シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた

(※アニメに関心の無い人にはチンプンカンプンな内容なのでご注意ください)
 
  
『SSSS.GRIDMAN』Japan 2018 雨宮哲監督 ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人がそれを許してしまうのはどうしてなのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
 
 ブログというメディアには利点が幾つもあるけれども、ひとまとりの意見が読めること、それとリンクを張ることで意見のネットワークみたいなものが作れるところだと思う。
 
 今回、アニメをよく愛好してらっしゃるペトロニウスさんが『GRIDMAN』について面白いことをリンク先で書いていたので、重複をおそれず、自分の『GRIDMAN』観を書きとめたくなった。
 
 

つい、文脈を読みたくなってしまうアニメ

 
 このアニメは、1990年代の特撮を原作としたアニメであるという。製作元が円谷プロダクションであることも含めて、作品理解の一環として文脈やいきさつを読み取る余地がたくさんあった。
 
 

 
 
 しかし私には、そういった文脈をしっかり読み取る甲斐性が無い。せいぜい、『新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)』が特撮から引き継いだ影響と、『エヴァ』からこのアニメが受け継いだもの、そういった特撮とアニメの間のバトンリレーに思いを馳せるぐらいだ。
  
 それでも、私もそれなり歳をとって中途半端な知識を身につけてしまった。そのうえtwitterからは事情通のつぶやきが漏れ聞こえてくるものだから、文脈に絡め取られながら視聴してしまうきらいがあった。
 
 私は、文脈や歴史的背景にもとづいてアニメを視聴する自分自身を疎ましく思っているところがある。アニメを観る時は考えるより感じていたい――ビールにたとえるなら「味わいをしっかり検証するより、のどごしを楽しみたい」といったところか。
 
 でもって、『GRIDMAN』という作品は、文脈や脚本といった「味わいをしっかり検証する」のに適した作品なのか、「のどごしを楽しむ」のに適したアニメなのか、そこらへんが難しかった。
 
 

なので脚本も、古臭いし、シンプルに描いてはいるけど、これ単体で分かるほどうまく表現でいていないし、、、要は出来が良くないように思えるんですよね。けれども、たしかに、新条アカネと宝多六花を見ても、尊いというのはわかるんですよ。とても現代的に洗練されていて、ポップな感じで、、、いい出来だ、という感じがしています。

http://petronius.hatenablog.com/entry/2019/01/21/074410

 ペトロニウスさんがおっしゃる「ポップな感じ」とは、キャラクターデザインも含めたコンテンツの洗練や作り込みの賜物ではないかと思う。そういうポップな感じとは、ビールにたとえるなら「のどごし」みたいなもので、これはこれで楽しむに値するものだと私は思う。
 
 でもって、私のように怠慢な、キャラクターデザインやガジェットに丸め込まれてしまう愛好家にとっては、そういう作品はそういう作品としてガブガブっと楽しんでしまいたかった。
 
 ところが『GRIDMAN』はそれを許してはくれない。
 
 『GRIDMAN』は、20世紀の諸コンテンツから連なる文脈をプンプン匂い立たせている。絶対に、わざと、仕掛けてきている。どうしても文脈というものを考えてしまう。
 
 こういう趣向が、ある種の愛好家にとって最適な嗜好品であることは私にも理解できる。
 
 実際、『GRIDMAN』のオンエアー中は、この作品の文脈読み込みを面白がる愛好家のツイートをたくさん見かけたし、そのなかには「『GRIDMAN』を楽しめる人間は文脈を面白がれる奴だ」と言わんばかりの、鼻息の荒いツイートも混じっていた。
 
 そういった、文脈読み込み愛好家たち (私は、そういうのを「サブカル的な愛好家」と表現したくなる) を喜ばせるギミックや描写が、この作品には地雷原のようにちりばめられていた。
 
 だけれど、アニメ愛好家の全員が文脈を読み込みたがっているわけでもあるまい。のどごし爽やかなアニメをグビグビ楽しみたい、私のような人間もいたりする。そして『GRIDMAN』の魅力と人気は、そのようなのどごしの爽やかさ・ポップさにも支えられていたと私は思う。
 
 そんなわけだから、私は『GRIDMAN』という作品を視聴する際のスタンスの据わりが悪いなぁ……と感じずにはいられなかった。
 
 


 
 ここで語られている町山氏の映画評論的なものが「サブカル的な愛好家」の視聴スタイルであり、ここでいう「メッチャ作中だけが作品世界なのダみたいな若いころの純血主義」のほうが私のルーツに近いと感じる。
 
 私は、大量のコンテンツを比較検討しながら知見を広げていく、都市部のオタク・エリートとしては思春期を過ごせなかった。私は、地方でもアクセスできる数少ないコンテンツをVHSで録画して擦り切れるまで見続ける(そして作中世界への埋没を至上とみなす)ハビトゥスを身に付けた地方のオタクだ。
 
 その私も年をとり、文脈を踏まえた鑑賞態度を理解するようになったし、今の自分がそれに助けられていることも知っている。けれどもそれは私本来の鑑賞態度ではなかったはずで、ここでmatakimikaさんが「その箍がユルユルになってきつつ興味の範囲がなし崩しに無秩序に拡がってきている、という中年の身体」と表現しているものに身をゆだねている自分自身を、少し、恥ずかしく思う。
 
 もちろん、歴史的文脈を踏まえた鑑賞態度や理解の姿勢があってはいけない、と主張したいわけではない。最初からそういう姿勢でアニメを鑑賞している人は、この『GRIDMAN』をそのように受け止めればいい。ただ、私のような、考えるより感じることを良しとしてきたアニメ愛好家が、洗練されたデザインと文脈"病"との板挟みに遭うのは、なかなか据わり心地の難しいアニメ視聴体験ではあった。
 
