シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

平成30年間をとおして、私たちは滑らかになった。

 
bunshun.jp
 
 
リンク先の文春オンラインさんで、『博報堂生活総研のキラーデータで語るリアル平成史』所収の、「平成30年間の時代の変化とメンタルヘルス(熊代亨)」を紹介していただいています。たくさんの著者が同じデータベースを見て感じたこと・考えたことがさまざまに列挙された書籍で、平成という時代を、良かった点悪かった点を含めて振り返るにはいい本なんじゃないかなと思ったりしています。
 
で、私もようやく完成した同書を読んで、じゃあ、この本全体から受ける平成年間の印象ってなんだろう? どう言い表せるだろう? と考えたりもしました。
 
自然と頭に浮かんだのは「人と人との摩擦がどんどんなくなり、滑らかになっていったのが平成年間ではなかったか」というフレーズでした。
 
ある面では、人と人とのコミュニケーションは増えています。たとえばSNSやLINEが普及したことで私たちは24時間繋がりっぱなしになった、テレビに加えて動画も観るようになった──そういう風に時代を捉えることもできるでしょう。メルカリやUberをとおして、新しい商取引の輪に入る人が増えた──そう考えることだってできます。
 
でも、そういう増加したコミュニケーションや繋がりって、コミュニケーションではあるけれども全きコミュニケーションではない、いえ、もう少し言葉を選ぶなら「昭和~平成の頃に多かったタイプのコミュニケーションではない」と私には思われるのです。
 
社会全体のコミュニケーションの総量は平成のはじめと令和でそれほど違っていないか、むしろ増えたとしても、最近になって増えたコミュニケーションの多くはSNSやLINE的なものです。多かれ少なかれ文字が介在するような仕組みになっていて、選好やフィルターバブルが利きやすくて、そうでなくてもアカウントのキャラクター性が際立つようなコミュニケーションの割合が増えました。友達付き合いにしてもそうです。私よりずっと下の世代の友達同士ってのは、泥んこまみれの喧嘩をとおして絆を強めるような、そういう関係ではないようにみえます。実際、同書のデータ源となっている博報堂『生活定点』の交際のデータを見ていると、平成年間に人付き合いは着実にめんどくさいものになり、友達とは相談を持ち掛ける対象ではなくなり、友達を家に招くことも少なくなっているようでした。
 
そうやって接点をコントロールし、お互いにコミュニケーティブなキャラクターだけをみせあい、摩擦をできるだけ減らして成り立つ友達同士とは、平成以前の友達同士と比較して、SNSのフォロー/被フォローに近い、互いに踏み込みの浅い関係になりがちであるよう、私にはみえます。もちろんそれは「悪い」ことではなく、むしろ「良い」ことで、今という時代に対するひとつの適応なのでしょうけれども。先日発売された『「人それぞれ」がさみしい」』でも問題提起されていた話ですね。
 

  
それから、金銭的なやりとりも含めた、社会契約のロジックのさらなる浸透。
 
たとえばメルカリやUberが個人間の商取引のバリエーションを増やしたのは確かだとしても、それらが平成以前にありがちだったコミュニケーション、特に摩擦やしがらみがついてまわるコミュニケーションを増大させたとは思えません。むしろ逆ですよね。それらは摩擦やしがらみ抜きでの商取引を推し進めるシステムとして普及したのでした。種々のネット通販についてもそうですし、ショッピングモールなどでの買い物もそうだと言えます。どれも、商取引に要するコミュニケーションを社会契約のロジックへと純化させるシステムとして機能し、私たちを慣れさせてきました。そうしたシステムに依存していれば、義理のために買うことも付き合いのために値引くことも考えなくて構わなくなります。そうこうするうちに、商取引や社会契約のロジックをそれ以外のさまざまな領域に当てはめる人も出てきました。一時期流行った「コスパが良い」というあれもそうですし、「婚活」のコミュニケーションもそうかもしれません。「婚活」とそのためのアプリの普及をもって、恋愛市場主義は、正しく市場化したように私にはみえます。80年代や90年代の恋愛市場は、良くも悪くもまだマーケットとして洗練されていませんでした。
 
