シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私にとって、オタクやキャラクター消費の話は社会の話なんです

 
 

cider_kondoのブックマーク / 2024年1月23日 - はてなブックマーク
シロクマ先生、今ホッテントリってる意地悪婆さん話もそうだけど、こういう本業と社会の変化踏まえた考察の方が(よく書いてる迷走してるオタク論みたいなのより)圧倒的に面白いよな…

 
こんにちは、はてなブックマークユーザーのcider_kondoさん。熊代です。先日のブログ記事に上掲コメントをくださりありがとうございました。これに関して、cider_kondoさん個人に返信したいと思います。
 
 

長く相互認識している人でなければ返信は難しい

 
少しだけ前置きを。
私は現在、ブログ側からはてなブックマークに返信するのは難しい、と感じています。00年代の頃は見知らぬはてなブックマークユーザーに返信するのも気軽で、ブロガーがそうしている様子をしばしば見かけたものです。しかしはてなブックマークを中心としたコミュニティが希薄化し、その後色々な出来事もあったために、ブログ側からはてなブックマークに返信することは少なくなりました。ブロガー同士でもです。
 
でも、cider_kondoさんはしばしば私のブログを読んでくださっているし、タイトルしか読めない人やタイトルすら読めない人からは遠いとも思うので返信してみます。「これは、返信という体裁をとったモノローグだ!」とご指摘されたら、にべもありませんが。
 
 

オタクの話は社会の話と繋がっている。私のなかでは。

 
さて、cider_kondoさんは「よく書いている迷走したオタク論よりも、精神医療と社会の変化についての考察のほうが面白い」と書いてらっしゃいました。
 
私はこれを読み、自分自身の至らなさを思いました。cider_kondoさんがこのように評しておられるならば、事実の一端を示しているのは間違いないでしょう。
 
ひとつ。私がオタクやその周辺について書いたものが面白くないとしたら、至らないですね。私自身にとって面白いこと・私自身が興味を持って眺めていることが、面白いこととしてちゃんとした読者にも伝わっていないのです。それはブロガーとして慚愧のきわみです。
 
ふたつ。私がオタクやその周辺について書いたものが、継続的に読んでくださる方にも迷走してみえるとしたら、至らないですね。私のなかではオタクについて、特にオタクのキャラクター消費については一貫した見方があります。フリーレンの話も、湯水のように消費されるキャラクターの話も、「神様としての初音ミク」の話もベースは同じで、自分では頑なだと思っていました。となると、私はもっと工夫し、努力すべきだと思いました。
 
みっつ。私がオタクやキャラクター消費について書く時、たいていは精神分析と社会の変化といった目線を含んでいるつもりでした。私がオタクについて論じる時、頻繁に脳裏をよぎるのは以下の書籍たちの内容です。
 

 
特に重要なのがH.コフート『自己の修復』ですね。より正確には『自己の分析』『自己の治癒』も含むコフートの自己心理学三部作です。二次元でも三次元でも、遠くのインフルエンサーでも近くの先輩や後輩でも、向社会的な心理的欲求とその充足*1について、私はコフート三部作に基づいて考えています。これを下部構造として、ポスト構造主義的ないろいろが乗っかってあれこれを考えているわけです*2
 
フロイトやその弟子筋の自我心理学の述べてきた事々と比較して、コフートが創始した自己心理学・およびそのナルシシズム論は、核家族化が進行し一人世帯が増えた社会によくフィットしていると私は考えています。自己心理学は、統合失調症や双極症など明確な精神疾患を紐解くものではありません。コフートは自己愛パーソナリティ(障害)からスタートして、やがて、20世紀後半以降のありふれた個人のありふれた心理的欲求とその充足を取り扱えるナルシシズム論へと転向しました。大筋として彼は、ナルシシズムの否定でなく、ナルシシズムのメカニズムとナルシシズムの成長可能性について記しています。
  