 

「アカネの心の補完」という古いテーマ

 
 
 さて、『GRIDMAN』は表向きは響裕太たちがセカイを救うヒーロー活劇ではあったが、世界ではなくセカイであった点が、40代の私には大問題だった。
 
 というのも、人の心が作品世界と直結している、つまり、90年代~00年代なら「セカイ系」という言葉で括られていたであろう世界観が、この、カネと手間暇のかかった2018年の深夜アニメで復古されていたのである。
 

セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

 
 
 この作品の舞台は、アカネが望んだセカイであるという。心象がセカイになり、心象が物語に直結しているというこの構図は、『エヴァ』とその前後の作品群を思い出したくなるものだった。
 
 この、都合の良いつくりごとのセカイで(もちろんこのフレーズは『エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君に』の引用であり、一種のサブカル仕草である。ちぇっ!)アカネは心の平安を保ち、と同時に、つくりごとのセカイの神として君臨してもいた。
 
 

 
 ところが『エヴァンゲリオン劇場版』で否定された都合の良いつくりごとのセカイが、この、多分にエヴァを踏襲しているであろう作品では最後まで都合の良いつくりごとのまま推移し、アカネが救われる大団円で終わっているのである。
 
 90年代の特撮を2010年代の深夜アニメとしてリメイクし、古強者の愛好家が喜ぶようなガジェットや文脈を散りばめておくこと。救われるべきヒロインが碇シンジのような少年ではなく「かわいい」少女であるということ。そのアカネがグリッドマンや六花たちに「救われて」心を開いていくということ。
 
 こういった筋書きは、90年代の庵野秀明が「現実に帰れ」と言っていたものとは正反対のように私にはみえた。あの頃の綾波レイが「都合のいいつくりごとで、現実の復讐をしていたのね。」と冷たく言い放っていた対象とは、まさにこのようなセカイではなかったか。
 
 アカネの言動は、そのセリフの端々が90年代の碇シンジとダブっているところを含めて、そのような都合のいいつくりごとを期待する視聴者と重なるところがあったように私にはみえた。
 
 いまどきのアニメコンテンツは、美少女-所有願望の対象としてばかり少女を描いているわけではない。自分自身とかわいい少女を重ね合わせることをとおしてナルシシズムを充当できるような、マルチロールな機能もしばしば与えられている。
 
 
 [関連]:『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にみる、マルチロールな感情移入と、その洗練 - シロクマの屑籠
 [関連]:なぜ少女が湯水のように消費されるのか――男性オタク界隈における少女の消費状況について―― - シロクマの屑籠
 
 
 そのような読み筋でアカネを眺めると、自己投影しやすいキャラクターの典型と読めるし、下記リンク先に記されている
 
「スクールガール・オタクコンプレックス」という新条アカネの生み出した怪獣に、僕は…。 - 1k≒innocence
 

グリッドマン、そしてグリッドマン同盟が、我々視聴者のオタクも救ってくれることを願ってやまない。なぜなら新条アカネの救済こそが、新条アカネに心奪われたオタクを救うただ一つの方法なのだから。

 という、アカネと「我々視聴者のオタク」をダブらせた科白も理解しやすくなる。
 
 このようなナルシシズム的対象選択もまた00年代に流行した趣向であり、『GRIDMAN』という作品に懐かしさを感じる一因になっていたと思う。
 
 少女に対する(おもに男性愛好家の)自己投影――ナルシシズム的対象選択は、00年代にトレンドを迎え、10年代以降、アニメの前衛という感じではなくなった。わかる人にしかわからない表現をすれば、『動物化するポストモダン』に合致したキャラクター消費の最前線がスマホアプリになったのが10年代の界隈、というのが私の理解になる。
 
 ところが『GRIDMAN』は古めかしくも、アカネという、どこか懐かしいタイプの少女の心の補完を描き出してみせたのだった。そういった世界観を整合させるためもあってか、表向きの主人公である響裕太はうつろな主人公とうつったが、はたして、終盤に至って響裕太はいよいようつろなキャラクターになっていった。
 
 そういった部分も含めて、20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』への意趣返し、あるいは二次創作ともみえる筋書きが、私には興味深くて、いや、引っかかって、ツルツルとしたキャラクターデザインを楽しんでばかりもいられない心境にならざるを得なかったのだった。 
 
 

 
 こんな実写シーンを見せられると、あの、「考察」を空回りさせていた懐かしい時代のことを思い出さずにはいられないではないか。
 
 

「こころ時代」のレクイエムとしての『GRIDMAN』

 
 こうした諸々をひっくるめて『GRIDMAN』の感想をワンフレーズにまとめるとしたら、「平成オタの葬送」となるだろうか。
 
 心理学ブーム・メンタルクリニックブームとともに始まった平成時代。そして心というものにセンシティブな一時代はアニメというジャンルとも無関係ではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめ、時代がかった作品を複数生み出した。さきほど触れた「セカイ系」というボキャブラリーも、そういった時代がかった作風(のひとつ)を言い表したものだった。
 
 しかし平成も後半になってくると、心というものにセンシティブな作品は退潮していった。ひきこもりは若者の問題としてではなく、中年の問題として語られることが多くなり、カウンセリングは認知行動療法という言動のメンテナンスへ、メンタルクリニックブームは発達障害ブームへと置き換えられていった。
 
