HGUC 197 機動戦士ガンダム ギャン 1/144スケール 色分け済みプラモデル
- 出版社/メーカー: バンダイ
- 発売日: 2016/05/21
- メディア: おもちゃ&ホビー
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最近、ことあるごとに「戦いはこの一戦で終わるのではない」と呟いている自分に気づく。
もともとは、機動戦士ガンダムでマ・クベ大佐が負け惜しみのように言っていたセリフだが、成功裏に終わった後にもこのセリフは効く。挑戦に成功しても挑戦に失敗しても「戦いはこの一戦で終わるのではない」と呟けば、ぬかることなく次の戦いに向けて準備に入れる。油断せずに身心を整えられる。誰かが歌っていたとおり、人生とは、勝利も敗北もないままの孤独なレースとしての側面を持ち合わせているので、戦いの結果ひとつひとつに拘泥して足を止め続けるのはよろしくない。
ときにはセレブレーションに酔いしれたり、落胆に打ちひしがれたりすることはあっても構わないだろう。しかし、戦いはこの一戦で終わるのではないのだ。必要なだけ祝い、必要なだけ落ち込んだら、次の局面に向けて予備機動を始めなければならない。予備機動にうつるまでの時間は人によって長短あろうが、ともかくも、人それぞれのペースの許す限りにおいて、もう訪れ始めている次の局面を迎えるための体制づくりに励まなければならない。
こうした予備機動にうつるまでの“フットワークの軽さ”が、結果として、その人が人生のなかで起こせる活動総量を左右するのだと思う。だから、人生のなかで起こせるアクションや活動の総量を増やしたいと思う人は、心身が破たんしない範囲で、前に前に動いていくようにしなければならない。喜びや悲しみで手の付けられない時間は、それ自体貴重だが、いつまでも溺れていられるほど人生は長くない。なにせ、戦いはこの一戦で終わるわけではないのだ。
本当は、もっと足踏みしたいのかもしれない
しかし、こんな事を考え、呟くようになったのは、単に、私が焦っているからに過ぎないのかもしれない。
たとえば学生時代の頃の私には、もっと喜びや悲しみに溺れている暇があったし、たぶん、それは良い時間だった。ときどき「学生の頃、もっと○○していれば良かった」などと言う人がいるが、私はそんな事は思わない。逆だ。私にはスローな大学生活がたぶん必要だった。
ところが、人生の砂時計が半分を過ぎたと自覚するようになり、残り時間が惜しくなったから、私は「戦いはこの一戦で終わるのではない」などと呟き、生き急ぐようになってしまった。年齢を考えたら、学生時代よりノンビリとしたペースのほうが心身には良かろうものを、「自分が明晰でいられる残り時間」を気にして、その時間を“有効利用”したいなどと考えるようになってしまった。
本当は、そうした感情生活をもっと時間をかけて噛みしめて生きたい気持ちもある。ただ、それが時間的には贅沢になりつつあるから、駆け足のように次の局面に備えざるを得ない私がここにいる。ある部分で効率的なこうした所作が、別の部分では非効率で貧しい状態を招いているような気は、しないでもない。
私は、時間経過を意識した社会適応を愛してきた。他の人が2年で習得するものも、5年かければ大抵は習得できる――この適応ドクトリンは、時間を味方につけて敵にまわさないようにするには都合の良いものだったと思う。ところが自分の人生の残りタイムが減ってきたことによって、いろいろのんびり構えていられなくもなってきた。戦いはこの一戦で終わるのではない。だが、私が「それでも私はあと十年は戦える!」と言いきれるのはあとどれぐらいか?
ネットアカウントに、勝った負けたを噛みしめる猶予など無い
“フットワークの軽さ”の重要性に話を戻そう。
仕事にしても、趣味にしても、やれ、今回は好評だった、今回は集中砲火を浴びた、などと一喜一憂していてはきりがない。まして、そこに「勝った」「負けた」という視点を持ち出していちいち自分自身に粘着している人は、たいへん無駄なことに神経を遣っている、といわざるを得ない。
ひとつひとつの結果に「買った」「負けた」などと騒ぎ、やたらと足を止めて分析したがるのは、「ミッドウェー海戦で勝てば日本は太平洋戦争に勝っていた」などと分析するのとほとんど同じである。戦術眼はあっても戦略眼は無い。目先の勝ち負けや正否など、大局的な戦略性や継続能力に比べればたいしたものではない。目先の利益に拘泥したところで、その代償が大きければ、どうせ三年も経たずに利益など吹き飛ぶのだから。
だから、望ましい結果を得られた人もそうでなかった人も、自らの内に湧き起こる感情の嵐が一段落したら、いつも呪文のように唱えるべきなのだ、「戦いはこの一線で終わるのではない。」と。