シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「自分に刺さるコンテンツ」がなくなったっていいじゃないか

 
 https://anond.hatelabo.jp/20180829224019anond.hatelabo.jp
 b.hatena.ne.jp
 ※このブログ記事を書いて数時間後、ブログ記事本体が削除されたのではてなブックマーク上の反応を追加しました。
 
 
 
 
 2018年は季節の移り変わりのテンポが早くて、もう、朝夕はめっきり涼しくなった。
 そのためか、ちょっとメランコリ―なブログ記事に、はてなブックマーカーが殺到しているのを見かけた。
  
 いまどきの人生を四季に例えるなら、20歳までは春、20代~40代は夏、50代~60代は秋だろうか。40代を「夏の終わり」とみるのは早すぎる気がしなくもないけれども、20~30代から見れば、40代は人生の後半にみえるかもしれない。もちろん、50代以降の人には40代はまったく違ったものとしてうつるのだろうけれども。
 
 これについて、ブログ記事筆者の気持ちとはほとんど無関係に、思うところを書いてみる。
 
 

「自分に刺さるコンテンツが無くなっていく」理由

 
 若い頃はサブカルチャーコンテンツに夢中だった人が、30代、40代と進むにつれて夢中になれるコンテンツを喪失していくことは多い。昔はゲームオタクとしてならしていた人が純粋な仕事人間になったり、昔は深夜アニメをよく観ていた人が定番のシリーズものしか観なくなったりするのを、私は何遍も見てきた。
 

 活動的なオタクライフを続けられなくなった人々は、趣味活動から身を引いていくか、昔のコンテンツを懐古するばかりになりました。なかには、無理矢理にでもオタクライフを続けようとした結果、趣味に時間や金銭といったリソースを食われて生活がだんだん苦しくなったり、身体を壊してしまったりする人もちらほら見かけるようにもなりました。
 このように、趣味を楽しむという一事についても、時間の流れは人を変えていきます。若者向けのコンテンツをいつまでも若者の気持ちのままに楽しめる人はそれほどいません。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?より抜粋

 大学生ぐらいの頃、「自分に刺さるコンテンツ」を見つけてくるのは難しくない。記憶と経験がまだ少なく、情緒が揺れ動きやすいことが、この場合はアドバンテージになる。
  
 しかし、30代40代になって「自分に刺さるコンテンツ」を新しく見つけて来れる人はそんなにいない。少なくとも、『ガンダム』や『頭文字D』や『ジョジョ』を"永遠の思い出"にしているような30代40代に比べれば少ない。それは、なぜか。
 
 理由の第一は、時間も注意力を十分にコンテンツに差し向けていられなくなったから、というのはあるだろう。
 
 思春期の彼岸には、仕事や子育ての充実した時間が待っている。 
 
 もちろん仕事や子育てには苦痛や我慢も伴うけれども、そのかわり、仕事や子育てをとおしてやり遂げられることも増えてくる。俗に、「働き盛り」という言葉もあるけれども、立場的にも、経験と体力のバランス的にも、40代にできて20代や60代にはできないことが沢山あると思う。だから、コンテンツに時間や注意力を回す暇が惜しいほど頑張っている中年がたくさんいることに違和感は無い。
 
 さまざまなフィールドで活躍している40代の男女から話を聞いていると、彼らがサブカルチャーの体内時計を何年も前に停まってしまっていることにしばしば気付かされる。20代の頃にファンになったアーティストや漫画家だけを追いかけていたり、『ドラクエ3』や『ストリートファイター2』を懐かしむことはできても現代のFPSやソーシャルゲームについては何も知らなかったりする彼らは、サブカルチャー愛好家としては完全に枯れている。
 
 たぶん、それで構わないのだろう。実生活が充実していれば、刺さるコンテンツが無くても生きていくには困らない。せいぜい、同窓会の時に話題にできればそれで事足りるのだから。
 
 そのことに加えて、実生活が充実していようが充実していまいが、忙しさや精神的プレッシャーはオフタイムからゆとりを奪う。本当はもっとコンテンツに向き合いたいと思っていても、帰宅してからの僅かな自由時間を、アルコールを片手にぼんやり過ごすしかない人も少なくはない。疲労はコンテンツへの没入を容赦なく妨げ、コンテンツの印象を散漫にしてしまう。それでも、年を取るにつれて、仕事が終わった後の肉体疲労は堪えるレベルになっていく。ただ疲れているだけで、コンテンツは刺さりにくくなる
 
 世の中には、年を取っても新しいコンテンツを次々に開拓していく人も幾らかはいる。だが、彼らは多数派とは言えないし、「自分にコンテンツが刺さるだけのゆとり」をなんらかのかたちで確保しているとみてとったほうがいいように思う。それは、時間や注意力を確保するための方策だったり、夜遅くに帰宅してから新しいゲームやアニメと向き合えるだけのバイタリティだったりする。まこと、中年になって思うのだけれど、時間と注意力とバイタリティはあらゆる活動のボトルネックだ。最近は、バイタリティに優れた同世代~年上の人が羨ましくてたまらない。
 