 平成時代の出口に立っている私達は、もう、心というブラックボックスを以前ほどは顧みていない――そんな風に私は思う*1。そういう「こころ時代」の終着点に、たまさか『GRIDMAN』という懐古的な作風の、それでいてキャラクターデザインをはじめ、全体的にツルツルに磨かれてのどごしの良いアニメに出くわしたのは幸せなことだった。
 
 このアニメを観るアングルや世代はさまざまだろうけれども、私は一人の40代のアニメ愛好家として、この作品を「こころ時代」のレクイエムとして受け取ることにした。
 
 だからどうした、という話ではある。けれども、記憶がなくならないうちに書き留めておきたいと思ったのでこうして書き留めておく。屈折した気持ちを抱えながらも、最終話までニコニコしながら眺めました。
 
 ※1/22追記:誤字その他をご指摘くださった皆さん、ありがとうございます。

*1:そのような換骨奪胎が起こっているにもかかわらず、災害などが起こるたびに「こころのケア」なる言葉が用いられることに、私はちょっとした興味を覚えるが、これ単体で5000字は必要になろうからここでは於く。

試される前頭葉──FGO新春ガチャ迎撃戦

 
 2018年、私がいちばんのめり込んでいたゲームは間違いなく『FGO』だった。
 
 この、世界的な売り上げを誇るソーシャルゲームのガチャを回しまくった結果として、2018年の夏イベントでは、★5サーヴァントに目がくらみ、なし崩し的に課金するという、衝動的な行為に走ってしまったのだった。
 
 
 で、お正月がやってきた。
 

 
 
 『FGO』は、盆と正月に派手なガチャイベントを繰り出してくる。いつもは絶対に手に入らない優秀な★5サーヴァントが、日替わりでガチャメニューに登場するのである。
 
 

 
 このリストには、私が欲しくて欲しくて仕方の無い★5サーヴァントが3人載っていた。ギルガメッシュ・スカサハ・葛飾北斎の3人はものすごく強力で格好良く、いつも指をくわえて眺めていた。ついでに言えば、ネロ・クラウディウスだって欲しいしジャンヌ・オルタも欲しいといえば欲しい。
 
 要は、どれも欲しい。
 
 2018年の夏は「あれも欲しい、これも欲しい」と欲をかいたあげく、どれも手に入らず、なし崩しに課金するという前頭葉の敗北を喫した。
 
 だが!
 
 今回こそは欲望には負けない! 負けるものか!
 
 この正月に備えて、私は数か月かけて作戦を仕込んでおいた。
 
 

 1.2019年1月1日までに聖晶石500個相当のリソースを蓄積する。それまでは基本的に聖晶石は温存する
 
 2.目当ての★5サーヴァントは一人とする。もし、葛飾北斎がいる場合は葛飾北斎にリソースの70%以上を投入する。
 
 3.それ以外の★5サーヴァントは聖晶石30個以下のリソースしか投入しない。
 
 4.どんなに嘆き悲しもうと課金は追加しない。『FGO』関連の予算は新年度まで通さない
 
 5.合計2体の★5が来れば満足すべきである

 
 徹底したガチャの統制。
 計画経済。
 そういうことを4か月ほど自分に言い聞かせ、ガチャの方法も事前に取り決めたうえで正月に臨んだ。
 
 

「どうしてこんなに欲しがってしまうのか」

 
 『FGO』の正月ガチャイベントは、いわゆる「福袋ガチャ」で始まる。
 
 「福袋ガチャ」とは、一人一回かぎりの特別なガチャで、確定で★5サーヴァントが1体(ときには2体以上)出てくる。私はこれで、いきなり★5を二つ当ててしまった*1
 
 
 

 
 
 
 ラッキーな滑り出しだが、前回、これで調子に乗って無秩序なガチャに突入してしまった反省がある。
 
 本命の葛飾北斎にリソースを集中させるために、そこから私は、ケチケチとガチャを回すことにした。
 
 
 
 ところが、FGOの神はどこまでも気まぐれだった!
 
 
 

 
 
 
 1月1日、最初の10連でいきなり★5のギルガメッシュを召喚。本当はのどから手が出るほど欲しかったけれども心のなかで諦めていたのに、新年早々、「運を使い果たしたな雑種!」というありがたい御訓示を賜ることになった。
  
 続いて1月6日。
 
 
 

 
 
  
 気まぐれで1回だけ回したガチャでいきなり★5の紅閻魔が出て腰が抜けた。
 
 『FGO』のガチャで★5が出る確率は1%、一度のガチャで聖晶石を3個消費する。ということは、大まかにみれば★5が2人というのは聖晶石600個ぶんである。
 
 もちろんこんなものは目安でしかなく、★5は出る時には出るものだし、出ない時には出ないものではある。けれども私は「ああ、これはもう駄目かもわからんね」という気持ちになっていた。
 
 ところが、実際に葛飾北斎のガチャを回す日がやってくると、底知れない「欲しい」という気持ちが湧きあがってくるのである。
 
 
 

 
 
 
 もう、十分に★5は手に入れたではないか。しかも、そのうち一人は英雄王ギルガメッシュで「運を使い果たしたな雑種!」という御訓示までいただいている。だというのに、どうして私はこんなに葛飾北斎が欲しいのか?!
 
