していた。百社以上を回ってようやく内定獲得。内定が出ないから大学院に進学。そういった話が間近になってきた。今から振り返ってみれば「就職できないから大学院に進学する」とはハイリスクなルートに思えるのだけど、もちろん彼らはまだそのことを知らなかった。
 
 どうにか内定を獲得した同学年たちのホッとした表情。どうにも内定を獲得できない同学年たちの焦燥。なんともいえない曖昧な笑み。それでもゲーセンはたむろの場であり、たむろの場は社交の場だった。私は六年制学部の学生だったから、「就職活動という問題系」について十分に考えておらず、それらが意味するものも理解していなかった。当時の私には、就職についての問題は形而上学的な何かでしかなった。あるいは今でもそうなのかもしれない。
 
 
 2.
 1999年。研修医になって最初の一年は忙しくて、周りのことなど見ていられなかった。当時の研修医の年収はおよそ400万ぐらい、大学病院勤務による収入が3割ぐらいで残りは「いわゆるバイト」というやつで、大学関連病院のお手伝いの報酬としていただくものだった。もらったお金は医学書の購入以外にはほとんど使っていなかった。何かに使う暇が無かったからだ。
 
 2000年。研修医の生活にもいくらか慣れ、時間の合間に人に会うチャンスをつくれるようになったが、大学時代以来の知人はだいたい無事だった。境遇はさまざまでも、とにかく生活は成り立っているようだった。忙しいか? もちろんだとも! とはいえ研修医の自分以上に忙しい生活をしている人はいない様子で、周囲からは気の毒がられた。皆、携帯電話を持ち、皆、インターネットを始めていた。正社員になれたかどうかが意識される場面は、この段階でもまだ無かった。ゲームや飲み屋といった繋がりの紐は意外に頑丈にみえ、不況の影響はそれほどでもないな……などと思っていた。
 
 
 3.
 就職氷河期の影響を私がじかに見知るようになったのは、だから2001年以降になる。
 
 消息がわからなくなる人が出始めた。それはオフラインのゲーセンや飲み屋に限った話ではない。インターネットで知り合った人々も、00年代の前半からポツポツと消息がわからなくなる人が現れるようになった。楽しみにしていたウェブサイトが、管理人の失業からしばらくして更新停止になってしまう──そんな出来事も何度かあった。ハイパーリンクの網の目からひっそりいなくなる人のことは、あまり話題にならなかった。話題にしたくなかったのか、そういう作法だったのか。
 
 大企業の正社員になった人々も安泰ではなかった。退職を余儀なくされる人、うつ病などの精神疾患にかかる人がいた。発達障害という診断を受け、医療や福祉によるサポートを受けなければならなくなった人もいた。彼らは苦労し、疲弊していた。自分の手札で勝負し、手札が切れかけて、その場に踏みとどまるか、転戦しようとしていた。
 
 当時は私も若かったので、友人のメンタルヘルスの相談に真正面から乗ることもあった。今だったら、少なくとも真正面からは相談に乗らなかっただろう。なぜなら、(補:精神科医として)友人関係のメンタルヘルスの問題に耳を傾けすぎると、友人関係が破壊され、まったく別の関係が始まってしまうことがよくあるからだ。この頃はまだそれを知らなかった。
 
 ゲームや飲み屋といった繋がりや、インターネット上の繋がりが、諸事情によって切れてしまうことがあることをようやく私は知った。そうした断絶は、人生のなかでは不可避的に経験するものなのかもしれない。ただ私の場合、この時期にそうした断絶がかなり集中していた。
 
 
 4.
 2005年~2006年頃になってようやく、私は"就職氷河期"とか、"失われた10年"とか、"「希望は戦争」"とかいった、わかりやすく出来事をまとめた言葉を知るようになった。ブログや2ちゃんねるでは、当該世代のたくさんの人がそうした言葉を駆使して不遇を語ったり世間を呪ったりしていた。少なくとも私が好きなインターネットの圏域では、それらの言葉が流行っていた。
 
