シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「養分」「情弱」が正当化される社会とは、一体何なのか

 
 ※この文章にはヤマもオチもイミもありません。まとまりのある文章をお望みでしたら、回れ右です。
 
 
FGOに400万課金した女が思うこと
課金してるやつには何を言っても無駄
 
 クリスマスイブ~今日にかけて、はてな匿名ダイアリーに、ソーシャルゲームに大金をつぎ込んでしまった話が相次いで投稿された。ひどい課金もあったもんだねぇ……と思いつつも、お天道様はそれでも課金を許しているじゃないか、それに、位置情報ゲームのために何十万円何百万円つぎ込む人や、ホストクラブやキャバクラに蕩尽する人だって似たようなものじゃないか、などとぼんやりと考えているうちに日経平均がどんどん下がっていった。
 
 そんな折、ふとtwitterを眺めていたら「養分」という言葉が目に飛び込んできた。
 

 なるほど、「養分*1」ですか。
 株価が大暴落しているせいもあってか、「養分」という言葉が私のなかに染みわたって変な気分になった。
 
 ソーシャルゲームに何十万何百万もつぎ込む人は、ゲーム運営企業にとって「養分」に違いない。それだけではない。他のゲームプレイヤーにとっても「養分」だったりする。なぜなら、たくさんのお金をつぎ込んでくれる人がいればいるほど、そのソーシャルゲームのクオリティが高くなったり、そのソーシャルゲームの耐用年数が長くなったりするからだ。ゲーム運営企業という媒介者をとおして、無課金プレイヤーや少額課金プレイヤーも間接的に「養分」の分け前にあずかっている。
 


 
 この「養分」の構図はソーシャルゲームで際立っているけれども、アイドルグループの応援や、自分が使っているネットサービスが継続されるか否かといった問題にも(程度の違いはあれど)当てはまることだ。投機や投資のたぐいにも当てはまるだろう。
  
 「養分」がたくさんのコストを負担してくれることによって、そうでない人々がお金をもうけたりサービスを享受できたりする構図は、現代社会のすみずみまで浸透しているので、私達は、それが甚だしい時には顔をしかめるけれども、その構図そのものに対して自省的になることはほとんどない。
 
 「情弱(情報弱者)」が損をする問題についても、近いものを感じる。
 
 もっと便利なサービスを知らない・もっと安くつくサービスを知らないがために多くのお金を使わざるを得ない人を、ネットの住民はしばしば「情弱」と言って蔑む。たとえば大手通信会社がスマートフォンにプリインストールしたアプリによって「情弱」からお金をむしりとっている、などと言ったりする。
 
 その一方で、経済のある部分はまさにその「情弱」によって回っていたりもする。情報弱者がいなければ成り立たない産業、情報弱者がいるおかげで潤っている商売が、この世にいったいどれぐらいあるだろうか。資本主義社会において、情報が弱いということは経済的弱さに相通じるし、情報が強いことは経済的強みに相通じている。そんなことは、多くの人々──とりわけ「情強」を自称している人々──が知悉していることだろう。にも関わらず、「情弱」がその情報の弱さによって多くのお金をむしりとられる構図自体が自省されることはほとんどない。
 
 
 「養分」や「情弱」からお金をむしり取ることは、現代社会ではどうやら正当化されているらしく、現代人は、そのことに良心の呵責をあまり感じないのだろう。どうしてこんなことが大っぴらに、さも当たり前のことのように許容されているのだろうか。
 
 

「身体的に組み伏せる」のは許されないが「判断力や情報力で組み伏せる」のは許される社会

 
 現代社会では、他人に殴りかかって財貨を奪ったり、他人を腕力によって服従させたりすることは良くない──暴力──であるとみなされている。つまり身体的能力を行使して他人を組み伏せてはいけない、というのが現代社会のルールになっていて、法的にも倫理的にも禁じられている。
 
 他方、判断力の勝る側が判断力に劣る側を「養分」とすること、情報力に勝る側が情報力に劣る「情弱」からお金をむしりとることは、法的に認められている。「判断力や情報力で他人を組み伏せても構わない」というのが現代社会のルールで、それをフィジカルなパワーで覆すことは許されていない。もしも身体的能力を行使すれば、暴力とみなされ罰せられるだろう。
 
 遠い昔は、人間はありとあらゆる力を用いて競争してきた。身体的な力も、判断力も、情報力も、他者を組み伏して自分自身を優位に立たせるために用いられてきた。
 
 

社会契約論 (白水Uブックス)

社会契約論 (白水Uブックス)

 
 
 しかし、商業が発展し、中央集権が進むにつれて、身体的な力の行使は禁じられていった。中央集権国家とその法律、警察機構などによって身体的な力の行使は統制され、社会のなかで許容される競争の原理は変わっていった。これによって治安が改善したり商取引が邪魔だてされることが減ったりしたのだから、社会がそれで進歩したのは間違いない。
 
 そして、身体的な力の行使が徹底的に禁じられた先には、判断力や情報力による力の行使が残った。
 
 判断力に優れた者や情報力に勝る者にとって、現代社会は法律の範囲内で思うさま力をふるえるフィールドだ。判断力に勝る側が得をして、判断力の劣る側が損をするのは、現代社会では自然なことと受け取られているし、そういった競争は倫理的にも問題視されない。情報力についてもおおむね同様だ。そうした競争原理が公に認められている背景には、過去の思想家や法律家の仕事の積み重ねや、後見制度(昔でいう禁治産者制度)があるのだろう。
 
