シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ダイレクトな怒りがタブーになった社会」

 
togetter.com
 
 昨年末に、「今の世の中では怒りをコントロールすることに高い価値が置かれている」というtogetterを見かけた。@marxindoさんの投稿を中心に、怒りの表出が困難になった現代社会についてあれこれ書かれている。
 
 marxindoさんの投稿は私もリアルタイムで読んでいて、以下のようなツイートを書かずにはいられなかった。
 





 
 怒りをコントロールするとは何か。
 
 一部の人は、怒りを表出しないことだという。
 
 私はそうは思わない。それは単なる抑圧である。怒りの感情をただ押し殺して、それを我慢と感じている限りにおいて、怒りはコントロールできていない。その我慢がストレスとなって心身を蝕んだり、どこかで異なったかたちで爆発したりしているなら、その人の怒りはコントロール不能になっていると言わざるを得ない。
 
 また別の人は、怒りを「感情的に」表出しないことだという。
 
 これも完全には同意できない。確かに、怒りを感情的に表出しないことが最適な場面は少なくない。現代社会の大半の場面では、感情的な怒りの表出を良しとしないので、だいたいベターなのは認める。しかし、怒りを感情的に出したほうが上手くいくコミュニケーション場面はまだ残っている。たとえば感情的な怒りの表出によってコミュニケーション対象に与える効果やインパクトが高められる場面では、怒りはしっかり出していったほうが効果がある。また、怒りを感情的に表出しないことに伴うストレスに耐えきれず、その他の手段では怒りを放出できない場面では、怒りを感情的にそのまま出してしまうことが一番マシであることもあり得る。後述するように、怒りを他の手段で発散することも可能だが、いつでも誰でもそれができるかといったら、そうではない。怒りをゴチャゴチャと加工していられず、放電のように手放してしまったほうがトータルでは望ましい、という場合はゼロではない。
 
 怒りをコントロールするとは、怒りを抑圧することでも怒りをひたすら冷静にすることでもない。私なら、怒りを刺激するツボを回避するよう訓練されることだとも思わない。場の状況や相手の出方をキチンと見定め、最適なかたちで怒りの表出方法を選び、必要ならば、感情的な怒りの表出も厭わないのが、怒りがコントロールできている人だと私は思う。付け加えて、自分自身のストレス耐性や心理的圧迫を弁えて、そこまで勘案して怒りの表出手段や表出の程度を選べる人だとも思う。
 
 そういう意味では、たとえば、どこかの病院の時間外外来で怒りをあらわにしている患者が「怒りをコントロールできていない人」とは限らない。その患者が直面している社会的状況次第では、そうして"みせる"のが最もベネフィットが見込まれ、リスクも少なくて済むことだってある。外来の医師や病院事務に対するコミュニケーションの効果を最大化し、失うものが何も無い場合にも、"わざと"怒りを感情的に表出をするのが最適な状況が無いとは言えない。
 
 怒りの不適応な側面だけを強調して、怒りの適応的な側面を無かったことにするのは、事実の一部分を強調するあまり、他の一部分を見失っているか、特定の思想信条に基づいてわざと見ないようにしているか、どちらかだと思う。なんにせよ、それは娑婆世界の実情どおりの観察とは言えない。
 
 

怒りがタブーになることで、誰が得をして、誰が損をしたのか

 
 そうは言っても、現代社会全般で、怒りのダイレクトな表出がタブーになりつつあるのは事実である。
 
 会社でも、居酒屋でも、学校でも、家庭でも、今日では怒りのダイレクトな表出はあってはならないこととされている。怒りにまかせて何かをすれば、怒りをこうむる側に烈しいストレスが加えられる点が注目され、ときにはトラウマの原因として語られることもある。怒りによって周囲にストレスを振りまく者が精神科を受診すると、伝統的に診断されていた典型的な躁状態や、幻覚や妄想を背景とした興奮や、てんかん性不機嫌などに該当しなくとも、治療の対象になり得るようになった。
 
 今日、怒りをダイレクトに表出している人は異端視されかねない。冒頭リンク先のtogetterにも書かれているとおり、現代人は怒りを表出することにも、怒りを表出されることにも慣れていない。私が子どもだった頃と現代とを比べると、子どもが怒りを表出する頻度も、子どもが誰かに怒りを表出される頻度も、びっくりするほど減った。盛り場での喧嘩、キレる若者、殺人事件の認知件数なども、昭和時代に比べれば軒並み減少している。数十年前は、もっと街に金切り声や怒号があふれていたはずなのだが。  
 
 こうした、ダイレクトな怒りがタブーになった社会がどのようなプロセスを経て完成したかは於いておくとして、「誰がこのような社会で得をしたのか」について考えてみたいと思う。
 
 ダイレクトな怒りがタブーになった社会でいちばん得をしたのは、もともとダイレクトに怒りを表出できなかった人、専らダイレクトに怒りを表出されて、その威力にひれ伏していた人達だろう。
 
 つまり、子ども全般と、強くない女性である(強い女性は、昔からダイレクトに怒りを表出してきた)。また、怒りの表出が困難な立場の男性も含めて構わないだろう。
 
 腕力や経済力や影響力といったものが足りない人は、怒りをダイレクトに表出する機会がもともと乏しかった。なぜなら、ダイレクトな怒りを表出することのベネフィットとリスクの比率は、背景にある腕力や経済力や影響力によって大きく変わるからだ。たとえば専制国家の王ともなれば、怒りのダイレクトな表出と称して部下の首をその場で跳ねたとしても、さほどのリスクは無く、ベネフィットが勝る可能性が高い。
 
 してみれば、怒りがたくさん表出される社会とは、強者に優しく、弱者に厳しい社会だったわけである。昭和時代が平成時代よりも怒りがたくさん表出されていたということは、昭和時代のほうが強者有利なルールだったということでもある。平等や、弱い立場の者の権利を守るといった観点からみれば、やはり怒りの表出は制限されるべきだったろうし、制限されて良かったのだろう。この視点でみれば人類は"進歩"している。
 
 

表出されない怒りはどこへ行く?