リースマン『孤独な群衆』でいえば、フロイト時代に相当する「内部志向型人間」の次である「他人志向型人間」の心理的欲求とその充足にしっくり来るのがコフート(とその自己心理学)、といえばイメージが伝わるでしょうか。
 
そしてコフートの理論立ては、心理的欲求とその充足に際して、友達や師匠や恋人といった他者が実際にどうであるかよりも、その人自身にとってどのように体験されているのかを重視しています。ナルシシズムをみたしてくれる対象を「自己対象」と呼び、ナルシシズムがみたされた体験を「自己対象体験」とわざわざ呼ぶのもその反映です。自己対象の論立ては人間だけでなく、「萌え」や「推し」の対象であるキャラクターにも適用できます*3。私が「萌え」や「推し」について語っている時は、必ずといって良いほど背景にはコフートの論立てがあり、その人自身にとってキャラクターがどのように体験されているか、ひいてはどのような心理的欲求のニーズに基づいて、どのように欲求充足が行われているのか(または欲求充足がうまくいかなかったのか)を念頭に置いてしゃべっています。
 
ただし私は、そのコフートと自己心理学も絶対的なものでなく、相対的なものだとみなしています。たとえば、さきほど挙げた『孤独な群衆』でいう「内部志向型人間」の時代にはコフート三部作はあまり有効ではなく、フロイトのほうがしっくり来るのではないでしょうか。狩猟採集社会にもコフート三部作は不向きでしょう。
 
私は精神分析諸派がわりと好きですが、ひとつの精神分析モデルを絶対視するより、時代や社会によって相対化され得るモデルとみるのが好きです。そうしたわけで、私がコフートに基づいて「萌え」や「推し」について考える際にも「でも、これって核家族化や一人世帯化の進んだ社会の話ですよね?」というリミテーションをいつもくっつけています。そういうリミテーションの話も本当はもっとしたいですが、まだできていません。その話は21世紀後半の社会状況に見合った精神分析モデルがどんなものなのか、考えることにも通じているでしょう。
 
ですから、私の視界のなかでは、精神分析のいずれかに依拠して何かを語ることは社会や時代を語ることと常時接続しています。オタクや、オタクの嗜好するキャラクターたちについて語るのも、社会を語ることの一端です。『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門有希萌えについて考えるのも、『バカとテストと召喚獣』の秀吉について考えるのも、その一端でした。が、cider_kondoさんにはそれが伝わっていない。他の読者ならいざ知らず、継続的に読んでくださるcider_kondoさんに。これはcider_kondoさんの問題でなくブロガーとしての私の問題でしょう。今更何かを変えようと思っても手遅れかもしれませんが、微力を尽くしたいと思いました。
 
 

自分に見えている世界を、愚直に書いていくしかない

 
私に限らずですが、ブログや書籍が複数名の目に触れる時、賛否があるのは当然です。最も成功した記事や論説やレビューでさえ、2割ぐらいは否定的なコメントがつくでしょう。
 
そのことを踏まえて、何を題材に・どのように書くか? スタンスやポリシーは書き手によってさまざまです。なるべく否定的なコメントがつかないよう書こうとする人もいれば、なるべくアテンションをかき集められるように書く人もいるでしょう。 
 
私の場合は、自分が見えている世界を愚直に書いていくしかないと思っています。
 

 
2月21日にハヤカワ新書としてリリースされる(と予想される)『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』は、私が望遠レンズで世界をみた場合の話をしていて、望遠距離は、ホモ・サピエンス以前から22世紀ぐらいを想定しています(まだ書影も出ていないので、あまり細かいことは今は書けません)。
  
他方、1月20日にリリースされた『「推し」で心はみたされる?』は、もっと手前のレンズで世界をみた話です。時代は20世紀末~2020年代に限られ、「推し」を出発点として現代人の社会適応と心理的充足のトレンドに話が向かっていく本です。『人間はどこまで家畜か』ほどのスケール感はありませんが、これはこれで私が見た世界・私が見ている世界に違いありません。
 