 
 ネットライフについても同様だ。
 いまどきなネット愛好家がやっていることを、今の私ができているとは思えない。ブログやtwitterやはてなブックマークといった馴染み深いフィールドでさえ、時間やバイタリティが足りなくなってくると巡回範囲が狭くなる。20代の私はそのことに耐えられなかったけれども、40代の私は、そのことをどこかで諦めてしまっている。見る人が見れば、それはネット愛好家としての堕落とうつるだろう。
 
 
 理由の第二には、すでに多くのコンテンツを経験済みで、それらと比較できてしまう……というのもあるだろう。
 
 ひとつのジャンルを10年も20年も続け、十分にクンフーを積んでいれば、おのずと見る目が肥えてくる。目が肥えると、良いコンテンツを良いと評価するには有利だが、あまりにもたくさんのコンテンツを経験していると、新しく出会うコンテンツはおのずと相対化されてしまう。記憶と経験がまっさらな若者にとって、ひとつひとつの名作や大作は絶対的なものになり得るし、ましてや『君の名は。』や『艦これ』や『UO』のように、界隈のシーンとなってコンテンツが立ち現れてくる場合には、コンテンツの相対化は難しくなる。コンテンツの相対化が難しくなるのは、批評家にとってはハンディでも、「自分にコンテンツが刺さる」には都合がいい。ところが、長いことコンテンツを噛み分け続けていると、コンテンツの相対化の罠にかかりやすくなってしまう。若い頃に絶対的なものとして体験した作品のことを、つい、思い出してしまう。
 
 

「コンテンツが刺さらなくなってからを生きる」

 
 じゃあ、コンテンツが自分に刺さらなくなってはいけないのかといったら……全然そうは思わない。
 

 私ぐらい年代では、昔の人気作品とその続編ばかりを楽しみにしている人がかなりいます。たとえば、『キン肉マン』や『ドラゴンボール』の関連作品だけを追いかけている中年、『宇宙戦艦ヤマト2199』のようなリバイバル作品や、『スターウォーズ』シリーズの新作を楽しみにしているような中年です。彼らは、ジャンルの新しいところを開拓していくだけの情熱や甲斐性を失っていますが、昔馴染みの作品は今でも愛しています。
(中略)
 このような保守的で、時計の針が止まってしまったかのような愛好家の姿は、新しいコンテンツにも目を通している若い愛好家からはまったく誉められないものでしょうし、反面教師にしたいと感じる人もいるに違いありません。
 ですが、サブカルチャーを心底楽しんできた青春時代が終わってからの落としどころとしては、いちばん無理がありませんし、そういった道を選んだからといって、人生の選択を誤っているとは私には思えません。むしろ、自分にとって本当に大切なコンテンツに的を絞ることで、最小の努力で自分の趣味の方面のアイデンティティをメンテナンスし続けられているとも言えます。
「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?より抜粋

 「自分に刺さるコンテンツ」を開拓しない・開拓できない境遇は、少なくとも中年にとっては困るものではなく、むしろ、メリットも大きいように思う。仕事や子育てなどの忙しさを抱え、疲れやすくなった中年が、学生時代と同じ情熱と時間をコンテンツに傾け続けるのは、ハイコストなことでもある。今の自分にとって為すべきことを為しながら、それでいてサブカルチャー領域の自分のアイデンティティをキープする一番たやすい方法は、思春期の頃に自分の心に刺さったコンテンツを愛し続けること・その続編コンテンツや周辺コンテンツを拾い続けていくことだと思う。多くの中年は、それに即した振る舞いをごく自然に身に付けている。
 
 むろんこれはゲームやアニメに限った話ではなく、たとえば『B'z』や『ドリカム』を聴き続ける人も、20世紀のSF小説で時計の針が止まってしまった人も、だいたい同じだ。そういう中年がたくさんいるということは、たぶん、それでも構わないってことなのだろう。「自分に刺さるコンテンツ」がいつまでも見つかり続ける人生もきっと良いものだろうけれど、だからといって「若い頃に自分に刺さったコンテンツ」を頼みとする人生がそれに劣っているとは、私にはどうしても考えられない。また、新しいコンテンツが刺さらなくなったことをもって趣味人や愛好家としての終焉とみなすのも、ちょっと違うと思う。
 
 現在進行形でコンテンツが刺さりまくっている人や、ごく最近までコンテンツが刺さっていた人は、「コンテンツが刺さらなくなってからを生きる」ことを否定的にとらえるかもしれない。けれども、コンテンツが刺さらなくなってからも、新しい地平、新しい心境が待っているので、気にしないで年を取っていけばいいと思う。「フレッシュなことはいいことだ」という思い込みを捨ててしまえば、案外、楽になるんじゃないだろうか。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