 そうはいっても、これからもそのままで通用させて構わないものなのか。
 
 100年前とは違って、現代人はほとんど皆、インターネットを介して巨大企業やSNS上のインフルエンサーといった、手強い相手と繋がっている。ただでさえ手強い相手なのに、24時間365日繋がりっぱなしになっているものだから、いつでもどこでも「養分」にされかねない。ソーシャルゲームのガチャも、電子書籍のセールも、インフルエンサーの甘い言葉も、いつでもどこでも這いよって来る。
 
 「私は大丈夫だ」と思っている人もいるだろうけれども、たぶん、そうはいかない。人間が24時間365日、判断力も情報力もベストでいられるわけがない。百貨店や商店街に出かけている時だけ判断力や情報力がシャキっとしていれば良かった時代ではないのだから、「シャキっとしていない時の自分」や「弱っている時の自分」も否応なく競争にさらされてしまう。
 
 
 病気などの理由によって判断力や情報力があまりにも足りない場合は、成年後見制度の対象となって、そのような競争の荒波から守られることもある。しかし、その場合は守られる度合いに応じて権利が制限されるし、そもそも、「養分」や「情弱」になりそうな人すべてに適用できるように後見制度がデザインされているとも思えない。かりに、認知症や知的障碍のような永続的なハンディを片っ端から後見制度の対象にできたとしてさえ、それだけではこの問題をカヴァーしたことにはならない。なぜなら、誰にだって破れかぶれの時期はあるものだし、精神疾患とみなされる手前にもそのような状況はたくさんあるからだ。
 
 100年ぐらい前の世の中で、比較的狭い範囲の商取引のなかで判断力競争や情報力競争が起こっていた頃は、まだしも、今の制度や倫理感覚は妥当なものだったかもしれない。けれども何もかもが情報化し、あらゆるものが商業化した現代社会でも、同じ制度・同じ倫理感覚がそのまま通用されて構わないものなのだろうか。
 
 ソーシャルゲームの話題と「養分」というネットスラングをきっかけとして、私は初めて「なぜ、現代社会で『養分』や『情弱』が食い物にされることが正当化されるのか・その正当化のメカニズムはどのようなものなのか」が不思議だと感じた。この不思議な気持ちはまた思い出したくなるような気がしたので、ブログに書き残しておくことにした。まったくコンテンツ性の無い文章にここまでお付き合いしてくださった常連読者のみなさん、ありがとうございました(いつもすみません)。
 
 

*1:ネットスラングで「体の良いカモ」といった意味

どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話

 
ironna.jp
 
 先日、iRONNAさんの「喫煙ヘイト どうにかならぬか」に寄稿した記事への反応が予想どおり、いや予想以上だったので、関連したことを書きたくなった。
 
 記事に対するはてなブックマークの反応をみると、喫煙に対して比較的穏健な意見から非常にアグレッシブな意見まで、さまざまな意見があることがみてとれる。記事のなかで私は、
 

また、会員制交流サイト(SNS)をはじめとするネットメディアで先鋭化したオピニオンが集まりやすくなったことも、喫煙ヘイトを際立たせる一因として見過ごせない。世間では100人に1人しかいないような極端に排斥的なオピニオンでも、SNS上では仲間同士で群れ合い、そうした極論への同調者がたくさんいるかのように錯覚できてしまう。

 と書いたが、はてなブックマークの反応はまさにそのようなものだった。今回は喫煙というテーマだったが、なるほど、これなら思想的に極端な意見もSNSではどんどん加速されるだろうな、と私は思った。
 
 さて、リンク先では「喫煙者は不道徳とみなされる」というテーマに絞ったけれども、この話は喫煙に限定したものではなく、もっと広い範囲で・並行して起こっている問題系の一部だと私は捉えている。
 
 

綺麗になっていった東京と「当たり前」の変化

 
 たとえば東京は、30年前に比べてずっと綺麗な街になった。
 

  
 1990年代前半の東京は、もっと空が澱んでいて、水道水からはイヤな臭いがして、街のあちこちが生ゴミ臭くて、今よりもずっとたくさんの吸い殻が落ちていた。受動禁煙は当時から問題にはなっていたし、タバコの臭いを嫌う人もいたけれども、それらは健康問題や環境問題のひとつという位置づけだったように記憶している。
 
 臭いという点でいえば、そもそも、お互いの臭いをこれほど気にするようになったのもわりと最近のことである。1980年代に、“朝シャン”をはじめとするデオドラント革命が起こったあたりから、私達は自他の体臭に対してとりわけ敏感になった。
 
 他人に臭いと思われないよう、頻繁にシャワーや入浴をするように生活習慣が変わっただけでなく、私達は他人の臭いに対しても敏感になり、「臭う」という事態を強く忌避するようになった。「くさい」という言葉が、いよいよ人間の尊厳にかかわる単語になったのも、誰もが臭いを気にする社会になったからこそである。みんなが臭っている社会では、「くさい」という言葉は人間の尊厳をそれほどには傷つけない。
 
 
 のみならず、東京人のマナーもずいぶんと良くなったようにみえる。
 

※『目で見る新宿区の100年―写真が語る激動のふるさと一世紀』郷土出版社、より
 
 私が記憶している90年代前半の東京は、もっとあちこちにポイ捨てがあり、もっとあちこちに吐しゃ物やチューインガムが落ちていた。東京都内の「民度」の低さについて、上京した友人と議論して「私達の地域社会に比べて、東京人の民度は低い」と結論づけたことさえある。
 
 それに比べると、現在の東京、少なくとも山手線の駅周辺や近隣の住宅街の「民度」はそれよりずっと高いようにみえる。現在では、ほとんどの地方よりも東京のほうが「民度」は高いのではないか。東京の人々は立小便をしたりはしないし、痰や唾をあちこちに吐き散らしたりもしない。昭和時代には痰壺が都内の駅にもあったというが、今では痰壺が備え付けられている駅などどこにもない。東京都心の人口密度の高さを考えるにつけても、東京の現状は驚異的だ。
 