 
 しかし、怒りの表出が制限されたとしても、内心にわだかまり、ふきだまる怒りの感情が消えてなくなったわけではない。人間は喜怒哀楽といった感情を有しており、感じた怒りは、なんらかのかたちで加工・処理・発散してしまわなければならない。ダイレクトに怒りをあらわせないなら、そうでないかたちで怒りを自分の身体の外に出してしまわなければ、ストレスが残る。
 
 そうした怒りが、たとえば、スポーツのようなかたちで社会化されて発散できるなら、文句を言う人は少なかろう。あるいは社会運動への参加というで怒りが社会化されて、世の中の役に立つこともあるだろう。
 
 だが、スポーツが必ず・すべての人の怒りを発散できるわけではないし、社会運動への参加も良いことばかりとは限らない。怒りの発散が主目的になってしまって社会運動のほうは形骸化し、とにかく集まってみせて、とにかく何かを壊してみせること自体が目的になってしまっているケースもままあるように見受けられる。
 
 とはいえ、都内のあちこちを巡ってみても、やはり、ほとんどの人は怒りを表出することなく生きている。彼らの、よく考えれば不思議なほど静かな営みを眺めていると、どうして怒り=タブーをここまで弁えて行動できるのか、ものすごい不思議の念に駆られる瞬間があって、ブルブルっと寒気をおぼえることがある。
 
 都市生活者の大多数を占めている、あの怒りを表出しない人々は、さも、市民としては適切に違いない。だが、動物としての人間としては、あれもあれで不自然な姿にみえる。怒りが欠けているようにみえても生活できているということは……その欠如を、彼らはどこでどうやって補償しているのだろうか。ダイレクトな怒りがタブーになった社会の怒りは、いったい何処へ?
 
 

クソリプはクソだが、クソリプが書けること自体は尊い。

 
「はてなブックマーク」廃止論 - いつか電池がきれるまで
アメリカの銃規制と「はてなブックマーク廃止論」その後 - いつか電池がきれるまで
 
 6月28日にfujiponさんが書いた「『はてなブックマーク』廃止論」というオピニオンは、いかにもfujiponさんらしい文章だと思いましたが、私自身、はてなブックマークについて考えがまとまっていないので言及しませんでした。
 
 しかし、7月20日の記事で、こんなくだりを見つけてしまいました。
 

 こちらとしても、このエントリに「はてなブックマーク」で賛意が集まるとは全く予想してはおらず、ある意味、予想通りの反応ではありました。甲子園で巨人の応援をするようなものですよね。
 「ブックマークコメント」以外の手段でこのエントリに言及してくれたブログは『はてなブログ』にはたくさんあったのですが、twitterやメールで僕に直接何か言ってきた人はほとんどいなかったのです(というか「皆無」でした)
 『はてなブックマーク』を大切に思っていた人たちに反発されるのは仕方がないのだけれど、ブックマークコメントやこのエントリへの反応を読んでいると、「なんだかなあ」と思ったんですよやっぱり。
 (注:強調文字はシロクマによるものです)

 これを読み、私はfujiponさんが誰かのリアクションを求めていたのだ、と推定しました。
 
 twitterはともかく、「メールで直接何か言ってくる」とは懐かしい響きですね。90年代~00年代の頃は、ウェブサイト管理者同士がメールで意見交換することがよくありました。BBS(掲示板)やICQを使うこともあったけれど、個人的な長文をやりとりする際にはメールを選んでいましたよね。
 
 そのメールを使ったやりとりがブログのトラックバックに取って代わられ、最近はSNSに取って代わられました。しかし、SNS、とりわけtwitterなどは長文の意見交換には向いていません。はてなブックマークも同様です。
 
 140字以内や100字以内のコメントを短冊のようにくくりつけて済ませるのが、いまどきのネットコミュニケーションの流行りなのでしょう。
 
 しかし、そのような短文をコミュニケーションのツールとして赤の他人に対して用いるのは、本当は難易度が高いのではないか、とも思います。俳句や短歌の文字数で伝えたいことを伝えきるのが難しいのと同様に。
 
 長文をメールでやりとりする際には、長い文章を書く手前、それなりに考えて、それなりに時間をかける必要がありました。意見を言語化する際、時間的・認知的コストを十分に費やす必要があり、費やさずに返答するというのはあまりありませんでした。あまりにもぞんざいだと、メールを読んでもらえない懸念もありましたからね。
 