「ガチャは悪い文明」だとやっとわかった

 
 界隈では「ソーシャルゲームはガチャで派手に儲けている」と耳にするし、それは事実らしい。しかし、私はお金のあまりかからない部類のソーシャルゲームを、あまりお金のかからない遊び方で遊んでいたので、「射幸性」だの「依存性」だのと言われてもイマイチ実感が乏しかった。
 
 
 
 
 
 『FGO』にしてもそうで、ガチャは初期投資の金額だけで十分と感じていた。メインストーリーを進めるにつれてサーヴァント*1がどんどん強くなり、★1~★4のサーヴァントもちゃんと活躍してくれるおかげで詰まる気配が無かった。そのうえ、ストーリーが進むと聖晶石*2がどんどん手に入り、戦力が増強できる。
 
 「メインストーリーで得られる聖晶石と、ごく稀に出てくる★5サーヴァントがいれば、とりあえずゲームストーリーを進めるには問題ない。だから『FGO』は無課金~微課金で完結できるゲームだ。めちゃくちゃ課金してガチャを回している人達は、どこかおかしな遊び方をしている」
 
 そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。
 
 

五百個の聖晶石を一気に使ったらおかしくなった

 
 
 ところがそんなに甘くなかった。
 
 おかしくなりはじめたのは、2018年夏のアニバーサリーイベントが始まってからだ。まず、★5サーヴァントが確実に手に入る「福袋ガチャ」で、なんと★5サーヴァントが二体も手に入ってしまった。そのうえ、運営側からものすごい量の聖晶石が振る舞われたこともあって、この時点で聖晶石が五百個ぐらい溜まっていた。
 
 アニバーサリーイベントの最中は、★5サーヴァントをラインナップした「ピックアップガチャ」がいつまでも続く。溜まった聖晶石を使うなら今しかない!……が、さすがに★5サーヴァントは簡単には出てくれない。そうこうするうちに聖晶石が底をつき、ガチャを回したいという渇望と、欲しいサーヴァントのピックアップでも指をくわえて見ているしかない渇愛が残った。
 
 ああ、ガチャを回しまくった先にはこんな景色が広がっていたのか!
 
 そこからは良くない展開だった。
 

 
 ほんの二週間ほど前まで、私は「めちゃくちゃ課金してガチャを回している人達は、どこかおかしな遊び方をしている」と本気で思っていたし、特定の★5サーヴァント欲しさにガチャで大爆死しているユーチューバーの実況などを見ては「馬鹿だなぁ」などと思っていた。
 
 いいや、馬鹿だったのは私のほうだ。
 
 ガチャを回し続けた彼岸には、経験したことのない世界が広がっていた。戦力的には十分なプレイヤーが、どうして躍起になってガチャを回すのか、やっと私にもわかってきた。今なら私も、"葛飾北斎"や"マーリン"のピックアップガチャが来たら爆死するに違いない。
 
 たぶん私は『FGO』の半分も見えていなかったのだと思う。
 
 

「今まで見えていなかった世界」が見えてきた

 
 人がゲームを遊ぶ理由はいろいろだろう。
 が、私の場合、「今まで見えていなかった世界を見る」ことが理由としては大きい。
 
 『スターソルジャー』や『グラディウスII』や『怒首領蜂』をやっていた頃は、少しでも長く生き残って、出会ったことのない敵と戦ってみたいと思っていた。ゲームをやり込むほど新しいステージに進める──それが何よりのご褒美だった。

『シヴィライゼーション4』や『スプラトゥーン2』の場合は、上達しなければ気付かないこと・見えてこないことがたくさんあり、できるだけ上達して、その境地を自分の目で確かめてみたいと思っていた。
 
 そして『FGO』では、未読のメインストーリーを読むことが目的だった。以前も書いたとおり、私は『FGO』をヴィジュアルノベルの末裔だとみなしていて、ストーリーを先に進めるためにガチャを回して、サーヴァントを育成していた。今にしてみれば、それはそれで幸福な『FGO』観だったし、それで十分だったとも言える。
 
 ところが短期間にガチャを回しまくった結果、後頭部がジリジリするような、新しい『FGO』観を私は知ってしまった。
 
 私のtwitterのタイムラインには、『FGO』に課金する人が珍しくない。彼らは、この、執着無間地獄を苦しいと感じているのだろうか? それとも御褒美や喜捨のたぐいと割り切って身銭を切っているのだろうか? どちらにせよ、「ストーリーを進めたい」から「欲しいサーヴァントが欲しい」になってしまった時点で、運営のいい金蔓になってしまったといわざるを得ない。
 
 