 さらに歴史を遡れば、もっと汚くてマナーの悪い東京を振り返ることもできようが、それは略そう。とにかくここで思い出していただきたいのは、私達が「健康」や「臭い」について考えている「当たり前」は、昔からそうだったのではなく変化の所産だった、ということだ。
 
 そしてそれぞれの時代の「当たり前」をベースとして、それぞれの時代の人々は何が「不道徳」で何が「スキャンダラス」なのかを判断し、時代にみあった規範意識を内面化していく。
 
 2018年の東京人は、現在の東京の環境やマナーの実態に即したかたちで「何が不道徳的か」「何がスキャンダラスなのか」を判断し、それに即した規範意識を内面化しているし、1988年の東京人もまた、当時の東京の環境やマナーの実態に即したかたちで「何が不道徳的か」「何がスキャンダラスなのか」を判断し、それに即した規範意識を内面化していた。タバコに対する感覚や臭いに対する感覚を、単に医学の進歩の産物とみるのは適当ではない。もちろん医学も無関係ではないが、文化の所産としての側面を併せ持っていることを念頭に入れておく必要がある。
 
 とはいえ、大半の人は過去のことなんて忘れてしまうし、こうした文化の所産による変化を意識しないのだけれど。
 
 

「文明化」の歩みと「当たり前」の歩み

 
 こうした、社会状況の変化にともなう「当たり前」の感覚の変化、道徳意識や規範意識の変化は、日本特有のものでも現代特有のものでもない。
 
 たとえばノルベルト・エリアスが書いた『文明化の過程』には、近世~近代のヨーロッパ社会で進行していた変化の軌跡が記されている。
 
 

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

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文明化の過程〈下〉社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)

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 皆が料理を手づかみで食べ、同じグラスで酒を回し飲みし、いつでもどこでも排泄物を垂れ流していた時代の人々は、それらを不道徳でスキャンダラスとみることはなかった。
 
 だが、食事の行儀作法がゆきわたり、排泄物や痰や唾を人前で垂れ流すことが不作法とみなされる時代になると、そういった行動は眉をひそめられる対象となり、不道徳で不潔な、スキャンダラスなものとみなされるようになった。
 
 トイレで用を足すのが「当たり前」になった社会では、人前で放尿したり排便したりするのは不道徳で不清潔なこととみなされ、フォークとナイフで食事を食べるのが「当たり前」になった社会では、手づかみで食事するのはスキャンダラスなこととみなされるわけである。
 
 戦前~戦後の日本、とりわけ東京で進行していった変化も、大筋ではこの「文明化」の延長線上に見据えることができるし、おそらく、それは現在も進行している。
 
 冒頭リンク先のタバコの記事に対して「臭い」の指摘が多かったのも、臭いにかんする私達のセンシティビティや「当たり前」がアップデートされた所産といえる。
 
 

で、どこまで許容しないおつもりで?

 
 「文明化」の進展にともない、作法や規範意識が変わって社会も変わっていくこと自体は、不自然ではない。人口の密集した東京が混乱することなく、みんなの快適な生活が成り立っているのも、作法や規範意識がアップデートされたおかげ、とみることもできよう。
 
 しかし、タバコの問題に限らず、私達は、いったいどこまで、この手の「当たり前」をアップデートさせていくのだろうか?
 
 
 このことに関しては、私は社会学者のデュルケームの一節を引用したくなる。
 

 それが完璧に模範的な僧院だとする。いわゆる犯罪[もしくは逸脱]というものはそこでは起こらないであろう。しかし、俗人にとっては何のことはないさまざまな過ちが、普通の法律違反が俗世界の意識に呼び起こすようなスキャンダルと同じように解釈されて、そこでは生じることになるだろう。したがって、もし、その社会が裁判と処罰の権力を持っているならば、それらの行為は犯罪[もしくは逸脱]的とされ、そのようなものとして扱われるに違いない
 デュルケーム『社会学的方法の規準 (講談社学術文庫)

 これになぞらえるなら、2018年の東京は、1988年の東京に比べて「模範的な僧院」に近い。
 
 それまでと比べてずっと清潔で、ずっと健康的な社会では、それまでは見過ごされてきたことも見逃されなくなり、「問題」とか「スキャンダル」とか、場合によっては「犯罪」や「疾患」とみなされるようになっていく。この一節を敷衍して考えるなら、現在よりももっと清潔で健康的で道徳的な近未来の社会では、今まで以上に細かな不清潔や不健康や不道徳が槍玉に挙げられるようになり、現在のタバコと同等かそれ以上の非難の対象になっていくのではないだろうか。
 
 私達は、いったいどこまで「模範的な僧院」の度合いを高めていくのだろうか。
 その結果、あれもこれも許容しない社会をつくりあげていくつもりなのだろうか。
 
 2018年の日本人にとって、タバコは、いろいろな意味でバッシングするに足る存在であろう。私自身も喫煙者ではないので、個人的なことをいえばタバコを遠ざけられる施策は喜ばしくもある。
 
 だが、このようにタバコについての「当たり前」が変化し、タバコが置かれている状況が急速に変わっていく社会の流れを眺めていると、社会という不定形なサブジェクトの恐ろしさを痛感せずにはいられないし、タバコだけでなく、そうした変化が現代社会のさまざまな問題ともリンクしているように思えてならないのだ。
 