そうした社会契約のロジックの優越は、たとえば私の担当したメンタルヘルスの箇所にも当てはまることです:すなわち、平成年間の間に心の悩みを病院に行かずに相談したいと考える人は少なくなり、病院に相談したいと考える人が増えました。と同時に、家族がストレスの源として認知される割合が高まってもいます。
 
家族は、コミュニケーションが滑らかになりきらない最後の牙城であり、社会契約のロジックがまだ完全には浸透しきっていない最後の領域でもあります。他方で社会のコミュニケーション全般がどんどん滑らかになっていっているわけですから、そのぶん、家族にこそ摩擦を感じ、それをストレスと感じる人の割合は増えていくでしょう。家族がストレスに対するバッファとしての役立つとみなすより、ストレスの源として受け止めざるを得ない、そういった状況や感性が台頭しているさまを想像したくもなります。
 
だとしたら、令和より先の世の中は、家庭の解体へと向かうのでしょうか?
 
同書ではまた、苦痛をともなう料理を日本人がだんだん避けるようになっているさまや、嫉妬や怒りを感じる物事を苦痛として退けるさまも記されています。コミュニケーション以外の領域でも、私たちはより摩擦を避けたがり、滑らかなものを求める感性に傾いているのではないでしょうか。
 
ここまでを読んで、「だけどSNSでは分断が進んでいる」「とげとげしい言葉の応酬がある」と述べる人もいるかもしれません。表向き、そう見えるかもしれませんね。でも、SNS上の分断ってコミュニケーションの気配がありません。いや、ないことはないのですが、それは内輪でホカホカするためのコミュニケーションでしかなく、分断の向こう側やとげとげしい言葉の矛先とコミュニケーションして、わかりあおうとする意図など初めから無いのです。
 
私には、あれらもまた、滑らかなコミュニケーションにしか見えません。非常に滑らかなコミュニケーションだと言えるでしょう。
 
SNSのアーキテクチャは、滑らかではないコミュニケーション、苦痛ではないコミュニケーションを私たちに強いるものではありません。だから、ある次元において非常に滑らかなコミュニケーションを提供していると同時に、別の次元において絶対的なディスコミュニケーションを提供しているようにみえます。そして私個人には、それがSNSのアーキテクチャに固有のものというより、平成年間をとおして変わってきた社会の縮図でもあるようにもみえます。
 
  

……で、私は、あなたは滑らかな社会にとって何なのか

 
なお、この「滑らかになっていったコミュニケーションという平成史観」は私個人の所感で、『博報堂生活総研のキラーデータで語るリアル平成史』全体がそういうテーマで書かれているわけではないことは断っておきます。ひとりひとりの筆者は結構違ったことを考えていますし、違ったことをやろうとしています。『生活定点』をとおして世間をまなざす目にもいろいろあるわけで、そのバリエーションを見て楽しむのもいいんじゃないかと思います。
 
でもって私個人の所感に戻って考えると、この本の執筆陣のなかには、滑らかな社会を加速する側、滑らかな社会を賛美する側もあれば、滑らかな社会の減速を望む側、滑らかな社会にレジストする側もいるよう見受けられます。私自身は……本業の精神科医としては滑らかな社会を加速する側に身を置いていて、ブロガーとしての私は滑らかな社会の原則を望む側なのかもしれません。実はここ数年、その自分のなかの分裂に結構悩んできました。私は滑らかな社会の敵なのか味方なのか。いや、そういう二分法は良くないとしても、じゃあ私は、滑らかな社会に対してどんな態度をとりがたがっていて、どんな素描をしてみたいのか。
 
そうこうするうちに、2021年が終わり、2022年が始まりました。
あなたは、この滑らかな社会にとっての何ですか。
私は、この滑らかな社会のなかのどういう分子にみえますか。
 
世間の流れを見るに、そうした「自分は/あいつは 滑らかな社会にとっての何なのか」という視点や立ち位置は、これからますます問われやすく、また、問いかけやすいものになっていくだろうと私は想像しています。そうした近未来を想像するに、私は自分のなかの分裂がますます激しくなり、そのうち破綻してしまうか、どちらかの極端な意見に突っ走ってしまうのでないかと自分のことを心配してしまいます。よろしければ、はてなブックマーク等にコメントを書いてみていただけると嬉しいです。