「詫び石」は「ドラッグの売人」の手口

 
 どうしてこんなに★5サーヴァントが欲しいなどと思うようになってしまったのか。
 
 色んな理由が思いつく。
 
 サーヴァントが格好良い(またはかわいい)から。それもそうだろう。
 サーヴァントが強い(または使える)から。それもそうだろう。
 
 でも、サーヴァントの魅力だけでは足りない。事実、最初の数カ月はそこまでサーヴァントに執着していなかった。
 
 私がおかしくなったのは、「ガチャをたくさん回す快楽」を覚えてしまったせいだと思う。ため込んだ聖晶石をアニバーサリーイベントで一気に使い込んでから感覚がおかしくなってしまった。
 
 してみれば、運営がことあるごとに石を配って回るのも、お盆と正月に気前の良い福袋イベントを催すのも、「ドラッグの売人は、最初は無料でドラッグを配る」のと同じロジックなのだろう。
 
 「詫び石」というのも、なかなかいやらしいコンセプトだ。プレイヤーに対するお詫びという体裁を取りながら、一人でも多くのプレイヤーを執着無間地獄に堕とすための罠を配ってまわっているわけだから恐れ入る。
 
 メインストーリーを進めていた頃は無料でどんどん手に入っていた聖晶石が、ストーリーが進み尽くすと入手しにくくなるのもいやらしい。無料で聖晶石を手に入れるための手間暇がだんだん厳しくなってくるから、ますます課金したくなってしまう。「ストーリーを進められる戦力が揃えば、聖晶石は要らない」と考えていた頃は、これがガチャへの導線になっているとは気づかなかった。聖晶石を掘るのに手間暇がかかるようになって、ガチャに手を伸ばしたくなるようにデザインされていただなんて。
 
 『FGO』に限らず、我が世の春を謳歌しているソーシャルゲームはどれも、こうやってプレイヤーをガチャへと引きずり込むための仕掛けを用意しているのだろう。『マンガでわかるFGO』には「ガチャは悪い文明」という台詞が出て来るけれども、なるほど、ここまで来てみてやっとわかった。今、ガチャを回している時、私はプレイヤーとして自制がとれている自信が無い。とはいえガチャの恐ろしさを知るというこの体験も、これはこれでゲーム体験であり、辿り着いてみなければわからない世界ではあった。ひと夏の過ちをとおして、私はゲームの世界のことをまた少しだけ知った。
 
 

*1:手駒

*2:ガチャを回すために必要なアイテム

昭和映画を観て、あの頃の野蛮な感覚を思い出した

 

 
 ゆうべ、子ども時代に観た映画が急に見たくなって、Amazonのプライム・ビデオから『ビーバップハイスクール』やら『トラック野郎』やら『男はつらいよ』やら、昭和映画を何本か引っ張ってきた。
  
 汚い街並み。やたら汗まみれの男達。
 酒、たばこ、女。
 ことあるごとに出て来る拳や棍棒。
 映画で描かれる昭和は、もちろん昭和そのものではない。
 それでも、カジュアルに登場する身体的暴力や、男尊女卑を隠そうともしない物語の描かれ方は、やはり昭和ならではで、平成っぽくないとは思った。
 
 

平成時代の子どもには『ビーバップハイスクール』が殺し合いに見える

 
 
 ちょうど映画『ビーバップハイスクール』を見始めた時間に子どもが帰ってきて、一緒に視聴しはじめたが、子どもの反応は強烈だった。ものの数分で「これはひどい」「割りばし鼻に突っ込んだら死ぬ!」「高校生が殺し合いするなんておかしい!」と異常を指摘しはじめた。それでいて、画面に釘付けではあるのだが。
 
 今、『ビーバップハイスクール』を再視聴すると、街並みの汚さにびっくりする。上っ面だけ綺麗になった街の至るところに、バラックのような建物やゴミの山が存在している。登場人物の血や汗も含めて、臭そうなシーンが次々に登場する。そういえば、「朝シャン」をはじめとするデオドラント文化が日本に定着したのは80年代後半あたりだったが、そういった清潔志向は『ビーバップハイスクール』には現れていない。
 
 うちの子どもには、学生同士の「果し合い」が「殺し合い」に見えるらしかった。これが喧嘩であるという発想、これが学生同士の身体的なコミュニケーションであるという発想は、平成生まれの子どもには存在しない。「こんなに乱暴な高校生はおかしい」「中学生はともかく、高校生が喧嘩するのは聞いた事がない」といったコメントは、いまどきの子どもの感想として妥当だと思う。殴る蹴るが身体的コミュニケーションやマウンティングの様式としてまかり通っていた時代を知らない者には、「果し合い」と「殺し合い」は区別のつかないものかもしれない。
 