冒頭で引用したcider_kondoさんのコメントは、読みようによっては「オタクのことなんて書いてないで本業と社会の変化について書いたほうが良いよ」というサジェスチョンにもみえます。が、ここまでお読みになればわかるとおり、私は自分が見た世界・見ている世界を愚直に書いていくしかありません。そして私はアニメやゲームが好きであると同時に、アニメやゲームが好きな人々の動向にも関心があるので、そちらも見つめ続け、書き続けるでしょう。
 
私のなかでは現代のキャラクター消費と現代のコミュニケーションの様態は近しく感じられていて、とりもなおさず、それは現代の心理的充足やナルシシズムの様態とも結びついたものです。アニメやゲームのキャラクター消費や市場淘汰のありさまは、(ある程度までは市場規模の拡大による生産者と消費者の多様化による影響などで説明できるとしても)、ある程度からは現代人のキャラクター観、ひいては人間観やコミュニケーション観と繋がりのある現象だと思います。それはそれで、私にとって追いかけ甲斐のある世界の姿、娑婆世界の様相なんです。
 
id:cider_kondo さんへの返信と称しながら、けっきょく「私はこんな風に世界をみていて面白がっています」の話に落着してしまいました。ああ、私ってこんなやつなんだな、とも思いました。反省はあまりしません。ブロガーって多かれ少なかれこういう生き物だったはずですから。cider_kondoさんからご評価いただける文章も、迷走しているとご指摘いただきそうな文章も、これからも真っすぐ書き続けていこうと思います。ではまた、インターネットの片隅にて。
 
 

*1:や、そこについてまわるトラブルや防衛機制

*2:それはそれとして、私は個別のゲームやアニメについて感想を書いていることがあります。が、それらがどう映るのかはここでは問いません

*3:自己対象という語彙も、人間に絞っていないことを念頭に置いた語彙ですね

黄金頭さんへ(ベンゾジアゼピン系薬物についての返信)

 
こんにちは、黄金頭さん。熊代です。
今日はいくらか精神科医っぽいスタンスで返信させていただけたら思います。
1月17日のbooks&appsの寄稿記事、興味深く拝読しました。
 

 
物心ついた頃から社交不安症に当てはまっていそうだったこと、それがベンゾジアゼピン系抗不安薬によって改善したこと等について、黄金頭さんらしい文体で綴られていると感じました。また、後半では最近のベンゾジアゼピン系薬剤への警鐘がいったい何なのか・実際には処方されているのではないか、といった疑問も綴られていました。以前にお書きになっていた「結局、ベンゾジアゼピンって長期的に飲んでいいの?」を念頭に置きながら、私の考えていることを返信してみます。
 
 

現代の学会や精神医学のガイドラインはベンゾジアゼピンの長期投与に否定的

 
 
はじめに、ベンゾジアゼピン系抗不安薬の使用について、標準的な治療ガイドラインが何を言っているか確認してみましょう。手許にあるモーズレイ処方ガイドラインは13版。ですが、14版でも大きくは違わないはずです。
 

 
ベンゾジアゼピン系薬剤は、急性の不安症状を速やかに改善する。あらゆるガイドラインやコンセンサス文書では、症状が重度で機能障害が生じており、苦痛が極めて強い不安に限ってベンゾジアゼピンを使用することを推奨している。身体依存性や離脱症状の可能性があるので、これらの薬剤は中期的/長期的な治療戦略を実行するまでの間、可能な限り短期間で(最長4週間)、最小有効用量のみ使用すべきである。多くの患者では、ベンゾジアゼピンの使用を最小限にすることが賢明であり、これは遵守すべきである。不安症状による機能障害が強いごく一部の患者ではベンゾジアゼピンの長期投与が有効であり、ベンゾジアゼピン治療を否定すべきではない。しかし、ベンゾジアゼピンは不安やうつ病に対して、より適切な治療の代わりに、長期的に過剰に処方される傾向があることが知られている。 『モーズレイ処方ガイドライン 第13版 日本語版』P312-319