 対して、twitterやはてなブックマークの短文はそうではありません。時間をかけずにコメントできてしまいます。認知的コストを支払わずともコメントできてしまいます。ただコメントするだけという意味では「難易度が低くなった」と言えますが、短時間かつ短文で適切にコメントし、コミュニケーションとして成立させるという意味では長文より「難易度が高くなった」とも言えます。
 
 最近のSNS全般を眺めていて思うのは、「コメントはしやすくなったけれども、双方向的なコミュニケーションはかえって難しくなった」ということです。
 
 一方的にコメントするだけなら、SNSやはてなブックマークは簡便ですし、「数的優勢をもってブロガーやウェブマスターに圧力をかける」「オピニオンの多数決的優劣をつけあう」という観点でのコミュニケーションには適しています。しかし、マンツーマンでお互いの意図を推し量りながら双方向的にコミュニケーションするには適していません。短文に自説を圧縮するのも、短文から相手の意図を汲み取るのも、とても難しいことですよね。
 
 


 
 
 2018年7月20日の夜間にfujiponさんとズイショさんがtwitter上で交わしていたやりとりを見ても、双方向的なコミュニケーションに向いていないメディアだなぁ……とつくづく思いました。
 
 にも関わらず、ネットユーザー同士のやりとりが短文で済ませられるようになっているわけですから、巧くないコメントの応酬、ディスコミュニケーションの氾濫が起こるのは当然の帰結ではあります。きっと、短文カルチャーは思考のありようにも影響を及ぼしていることでしょう。短文で考え、短文でコメントするカルチャーは、長文で考え、長文を交換するカルチャーとは異なる人々をはぐくみ、異なる傾向へと導いていくと思われます。いや、現在のネットの風景は、その傾向が既にできあがったものかもしれません。
 
 

1を読み10を知る者もいれば、何も読み取れ(ら)ない者もいる

 
 それに、短文~長文というネットメディアの特質を抜きにしても、「ちゃんと読まれ、応答になっているコメント」というのは簡単に成立するものではありません。
 
 まず、読解力には大きな個人差があります。
 
 筆者の意図や文章の論旨を95%ぐらいの確率で読み取れる人もいれば、25%ぐらいの確率でしか読み取れない人もいます。そもそも、論旨とか主旨とかいう概念が欠如している人だって今日日のネットユーザーには多いでしょう。「ネットの読者の少なからぬ割合は、センター試験の国語で120点取れない」ことは、前提として忘れてはならないように思います。
 
 加えて、コメントを書く人のなかには、読解したい人もあれば、ぜんぜん読解したくない人だっています。
 
 文章を読んでコメントしたいのでなく、ただタイトルにかこつけて自分が言いたいことをコメントしていくだけの人なんてごまんといるじゃないですか。本来は読解力がある人でも、気分や状況によっては「タイトルだけ読んで自分の書きたいコメントを書く」ことがあってもおかしくはありません。それを禁止すべきでもないでしょう。
 
 読解力に個人差があり、読解したい人もしたくない人も集っているとしたら、SNSやソーシャルブックマークのコメントが多種多様になるのは一つの必然です。必然だから良い、と言いたいわけではありませんが、必然ではあります。本来は居酒屋の毒舌やテレビの前のつぶやきで済んだはずの言葉までもが、一覧になったり、クソリプの山になったりするのが、今のインターネットですから。
 
 fujiponさんは「はてなブックマーク」を殊更に批判しておられるけれども、この問題は、インターネット全体にもほとんど言えることで、たとえば90年代のインターネットにだって「話の通じない人」はそれなりに存在していました。だから、はてなブックマークが廃止されなければならないとしたら、ほとんど同じ理屈でインターネットも廃止するか、インターネットを選民制度にしなければならないのではないでしょうか。
 
 それでも、はてなブックマークに絞って問題点を考えるなら、私は、「はてなスター」が悪く働いているように考えています。はてなスターは、ブログ記事とブックマーカーとの双方向的なコミュニケーションを促すより、ブックマーカー同士の党派性を助長し、「はてなブックマークというメディア上で目立つ」ことを促しているように見えるからです。
 
 本来、穏やかな目的に供されるはずだったはてなスターが、ユーザーの攻撃性を煽るメカニズムと化しているとしたら、痛ましい限りです。
 
 また、多くの方が指摘しているとおり、現在のidコールの仕様にも問題があるように思います。
 
 はてなスターやidコールといった仕様をこれからどうしていくのか。私は、(株)はてな の内部の人に真剣に考えていただきたいと願っています。
 
 

「コメントできること」のかけがえのなさ

 
 さて、ここまで書いた文章を読み返すと、「ああ、結局私もfujiponさんにかこつけて自分が書きたかったことを書いただけだなぁ……」と思い至らずにはいられません。ブログ記事にブログ記事をリンクしたからといって、この出来事が双方向的なコミュニケーションになっているのか自信がありません。
 
 ただ、ブログとブログ、SNSとSNSでもそうですが、言葉に言葉が重ねられるということには、一種のかけがえのなさがあり、こうやって言葉を交わせること自体を私は否定したくありません。
 
 最近、とある旧はてなダイアリーユーザーの方とメールでやりとりした際に、「それでも言葉を放てるというのは、強いことです」といった主旨のご意見をいただきました。私も同感です。
 
 何かを言えること・何かを表現できることは、強いことです。これは、逆を考えてみるとすぐにわかるはずです。何も言えないこと・何も表現できないことは弱い。言葉や表現がすべてのインターネットにおいては、とりわけそうでしょう。
 