 警官の振る舞いにも驚いていた。相手が不良とはいえ、学生を殴る警官。果し合いのことを学校には黙っておくと言ってのける警官。『トラック野郎』に出て来る警官もひどい。平然とトラックの装飾を蹴り破っている。子どもは「こんな警官はおかしい」と何度も連呼していて、うん、それもそのとおりなのだが、平成時代では考えられないある種のおおらかさが、子どもには異様にうつるようだった。
 
 

昭和の頃の私は、それらを普通に楽しんでいた

 
 平成生まれの子どもには異様とうつった『ビーバップハイスクール』を、かつての私は楽しんでいた。
 
 私は昭和の終わりごろに、『ビーバップハイスクール』をリアルタイムで観た。『トラック野郎』はそれよりも後に観た。それらが、ちょっとバイオレンスに誇張された喜劇だということはわかっていた。
 
 それでも、トオルとヒロシは恰好良かった。不良たちが面子やなわばりを賭けて争う姿、殴り合う姿に違和感は感じていなかった。汗まみれになりながら殴り合う男たち、キャーと叫ぶ女たち、そういった描写をごく自然に受け取っていた。誇張された表現とわかっていたにせよ、その誇張は、日常の延長線上にあるものだと感じていた。
  
 その後、私は中学校に入学した。地元中学は、校内暴力のピークが過ぎた頃に校内暴力が吹き荒れたような遅れた地域だったので、不良がたくさんいた。教師の大半はナメられ、生徒会より番長が偉く、長いスカートを履いて鎖をジャラつかせる「スケ」が肩で風を切って歩いていた。中学生の喫煙。飲酒。不純異性交遊。近隣の学校との小競り合い。でかい屋敷の息子とその周辺。
 
 私はその中学でいじめに遭って不登校になったわけだけど、不登校になっている間に私を支えていたのは『ウィザードリィ』だけでなく、自分の町内の人間関係だったから、不良的なものを全否定することはできなかった。なぜなら、私の助けになった町内の先輩や後輩にしても、ある部分では不良的で、ある部分では喫煙や飲酒を良いこととしていて、本質はさほど変わらなかったからだ。当時の私にとっての男子学生としてのロールモデルは、たとえば『桐島、部活やめるってよ』に出て来る高校生などに比べれば『ビーバップハイスクール』寄りだった。
 
 私の生まれ育った時代と地域では、暴力がコミュニケーションの手段として日常的で、男尊女卑的で、汗まみれだった。だから私も、そういった感覚の延長線で昭和喜劇の暴力を受け取っていたのだろう。
 
 

昭和映画の世界に「おとなの発達障害」はいない

 
 あの頃の学生のヒエラルキーは、今日のスクールカーストのソレとは違っていた。もっと直截的な暴力、あるいは「ゴリラの胸叩き」のようなものが威力を発揮していて、喧嘩さえ強ければ一目置いて貰える部分があった。精神科医として思い出すと、今だったら発達障害の病名に加えて「行為障害」「素行症」とも呼ばれそうな不良が、あの中学には結構いた。そういえば、『男はつらいよ』の寅さんも、現代なら、発達障害とカテゴライズされてしまうだろう。
 
 現代の、洗練されたスクールカーストのヒエラルキーでは、発達障害はコミュニケーション上の大きな問題になる。しかし、昭和時代の野蛮なヒエラルキーでは、多少の落ち着きの無さや空気の読めなさは、腕っぷしや威圧力でカヴァーできた。昭和時代の学校や世間、とりわけ不良や荒くれ者が影響力を誇れるような学校や世間では、いわゆる「大人の発達障害」は、障害というかたちでケース化しにくく、あまりにも社会から逸脱した者だけが少年非行や犯罪者として摘発されたに違いない。
 
 とはいえ、昭和時代は安易に肯定できるものでもない。
 
 今日、これらの作品を見返してみると、昭和時代には許容されても平成時代には忌避されるもののオンパレードだ。昭和時代の社会状況は、平成時代の社会状況、もっと言うと、先進国で適切とみなされている規範に妥当していない。コミュニケーションの手段として、ヒエラルキーの決定因子として、腕っぷしや威圧を行使することは先進国では正しくないとされている。男性の暴力に女性が屈し、甘んじているのも、先進国にあってはならないことである。
 
 してみれば、発達障害がブームになっていく背景の一部分として、暴力や恫喝の禁止、喧嘩の禁止といった、先進国的な正しさの普及も挙げていいように私は思う。発達障害がブームになっていった背景として、産業構造の変化やコミュニケーション能力を重視する社会への移行がしばしば語られるし、それはそのとおりだろう。ただ、それらの変化には、人間間のヒエラルキーの取り決め方やコミュニケーションの方法に関する、大きなルール変更も伴っていた。コミュニケーションから殴打や威圧が追放され、ヒエラルキーの序列から暴力という要素が取り除かれれば、暴力で弱点をカヴァーしていた人々・暴力で弱点をカヴァーしなければならなかった人々は、それそのままでは社会に適応できなくなる。 
 