ベンゾジアゼピン系の薬剤は不安をすみやかに改善する。でも、身体依存や離脱症状の可能性がある。なるべく早めにやめましょう、とあります。社交不安症の場合も、ベンゾジアゼピン系の薬剤は治療の初期段階や頓服としては今でも重要ですが、利用可能な脳内セロトニンを増やしてくれる抗うつ薬の一種・SSRIなどによる治療が普及し、その必要性は下がっていきます。ただし、SSRIが効果を発揮するには二週間以上かかるため、それまでの間に合わせ的として速効性のあるベンゾジアゼピン系の薬剤を処方するドクターは、割といるようには思います。
 
モーズレイ処方ガイドラインよりマイナーですが、社交不安症の日本神経精神薬理学会のガイドラインを見ても、第一選択の薬にはベンゾジアゼピンはなくSSRI、それからノルアドレナリン系に働きかけるSNRIという薬がおすすめされています。
 
ではなぜ、不安をすみやかに改善してくれるベンゾジアゼピン系の薬剤は「ずっと・いくらでも処方してかまわないとはみなされてない」のでしょう?
 
上掲のガイドラインには、身体依存や離脱症状といった言葉も並んでいます。実際、ベンゾジアゼピン系薬物を日常的に飲んでいる人がいきなりやめると、俗にいう「禁断症状」、かなり辛い症状がやってきます。たとえば不安・緊張・発汗・動悸・不眠・抑うつなどが出現するのはよくあることです。大量かつ長期に飲んでいた人の場合、せん妄*1やけいれん発作を起こしてしまうことさえあり、そうした患者さんは精神科医にとってそれほど珍しくありません。
 
これらは気合や根性でどうにかできるものではなく、ベンゾジアゼピンの連続使用によって身体がそのようになってしまった、と考えるべきものです。普段はそれでもいいかもしれませんが、災害で薬をなくしてしまった場合や見知らぬ土地で交通事故に遭って緊急入院した場合、これが大変な厄介事を招くことがあります。
 
ベンゾジアゼピン系薬物でもうひとつ挙げられがちなのが健忘。「記憶が飛ぶ」ってやつですね。用法・用量をオーバーした服薬やアルコールとの併用では「記憶が飛ぶ」が可能性がかなりあります。それどころか、一部のベンゾジアゼピン系睡眠薬とその類似薬*2では通常の用量で記憶が飛んでしまうことさえ、たまにあります。私は、記憶が飛んでしまうのは大変な問題だと思うので、こうした懸念のあるベンゾジアゼピン系睡眠薬とその系列を処方する時には「記憶が飛ぶリスク」について説明しますし、服薬後、そうしたトラブルが起こらなかったか質問もします。アルコールと一緒の場合や高齢の場合はとりわけリスキーだと念も押すでしょう。記憶が飛んでいる時間帯に何かあったら、それは身体的にも社会的にも大きな問題です。
 
もうひとつ、メジャーな副作用として気にかけておきたいのが「眠気」や「注意力の低下」です。ベンゾジアゼピン系の睡眠薬が存在しているぐらいですから、基本、ベンゾジアゼピン系薬物は眠気や注意力の低下をもたらしがちで、抗不安薬も例外ではありません。そもそも不安をやわらげリラックスする方向に作用する薬なわけですから、何かに集中するのに向いているはずがありません。ベンゾジアゼピン系薬剤をたくさん飲んだ状態で自動車を運転をしたらどうなるでしょう?
 