 たとえば、何百何千とリツイートされた文章にクソリプが連なること自体は悲しいことですが、クソリプしか書けないような人でもクソリプが書けること自体は、ほんらい、尊ぶべきことではないでしょうか。
 
 インターネットのおかげで、これまでの社会では沈黙するしかなかった人々にも言葉や表現が与えられました。独裁国家のような国ならともかく、表現の自由を良しとする国では、そのことはまず尊ぶべきことです。見事な文章が書けるような人、影響力のある人だけが声をあげられ、そうでない人からは声を剥奪するなんてことは、あってはならないように思います。はてなブックマークにしても同様です。読解力も読解意図も欠いている人のコメントがそびえたつクソの山を作るのは悲しいことですが、読解力も読解意図も欠いている人でもコメントしてそびえたつクソの山を作れること自体は否定しがたい、というのが今日の私の意見です。
 
 むろん、はてなブックマークをはじめ、個別のネットメディアには改善すべき問題はたくさんあります。うんざりすることや偏っていることもたくさんあるでしょう。コメント言いっぱなしばかりを助長し、双方向的コミュニケーションが志向されにくいネットメディアの現アーキテクチャにも、個人的には言いたいことが無いわけではありません。
 
 それでも、こうやって私達がブログを書けていることや、誰でも気軽にコメントできること自体は、原則として尊く、かけがえのないことのはずなんです。たとえ人が集まり過ぎてガンジス川の川辺のようなカオスな風景が現れたとしても、インターネットで書けること・表現できることに救われた人間は、その出発点を忘れてはいけない──そんなことを今日はやけに思い出したものですから、私は書きたいことを書きました。
 
 
 [関連]:はてなブックマークの多様性は、そんなに馬鹿にしたものじゃない - シロクマの屑籠(なにぶん5年前の文章なので、いささか楽観的ではありますが)
 
 

おじさんおばさんの「横着」について思うこと

 
 
“ちょい悪オヤジ”も要因!?「大人になり切れないおっさん」が生まれる5つの理由 - FNN.jpプライムオンライン
「少年の心を持ったおっさん」からの脱却はどうすればいい?専門家に聞いた - FNN.jpプライムオンライン
 
 先日、FNNプライムニュースさん関連でインタビューをお引き受けする機会があって、拙著『「若者」をやめて、「大人」を始める』について色々な話をした。
 
 その後、身の回りで色々な出来事があって、おじさんやおばさんの「横着」について(どちらかといえば肯定的に)考える機会があったので、紹介がてら、ちょっと書き残しておく。
 
 
 
 
 

「歳を取ったら横着できる」の意味がわかるようになってきた

 

横着
1 すべきことを故意に怠けること。できるだけ楽をしてすまそうとすること。また、そのさま。「横着を決め込む」「横着なやりかた」「横着して連絡しない」
2 わがままで、ずうずうしいこと。ずるいこと。また、そのさま。
(goo辞書より)

 
 私が十代の頃から、四十代、五十代の人々が「歳を取ると横着がきくようになるよ」「あの人、自分の年齢を意識して横着した」といった言葉を耳にすることがあった。歳を取ると、すべきことを故意になまけたり、楽をして済ませることができる……という意味が、当時の私にはいまひとつわからなかった。
 
 ただ、年を追うにつれて、私もなんとなく「歳を取ると横着ができる」の意味がわかってきた、ような気がする。
 
 十代の頃は、とにかく目の前の現実を生きること・生き残ることに精一杯だった。今から思えば些細なことにも一生懸命にこだわって、笑ったり泣いたり怒ったりしていた。思春期のありかたとして、それは自然なことだったのだろう。二十代の頃もそれはあまり変わらない。覚えなければならない仕事はあまりにも多く、コミュニケーション能力をはじめ、社会人として求められるものがあまりにも多かった。とうてい、横着もクソもあったものではなかった。
 
 それが変わり始めたのは三十代になった頃からだ。
 
 二十代の頃は全神経を集中させなければならなかった事柄が、あまり頑張らなくてもこなせるようになった。仕事のなかでもルーティンにあたる部分は、短時間に片付けられるようになった。衣服を買うこと・大人向けの飲食店でそれらしい食事をとること・ラッシュアワーの山手線に乗ること──そういった日常の細々とした行動に際して、頭や身体を使う度合いが少なく感じられるようになった。緊張したり肩ひじ張ったりしないで済むようになった、とも言えるかもしれない。
 
 「歳を取るとは、若さを失うことで、可能性を喪失することだ」と捉える人がいる。
 それはそれで事実の一面なのは否めない。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 だが、実際に三十代になってみると、若さと引き換えに身に付けた経験によって、できることが大幅に増えていた。二十代の頃には100の力が必要だったことを40ぐらいの力で片付けたり、三か月はかかったであろうタスクを一カ月でこなせるようになった。生涯、という尺度でみれば確かに可能性がすり減っているのだろうけれども、二十代の頃と三十代の頃を比べると、一年あたりでこなせることは圧倒的に三十代のほうが多い

 少なくとも私の場合、子育ても、書籍やブログの執筆も、若さと引き換えに手に入れた経験によって成り立っている部分が大きく、到底、若けりゃできるってものだとは思えない。
 
