シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ひつじ雲を見上げ、今日も明日も生ききろうと思う

 
 

 
 
秋も深まり、高い山では紅葉が始まろうとしている。夕暮れ時のひつじ雲。今年度ももう後半になった。空を見上げながら、人生の残り時間を思う。
 
『山月記』を書いた中島敦は「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」という言葉を残したというが、ひとことで何事をなすと言ってもさまざまだ。仕事で業績をなすこと、子どもを育て養うこと、創作や学術の世界で書籍や詩集や論文をなすこと、芸事やスポーツの世界で活躍すること、等々。今のネットでは過小評価されがちだが、地域や親族に対して何事かをなすことも、私には何事かの範疇と思える。挙げればきりがない。
 
で、人生の後半にさしかかった私があのひつじ雲を見上げる時、ああ、何事につけても時間が足りない、という気持ちを禁じえない。焦燥感にとらわれるほどではないけれど、一日24時間では足りないなとよく思う。
 
朝は早く起きて座学をするかスプラトゥーン3の基礎練習をするか。ソーシャルゲームのログインボーナスも一応取っておく。年をとるにつれて朝には強くなった。そのかわり、楽しい深夜を失ったのだが。朝は気が急かないのもいい。一日は、始まったばかりだ。
 
昼は働く。もちろん仕事は大切だ。仕事は、特に難しいことを考えなくても何事かをなしたことに自動的に導いてくれる。だから職場・企業・組織とはありがたいものだし、そこで仕事を作ってくれる立場にある人の業績は素晴らしいと思う。仕事をとおして私たちは社会になんらかの貢献をなし、なんらかの報酬を得る。とはいえ、現役でいられる期間、今の仕事を今のようになせる時間には限度がある。中年なら誰しも、その限界に一度は思いを馳せたことがあるはずだ。
 
仕事や家のことを済ませ、余裕があれば、貴重な時間を他の何事かに充てられる。私は欲張りなので、余暇は無限に欲しい。学ぶこと・家族と過ごすこと・ブログも含めた書くということ・この世を見てまわること。本当はもっとできたらと思う。午後も10時を回ると、そうしたことが不十分なうちに一日が終わったことを寂しく思う。そこから想像するに、きっと私は人生の終わりを悄然と迎えるのだろう。
 
欲をかきすぎているのかもしれない。しかし人は欲にドライブされるまま生きて、何事かをなして、やがて死んでいく生き物だから、ある程度は諦めながらも前のめりに私は生ききってみたいと。きちきちのスケジュールは私を老化させるだろうが、それは仕方がない。私は人生を行使し、身体に刻まれていく皺を引き受けざるを得ない。
 
 

人生で何度目かの高3の夏休み

 
2022年前半の私は道に迷い、自分のやりたいことがわからなくなっていたが、数か月ぶりにようやく体勢を立て直してきた。そのインターバルを経て再び思い出した──これは有限の時間なのだ。自分の人生から入道雲が消え、ひつじ雲が浮かぶようになっても、その有限の時間のなかで私は何事かをなさなければならない。それは客観的な意味での何事かというより、私自身にとっての何事かだ。とはいえ、私のことだから前者と後者を結びつけようと工夫するだろうけど。
 
思秋期といえども、働く身といえども、これは高校三年生の夏休みにも等しい時間だ。私は、人生には高校三年生の夏休みみたいな時間が何度もあると思う。何度も高校三年生の夏休みを引き寄せるような人生を生きてみたいし、私はそう生きようと願望する。もちろん人生は一度きりだから、人生そのものが高校三年生の夏休みだと比喩してもいいのだと思う。どうあれ私は今日も明日も生ききろうとするしかない。明日のことはわからない。それでも自分にできる何事かに向かって最善を尽くすしかない。
 
高校三年生の夏休みを忘れがたいものにする秘訣は、その入口で決めた目標を達成できるかどうかではなく、目標を意識しながら駆け抜けた時間を真摯なものや真剣なものや没入したものにすることではないかと思う。きっと人生も、今この瞬間も、同じではないだろうか。空が茜色になっても、だんだん日が落ちる時間が早くなっても、そのように日々を過ごしていけたらと思う。
 
 
追記:

ひつじ雲を見上げ、今日も明日も生ききろうと思う - シロクマの屑籠

高3の夏休みが何の比喩だかわからなくて、何度か行きつ戻りつして、「ああ、受験勉強で頑張ることが当然の世界に生きてた人なんだなあ」と思い至った。数百年後の国語教師が注釈をつけるんだろうな。

2022/11/04 09:47
b.hatena.ne.jp
高3の夏休みが何の比喩だかわからなくて、何度か行きつ戻りつして、「ああ、受験勉強で頑張ることが当然の世界に生きてた人なんだなあ」と思い至った。数百年後の国語教師が注釈をつけるんだろうな。

多少は勉強した。でも、それだけじゃない。同級生たちと海に出かけたことも、片思いの相手にそんなにお近づきになれなかったことも、暑い夏だったことも、全部含めての高3の夏休みだった。誰かから見てそれがどう見えたのかは知らない。それでも当時の私にとって高校三年生の夏休みは思い出に残る、人生の軌跡の鮮明な時間だった。そういう風に、高校生三年生の夏休みを一度きりの思い出として思い出す人は今でも多いんじゃないだろうか。そのような前提のもと、この文章は、今という時間だって本当はさほど違わないしやるっきゃないよね、という気持ちのもと書いたものでした。