当然、交通事故のリスクが高まります。ベンゾジアゼピン系薬剤の添付文書にはその危険性が明記されています。その一方で、地方の精神科病院やメンタルクリニックには、自動車を運転して来院するベンゾジアゼピン系薬物の処方されている患者さんもいます。現実にはまかり通っていることではありますが、これって本当はよろしくないことではないでしょうか。
 
実地では、どうしてもベンゾジアゼピン系の薬を飲まなければならないドライバーの患者さんにはリスクをよく説明し、運転に注意するよう心掛けてもらうようにしています。加えて、薬剤を減らす努力*3・代替する努力を促さなければならないでしょう。そして就寝前にベンゾジアゼピン系睡眠薬を内服した後などは、必ず運転を控えていただくこと。睡眠やリラックスの効果をあてこんで、夕食後~就寝前にベンゾジアゼピン系薬剤が集中的に配置されている患者さんはたくさんいらっしゃいます。そういう患者さんには、服薬後の運転はとりわけ危険で、朝の眠たい時間もまだまだ危険であることを必ず打ち合わせておきます。そうしたおかげか、私の臨床人生ではベンゾジアゼピン系薬物を飲んでいて大事故を起こした患者さんはまだいません。でも、「駐車場で車のバンパーをこすってしまった」ぐらいの小事故が起こるリスクはかなり現実的だと思っています。
 
厄介なことに、ベンゾジアゼピン系薬物を飲んでいるうちに耐性ができてしまうこともあります。俗っぽく言えば「だんだん効き目がなくなってきた」感じでしょうか。はじめは一日1㎎で十分だった効果が、飲み続けているうちに2mgでも足りないよう感じられる……といったことがベンゾジアゼピン系薬剤では起こりがちです。効き目を追求してどんどん用量が増えてしまうと、ここまで述べてきた問題点やリスクもどんどん高まります。「効果が足りないからもっと用量を増やしてほしい」という患者さんの言葉に対してイエスマンになるのは危険です。
 
それから、私個人としてはベンゾジアゼピン系薬剤がもたらす弊害として「衝動にブレーキをかけづらくなる」を挙げたいと思います。
 
ベンゾジアゼピン系薬剤をたくさん飲んでいる患者さんって、こらえ性がなくなったり、怒りっぽくなったり、包丁を持ち出したりするリスクが高くなるよう見受けられるんですよ。
 
ベンゾジアゼピン系薬剤が今よりずっと遠慮なく処方されていた20年以上前は、OD(過量服薬)やリストカットがとても多かったよう記憶しています。ボーダーラインパーソナリティ症などが今よりずっと多く診断されていた時代でもありますね。で、そのODなりリストカットなりを繰り返していた患者さんのなかには、ベンゾジアゼピン系薬剤をたくさん処方され、そのベンゾジアゼピン系薬剤を繰り返しODしたり、ベンゾジアゼピン系薬物の影響下で自傷行為をしたりしていた患者さんをよく見かけたんですよ。
 
これは現在も同じで、ODやリストカットを繰り返す患者さんのおくすり手帳がベンゾジアゼピン系薬剤だらけだった、というパターンはまだまだ見かけます。もともと衝動コントロールがあまり良くない病態の患者さんに、その傾向を助長するかもしれないベンゾジアゼピン系の薬物をどっさり処方するのは避けたいものです。繰り返しODやリストカットをしている来歴があるなら、尚更でしょう。
 
でもって、そうした患者さんの場合、ベンゾジアゼピン系薬物を飲みつつ、アルコールを併用していることも珍しくありません。アルコールとベンゾジアゼピン系薬物の併用は、記憶をより飛びやすくし、より衝動的な行動に走らせやすくもします。また、転んで怪我をしたり、失禁したりするリスクも高くなるでしょう。
 
衝動コントロールの悪い患者さんを見かけた時、どこまでその人自身の病理性に由来しているのか、どこから薬剤やアルコールに誘発されたものなのか、精神科医なら意識しておくところでしょう*4。そしてもともと衝動コントロールが良くない患者さんに新規にベンゾジアゼピン系薬剤を処方せざるを得ない時には、「我慢がきかなくなったり、怒りっぽくなったりするようなら、この薬はやめなければなりません」的な説明をしておくのが筋だと私は思います。
 