 私にとって、「タバコは不健康で臭いから不道徳」という問題は、「子どもの泣き声はうるさいから迷惑」という問題や、「十分なコミュニケーションができない人は障害者」といった問題と地下茎で繋がっているようにみえる。その地下茎とは「どんどん快適で健康的で便利になっていく社会」という、この数十年間に加速していった社会のことであり、と同時に、その社会のなかで育まれた新しい規範意識や道徳感覚のことである。
 
 この、「どんどん快適で健康的で便利になっていく社会」と、それに伴ってできあがった規範意識や道徳感覚については、書きはじめると無限に長くなってしまうので、今回はここで於くけれども、これからも、さまざまな角度から検討してみたいと思う。
 
 
 
 
 
 ※私が同一の問題系にあると捉えているのは、たとえば以下のブログ記事内容です。
 [関連]:「健康は道徳、不健康は不道徳」 - シロクマの屑籠
 [関連]:そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。 - シロクマの屑籠
 [関連]:テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? - シロクマの屑籠
 
 

処世術としての「リスクゼロ」を考える

 
 
  
「リスクゼロ以外、許容できない」という人たちに遭遇するけど、多分それは、みんな不幸になる考え方。
リスクゼロを求めている人はそんなにいない - novtanの日常
 
 
 2人の古参ブロガーが相次いで書いた「リスクゼロ」についての文章を読み、私も参加したくなりました。
 
 ひとつめの『リスクゼロ以外、許容できない」という人たちに遭遇するけど、多分それは、みんな不幸になる考え方。』は、リスク管理の考え方ができない人が割といて困る、といった内容で、ふたつめの『リスクゼロを求めている人はそんなにいない』は、リスクという気持ち悪いものを保有していたくない気持ちを持った無能もいる、といった内容とお見受けしました。
 
 どちらのメンションも、「リスクゼロ」のある側面を明らかにしていると思いますが、私も私で、処世術という観点にフォーカスをしぼって「リスクゼロ」に言及してみたいと思います。
 
 

方便としての「リスクゼロ」

 
 世の中には無数のリスクがあり、それらはしばしば人間の予測能力を超えています。現代の、最も優秀な頭脳ですらしばしばリスクを見誤るわけですから、「リスクゼロ」という世界観じたいがどこか見当はずれで、本気でそう思い込んでいる人は、お世辞にも有能とは言い難い気はします。
 
 では、どれぐらいの割合の皆さんが本気でリスクゼロを信じているものでしょうか。
 
 私は、実際にはあまりいないんじゃないかと思うんですよ。
 
 リスクゼロを口にする人は、あちこちでそれなりに見かけます。だからといって、彼らが本気でリスクをゼロにできると思っているものなんでしょうか? という疑問です。 
 
 本気でリスクゼロを信じていなくても、方便として、あるいは政治の言葉としてリスクゼロを主張する人って、本気になっている人より多かったりしませんかね?
 
 リスクゼロ。
 強い言葉です。
 
 リスク社会といわれて久しい現代社会では、リスクゼロというボキャブラリーは甘美に響きます。
 
 リスクゼロなんて本当はあり得ない以上、リスクへのアセスメントをできるだけやっていくしかないのですが、でも、それはリスクを抱えている人が為すべきことで、自分(達)はリスクなんて抱えたくない、あわよくば余所の誰かに抱えてもらいたい、という人もたくさんいるのではないでしょうか。
 
 世の中全体、あるいは自分(達)がリスクを抱える際にはリスクゼロにはできなくても、「あいつに丸抱えさせれば俺はリスクゼロ」って事象が、世の中には非常にたくさんあるように、私には思われます。
 
 他人に責任転嫁する余地のあるリスクを、立場の弱い側や、責任を負っていると思われやすい側に押し付ける際の方便として、この国では、リスクゼロという言葉がまかり通っているのではないでしょうか。
 
 たとえば、サービスを享受する「お客様」がサービスを提供する「事業者」や「自治体」や「学校」に対してモノ申す時に、「リスクゼロでなければ困る」というフレーズがこれまでどれほど効いてきたか。
 
 そうやって「事業者」や「自治体」や「学校」にリスクゼロを主張することによって、実際、リスクが減った部分もあるでしょう。反面、ほかのリスクにかけるべきリソースが遣われてしまえば、結局、巡り巡って「お客様」が異種のリスクやコストに晒されることになるでしょうから、本当は、リスクゼロを突き詰めてもみんなが幸せになれるとは思えません。
 
 それでも、「リスクゼロでなければ困る」というフレーズが従来まかり通ってきたし、たぶん、現代日本の至るところに、この「リスクゼロでなければ困る」がまかり通ってきた副作用が沈殿しているのでしょう。そして、こうしたリスクゼロ志向と引き換えに支払っている別種のリスクやコストは、あまり顧みられません。
 
 だとしても、「リスクゼロでなければ困る」というフレーズがしばしば人や組織を動かしてきたということは、この言葉は政治の方便として使いやすい、ということだと思うのです。
 
 ゼロリスクゼロを本心では信じていなくても、政治の方便としての有効性をよく知って振り回している人は意外に多いのではないでしょうか。
 
 

「責任」というリスクならばゼロリスクにできる

 
 関連して、「責任」というリスクについて追記しておきます。
 
 さきに述べたとおり、リスクゼロにこだわり過ぎれば別種のリスクやコストが発生することもありますし、そもそも、リスクのない社会・時代は存在しません。
 
 しかし、責任というリスクに関しては、ときに、リスクゼロ志向が功を奏することがあるのではないでしょうか。 
 
 現代社会のロジックでは、しばしば個人や法人が責任というリスクを負います。一個人や一法人が責任を負うのであって、不特定の「みんな」が、あいまいに責任を負うわけではありません。たとえば行政団体としての東京都が責任を負うことはあるでしょうけれど、その場合も、しばしば東京都という組織や運営者が責任を問われるのであって、都民が直接に責任を負わなければならない場面はそれほど多くはありません(あったとしても、都内有権者の一人という、きわめて希釈されたかたちでしか負う必要が無い)。
 