 最初のうちは、私は丁寧にゲンを担ぎながらガチャをまわしていた。世の中には、迷信に惑わされながらガチャを回す人々がいるが、私もその一人である。
 
 
www.inside-games.jp
 
 
 
 上記リンク先でいえば、私のゲン担ぎは、「単発教」と「強化大成功教」に近い。最初のうち、私はゲン担ぎを丁寧に守っていたが、30回ほどガチャをまわしているうちにだんだん粗くなってきた。そのうち、我が家では禁忌とされている「10連ガチャ」を回すようになってしまった。
 
 
 

 
 
 うへぇ、ひどい10連。
 
 負け犬気分でガチャを回していると、ガチャの一回一回が空しくなってきて、だんだん辛くなってくる。それぐらいなら、いっそ10連ガチャをまわして玉砕し、この苦しい気持ちから早くオサラバしたほうがいいのではないか。
 
 そもそも、どうしてこんなに「欲しい」という気持ちが高まってくるのか意味がわからない。ソーシャルゲームのカードなんて、ただの電子データではないか。だというのに、ガチャを回すほど、聖晶石が減っていくほど、おのれの執着で息が苦しくなってくるのである。
 
 最終的には、玉砕玉砕と騒ぎながらガチャを回す私を見るに見かねた嫁さんが、「一枚ずつ、ちゃんとゲンを担いでまわしましょう」といってスマホを取り上げて、かわりにガチャを回し始めて、
 
 
 

 
 
 
 この恐ろしい地獄から生還することができた。
 ありがとう嫁さん、ありがとう葛飾北斎。
 
 
 

課金を防ぐことはできた。だが、欲しがることは防げなかった

 
 
 2018年夏の悲劇をふまえて、今回は万全の統制をしいたうえでガチャに臨み、どうにか私は課金は免れた。
 
 念願の葛飾北斎をお迎えできたという意味では、私は「勝った」と言えるだろう。
 
 しかし、「欲しがり過ぎたあげく、ガチャに苦しみ抜いた」という意味では「敗北」である。
 
 課金を防ぐことはできたものの、途中からはやけっぱちになり、終盤は「玉砕玉砕」と騒ぎながらガチャを回す一匹の獣になっていた。嫁さんが言うには「お前、泣いていただろ」、とのことである。
 
 大の大人がガチャに心を奪われて獣になったり、なし崩しに課金に走ったりするのは、ガチャにコントロールされていること・ガチャに負けていることだ。
 
 結局また、私はガチャに呑まれてしまったわけだ。
 
 
 ガチャに試される前頭葉。
 
 
 遊びとしてはとてもシンプルだが、なんという深淵。
 それでも私は準備し、計画的課金するのだろう。
 今年の夏イベントのために。来年の正月イベントのために。
 
 

賭博者 (新潮文庫)

賭博者 (新潮文庫)

 
 
 ※2018年夏のガチャについてはこちら:「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった - シロクマの屑籠
 

*1:補足:はてなブックマークにて「福袋ガチャは課金聖晶石」とのご指摘がありましたが、これは2018年夏の残存戦力です。

日本の破局的な少子化と、急ぎすぎた近代化

 
 


 
 たぶん、このツイートはブラックジョークのつもりで書かれたものだろうが、私には冗談にみえなかった。
 
 
 
 
 
 憲法九条のおかげか、国民の選択の賜物か、ともかく日本は戦争を経験せずに70年以上の歳月を過ごしてきた。なお、冒頭ツイートはちょっと間違っていて、平成25年の段階で20歳は40歳の6割ぐらいで、実際に5割になっているのは新生児のほうだ(下図参照)。
 
 

 出典:統計局ホームページ
 
 
 とはいえ、このすさまじい人口動態を前にすると、そういう数字の違いは誤差の範囲にみえる。子どもが第二次ベビーブーム世代の半分以下になりつつあるのは事実だし、これから合計特殊出生率が急増したとしても、これまでの減少を埋め合わせるには膨大な時間、それか欧米諸国もためらうような規模の移民が必要になる。常識的に考えて、日本の合計特殊出生率が急増するきっかけは思いつかない。
 
 若者が集まり続けている首都圏の合計特殊出生率がきわめて低く、にもかかわらず、子育てに対する考えも、子育てを援助するインフラもたいして変わっていないのだから、どうしようもあるまい。
 
 

「たくさん死ぬ」も破局だが「ぜんぜん生まれてこない」も破局

 
 「人口なんて減っても構わない」という人がいる。
 
 わからない話ではない。日本人は狭い国土にひしめくように住んでいるから、人口が減ることにはメリットもあるだろう。
 
 しかし今起こっているのは、そんなに生易しい人口減少ではない。
 
 今日の医療や社会福祉、そのほかのインフラは、生産人口の急激な減少を前提につくられてはいない。いまの政権も、急激な少子高齢化をみすえてそれなり努力しているだろうけれども、高齢有権者のほうがマスボリュームとしてずっと大きい現状では、少子化対策に多くのリソースは割けないだろう。
 
 また、人口減少にみあった道徳や倫理も、私達は持ち合わせていない。社会が変わればそれにみあった道徳や倫理が必要になってくるのが世の常だが、国内外の世論は、それを許さないだろう。
 
 そうした難しさを思うにつけても、この少子化は、戦争による人口減少に迫るインパクトがある。
 
 たとえばフランスは第一次世界大戦で非常にたくさんの犠牲者を出し、労働人口の1割程度を失ったといわれている。当時のフランス社会にとってこれは破局的な損失で、その悪影響は第二次世界大戦にまで色濃くあらわれていた。
 
 他方、日本の労働人口の減少は、みずほ総合研究所の調査によれば、2016年~2065年で4割減少すると推計されている。第一次世界大戦に比べればタイムスパンが長く、戦死・戦傷とは性質も異なるため、両者を同じ秤に乗せるわけにはいかない。それでも労働人口の減少がこのまま進んだときのインパクトは計り知れず、その影響はずっしり残り続けるだろう。
 