それからベンゾジアゼピン系睡眠薬を飲んだ後、「つい空腹になって我慢できず食べてしまう→体重が増えてしまう」も結構いらっしゃいます。健忘も合併した結果、「朝になったら冷蔵庫の中身がなくなっていた」「台所に食べ物を食べ荒らした跡があった」的なエピソードを聞くことも。つい食欲が増進してしまうのは他の向精神薬にもあることですし、体重増加のリスクで有名な薬は他にもありますが、衝動にブレーキがかけづらい点からいって、ベンゾジアゼピン系薬物も体重増加のダークホースとみておきたいです。
 
 

なぜ、長く内服している患者さんがいるのか

 
こんな具合に、少なくとも私はベンゾジアゼピン系薬物の副作用を警戒していますし、ガイドラインが長期投与を控えるように述べていることにも納得しています。ところが実際にはベンゾジアゼピン系薬物を長く飲んでらっしゃる患者さんも結構いたりします。
 
色んなパターンが想定されそうです。
 
ひとつには、こうしたガイドラインを知らないドクターや、ベンゾジアゼピン系薬物の副作用を軽視しているドクターがどしどし処方している場合。先日、あるはてなブックマークで「ベンゾジアゼピン系抗不安薬は内科医が出してくれる」と書いてあったとおり、こうしたガイドラインを他科の先生があまり知らない可能性はあるかもしれません。また、一部のメンタルクリニックにはベンゾジアゼピン系を処方することにもっと積極的なドクターや、患者さんからリクエストされたら用量めいっぱいまで処方するドクターが存在する……かもしれません。
 
もうひとつは、過去に処方されてそのままになっている患者さん。ベンゾジアゼピン系薬物の長期処方への風当たりがいよいよ強くなってきたのは21世紀に入ってからです。が、過去においてはその限りではなく、ベンゾジアゼピン系薬物が「安全で」「処方しやすく」「いろいろな病状に効果的な薬」「メインの薬を補佐させる薬」としてドシドシ処方されていた時代もありました。それこそ統合失調症、双極症、不安症、パーソナリティ症、など、病気を選ばずだったよう記憶しています。その頃から処方されている患者さんのベンゾジアゼピン系薬物を減らすのはなまなかではありません。さきほど書いたように、なにしろベンゾジアゼピン系薬物は「身体依存や離脱症状」や「耐性」の問題があるのです。長く飲み慣れたベンゾジアゼピン系薬物を患者さんに減らすようお願いするのは、そうした問題に向き合い、ときにはしんどい時期を経験するようお願いすることです。なかには減量に耐えられない患者さんや、減量すると病状への悪影響が心配される患者さんもいらっしゃいます。前医の前医の前医の前医の前医が処方したベンゾジアゼピン系薬物を、数十年経ってもまだ飲んでいる──そんな患者さんのベンゾジアゼピン系薬物に手を付けるのは、私だって怖いです。もし、手を付けるとしたら数年単位で・ゆっくりと試みるしかないでしょう。
 
もうひとつは、ベンゾジアゼピン系薬物が効果的だけど、ほかの薬が無効か、なんらかの理由で内服できない患者さん(黄金頭さん自身は、これに該当していそうです)。はじめのほうで紹介したモーズレイ処方ガイドラインにも「不安症状による機能障害が強いごく一部の患者ではベンゾジアゼピンの長期投与が有効であり、ベンゾジアゼピン治療を否定すべきではない」とあります。ガイドラインはガイドラインでしかありません。ベンゾジアゼピン系薬物がどうしても必要な患者さん、リスクとベネフィットを比較して処方せざるを得ない患者さんだってもちろんいます。こういう話は、「ベンゾジアゼピン系薬物は良い/悪い」といった単純な二項対立におさまる性格のものではありません。
 