 さらに歳を取り、四十代になると、なるほど、横着の世界が見えてきた気がした。
 
 若かった頃は気付きもしなかったことだけど、四十代の男女は、それぞれに横着のきく側面があるように思う。それは、社会経験による面の皮の厚さのせいかもしれないし、自分よりも年下の人間が相対的に増えていくおかげで経験上のアドバンテージが活きる場面が多くなるからかもしれない。あるいは、進歩的な考えの人には許しがたいことかもしれないが、この国に残る儒教的な年功序列意識の残滓が、若かった頃より有利に働くようになったのかもしれない。
 
 周りの同世代を見ても、そういうのはなんとなく感じられる。
 
 経験を活かし、楽に済ませられることは楽に済ませる。今までの社会経験を踏まえて、手を抜くべきところは手を抜き、面の皮の厚さを活かすべきところではちゃんと面の皮を厚くする。そういう同世代がそれなりいると気付くようになった。もちろん、五十代や六十代も同様だ。良い意味で、彼らは横着することをよく知っている
 
 まだ若かった頃の私には、年上の人々の横着がよく見えていなかった。より大きな責任や立場、子育てと仕事の両立といった、タスクの多いことを引き受けている彼らが、ただただ辛そうに見えてならなかった。だが、それは二十代の頃の私の尺度でみればそうだということで、現在の私からみると「なるほど、経験を活かして、あれもこれもショートカットしまくって生活を成立させているんだな」とみてとれる。
 
 診察室で出会うおじさんおばさん、街ですれ違うおじさんおばさん、飲み屋でたまたまカウンターで出会ったおじさんおばさんの話の端々に、そういった「横着」のノウハウが漂っている。「ああ、この人達も横着のおかげで中年のライフスタイルを維持できているんだなぁ……」と気付く時、私は戦友をみるような頼もしい気持ちになる。
 
 生涯の残り時間は短くなったかもしれないけれども、この人達は経験を活かして、その残り少ない時間を精一杯使って楽しんだり働いたりしているのだろう。二十代や三十代に比べて老いたとはいえ、そうやって横着を重ねながら生き抜く今を、それほど悲観してもいるまい。少なくとも私はそうだ。
 
 

「横着」が「老害」に転じる瞬間

 
 ここまでは横着の良い側面について触れてきた。だが、横着というからには良くない側面もまたあろう。
 
 経験を活かしてといえば聞こえがいいが、経験の差にモノを言わせてと言い直せば聞こえは悪くなる。なにより、その経験が足枷になって視野が狭くなったり、その経験によって年下の人間を無碍にしてしまったりする可能性は常についてまわる。
 
 そこに、社会的地位をかさにきた横柄な態度が加われば、公道を黒塗りの高級車に乗って乱暴に運転するドライバーのごとく、迷惑だが手の付けられない存在と化する。
 
 迷惑だが手の付けられない中年が、自分の経験のおかげで横着できている・そのおかげで今の地位でうまくやっていけていると思い込めば、「老害」まっしぐらだろう
 
 四十代というのは、経験に脂が乗ってきているのに加えて、生物学的加齢がまだまだ進んでいない、比較的バランスのとれた時期だと思う。だからこの時期を俗に「分別盛り」というのもよくわかる。
 
 しかし、もっと年齢が上がってくると、経験は蓄積するけれども生物学的加齢は進んでしまうわけだから、四十代の頃と同じ感覚で横着をやっているとバランスを崩してしまうと想定されるし、事実、そのようにバランスを崩している人を見かけることもある。
 
 「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」というフレーズがあるけれど、これは、出生した人だけが気を付けるフレーズではなく、経験を蓄積して横着することを覚えた中年以降はみんな気を付けたほうがいいものなのだと思う。
 
 二十代の頃の感覚で四十代が生きられないのと同じで、きっと四十代の頃と同じ感覚では六十代は生きられない。同じ感覚で生きたら、「横着」の悪い側面が出やすくなってしまうように予感される。それなら、年上の人々の振る舞いやミステイクを今のうちからよく観察しておいて、同じ轍を踏まないようにしたいと思う。
 
 もちろん、こういう警戒感じたいが加齢によって失われてしまって、「歳を取っている私はただそれだけで配慮・尊敬されるべき存在だ」「今まで苦労してきたんだから好きにやらせろ」と言い始めてしまう可能性も否定できない。加齢が、私の心にそういう風化をもたらす可能性はまったく否定はできないからだ。
 
 それでも、歳を取っているだけで勝手にやって構わなかったのは、せいぜい半世紀以上前の日本まで。いや、半世紀以上前の日本ですらそのような人物は年少者から迷惑がられていたわけで、背筋を伸ばしながら歳を取っていかなければなるまい。
 
 そのことをここに書き残しておき、未来の私自身に言い聞かせておきたい。ちゃんと背筋を伸ばして歳を取っていくんだぞ、と。
 
 

【スプラトゥーン2】サブアカを作ったらサブアカ部屋に隔離された

 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 
 
 もうすぐ発売から一周年を迎える『スプラトゥーン2』。最近、この『スプラトゥーン2』でサブアカウント(略してサブアカ)を作ってみたところ、任天堂の工夫というか、ゲームシステムにびっくりさせられた。
 