 責任、とりわけ法的責任に明確な線引きがある以上、よその個人・法人・行政に責任を負ってもらって自分自身は責任フリー、つまり責任のリスクゼロを達成する余地は多分にあります。「リスクゼロでなければ困る」というフレーズは、ときにダブルミーニングで、事故や損失があっては困るという意味での「リスクゼロでなければ困る」に加えて、責任を負いたくないという意味での「リスクゼロでなければ困る」が重なりあっていることもあります。
 
 こうした流れのなかで、たとえば法人側も最近は用心深くなっていて、分厚い契約書を用意したり、利用者に同意書を書かせたりもしています。このあたりは、責任を巡る攻防ですよね。
 
 こうした法的責任のなすり付け合いがエスカレートしてくると、それそのものに皆がコストをかけるようになって、全体としては非効率になっていくおそれはあるでしょう。責任回避に全員が汲々とするような組織が、キビキビと機能するとは到底思えません。だとしても、一個人や一法人の社会適応という視点で考えるなら、できるだけ法的責任を回避することには一定の意義があります。あらゆる場面で最適とは言えないとしても、ある個人・ある法人にとってそれが最適という状況はたくさんあるはずです。
 
 自然界のリスクをゼロにするのは非現実的だと割り切っている人でも、「ハラキリ」の回避は現実的な目標だとみなしてリスクゼロを唱えている人もいるのではないでしょうか。
 
 

「ゼロリスク」という言葉は死んではいない

 
 このように、私はゼロリスクという言葉に渡世のテクニックを連想してしまいます。
 
 「リスクゼロでなければ困る」という言葉を巡って、たくさんの個人や組織が影響を与えあってきた以上、この言葉は、死んでいる言葉ではなく生きている言葉だと思われます。少なくとも現在の日本社会では、政治のレトリックとしての有効性を喪失してはいません。
 
 と同時に、責任という社会的リスクに関しては、リスクゼロを志向したほうが良い場面もあるため、これからも私達は「リスクゼロでなければ困る」と口にしたりするのでしょう。
  
 「リスクゼロ」を口にしている人のなかには、素朴な人だけでなく、ややこして面倒くさい人も多いんじゃないかなぁ、というのが私の意見になります。
 

私の世界を守るためにニセモノの人生と戦ってみる

 
ニセモノの人生 - Qana’s diary
 
 一カ月ほど前にリンク先のブログ記事を読んだ時、「あっ!このニセモノ人生観は、自分の肌にあわないやつだ」と直感したので、何か反論めいたことをブログに書いてみたいと思っていた。けれども反論の根拠を文章にできる自信もなく、途中で風邪をひいたりもしたので伸び伸びになってしまっていた。
 
 しかし、何か書かないと足の裏にくっついたごはんつぶが取れない気持ちになったので、とりあえずも書いてしまうことにした。リンク先のブロガーさんへの返答という体裁のもと、内心を整理してみたい。
 
 
 1.もし、舞台裏のカラクリが見てとれるような、仕組まれた体験・仕組まれた経験がニセモノの人生の証拠だとしたら、ニセモノではない人生は、どこにあるだろうか。
 
 流行の衣装やアクセサリー、ゲームやテレビのコンテンツ、雑誌で紹介されている観光地の景色のたぐいは、わかりやすい仕組まれた経験であり、それを理由にニセモノと呼ぶならまさにニセモノの代表格だろう。人間関係にしても、学生時代、会社員時代それぞれにふさわしいテンプレートどおりにやっていくのは仕組まれた体験と言えるかもしれない。
 
 そうやって誰かが準備したアイテム・コンテンツ・体験・人間関係をひたすらなぞり続ける人間は、通俗的にみえやすかろうし、仕組まれた経験=ニセモノという観点を補強づけるにはちょうど良いモデルケースになりそうだ。で、そういう人は確かに存在している。
 
 でも、この考え方を延長させていくと、ニセモノの判定がどんどん広がっていく危険性がある。○○大学に入ったのも仕組まれたことと言えるかもしれない。○○大学の××研究室に入って、△△先生の指導のもと■■についての修論を完成させるのも、それが仕組まれていないことと本当に言えるのか?
 
 それらは、CMどおりにコンテンツを買ってなぞるよりは表層的ではないかもしれない。だが、表層的でないからといって、それらが仕組まれていない、自由意志によって人生を大航海している証拠だと考えることに、私は躊躇いをおぼえる。
 
 ○○大学に入るという選択だって、本当に自分の意志によると言ってしまえるのか?
 
 △△先生の指導のもと■■について書いた修論も、もちろんオリジナリティはあるとしても、それはどこまで自分の意志によるもので、どこまで△△先生の意志によるもの、どこまでその研究室の伝統によるものなのか?
 