もうひとつは生存バイアス。
はじめのほうに書いたように、ベンゾジアゼピン系薬物にはいろいろな副作用や弊害があり得ます。とはいえ、すべての人に副作用や弊害が甚だしく出るわけではありません。仕事や運転にも支障ない、記憶が飛ぶわけでもない、こらえ性がなくなるでもない、ドシドシ増量を要求するわけでもない、そんな患者さんだっているわけです。少なくとも現時点では、処方されているベンゾジアゼピン系薬物をアルコールと一緒に飲んでも記憶が飛ばない人さえいるでしょう。
 
でも、ベンゾジアゼピン系薬物を飲む人の全員がそうだってわけではありません。処方する側としては、「この患者さんはなんにも副作用や弊害が出ないに違いない」と楽観的に処方するのでなく、「この患者さんにだって副作用や弊害が出る可能性がある」と警戒しながら処方しなければならないのです。処方する側の仕事は、ただ処方箋を発行することでなく、その処方が患者さんにどんなリスクをもたらすのかを知らせたうえで相談し、実際にリスクの芽が出てきたらできるだけ早い段階で避ける、または、リスクの芽が出てこないように済ませることだと思います。ですから、何割かの患者さんが平然と・長期的に・目立った弊害なくベンゾジアゼピン系薬物を使えているとしても、これからうつ病や不安症を治療しはじめる患者さんには、そうしたリスクをなるべく負わせたくありません。この観点からみると、ベンゾジアゼピン系薬物よりSSRIやSNRI(といった新世代の抗うつ薬)はだいぶ良いように思われますし、ガイドラインの指針もそれを反映しています。いい薬が出てきたものです。旧来の抗うつ薬は、それはそれで別種の副作用が多くて使いにくかったですから。
 
ベンゾジアゼピン系薬物を長く飲み続けて何も問題が生じていない(ように感じている)患者さんは、そうした副作用や弊害が出なかったか非常に少なくて済んだ、いわばラッキーだった人たちなんだと私なら考えます。そうでない患者さんはベンゾジアゼピン系薬物に由来するトラブルが起こっていたり、健忘や離脱症状といった問題が顕在化してひどい目に遭っているかもしれません。最悪、「何度目かのODのつもり」だった過量服薬が命取りになってしまう患者さんだっていらっしゃるでしょう*5
 
ここでいうラッキーな患者さんも数のうえでは少なくないかもしれません。
だとしても、結構な割合の患者さんで無視できない問題が生じるなら、それはやっぱり問題です。副作用や弊害が起こらない患者さんがいるからといって、どの患者さんにも副作用や弊害が起こらないと思うべきじゃないし、ベンゾジアゼピン系薬物には弊害がないと思うべきでもないでしょう。(これは、他のいろいろな処方薬にも言えることではあります)
 
これら全部の結果として、ベンゾジアゼピン系薬物を処方され続ける患者さんが一定程度いらっしゃり、と同時に業界的には安易な処方が戒められ、ガイドラインでも推奨されていない現状があるのだと思います。*6
 
 

ベンゾジアゼピン系薬物の長期内服には「時間切れ」があるかもしれない

 
ガイドラインでは推奨されていないけれども実際には結構処方されていて、処方され続けている患者さんも珍しくないベンゾジアゼピン系薬物。では、とりあえず副作用や弊害が表面化しなかった患者さんなら、ずっと飲み続けて構わないでしょうか。
 
私は、そうとも限らない、と考えています。なぜなら加齢という要素によって、薬が患者さんに与える影響が変わってくるからです。
 
さきほど、ベンゾジアゼピン系薬物が健忘を起こしたり注意力を落としたりすると書きました。こうした認知機能にマイナスに働くタイプの副作用は、若いうちは比較的表面化しにくいものです。肝臓や腎臓の代謝機能も含め、まだ元気なうちの身体は薬物の効果を得やすく、弊害をかわしやすいと言えます。
 
ところが70代、80代になってくると話が変わってきます。今までは同じぐらいの量のベンゾジアゼピン系薬物で無病息災だった患者さんが、健忘や認知機能の低下、さらにふらつきや転倒といった身体上の問題までもが顕在化し、最悪、せん妄を起こして入院になったりすることがありえるのです。
 