 
1.「サブアカ作って無双してやんよ」
 
 私は『スプラトゥーン2』が好きだ。とりわけ好きなのはガチマッチだ。おじさんの私が、たぶん高齢者向きの武器と思われる”もみじシューター”を手にとって、若いプレイヤーに立ち向かうのである。
 
 

 
 
 それでも10カ月の修練はゲーム慣れさせてくれるというか、だいぶいいところまで辿り着けるようになった。『スプラトゥーン2』のランキングの頂点である「X」には届かないものの、そのひとつ下の「S+」には無理なく辿り着ける。酸っぱい臭いのする加齢臭を放ちながら若い衆相手にガチマッチを挑むのは、中年ゲーマー冥利に尽きる。
 
 反面、アカウント全体のランク付けが自分の腕前ギリギリまで上がってしまったせいで、苦手な武器でガチマッチを練習しづらくなってしまった。苦手な武器で、もう少し低ランクのプレイヤーと戦ってみたい。ついでに、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ……「C」ランクや「B」ランクのプレイヤー相手に無双してみたい。
 
 そのための一番手っ取り早い方法は、サブアカを作って一からやり直すことだ。
 
 少なくとも最初のうちは、そのように思っていた。
 
 
2.「このサブアカはおかしい」
 
 サブアカをつくり、さっそく苦手武器の練習でも始めてみるか! と意気込んでガチマッチを始めてみると、どうも様子がおかしい。
 
 一番低いランクとされる「C-」のはずなのに、初心者らしい動きをするプレイヤーが少ししかいない。右往左往している初心者は全体の3割ぐらいで、残りはガチマッチ経験者っぽい動きをしている。
 
 最初の2~3回ぐらいは、その3割くらいの初心者が足を引っ張っているチームが負けるかたちで進行していた。ところが4回目あたりからいよいよ様子がおかしくなった。初心者がいない。どこにもいない。「C-」とは名ばかりの戦場でヒイヒイ言わされるようになってきた。
 
 
 チャージャーという武器は、初心者が正確に狙撃できるものではない。
 ホコを中央に戻すための自殺は、ルールを理解している者ならではの挙動だ。
 N-ZAPの間合いも、ある程度の経験がなければ使いこなせないだろう。
 
 

 
 
 そう、ここには初心者はいないのである。十分に慣れたプレイヤーだけで構成された「C-」の戦場がそこにはあった。ひょっとして、いつも遊んでいる「A+」~「S+」ランクのプレイヤーとほとんど変わらないのではないか。
 
 この時点で、このサブアカに家族も興味を持つようになり、子どもは"スプラローラー"を、嫁さんは"スプラチャージャー"を持ち寄って遊びはじめた。家族の感想も同じだった。「このサブアカは絶対におかしい」。
 
 
3.「本アカウントよりもガチパワーが高いサブアカ」
 
 昔、私が初心者だった頃は、初心者の群れのなかに2~3人の上手いプレイヤーが混じっていて、「うわあ、サブアカが無双してやがるよ」と思わされることがよくあった。ところがこのサブアカの場合、上手いプレイヤーが混じっている……なんてレベルではなく、初心者が全くいない。ひょっとして、『スプラトゥーン2』の内部サーバのほうで「こいつらは熟練プレイヤーのサブアカ」と判定されて、初心者のいない場所に隔離されてしまっているのではないか?
 
 そのような疑問は、やがて現実のものになった。
 
 

 
 
 「C-」ランクから飛び級で「B」になってみると、なんと、ガチパワーが1820と表示されている。
 
 ガチパワーは、『スプラトゥーン2』のプレイヤースキルの目安となる数字で、これに基づいてプレイヤー同士のマッチングが行われている。初心者のガチパワーはだいたい1000~1200ぐらいで、最上級のプレイヤーでは2100以上になるとされている。ちなみに私の本アカウントのガチパワーは、だいたい1650~1800ぐらいなので、サブアカのほうが本アカウントよりもガチパワーが高いことになる。
 
 やっと理解できた。
 
 『スプラトゥーン2』のガチバトルは、「C」「B」「A」「S」「X」という表向きのランキングはそれほど重要ではなく、ガチパワーによる振り分けのほうが重要だったのだ。このゲームは、連勝し続けるとガチパワーがたちまち上がっていく。だから初心者の混じっている戦場で3連勝ほどすると、初心者のいない部屋に隔離されるようになっているわけか。
 
 ときどきネットで耳にした、「上級者がサブアカで初心者相手に無双」なんていうのは、もともと全てのランクで無双できるほどの剛の者か、途中でわざと連敗するかしない限り、まず起こらないものだと知った。
 
 

 
 その後も遊び続けているうちに、ついにガチパワーは1900を越えるようになった。『スプラトゥーン2』は、自分よりも腕前の低い相手の動きが手に取るようにわかるゲームで、自分よりも腕前の高い相手の動きがぜんぜんわからないゲームでもある。で、ここに来て、周りのプレイヤーの動きがさっぱりわからなくなってしまった。数連敗してガチパワーは1800に戻った。その間、きっと味方の足を引っ張っていたと思う。すまない。
 
 
4.想像以上に任天堂はいい仕事をしていた
 
 これまで私は、『スプラトゥーン2』の対戦マッチングには不満を持っていた。やたらと弱いメンバーとチームになるとか、どう考えても「S」クラスや「X」クラスのサブアカとしか思えないプレイヤーに無双されるだとか、そういう経験が何度もあったからだ。
 