 そして労働人口の減少とは、消費人口の減少、つまり内需の減少にも直結している。
  
 戦争やテロで人が大勢死ぬと、人はそれを破局と呼ぶ。自殺者が増えることを破局と呼ぶ人もいるだろう。それらは破局として理解しやすい。
 
 だが、子どもが生まれてこなくなるのも、それはそれで破局ではないか
 
 すでに、街で見かける子どもの数は減っている。急激なニュータウン化に苦しむ一部地域をのぞけば、小学校や中学校には空っぽの教室がある。数十万~数百万人の規模で子どもが生まれてこなくなり、数十年で数千万人の人口が減っていく。あまりにもスケールの大きなその影響は、計り知れない。
 
 こういった破局は、人類史のなかでもはあまり例の無かったことだ。豊かな生活・男女平等・個人の自由・民主主義といったアチーブメントを成し遂げたにもかかわらず子どもが半減していく事態を、まだほとんどの国は経験していない。そのくせ表向きは豊かな生活が続いているものだから、この破局を、破局として認識する人はあまりいない。
 
 本当は、不産の疫病神が国全体に、とりわけ人口集中の進む首都圏に憑りついている状態だというのに。
 
 みんな、この人口減少によって後進世代がゆでガエルになっていくプロセスを平常心で眺めていようと決め込んでいるのだろうか? それとも今日を生きるために明日のことや他人のことを見ないようにしているのだろうか? 後進世代よりも先に死ぬから「自分は逃げ切れる」とたかをくくっているのだろうか?
 
 ともあれ、この破局に違いないはずの変化を、破局と呼んでいる人は少ない。
 
 

乳児死亡率の低下だけでは説明できない

 
 よく、少子化と関連のある因子として乳児死亡率が挙げられている。
 
 確かに、人類史の大まかな流れを追うぶんには、乳児死亡率は少子化の目安として頼りになる。乳児死亡率が低下するテクノロジー水準に到達した国では、合計特殊出生率が2前後まで下がってくる。いわゆる人口転換の第一段階がこれで、大部分のヨーロッパ社会では19世紀~20世紀の前半にこれを経験している。
 
 

親密圏と公共圏の再編成―アジア近代からの問い (変容する親密圏・公共圏)

親密圏と公共圏の再編成―アジア近代からの問い (変容する親密圏・公共圏)

 
 
 しかし、少子化には第二の段階がある。落合恵美子 編『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』によれば、ヨーロッパとアメリカ合衆国では1960年代から、日本では1970年代からその第二段階の少子化が起こったという。個人主義にもとづいた現代的な価値観の浸透や、家族観の変化を背景として、合計特殊出生率が2以下になっていく現象だ。
 
 主要な欧米諸国では、この第二次人口転換は比較的緩やかに進んだ。緩やかに進んだ原因のひとつは多産な移民流入のせいでもあろうが、もうひとつは、もともと近代化が進行していて、ことがゆっくりと進んでいったこと、その時間的猶予のあいだに結婚と挙児についての結びつきがシフトチェンジできたことにもある。
 
 しかし日本にはこれは当てはまらない。日本はメインストリームな欧米諸国よりも急速に第二次人口転換が進み、時間的猶予が無かったためか、それとも近代化をあまりにも急速に推し進めたためか、結婚と挙児についての結びつきはあまり変化しなかった。
 

 ここでまた注意しなければならないことがある。ヨーロッパにおいては、婚姻年齢上昇と、生涯独身者の上昇という現象は、同棲と婚姻外の出生の増加とセットになって起きたということである。換言すれば、ヨーロッパ人は遅く結婚するとしても、結婚しないで性的関係をもったり同棲をしたりという、変容した「親密性」を生きているのである(Giddens 1992)。
 
 これとは対照的に、アジアにおいては同棲や婚姻外の出生の増加は見られず、この点がヨーロッパの第二次人口転換との最大の違いであると言われてきた。日本の18歳から50歳の独身者についての調査によれば、「交際している異性はいない」と回答した人の割合は、男性で52.2%、女性で44.7%であり、1990年代から僅かながら増加が見られるほどである(国立社会保障・人口問題研究所 2005)。日本での婚姻年齢と、生涯独身者の比率の上昇は「親密性の変容」からもたらされたのではなく、「親密性の欠如」を意味している。
『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』より

 
 欧米諸国では、結婚と挙児とはイコールではなくなり、挙児は、同棲をはじめとする「親密さによる結びつき」によって代替されるようにもなった。そうできたのは、近代化にともなう意識変化の最先端だったからでもあろうし、変わっていくための時間的猶予が十分にあったからでもあろう。
 
 対して、日本では結婚以外で子どもをもうける割合はあまり増えていない。「できちゃった婚」こそ増えているが、これも、子どもがいること=結婚すること・家族を構成すること という意識が根強く残っていることを反映しているようにみえる。
 
 「欧米諸国にならえ」と簡単に言う人もいるが、日本が近代化するために与えられた時間は、あまりにも短かった。乳児死亡率が低下したことによる第一次人口転換と、個人主義的で現代的な価値観の浸透にともなう第二次人口転換の間のモラトリアムが日本には少ししか与えられなかったため、ひとびとの結婚観や価値観まで欧米風にシフトチェンジするには、時間が足りなかった。
 
 こうした歴史的経緯の違いや、意識や社会構成の近代化にかけられた時間的猶予の違いは、欧米諸国と日本の違いを考えるうえで忘れてはならないものだと思う。
 
 

それでも日本はマシなほう

 
 さて、こうした破局は日本だけのものではない。
 
 
 (出典:内閣府ウェブサイトより)
 