 ここからもう少し見方を進めてみる。
 
 自分で考えて進んだとおぼしき冒険や研究のたぐいを、私達はどこまで自分自身の、ホンモノのオリジナリティの発露とみなして構わないのだろうか。個人主義的な社会制度の内側では、しばしば、ひとつの発明やひとつのサクセスストーリーは個人の功績に帰せられる。しかし、ワットの蒸気機関の発明にせよ、ジョブズのアップルの躍進にせよ、それらは一人の偉人が独力でなしえたものではなく、先行する研究や開発、並行する競争相手や時代背景があればこそ脚光を浴びるに至ったものであって、ワットやジョブズが独りでアチーブメントを為し得たわけではない。確かに知名度を獲得したのは彼らだとしても、彼らが独自でアチーブメントに到達できたと考えるのは、個人主義社会の習慣に溺れたモノの見方に過ぎないのではないか、と私には思える。
 
 私は仏教愛好家なので、「世界のものごとは、縁起・因縁の連なりのなかで起こっている」と考えたがる。
 
 あるひとつの出来事が起こる背景には、それをひき起こす原因や要因が無数に存在している。何が要因となって何が結果となるのかの因果関係(ただし、この表現は仏教的には不適切で、因縁関係とか縁起関係と表現したほうが穏当)を、すべて読み取るのは人間には不可能だ。仏教の場合は「如来という形而上の存在にはそれが読み取れる」という設定になっている。
 
 このような世界観で人生のイベントや個々人の選択を考えると、個人の意志の発生も含め、なにごとも、出来事の連なりのなかで起こっていることと理解されることになり、自分の意志による選択とは、あるといえばあるし、ないといえばないということになる。
 
 私がこうやって仏教的にものを考えて書いているのも、私の意志によるものと言えなくもない反面、私が今までに出会ってきた仏教的なテクストや指導者が私のかわりに考えて、私の身体をハックして勝手に書かせている、とも言えるだろう。冒頭リンク先のメンションに即して考えると、他人が考えてくれた仏説を参考にした世界観を開陳しているこの私も、ニセモノのハリボテということになる。
 
 人間は、前人が拓いた知識や概念を受け継いでいく存在だから、いわゆる一流の思想家や哲学者ですら、ある面ではニセモノのハリボテと言えなくもない。もちろん、その人がその時代・その環境に揉まれたことによる新規性はあろう。だがそれとて、その人自身の内側から純粋に沸いてきたというわけではあるまい。プラトンやヘーゲルやニーチェだって、彼らが呼吸してきた時代や環境に多くを因っている。それを、事後に読む私達は「ここらは彼が独自の境地をひらいた部分」と解釈することもできようけれども、だからといって、彼らの歩みが大海原の自由航海だとは私には考えられない。
 
 最も偉大な人々の営みですら、もっと地べたを這いずっているような気がするんですよ。
 
 
 2.さてそうなると、ホンモノの人生とニセモノの人生の違いとは、どこにあるのだろう。
 
 ここでまず思いつくのは、ホンモノとニセモノを「程度問題」の違いとみなし、どこか適当なところに分水嶺をもうけて人間を捉えることだ。
 
 「テレビCMの流行を追いかけているからニセモノ。インスタグラムのインフルエンサーに憧れているからニセモノ。毎朝最新の論文に目を通しているからホンモノ。食べログなど見向きもしないで、いつも知らない飲食店に突撃しているからホンモノ。」
 
 この手の分水嶺をつくってしまえば、とてもわかりやすいホンモノ/ニセモノの世界ができあがる。
 
 ただ、問題が無いわけではない。わかりやすいホンモノとニセモノの分水嶺をつくってしまうと、その基準でホンモノとみなされるものを効率的に収集し、そこにあぐらをかいて堕落していくことがままある。
 
 最新の研究を追いかけていること・難読な哲学書を読んでいること・複雑なアートを理解していることなどは、こうした分水嶺をつくってしまった人にとってホンモノに相違ないが、ホンモノを選んでいるという自負に依存した挙句、問うてみれば空虚な内実を露わにする「ホンモノだけどスカスカな人」というのもいる。
 
 逆に、世間ではニセモノと言われがちな、流行の尻を追いかけているようで、その追いかける航跡が美しい人、束の間の娯楽を見事に楽しみきってみせる人もいるわけで、そういうのは「ニセモノだけど充実した人」ということになってしまう。
 
 付け加えておくと、一段メタな問題として、分水嶺をもうけるということ自体、つくりものの、ニセモノの、借り物の分類手段、といえなくもない。
 
 借り物の分類手段でホンモノとニセモノの分類をするのはいけない……ことではあるまい。MKS単位系でもヤード・ポンド法でもポリティカルコレクトネスでもいいが、人間は、どこかから尺度を借りて来なければ測量も判断もできない生き物だから。ただ、そうやって馴染んだ分類手段じたいも借り物であるということに、自戒や自嘲の余地はあってもいいのではないか、と、私は思う。
 
 思考や行動の隅々にまで人類の遺産・先人の敷いたレールが敷き詰められたそのうえで、ああだこうだということをやっている私達は、人類史という名の仏陀の掌の上の猿のようなものではないだろうか。
 
 
 3.もうひとつ、尺度を挙げてみるなら「夢中の具合」だろうか。
 
 主観のレベルの話に移ると、人は、夢中のことはホンモノと感じやすく、醒めたことはニセモノと感じやすい。
 
 控えめに言っても、醒めていること・関心の乏しいこと・つまらないと思っていることをホンモノの営みだと感じる人間はごく少ない。逆に、夢中になっていること・関心の強いこと・面白いと思っていることをホンモノと感じる人間は多い。
 
 この尺度の良いところは、仕組まれた体験をなんでもニセモノと呼んでしまうリスクを回避できるところだ。ディズニーランドは虚構の国だが、そこでファンが獲得する主観的体験は、ニセモノというには真剣で、しばしば記憶に深く刻み込まれる。コミケに初参加したオタクの喜びなどもそうだろう。子ども時代に感動して泣いたアニメの記憶、灼熱の日に見知らぬ人からもらった清涼飲料水の美味さ、などなどを掬い取るうえで、主観的体験は良いモノサシとなる。
 
 ただ、主観ゆえに、後から記憶が改ざんされて判定が覆ることもあり得る。たとえば、片思いの相手と一緒に食事をした記憶が、ある時点まではホンモノと感じられ、振られた後は空虚だとかニセモノだとか、そういう風に思い出す人は多い。主観的な体験は、ある意味では最もあてになるが、ある意味では最もあてにならない。
 
 「だから主観的な尺度は駄目だ」と言いたいわけではない。
 
 主観とはそういうものだと割り切って、ホンモノ-ニセモノ尺度の揺らぎを自覚しながら生きていくのも良いのではないだろうか。いや、主観のあてにならなさを自覚すらしないで、主観的体験に盲目的に従う人生を生きたって、別に構わないのではないだろうか。そうやって生きている人はたくさんいる。
 
 もっというと、主観の有無すら曖昧な次元を生きる、動物、さらに昆虫や植物の生は果たしてニセモノだろうか?
 