 当時の私は個人の社会適応のことばかりネットに書いていたためか、そうした人々から恨みつらみをぶつけられることもあった。しかし彼らからさまざまな不遇のありよう・個人における不適応のバリエーション・社会にできあがった構造的困難について教わった。90年代後半~00年代前半に私が見た風景は、それでもまだ恵まれていたのだと思う。社会には、もっと持たざる人々・もっと厳しい人々が確かに存在していて、どうやら格差は広がり始めている。そういうことを教えてくれたのは、当時のはてなダイアリー(現:はてなブログ)でブログを書いている人たちだった。
 
 私は、はてなダイアリーを書いている人たちと対立していたはずなのだけど、気が付けば彼らに感化されて、彼らの文章の続きを、私自身の言葉で書きたいと思うようになった。もし彼らがブログを書き続けていたら、そうはならなかっただろう。けれどもはてなダイアリーで社会についてブログを書いていた人々、ここで心の叫びを書けば何かがあるかもしれないと祈っていた人々は去って行った。これは、就職氷河期とは直接に関係のない出来事で、きっとSNSの台頭やインターネットのテレビ化とか、そういった移り変わりのせいだろうと頭では理解しているけれど、私のなかでは就職氷河期終盤の別れの一部として記憶されている。
 
 5.
 就職氷河期は2005年頃には解消されたとされている。事実としてはそうなのだろう。
 ただ、その間に起こった出会いと別れの影響はなくならない。もちろん、就職難の大波をダイレクトに食らった人や(00年代あたりの)ブラックな労働環境に傷ついた人の時計の針も戻らない。そしてあの就職氷河期を境として、この国は格差ができあがる構造を暗黙の了解とした、表向きは自由競争とされる社会へとはっきり変わっていった。自由という言葉の響きも、今では違って聞こえる。
 
 こうして思い出してみると、就職氷河期の真っ最中に「これはひどい社会だ」「これはブラックな労働だ」とはっきり意識して、はっきり声に出していた同世代はそれほどいなかったように思う。皆が社会に適応するのに必死か、必死ななかでも楽しみを見出そうとしているか、その両方かで、なかにはみずから追い詰められながら自己責任論を叫んでいる人すらいた。就職氷河期がそのような悪しき時代としてハッキリ意識され、語られるようになったのはそれが出口に向かった00年代の中頃、それこそ往年の"ロスジェネ論壇"やその周辺のブロガーが声をあげるようになってからではなかったかとも思う。
 
 だとしたら、このパンデミックに伴う厳しい社会情勢も、今はあまり言語化されなくとも、一区切りついてから下の世代によって言語化され、語り継がれていくのかもしれない。厳しい状況の渦中においては、何かを語ったり考えをまとめたりすることは難しいからだ。いや、どうだろう? もう長文ではそういうことはあまり語られないのだろうか。歌かポエムか、140字ぐらいのつぶやきに収められていくのかもしれない。長文を書いたり読んだりする暇すら与えられないなら、そうだろう。
 
 

『ウマ娘』をやっていると目が痛くなる

 

 
先日も書いたとおり、ゲーム『ウマ娘』は本当によくできた、つい夢中になりたくなるゲームだ。プレイヤー同士のリーグ戦にも楽しみがあり、正しくソーシャルゲームしている。だから時間とお金がコントロールできるゲーム愛好家には、勧め甲斐のあるゲームだと思っている。
 
でも、このゲームをガツガツと遊ぶのは中年のゲーム愛好家には厳しい。いやたぶん若いゲーム愛好家にも厳しいんじゃないかと思う。というのも、この『ウマ娘』をやっていると目が痛くなってしまうからだ。
 
ウマ娘を遊んでいて目が痛くなる理由は、だいたい見当がつく。育成モードのイベントを早送りしているからだ。イベントを早送りするかしないかによって、ウマ娘を育てるスピードはぜんぜん違う。また、早送りしてもイベントで何が起こっているのかはだいたい把握できる。だから早送り機能は重宝するし、『ウマ娘』がダレてしまわないために必要不可欠な機能だとも思う。
 
ところがスピードが速く、それでいてイベントで起こっていることやパラメータの上下がだいたい把握できるせいで、つい、この早送りを「見てしまう」。イベントを早送りしているから、目にはすごい勢いで情報が飛び込んでくる。これを、自分の目が追いかけてしまっていると自覚する。なまじ、だいたい把握できるからこそ、目が早送りを追いかけてしまって、それですごい勢いで目が疲労してしまうのだ。目にくまができるぐらいならまだ良くて、しまいに目が痛くなる。
 