 上掲の図が示しているとおり、アジア諸国は日本よりも早いスピードで、もっとシビアな破局に突き進んでいる。韓国、香港、台湾あたりの合計特殊出生率は、国家や民族の存亡にかかわる水準である。
 
 シンガポールの合計特殊出生率も注目に値する。強権的なこの国は、第二次世界大戦以降は人口抑制計画を続け、ことの重大さに気づいた1980年代以降は人口増加のための政策を推し進めたが、それでも合計特殊出生率は1.25となっている(googleによれば、2016年の段階では1.20とますます低下している)。強権的な国が強力に政策を推し進めてさえ、この人口減少の"病"は簡単には覆せないことを、シンガポールは証明しているようにみえる。
 


 
 シンガポールの例を踏まえるなら、たとえ日本の「失われた20年」がもっとマシだったとしても、当時の政権がもっと少子化対策に力を入れていたとしても、結局、ある程度の少子化は不可避だったのではという気がしてくる。
 
 上の表では比較的出生率の高いタイも、間もなく日本に追いつき、追い抜くだろう。なぜなら、タイは今まさに急速な近代化が進んでおり、と同時に首都バンコクへの人口流入が続いているからである。このバンコクの合計特殊出生率が東京以上に酷い。東京が日本じゅうから血を吸い上げることで繁栄を謳歌しているのと同じく、バンコクもまたタイじゅうから血を吸い上げながら繁栄し、そしてタイ全体の合計特殊出生率を引き下げている。
 
 日本で起こっている以上にはげしい少子化が、もっと早いスピードでアジアの新興国で起こっているわけだ。
 
 さきほど、日本では急速に近代化が進んだと書いたが、それでも日本にはいくらかの時間的猶予があった。
 

 もしも我々が二つの段階の出生率低下期の中間の、出生率が人口置換水準に安定していた時期を「近代の黄金時代」と呼ぶのなら、その時期の長さは、ヨーロッパとアメリカでは50年であり、日本では20年であり、東アジアの残りの地域ではほとんど存在しない。日本以外のアジア社会では、安定した近代を経験しなかった。そこでは突然に、また一気に後期の、あるいは第二の近代に飛び込んだのである。
『親密圏と公共圏の再編成 ──アジア近代からの問い』より

 
 東アジアの新興国は、日本以上のスピードで近代化と経済発展を追いかけてきた。その努力によって大変なスピードで欧米諸国に追いついたが、まさに大変なスピードだったがゆえに、価値観や結婚観や諸々の習俗なども含めて、いろいろなものが置き去りにされたままになってしまった。
 
 その結果、ゆっくりと時間をかけて近代化を成し遂げた欧米諸国にはあったはずの、近代化に即した価値観や結婚観の変化を推し進めるだけの時間的猶予はなく、変化にみあった新しい価値観・結婚観・ライフスタイルを人々の間に浸透させることはできなかった。おそらく、タイもこの轍を踏むことになるだろう。
 
 日本も東アジアの新興国も、かつては近代化や経済発展を旗印に、つまり、欧米諸国のようになることを目標としてきた。ほかのアジアやアフリカの途上国も同様だろう。しかし、急激な近代化とは、いったいどういうものだったのか? 急激に近代化し、経済発展を遂げた国々がたどり着いた破局的な人口減少を目の当たりにした時、長い時間をかけてたくさんの植民地を食い荒らし、そういった土台のうえに先進的な思想と国家体制をかためていった国々を、表層的かつ短期的に真似したツケは高いものではなかったかと、私は思わざるを得ない。
 
 実のところ、アジア新興国の近代化と経済発展とは、潜在的な出生率も含めた人口ボーナスのすべてをなげうって行われた、代償を伴った経済発展プロセスではなかったのだろうか。
 
 欧米諸国の繁栄や思想は、なにかと「後進国」の模範とみなされやすい。それは仕方のないことだとしても、国際社会は、「後進国」にかつての欧米諸国が辿ったのと同じ発展プロセスや歴史的手続きを授けてはくれない。たとえば植民地から収奪し続けながら長い時間を過ごし、そうした時間的猶予のもとで民主主義や個人主義を洗練させていく発展プロセスなど、望むべくもない。
 
 さりとて、韓国や台湾や日本のような一足飛びの発展は、国と民族の根幹を蝕み、やがては人々の生活にも影を落とすであろう急激な人口減少を招いてしまう。だとしたら、どうすれば良かったのだろうか?
 
 
 この文章で参照させていただいた『親密圏と公共圏の再編成』は全体としては落ち着いた筆致の書籍だが、それだけに、以下のようなセンテンスを見つけた時に私はうろたえてしまった。
 

 しかし、どちらのタイプ*1の家族主義も、持続可能な社会システムを建設することに失敗したということでは、違いはなさそうである。日本における純正な家族主義は変貌する世界に対する柔軟性と適応力を圧殺し、他の東アジア社会における自由主義的家族主義は、経済的に不利な人々に対する無慈悲な社会的排除を結果として生み出した。近い将来、他の東アジア社会が今日の日本と同じように高齢化するまでに、革命的でダイナミックな政策革新を実施できないならば、東アジアの社会的再生産はまさに不可能になるだろう。
(同書P94より)

 つまり、よほど革命的な改革ができない限りは、日本も含めた東アジアの国々は社会的再生産ができない=社会としては終わっていく。
 
 この、大規模な破局に対する処方箋は、欧米諸国には存在しない。もちろん各論的な部分では参考にもなろうけれども、ゆっくりと近代化を成し遂げた欧米諸国と、急激な近代化を余儀なくされた国々には大きな違いがあり、まさにその違いがこの破局の背景として無視できないことを思えば、これは、東アジア諸国がみずから処方箋を作り出していくしかないものなのだろう。
 
 果たして、そのようなことが日本や韓国や台湾に可能だろうか?
 