 『ビーバップハイスクール』に出て来る不良たちは、発達障害でもなければ行為障害でもなく、昭和時代の不良のカリカチュアだった。しかし、より平穏で、暴力の否定された平成時代の子どもからみれば、コミュニケーションしているのか殺し合っているのか区別のつかない、理解しがたい何かだった。子どもが昭和映画に異質なものを感じ取っているのを見て、ああ、時代が流れて、社会が変わって、人の捉え方も変わったのだと、しみじみ思った。
 
 

「小説家になろう」を読んでいると「どけ、俺が書く!」と言いたくなる

 
 屋外はうだるような暑さのなか、エアコンの効いた部屋でスパークリングワインを飲みながら物語を読むのは至福のひとときだ。疲れた頭でも読みこなせる読み物が、いまどきはweb上にたくさんある。
 
 そんなこんなで、「小説家になろう」を読む。
 
 我が家のPCには「小説家になろう」のブックマーク入れがあって、ここに、なろう小説がどこからともなく集まってくる。のどを鳴らしたくなる作品が入っていることもあれば、水っぽいワインのような作品が入っていることもある。何がブックマークされているのかはわからない。ともあれ、自分で一から探すのに比べればありがたいことではある。
 
 で、エアコンの効いた部屋でスパークリングワインを飲みながら読んでいるせいで、ときどき、「どけ!俺が書く!」と言いたくなることがある。
 
 「中世~近世ファンタジー風に書くなら、透明感のあるワインを居酒屋で出しちゃあ駄目だ、そんなのは最高級品だ」
 
 「蒸留酒?なんで蒸留酒なんてものが出てくるんだ?おまえらは米で作ったどぶろくでも飲んでろ」
 
 「別に冷えた発泡酒を出すなとは言いませんが、せめて冷気魔法を使っているとか、なんか適当な言い訳をお願いできませんかー」
 
 こういう難癖は、テレビに向かってブツブツとつぶやき続ける、孤独なテレビ視聴者のソレと変わらない。
 
 ところが、言い訳なり説明なりがあったならあったで、別の難癖をつけ始める俺がいる。
 
 「冷気魔法で食品を保存できる世界なのはわかりました。でも、この場面で、その説明にくだくだしい説明を書き連ねるよりも、3話前の貴族様のお話しで触れてしまっておけばスマートだったのでは?」
 
 「これが、ヒロインの後輩君の内面パートなのはわかっているんですが、この後輩君の内面、すごく……昭和後半っぽいです……」
 
 「この世界で金属や穀物がユニバーサルに流通しているのは交易網のおかげとありますが、魔物がこんなにいる世界で、交易網をどうやって成立させているんでしょうか?」
 
 小姑のような難癖をつけ始めると、ツッコミどころを楽しめるような作風でない限り、興ざめしてしまう。優れたweb小説の場合は、ツッコミどころを楽しめるか、むしろ優れたデフォルメとみなせて「設定に乗れてしまう」けれども、そういう作品はそんなに多くはない。そりゃあそうだろう、あらゆる書き手が参加している・参加できるのがweb小説の世界なのだから。
 
 

「だったらお前が書けよ」→「どけ!俺が書く!」と言いたくなる

 
 そんなに難癖をつけるぐらいなら、お前が書けよ!と突っ込む人もいるかもしれない。実際、そのとおりだと思う。なろう小説を読んでいると、「どけ!俺が書く!」と言いたくなることがよくある。
 

ダンジョンズ&ドラゴンズ ダンジョン・マスターズ・ガイド第5版(改訂版)

ダンジョンズ&ドラゴンズ ダンジョン・マスターズ・ガイド第5版(改訂版)

 
 魔物と魔法の系統はD&Dに近いものにしていこう。D&Dとわざわざ書かなくても、伝わる人には伝わるし、そのほうが設定のブレが少なくて済むはずだ。
 
地図でみる図鑑 世界のワイン (GAIA BOOKS)

地図でみる図鑑 世界のワイン (GAIA BOOKS)

  • 作者: ヒュー・ジョンソン,ジャンシス・ロビンソン,山本博,遠藤誠,戸塚昭,塩田正志,福西英三,大田直子,緒方典子,宮田攝子,大野尚江,豊倉省子,藤沢邦子,乙須敏紀
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  • 発売日: 2008/08/01
  • メディア: 単行本
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 ワインは甘みがぜいたく品だった時代に近づけて、糖尿病になりそうな甘いワインをドカドカ出そう。甘くないワインなどというヘルシーな志向が、近現代のテクノロジーを崇め奉るような異世界で珍重されるわけがない。
 
金と香辛料 〈新装版〉: 中世における実業家の誕生

金と香辛料 〈新装版〉: 中世における実業家の誕生

 
 ギルドカードにお金が振り込まれるような異世界なら、クレジットのあり方を根本的に変えなければならないし、通貨として金貨を登場させるなら、金と銀の産出量をいじらなければならず、それなら、惑星の重金属比率が違っている前提で進めたほうが良いかもしれない。
 