これまで色々なゲームジャンルのゲームを遊んできたつもりだけど、『ウマ娘』は目が疲れるほうのゲームだ。個人的には『怒首領蜂』などの弾幕シューティングゲームと同じぐらい疲れやすいと思う。
 
早送り機能といえば、ファミコン版『ウィザードリィ』シリーズの戦闘メッセージ速度1も目が早送りを追いかけてしまうゲームだったけど、『ウマ娘』みたいに目が痛くなることはなかった。あちらは高速で文字が流れるだけで、グラフィックが目まぐるしく変わるわけではないから大丈夫なのだろう。
 
そこで最近は、育成モードではなるべく目をつむっていようと心掛けているのだけど、これがなかなか守れない。育成がうまくいっている時にはうまくいっているなりに、うまくいっていない時はうまくいっていないなりに、つい、何が起こっているのか見守ってしまう。イベントの成り行きによってステータスが変化するので、見落としたくないという心理が働いてしまう。で、早送りされた画面に吸い込まれてしまい、目がやられてしまう。
 
繰り返すが、『ウマ娘』のイベント早送り機能は(総体としては)とても良い仕事をしていて、育成のテンポを保つうえで不可欠のものだと思う。だから早送り機能をなくしてくれとは言えないし、リリース直後にこれほどの完成度であることに難癖をつける気にもなれない。
 
現段階では、プレイヤー側が気を付けるしかない。「目が痛くなってしまうようなプレイはするな」「自分の体調を考えて『ウマ娘』を遊べ」ということなのだろう。ちょうど『ウマ娘』の育成でレンタルウマ娘を借りてこれるのは3回までだから、この3回が一日の育成限界とみなし、目を酷使しないのが望ましい遊び方なんじゃないかと思う。なんならもっと回数を減らしたっていい。
 
もちろん、現在のTP値の仕組みやTP回復アイテムの存在を考えると、「『ウマ娘』は一日3回まで」という遊び方は、ゲームの仕様に合致していない。だからゲーム運営の皆様におかれては、もうちょっと目が痛くなりにくい方策を実装してほしいとも思う。どんなにゲーム自体が魅力的でも、目をやられてしまっては楽しいゲーム体験を続けられないからだ。
 
 

ゲーム依存や高額課金だけが問題ではない

 
良くできたソーシャルゲームというと、ゲーム依存や高額課金などが槍玉にあげられがちだし、もちろんそれらは大きな問題だ。
 
けれども、そうした一部のプレイヤーに生じる深刻な問題とは別に、眼精疲労や肩凝り、姿勢の悪化や運動不足などもゲームプレイにはついてまわる。ゲームプレイヤーが年々高齢化していることを思うにつけても、目に優しいゲーム、ひいては身体に優しいゲームを歓迎する向きはあるはずだ。たとえば『ウマ娘』のような、歴代の名馬が登場するゲームの場合は特にそうだろうとも思う。
 
また、プレイヤーの側も、ゲーム依存や高額課金だけを警戒するのでなく、自分の目を傷めないプレイ、腰を傷めないプレイ、姿勢が悪くなってしまわないプレイを心がけていったほうが良いはずだ。部屋の明るさや椅子の良し悪し、インターバルの有無なども、長くゲームと付き合っていくなら考えておいたほうが良い。
 
もっと私たちは自分の身を労わりながら、長くゲームと付き合っていく工夫をしたっていいんじゃないだろうか。
 
後日、別記事で紹介するつもりだけど、そうした身を労わるゲームの心がけは、単に健康を守るだけでなく、ゲームプレイの精度や上達にもかかわってくる。若くて健康に自信のあるゲーム愛好家も、知っておいて損はしないはずだ。スポーツ選手が身体に気を配るのと同じように、ゲーム愛好家、とりわけ向上心のある愛好家が身体に気を配るのは理にかなったことだと思う。
 
『ウマ娘』のような、完成度の高いゲームを遊べるのは愛好家冥利に尽きるけれども、それで身体を壊してしまっては元も子もない。節度をわきまえ、メンタルも身体も財布も壊さないようにしながら長く付き合っていけたらと思う。