 どうあれ、なるようにしかならず、処方箋を見出せなかった国や地域は急速に衰退し、混乱していくだけのことではあるが。
 
 

*1:引用者注:日本の家族主義も他の東アジア諸国の家族主義も

謹賀新年──平成31年の『シロクマの屑籠』について

 
 新年、あけましておめでとうございます。
 常連読者のみなさん、時々読んでくださる読者のみなさん、常日頃よりありがとうございます。
 
 平成31年、2019年が始まりました。元号が変化するまでもなく世の中は急激に変化し、昭和時代によって準備された平和の成った時代は複雑な局面を迎えつつあるようにみえます。20世紀後半以来の秩序の揺らぎという意味でも、少子化に歯止めをかけられなかった因業が迫ってくるという意味でも、先の見通しが難しいと、私は感じています。
 
 だから、というわけでもないのですが、今年からこのブログは少し読みにくくなる予定です。なぜなら、幅広い読者さんに読んでもらうために語彙を選ぶのでなく、自分自身が考えるのに便利な語彙を選んで、今、私が考えたいことを考えたいように考える場として、このブログをもっと使っていきたいからです。
 
 このブログの主題は、もともと「オタクの社会適応」でしたし、もちろん、これからもアニメやゲームやオタクの生態についての文章は書き続けるでしょう。そういったものも社会の一部ですし、現代人の適応の一部をなしてもいるわけですから、尚更です。
 
 ただ、個別の現代人の社会適応については、私のなかで納得のいく答えがだいたい出たというか、あとは加齢に身を任せて高齢の境地を体験すれば、それでいいのかな、と思うようにはなりました。承認欲求をはじめとする社会的欲求についてはだいたいの傾向がわかったし、あとは、人と人とをつなぐコミュニケーションの導線と、その人自身の個人精神病理によって社会的欲求のかたちとその成否が左右される……と考えて、大筋では間違いはないように思えるからです。
 
 他方、人と人とをつなぐコミュニケーションの導線──たとえばSNSやLINE、ブログや動画投稿サイトなどが良い例ですが──が変われば、社会的欲求の表現型は変わりますし、個人精神病理の露出の仕方も変わります。と同時に、発達障害ブームがよく現しているように、社会が与える与件によって何が個人精神病理の範疇なのか、そしてどのような見立てで個人精神病理を取り扱うのかの枠組みそのものが変わります。
 
 この、「枠組みが変わると社会的欲求も個人精神病理のあらわれかたや見立ても変わる」という土台の揺らぎは、もちろん他の事々にも当てはまります。健康と不健康、道徳と不道徳、常識と非常識、自由と不自由の領域なども、社会という土台の揺らぎによって、知らず知らずのうちに揺さぶられ、ゆっくり変化していることを私は意識するようになりました。
 
 オタクという言葉が空中分解を起こしながら、そう呼び倣われる人の社会適応のありかたを変えていったのと同じかそれ以上に、現代人と自らを呼ぶ、私達の社会適応のありかたとその土台としての道徳や常識や自由のありかたも、この数十年の間に大きく変わり、しかし、その変化はあまり省みられていません。
 
 国内外が大きく変わりゆき、たくさんの人々が社会適応の難しさに直面していくであろう近未来の社会適応を考える際には、私達の社会適応の土台とはどういうものなのか、どのように揺らいできて、どこへ向かっていくのかを考えてみるのもいいんじゃないか──そんな風に現在の私は考えています。
 
 なので、この『シロクマの屑籠』は、今までよりも幾らか、個人の社会適応の問題と、その根幹にかかわる諸々の土台の揺らぎについて、自分の考えを自分の使いやすい言葉で整理整頓するための下書き場として用いていこうと思っております。ぶっちゃけ、「読者優先ではなく筆者優先のブログ」化がますます進行するわけですけれど、私はブログでやりたいことを真っ直ぐに追いかけていきたいので、新年のご挨拶の場を借りて、一年の指針についてご報告申し上げます。
 
 このようなブログで構わなければ、本年も、どうかよろしくお願いいたします。
 

雑感・『ゾンビランドサガ』

 
 

 
 今年もいろいろなアニメを味わい、楽しんだけれども、10月からのアニメで生活の質を一番良くしてくれたのは『ゾンビランドサガ』で、ゾンビ、アイドル、佐賀県がこれ以上ないぐらいに噛み合っているさまを楽しんだ。年末、思い出してスマホで書き殴りたくなったので書き残しておく。
 
 
 
・深夜アニメなので子ども向けの作品ではないだろうが、『ゾンビランドサガ』はうちの子どもには好評だった。特にガタリンピック、【たえの四肢がバラバラになって残りのメンバーが有明海を這い回る→ドライブイン鳥のTシャツが現れる】までのシーンのウケが良かった。「首がもげて、四肢がバラバラになって、ガブガブかみつくゾンビをコミカルに描こう」という強い意志の賜物だと思う。
 
・ガタリンピックの回はほかにも見所いっぱい。泥だらけになったさくらの髪がなぜか風にたなびくという、意図的に描いたとしか思えない、いかにもアニメ的な不自然さを描いていて、それがさまになっていた。司会の女性の、やる気のない声も似つかわしいもので、場面の雰囲気のつくりかたに一役買っているようにみえた。他の回もだいたいこんな感じで、見せたい場面のセッティング、視聴者の構えを誘導する巧みさみたいなものを感じた。
 