 そうは見えない。
 
 私は日本人なので、昆虫にもホンモノ-ニセモノという意識をしばしば向けたくなる。
 
 夏の終わりの蝉の声や、秋の終わりのキリギリスの声を聞く時、私はそこにホンモノの生を想定せずにいられない。真っ直ぐに生きて真っ直ぐに死ぬ。ある意味、人間よりも彼らのほうがホンモノの生と言いやすい。文化やメディアによる修飾が無いし、そもそも、ニセモノの生を生きる蝉、ニセモノの生を生きるコオロギというものを想定することができない。
 
 と同時に、蝉やコオロギは、自分の一生の真偽について云々したりはしないだろう。
 
 
 4.こうやって一巡りして改めて私が感じたのは「しいて考えるなら、ニセモノを定義・検出するのは難しいのではないか」だった。
 
 ものごとの成り立ちの無限のつらなりは、ある意味、すべてホンモノという側面を備えている。浅薄なコンテンツを通りすがりに楽しむ人を、ニセモノと呼んで良いものか。もし、ニセモノだとして、それはなぜ、ニセモノという風に言えるのか。浅薄なコンテンツが現れ出ること、それを消費する人がいること、いずれもものごとの成り立ちの無限のつらなりのなかの、実相のひとつではないか。と同時に、その人にとってそのコンテンツが夢中と呼ぶにふさわしい主観的体験を伴っているとしたら、それをニセモノと呼ぶことは難しいのではないか。
 
 とはいえ、諸々をホンモノと呼んで殊更にありがたがるのも妙な話だし、私がこうやって考えている思考のフレームワークも仏教の借り物でしかないわけで、そこが私の思考の限界となる。私にとっての世界は胎蔵界曼荼羅のようなもので、あらゆるものに位置づけがあり、あらゆるものの実相があらわれ、ホンモノとみなされがちなものの実在をニセモノとみなされがちなものが支えているような関連性の連なりこそが世界なので、もし、私のフレームワークでホンモノとニセモノの弁別をしようとし過ぎると、世界が割れてしまいかねない。
 
 たぶん、リンク先の「ニセモノの人生」というブログ記事を読んだ時に、本能的に私は、私と私の世界を守るために、この長ったらしい文章を書いて防衛機制を働かせる必要性に迫られたのではないだろうか。この、ものごとの成り立ちの無限の連なりのなかで、たとえ何かがニセモノとみなされがちだとしても、それもそれで世界の一部であり、ホンモノとみなされがちなものの成立と地続きであることを確認する儀式が、私には必要になったのだと思う。
 
 ここまで読んだ人が何人ぐらいいるのかわからないけれども、私の思考を守るための町内一周トレッキングにお付き合いくださりありがとうございました。
 
 

再考・『涼宮ハルヒの憂鬱』のどこが新しかったのか

 
 
はてなブックマーク - ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代 - 美少女と僕らのセカイ
涼宮ハルヒ美顔革命論について各方面の反応 - Togetter
 
 先日、「ハルヒ革命と保守・新自由主義化するハルヒ世代」というタイトルのブログ記事が書かれ、たくさんの人から批判や嘲笑を集めた後、消えてしまった。「エヴァ以降、ハルヒ以前のキャラクターにみられなかったのは『顔の良さ』」という持論からはじまって、「保守・新自由主義化するハルヒ世代」という世代論的な話にうつっていったが、やけに難しい言葉遣いだった。
 
 書き手は1995年生まれを名乗っていて、『涼宮ハルヒの憂鬱』に関する過去の議論についてあまり知らない様子だった。『ハルヒ』について語りたい意気込みは伝わってくるものの、それを伝えるための文章力も知識もデリカシーも足りておらず、批判や嘲笑を集めるのもやむなし、といったところではあった。
 
 だが、20代前半の若者が大上段にアニメを語るとはそういうものではなかっただろうか。
 
 インターネットが普及していなかった頃のローカルなオタクコミュニティでは、世間を知らず、知識も乏しい若いオタクが、要領を得ない作品論をぶちあげることは珍しくなかった。そういう、意気込みの空回りした作品論がオープンなインターネットに晒されるようになった時、批判や嘲笑を集めるのは理解できることではあるけれども、せっせと作られた若者の作品論が一蹴され、消えてしまうのは悲しいと私は思った。
 
 それでも熱量にほだされ、私も「ハルヒのどこが新しかったのか」を再考したくなった。似たようなことは4年前にもやっているけれども、好きな作品の話は、何度やったって悪いものじゃない。
 
 

「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の先駆けとしての『ハルヒ』

 
 

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 私は、『涼宮ハルヒの憂鬱』がそれ単体で"革命"を起こしたとは考えていない。
 
 それでも、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』が流行の端境期の人気作品なのは間違いなかろうし、同時代の幾つかのコンテンツやプラットフォームとともに記憶されるべきだとは思う。
 