 
  
 いまどきは、異世界の物語を書くための「種本」や、先行作品が無尽蔵に存在している。だから、自分にとっての「それらしい」作品を創ろうと思ったら幾らでも資料が存在するし、言い方を変えると、各人にとっての「それらしい」作品は、各人が参考にした「種本」や先行作品によってバラバラになってくるはずだ。
 
 そうなると、他人の創ったweb小説を読むぐらいなら、「自分が手持ちの資料や作品と矛盾しない、自分で創ったweb小説を読んだほうがきっと満足できる」という怪しげな結論に辿り着いてしまう。だからついつい、「どけ、俺が書く!」と言いたくなってしまう。
 
 

でも「参りました。」と言わせる作品だってある

 
 ところが、実際には「どけ、俺が書く!」とはいかない。
 
 時間が無い、体力が無い、甲斐性も無い。ブログをはじめ、自分の領分で自分が書かなければならないことが山積しているのに、web小説に時間をかけるわけにはいかない。そういったお決まりの言い訳を乗り越えて、かりにweb小説づくりにリソースを突っ込んでも、早々、うまくまとまるとは思えない。
 
 web小説づくりは、自分が書きたい設定や世界背景を定めただけではうまくいかないことを、私は知っている。異世界にリアリティを与えようとゴテゴテやってしまうと、「クドクドとした、知識開陳の目立つ腐った何か」ができあがってしまう。だからといって、異世界の説明や風景描写を飛ばしすぎると「スッカラカンの何か」ができあがってしまう。
 
 してみれば、商業的に成功しているweb小説、あるいはライトノベルあたりは、たいてい、本当にうまくできているのだと思う。
 
 その世界の説明に無駄な行数を費やすことなく、知識の押し売りになってしまうことなく、できるだけ少ない文字数で、それでもスッカラカンとは感じさせずに気持ち良く異世界を読ませてくれる作品には、真似できるようで真似しきれない何かがある。ああいうのは、相応のテクニックや才能があればこそなのだと私は思う。作り込まれた異世界を見せてくれるけれども、読者への負担や知識開陳は最小限とし、キャラクターの挙動が異世界のスタイルと調和している作品は、とても素晴らしい。
 
 世の中は広い。優れた書き手はたくさんいる。
 
 だから「どけ、俺が書く!」と言いたくなった時は、「素晴らしい書き手の作品を待とう」と思ったほうが精神衛生に良いのだろう。もっとも、そこを突き詰めてしまうと、web小説なんて読まずに商業化された上澄みだけつまみ食いするのが効率的、ってことになってしまうのだろうけれども。
 
 エアコンの効いた部屋で「小説家になろう」を読んでいる時に、独りでつまらなさがヒートアップしてしまった時に思ったことを書きました。オチはありません。
 

人が「何者かになる」というのは、不純なことでもあります。

 
ネット文化の主役になりつつある、「何者か」になりたい若者たち【りょかち】 | Agenda note (アジェンダノート)
おっさんになる覚悟<猫を撫でて一日終わる>pha - 幻冬舎plus
 
 先月、久しぶりにブログでも読んでみるかーと巡回したところ、たまたま対照的な二つのブログ記事にほぼ同時に出くわし、何者かになろうと飛翔する若者と、その若者の季節が終わった非-若者のコントラストに、ちょっと頭がくらくらした。
 
 自分自身を何者かにするために無我夢中でもがくこと。
 
 世界の主人公は自分であるという確信。
 
 人生のハンドルを握っているのは自分自身であると信じて疑わない姿勢。
 
 これらは、若者の特権だと私は思う。
 
 元気の良い若者には似つかわしいものだし、悪性の自己中心主義だとは思わない。そういう若者でも社会に貢献できる世の中になっているし、なにより、こういった確信や姿勢を持っていられるのは、まだ何者でもない、若いうちだけなのだから。
 
 自分を世界の主人公とみなして、自分自身のために、真摯に頑張れるのは若者の輝きだ。若者ではなくなった私は、そのように思う。
 
 

三十代という曲がり角

 
 だけど、冒頭リンク先でphaさんがおっしゃっているように、若者という立場には時間的な限界がある。
 
 一人でいる時や、同世代とつるんでいる時には、たとえば「三十代だけどまだ若い」と思い込み、そのように振る舞うのは難しくはない。四十代、五十代になってすら不可能ではないだろう。
 
 けれども自分よりも年下の若者と接点を持っていると、じきに気付くはずだ。自分よりも若者然としているのは、年下の連中であるということに。自分自身に無我夢中になっている度合いも、人生を操縦してやろうと必死にハンドルを握っている必死さ加減も、年下の彼らほどではなくなっていることに。新しいカルチャー、新しい習慣、新しいテクノロジーを造作もなく身に付けていくのも、彼らであるということに。
 