・私はあまりアイドルものをたくさん見ていないので、もしかしたら『ゾンビランドサガ』よりも命の輝きを印象づけられるアイドルアニメがあるのかもしれない。というか、リアルを含めてアイドルとは命を輝かせるものなのだろう。ただ、日常生活ではそういうことはあまり考えないわけで、「一度しか訪れない時間のなかで、命を燃やすアイドル」なるものをここまで意識したのは自分にとって新鮮な気付きだった。アイドルであること、生前が語られること、ゾンビであることが噛み合っていたから、ひとりひとりの命の輝きをことさら意識できたのだと思う。
 
 
・ところで、ある程度歳をとってから実物のアイドルにのめり込むおじさんが世の中にはいたりするが、あれも、今更若い娘さんの外見に魅了されているというより、命の燃焼や青春の燃焼に魅了されていたりするのだろうか? 生身の人間アイドルというのは実物の人生、そのひとの魂を宿した存在であり、その、取り返しのつかない一回性の存在が、歌って踊って汗や涙を流すエンターテイメントとはどういうものだろう? ……といったことをふと思った。
 
 
・とにかくゾンビというギミックが活きている。ブラックな労働も四肢バラバラパートの面白さも命の輝きも、すべてゾンビというギミックのおかげで辻褄が合っていた。生前の活躍と死後のトラウマ、死者を思い続ける人々を巡る物語にインパクトが宿っているのも、一度死んで、蘇っているからに他ならない。
 

 
・リリィの回の、この涙にはやられた。くそっ! ベタな涙ではあるし、いまどき深夜アニメの世界には無駄といっていいほど涙があふれている。「お涙頂戴」という言葉があるとおり、涙という記号自体はチープなものでしかないけれども、そこでベタな演出に白けるのか、乗っかって感極まるのかは、細部に宿る神の御業によるものであり、『ゾンビランドサガ』という作品には細部に宿る神がおはしましたらしく、不覚にも、何度か涙腺が決壊してしまった。
 
 
・とにかく細かいところに気が利いている。素晴らしい主題歌、再視聴した時に発見のある細かな気配りや伏線の数々。気持ち良く動き、ちゃんとかわいいフランシュシュのメンバーたち。作画にお金がかかっているだけでなく、ゾンビ・アイドル・佐賀県というギミックとストーリーラインの統合性、視聴者を楽しませてやろうという執念*1、どれも一線級。製作に携わった人達とサイゲームスには感謝しかない。
  
 
・それだけに、10話~12話は相対的にモタっとしてみえた。あくまで相対的なもので、並みのアニメに比べれば十分なのだけど。続編を見据え、アクセルの踏み具合を変えたのではないか、とも感じた。12話のラストは強制的に続編をみるように促すもので、1期単体アニメとしてみれば尻切れトンボではある。そのかわり、今後に期待を持たせる終わりかたではあった。
 
 
・佐賀県のご当地アニメとしても強力、ドライブイン鳥の社長さんの棒読みはほとんど反則だ。社長さん本人を連れてくればリアルな棒読みになるわけで、ご当地アニメに似つかわしかった。エンディングテーマ『光へ』は、すでに更地になっているコーヒーショップボガも相まって、(これは佐賀県に限ったことではないけれども)衰退していくジモトの風景の儚さを思い起こさせるところがあり、その衰退していく佐賀県のご当地アイドルがゾンビであることに4割のシンパシーと4割の応援と2割の皮肉を感じずにいられなかった。
 
 

 
・でもって、『光へ』以外のエンディングテーマの時も、「佐賀県」というテロップがベストショツトでうつっていた(上記貼り付け画像参照)。これ、サブリミナル効果があるんじゃなかろうか。佐賀県に来い、という強いアピールを感じる。遠いけれども行ってみたくなった。
 
 
・個人的には、二階堂サキがツボにはまった。世代的にも近いし、ヤンキーという種族そのものが絶滅に瀕している2018年から見ると、彼女の振る舞いのひとつひとつが思い出であり、20世紀の地方や郊外を思い起こさせる。自分が生きた時代と文化圏を代表しているのはサキだし、ああいう振る舞いは自分のどストライクゾーンなので、とにかく良かった。
 
 
・とはいえみんなやたらかわいい。誰一人欠けてはいけないし、誰の動きにフォーカスして眺めてもうっとりする。愛と純子、リリィやたえの動きをじっと見ていても発見があって幸せになる。ゆうぎりの過去話はDVDを買って見ろ、なんだろうか。そんな気はする。
 
 
・次回予告以上に、冒頭の前回のおさらいが良くできていて、飛び飛びに再視聴するときに目当ての回を探すのが楽だった。とてもまとまっているし早口な語りも似合っているし、一話飛ばしてしまった人もなんとかなるだろうし、そのうえ面白い。こういうところにも心遣いが感じられてかたじけない。
 
 

続きが楽しみです

 
 そんなこんなで、楽しんでしまった。それだけに、ゾンビアイドルグループの核心に迫りそうな続編が待ち遠しくてたまらない。かわいらしくゾンビアイドルしている歌を聴きながら、続編リリースを待っていたいと思います。
 
 ※このブログの更新は、今年はこれでおしまいです。皆さん良いお年を。
 

徒花ネクロマンシー

徒花ネクロマンシー

光へ

光へ

 
 

 
 

 

*1:方向性は違うけれども『GRIDDMAN』も相当なものだった。今年前半の『宇宙よりも遠い場所』や『ゆるキャン』もよくできていた。私自身のアニメ視聴としては、今年はこれらだけでも大豊作で、アニメ頑張っているなーと感じた。