 まず、ライトノベル版『涼宮ハルヒの憂鬱』がよくできていたことを断っておく。SF的要素や(90年代後半~00年代に流行した)心理主義的要素をちりばめ、キョンの独特な語り口を特徴とするライトノベル版は、同時代の愛好家の需要に応えていたと思う。
 
 ただし、それだけの作品ではなかった。
  
 たぶん、アニメ史のなかで重要だと思われるのは、「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の先駆けのひとつが、アニメというジャンルでは『涼宮ハルヒの憂鬱』だったということだ。
 
 『涼宮ハルヒの憂鬱』は、「ハルヒの顔が良い」という曖昧な理由によって特別だったわけではない。絵やストーリーでいえば、ほかにも優れた作品はそれなりあった。たとえば『エウレカセブン』や『アイドルマスター(アイマス)』あたりと比較して、『涼宮ハルヒの憂鬱』が突出して2010年代寄りのデザインだったとは思えない。今、『涼宮ハルヒの憂鬱』を観ると、その絵柄は2010年代よりも90年代後半に近いとすら感じる。
 
 だが、「女の子たちが歌って踊ってライブした」00年代のアニメとしては『ハルヒ』が早かった。エンディングテーマ『ハレ晴レユカイ』もそうだし、文化祭でハルヒが熱唱するシーンもそうだった。現代アニメではもはやテンプレートとなっている「女の子たちが歌って踊ってライブする」センスを、アニメというジャンルで最初に開花させたのは『涼宮ハルヒの憂鬱』ではなかったろうか。
 
 この時期には「女の子たちが歌って踊ってライブする」コンテンツが立ち上がってくる機運があった。Xbox360版の『アイドルマスター』がリリースされたのが2005年だし、AKB48が始動したのも2005年。『ハルヒ』だけが特別だったわけではない。ゲーム・アイドル・アニメという複数のジャンルで同時多発的にそれは起こり、燎原の大火のように広がっていった。
 
 ハルヒダンスの生みの親である山本寛さんは、2018年6月の公式ブログで、ハルヒダンスの流行への戸惑いと嫌悪感を表明しておられる。
 

当時は戸惑ったものだ。
なんでこんなに受けるの?
 
嬉しいというよりは、変な感じだった。
幸いにして「朝比奈ミクルの冒険」や「サムデイ イン ザ レイン」など、しっかり仕掛けて作った部分も充分に評価されたので、まだ違和感は薄かった。
 
しかし「ハルヒダンス」、なんでこんなに受けたんだろう?
作画スタッフに罪はない、あくまで演出上の問題だが、この程度で??
 
僕にとっては「刺身のツマ」がえらく評判になったようなものだ。
そこを褒められてもなぁ、という。

 

もうウンザリだ。
死ぬまで踊ってろサルども。
 
結局「一番解りやすいもの」が受けるのだ。
『エヴァ』での庵野さんの悩みも、そういうところだったのかなぁと、想像してしまう。

 
 「ハルヒダンス」は山本寛さんにとって「刺身のツマ」だったという。だが振り返ってみれば、まさにその「『刺身のツマ』がなぜ流行ったのか」が問題であり、00年代前半に流行ることのなかった何かが流行り始める先駆けを、たまたま山本寛さんが掴みかけていたと推察される。
 
 「ハルヒダンス」が流行した後には、『らき☆すた』や『けいおん!』が続き、もっと後発の『ラブライブ!』も大ヒットした。『アイマス』も今日まで太い命脈を保ち続けている。AKB48の台頭と発展は言うまでもない。そうしたプロが仕立てたコンテンツたちの裾野には、アマチュアたちが投稿した無数の「歌ってみた」「踊ってみた」系の投稿作品、『アイマス』や『初音ミク』などを使った投稿作品が広がっている。
 
 

『マクロス』や『サクラ大戦』とは位置づけが違う

 
 『ハルヒ』以前にも「女の子が歌う」「女の子たちが踊る」コンテンツが無かったわけではない。twitterでやりとりしていて思い出させてもらったが*1、たとえば『マクロス』や『サクラ大戦』はそれに近いようにもみえる。
 

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 しかし、『マクロス』や『サクラ大戦』がヒットしたからといって、似たようなコンセプトで女の子が歌う・踊るコンテンツが広がるとまではいかなかった。
 
 あまりにも早すぎたとも言えるし、似て非なるコンセプトだったとも言える。たとえばリン・ミンメイは、AKB48よりも昭和アイドルに近い存在ではなかったか。帝国華撃団にしても、あれは銀座に本部を置くような歌劇団であって、平成アイドルとは路線が違う。
 
 『マクロス』や『サクラ大戦』は、その時代の作品としてそれほどおかしくないし、じゅうぶんヒット作と言えるけれども、00年代の中盤以降に急速に広まっていった「女の子たちが歌って踊ってライブする作品群」の直近の先祖とするには、コンセプトも時代も違い過ぎる。
 
 インターネットの普及や動画投稿サイトの登場といった、メディアのプラットフォームにかかわる変化がなければ、『涼宮ハルヒの憂鬱』は「それなりに売れたライトノベル」で終わっていたかもしれず、『マクロス』や『サクラ大戦』よりもマイナーな存在として終わっていたかもしれない。『アイマス』にしてもそうで、00年代の複雑で広範な背景に支えられてヒットしたのだろう。
 
 だが、たとえそれが僥倖だったとしても、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、そうしたテンプレートの最初期の作品と位置付けられる程度には早かったし、新聞に一面広告を出すぐらいには存在感も示していた。そのことは、アニメ史やサブカルチャー史の一幕として憶えておいてもいいように思う。
 
 「ハルヒの顔が良い」だけでは、こうはならなかったはず。
  
 

*1:特に @stdaux さんに感謝