 しかし自分でサブアカを作ってみて考えが変わった。
 
 本当は、対戦マッチングのシステムはそれなり機能していた。最初しばらくは無双できるとしても、連勝し、ガチパワーが上がれば初心者のいない部屋に隔離されて、初心者の迷惑になることはなくなる。そうやって経験者のサブアカを初心者から遠ざけて、それぞれのガチパワーごとにふるいわけることによって、そのプレイヤーの実力にみあった対戦が続けられるように設計されていたのだ。
 
 今回のサブアカの件も、「低ランクの相手に苦手武器で練習したい」「格下相手に無双したい」などというやましい欲求がいけなかっただけだと言える。「C」や「B」といったランクのうちに、事実上「A」や「S」に相当するプレイヤーと対戦させてくれるのは、マッチングシステムがよくできているからに他ならない。
 
 この一件で、『スプラトゥーン2』のマッチングシステムについて文句を言うのをやめることにした。もし、マッチングシステムに不満がある人は、サブアカを作ってみるといいかもしれない。マッチングシステムの見え方が変わると思う。
 
 

「ふわっとした仕事をタスクに落とし込む」はゲームで鍛えた

 
今の時代、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」だけで十分食えると思う | Books&Apps
 
 現代人にとって、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」が重要なのは間違いないだろう。ただし、リンク先でしんざきさんが書いているように、
 

この「タスク具体化能力」って、必ずしもテクニカルな側面だけではなくって、もうちょっと根本的なところに能力の淵源があるような気がするんですね。
つまり、「その目的を達成するにはどんな工程が発生するのか」ということを、細かく状況つきで想像、想定する能力。
そして、「どの工程を終えたらどんな状態になるか」ということを導出する論理力。
そういうものが大事であって、これ、たとえ技術的な知識があったとしても、苦手な人はとことん苦手な分野なのかも知れないなあ、と。
少なくとも、色んな人と仕事をしていると、経験や知識とは全く関係なく、こういう「タスク分解」が出来る人は凄く上手に出来るし、出来ない人は全然出来ないんだってことが分かるんですよ。

 こうしたスキルがしっかり身に付いている人もいる反面、それなりの年齢でも全然ダメな人がいるのも事実だ。
 
 精神医療の世界でも、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は重要だ。
 
 たとえば看護師長~看護師長補佐クラスの人材は、精神科看護という、フワフワしまくった仕事を具体的なタスクに落とし込み、看護チーム全体を導くことに長けている。他方で、ひとつひとつの業務はしっかりしているけれども、具体的なタスクに落とし込むのは不得手な看護師もいる。
 
 精神科医にも同じことが言える。社会環境について話し合う必要性が高いケースや、患者さんの病気が典型例から遠いケースなどは、精神科医の仕事はかなりふわっとした感じになる。「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」次第で、治療の道のりも変わるので、こういう部分も腕の見せどころだと私は思う。
 
 幸運なことに、私はこういうスキルには不自由していないほうだと思う。なぜなら、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を、ゲームで鍛えてきたからだ。
 
 

「自分でゴールやタスクを見つけなければならないゲーム」

 
 世の中にはさまざまなゲームがあって、プレイヤーの目指すゴールやタスクが明確なものもある。
 
 たとえば『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』では、ラスボスを倒すことが目標になっている。経験値やお金を稼ぎ、武器や防具を揃えていくという意味では、タスクが共通していてわかりやすい。こうしたゲームをテンプレからはみ出さずに遊ぶぶんには、ゴールやタスクを自分で考えなければならないことはあまり無い*1
 
 反対に、ゴールやタスクが曖昧なゲームもある。
 
 

 
 
 日本でもプレイヤーの多いシミュレーションゲーム『シヴィライゼーション』には、複数の勝利条件があり、プレイヤーは状況を見極めながらゴールを目指すことになる。敵国を滅ぼすのが最適なこともあれば、ロケットを打ち上げて宇宙に脱出するのが最適なこともある。文化振興が近道のこともあれば、国連のリーダーを目指すしかないこともある。スタート時点の地形や資源配置がランダムなこともあって、プレイするたび新しい戦略を考えなければならない。そこがこのゲームの楽しいところでもある。
 
 
ヨーロッパユニバーサリスIII コンプリートパック版 【完全日本語版】

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 もう少しマイナーな『ヨーロッパユニバーサリス』というゲームになると、勝利条件が無い。プレイヤーは、15世紀~19世紀の世界じゅうの国家のどれかを選んで、好きなように遊んで構わない。全盛期のスペインやフランスを選んで世界征服を目指しても構わないし、セイロンや琉球といった小国を選択して「いつ潰されるかわからない小国プレイ」を満喫したって構わない。プレイヤーに採れる選択肢はものすごく多く、初めてプレイする時は自由すぎて戸惑ってしまうかもしれない。
 
 
 『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』をテンプレどおりに遊ぶのに比べると、『シヴィライゼーション』や『ヨーロッパユニバーサリス』は自分でゴールを設定し、そのために必要なタスクを自分で探してこなければならないるゲームだと言える。
  
 ただ私の場合、それら以前にも「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を鍛えさせられるゲーム体験があった。それはゲーセンでのハイスコア争いのことだ。
 