 そういったことは20代のうちから推測できなくもないし、ひょっとしたら、理解も可能かもしれない。しかし、推測が理解になり、理解が現実となって肌に吸い付いてくるのはもっと後のことである。
 
 三十代は、そうした肌に吸い付いてくる現実を脇に置いて、若者的な心理をキープするのがそれほど難しくない時期だ。それでも我が身を振り返れば、そういった若者仕草が意図的になっていることに気づくはずだ。無意識のうちに流行の渦中にいるのでなく、意識して流行をトレースするようになったら、もうド真ん中の若者とは言い難い。自分自身に無我夢中な心理も、醒めていくスープを暖め直すような意図的なものになってしまったら、ド真ん中の若者とは言い難い。
 
 「ド真ん中の若者とは言えない境地になっても、若者としての自分をどこまで引っ張るのか? それとも、自分はもう若者ではないと割り切って、ネクストステージを迎えるための心の準備をしていくのか?」
 
 この疑問文の答えは、その人のライフコースの速度によって違ってくるから一概なことは言えない。若者真っ盛りの十代~二十代の人は意識する必要すらないだろう。けれども三十代の人は、そろそろ気にしておいて、若者ではなくなった境地に思いを馳せてもいいのではないか、と私は思う。
 
 三十代も後半になってくると、いい加減、自分が世界の主人公だなんて思い込めなくなってくるし、自分で自分の人生のハンドルを握っているという感覚もボヤけてくる。立身出世の有無、既婚か未婚か、子育てしているかしていないか等々にかかわらず、自分というものが自分だけで成立しているという天動説的世界観が三十代以降も成立する人は、たいしたものだと思う。少なくとも現在の私には不可能な思い込みだ。
 
 世間で生きて、世間に絡めとられると、自意識の天動説が維持できなくなってくる。
 
 

ホリエモンも、世間に絡めとられていると私は思う

 
 こういうことを書くと、たとえば堀江貴文さんのような例を挙げて「いつまでも自由に生きる人がいる」と反論する人もいるかもしれない。
 
 私の見解は違う。
 
 私は、ホリエモンが本当に自由に生き続けている永遠の若者だとは思っていない。あの人は、これまでの行いの積み重ねの結果として、自由に生き続けているタレントを続けなければならなくなった人ではないか、と思っている。
 
 いわゆる「何者かになる」というのも、究極的にはこういうことなんじゃないだろうか──ホリエモンのように生き続けようが、典型的なサラリーマン人生を生き続けようが、これまでの行いの積み重ねによってひとつのタレントができあがり、それが生活と不可分に結びついたら、その人はもう「何者かになった」と言えるのではないか。それは喜ばしいことばかりとは限らない。一般に、できあがったタレントや立場は、生活と結びついているから着脱自由とはいかない。ホリエモンのようなタレントでも、プロの小説家でも、一般的なサラリーマンでも、たぶんそれは同じだ。若者としての可能性がタレントや立場に転換されてしまった時、人は「何者かになる」と同時に、世間に絡めとられて不自由になる。
 
 そういう観点でいうなら、ホリエモンはまごうかたなき「何者か」であって、若者ではない。
 とうてい、人生の余白多き、まっさらな若者と同列に論じられる存在ではない。
 
 

「大人は汚い!」「それでも生きていくんだよ!」

 
 だんだん話がズレてきたのを承知のうえで、個人のブログらしく終わりに持っていこう。
 
 まだ人生の余白が真っ白な若者には、タレントや立場といったものができあがっていない。それは、とても清純なことだ。対して、長く生き、結果としてなんらかのタレントや立場ができあがって「何者」かになりおおせた大人たちは、不自由であり、ある面で不純でもある。
 
 だから今の私には、「大人は汚い!」という言葉がすごくわかる。「何者か」になった大人のポジショントークを汚いと指摘する資格が、まっさらな若者にはあると思う。
 
 ただし、可能性がタレントや立場が転換されるにつれ、若者はまっさらではなくなり、「大人は汚い」という台詞が似合わなくなる。この観点でいえば、いかなる「何者」であってもタレントや立場に立脚して発言し続ける人間は一律に汚い。
 
 とはいえ世間で生き続ける限り、人は、世間に絡めとられて「何者」かになっていかざるを得ない。それこそギークハウスのphaさんですらそうだったように。繊細な若者のなかには、「何者」かになることの、この不純性に耐えられなくて潰れてしまう者もいるだろう。そうやって潰れていく者の姿を横目で見つつも、人生の歩みは止められないし、「何者」かから降りることもできない。不純にまみれても、それでも生きていくだけの意識・覚悟・諦念に辿り着いたら、その人はもう、若者ではなくなったとみていいのだと思う。