 冒頭で紹介したしんざきさんは、以前、こんな記事も書いている。
 
「人生の息抜きにゲーム」ではなく、「ゲームの息抜きに人生」を送っていた時期の話。 | Books&Apps
 
 しんざきさんは、『ダライアス外伝』の全国一スコアを獲るためにPDCAサイクルをグルグルと回していたという。それに及ばないものの、私も『バトルガレッガ』や『斑鳩』といったゲームでハイスコア目指してPDCAサイクルをグルグル回していた。
 
 「ハイスコアを狙う」という課題はクッキリとしているようにみえて、かなりフワッとしている。敵をたくさん倒せば良い・ボーナスアイテムをたくさん取れば良い、と思ってかかると、別のところにその皺寄せが来る。たとえば後半で武器が足りなくなるとか、ボーナスアイテムがトリガーになって難易度が急上昇するとか、そういったたぐいの皺寄せだ。
 
 私はゲームで身上をつぶしたくなかったので、「現在の自分の腕前で」「学生として留年しない範囲で」という制限のなかでハイスコアに挑んでいた。となると、全国級のプレイヤーの猿真似をするだめでは駄目で、彼らのやっていることを自分向けにデチューンしたり、自分独自のパターンを開発しなければならなかった。
 
 この点では、「ハイスコアを狙う」は、山登りにも似ている。
 
 6000mの山に登るのか。7000mの山に登るのか。8000mの山に登るのか。どの山に、どのルートから挑むのかを事前に考えなければならないし、登山者が経験や体力を考慮しながら登山を決意するのと同じように、ハイスコアラーは自分の技量や手持ち時間を考慮しながら目標スコアを決めなければならない。途中でトラブルがあればタスクを組み直す必要が生じるかもしれないし、ときには「引き返す勇気」が必要になることもあるかもしれない。そうしたことを考えながら、自分だけのPDCAサイクルを回していかなければならない。
 
 

「具体的なタスクに落とし込むスキル」には師匠が必要?

 
 そういう、ハイスコア狙いの世界を私が知ったのは大学生になってからだった。
 
 大学生になって、あちこちのゲーセンに行けるようになった私は、ハイスコアを目指す人々と接点を持つようになり、それまでとは違ったゲームの世界を初めて知った。
 
 

レイフォース

レイフォース

 
 
 当時の行きつけのゲーセンには、私よりも動体視力や反射神経の弱い、Dさんというプレイヤーがいた。
 
 身体能力で勝る私は、いつもDさんより早くゲームの勘所を掴み、ハイスコア争いでも優勢だった。ところが『レイフォース』というシューティングゲームでは、初期こそ圧倒していたものの、すぐに追いつかれ、到底追いつけないほどの大差をつけられた。それがきっかけになって、Dさんと話をするようなった。
 
 Dさんはゲームごとに「攻略ノート」を作っていた。自分が目指すべきスコアを出すためにどんなタスクをこなす必要があるのか・そのための練習方法、などなどがノートに綴られていた。ハイスコアを更新するたび、次の目標と課題をノートにまとめて、そのとおりに練習する──そういったプレイの積み重ねが、Dさんを全国一に迫るハイスコアに導いていた。
 
 Dさんほど几帳面ではないにせよ、ハイスコアラーの世界には似たようなことをしている人がたくさんいた。自分の目標を見定めて、そのために必要なタスクを見積もって、そのための練習を繰り返して、ハイスコアを更新したら次のステップをまた自分で考える。そういう遊び方が当然とみなされ、誰もがゲームと、いや自分自身と戦っていた。
 
 動体視力や反射神経にモノをいわせていた私にとって、彼らの方法は革新的だった。単純なトライアンドエラーを越えた、もっと遠いゴールまで辿り着ける遊び方がここにあると思って、彼らから多くのことを学んだ。Dさんはハイスコアを狙う方法だけでなく、素晴らしいエロゲーも教えてくれる変態紳士だったが、そこはさておき、私のゲーム人生のかなりの部分は彼に依っているし、たぶんだけど、私の仕事人生のかなりの部分も彼に依っている。
 
 このことを振り返るに、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は、漫然とゲームを遊んでいれば身に付くものではないように思う。私にとってのDさんのように、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を実践している人から直接に教わるか、せめて傍にいて眺めるかしなければ、身に付きにくいのかもしれない。
 
 しかし逆に言うと、たとえば子育ての際に、親が「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」を実践しているさまを子どもが眺めたり、教わったりできれば、なにかの足しになるのではないか。その際の教材は、夏休みの自由研究でも構わないし、海辺でのキャンプでも構わないし、『マインクラフト』や『スプラトゥーン2』のようないまどきのゲームでも構わないはずだ。とにかく、そういうチャンスを提供して、一緒にやって、そこに楽しさを見出すことに、意義はないものだろうか。
 
 この、私の推定がどのぐらい的を射ているのかはわからない。けれども、冒頭でしんざきさんが書いているとおり、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」は今後も重要であり続けるはずだ。我が家の場合は、ゲームプレイのノウハウがよその家よりも豊富だから、ゲームを介したかたちで親から子に相伝されても不自然ではないように思う。「人生の大切なことはゲームから学んだ」が二代続くような、そういう親子の付き合いを目指してみたい。
 
 

*1:縛りプレイを始めたり面白プレイを始めたりすると、話は変わってくるが。