加齢は、薬のリスクとベネフィットを変えていきます。肝疾患や腎疾患、脳そのものの疾患なども同様です。ある時期までは健康の守り神のように感じられたベンゾジアゼピン系薬物が、ある時期から認知機能や身体機能にマイナスに働き始めることがままあります。そのさまは、さながら薬の短所に身体が耐えきれなくなっているかのようです。
 
なら、どうすればいいか? 年を取りきってしまわないうちにベンゾジアゼピン系薬物を減量、あわよくば中止することです。加齢にあわせてベンゾジアゼピン系薬物を漸減・中止できればこうした時間制限をかわせるでしょう。
 
精神科の外来も、再診は長くおしゃべりしていられない現状ではありますが、それでも、患者さんが年を取っていくなかでベンゾジアゼピン系薬物をいつかは減らしたほうが良い話や、現時点で(ベンゾジアゼピン系薬物に限らずですが)副作用や弊害が表面化していないかは、折に触れて交わすべき話題だと私は思います。診療面接のたびに毎回そういう話題をしなさいというのでなく、時々でもいいんです。でも、「ぜんぜん話題にしない・チェックしない」はあってはならないはずです。
 
もちろん、年を取っていくなかでもベンゾジアゼピン系薬物を減らしきれない患者さんはいます。でも処方する側もまったく無力ではありません。そうした患者さんにおいても、副作用や弊害の出現の気配をみてとる余地はありますし、もし将来、加齢に負けて現在の服薬内容では立ちいかなくなった時にどんな事が起こるのか、あらかじめ知っておいていただくことはできます。覚悟しておいていただくことだってできるかもしれません。
 
生活や再発防止のためにベンゾジアゼピン系薬物をどうしてもたくさん飲まなければならない患者さんは一定数存在します。でも、ここまで書いてきたようにそれはリスクを背負った処方で、そのリスクは加齢とともに表面化しやすくなっていくでしょう。そうしたリスクの大きな処方をする際には、処方する側も処方される側も「これはリスクが高いってことになっている処方だよ」とわかったうえでやるべきで、わかったうえで副作用や弊害が表面化してくる可能性について日頃から備えておきたいところです。
 
「日頃から備えておく」の内容のなかには、そうした副作用や弊害について話題にしやすい間柄も含めた、コンテキストができあがっていることが望ましいと言えます。そうしたコンテキストがあるなら、処方する側も患者さんを信頼しやすいですし、まずいことになり始めている時にも気づきやすいでしょう。長く付き合っていてツーカーの患者さんには処方できても、ある日都内のメンタルクリニックから三行だけの診療情報提供書を携えて「ベンゾジアゼピン系薬物をおくすり手帳のとおりに出してください」という患者さんに処方しにくい、とも言えるかもしれません。
 
 

おわりに

 
ベンゾジアゼピン系薬物は不安や不眠に対してダイレクトかつ速やかに効くので、不安症や不眠症に限らず、うつ病や双極症や統合失調症の患者さんにもしばしば処方されます。特に不眠については、レンボレキサント(デエビゴ)のように明確に効果のある非-ベンゾジアゼピン系薬物が出てきているとはいえ、まだまだ出番が残っているでしょう。とはいえ、ここに書いたような問題を含んでいるのがベンゾジアゼピン系薬物であり、実際、通院をやめる最終段階になって、最後に残ったベンゾジアゼピン系薬物をやめるのに長い時間と苦痛を要してしまう患者さんも少なくありません。そのうえ、せん妄、けいれん、健忘、集中力の低下をはじめとする認知機能の低下といったリスクがあり、特に高齢者では身体機能にまで影を落とすわけですから、かつては安全といわれていたベンゾジアゼピン系薬物も野放図に用いれば危なっかしいのです。
 
こうして書き出してみると、やっぱりベンゾジアゼピン系薬物は向精神薬取締法の対象であるのがお似合いで、医師が処方し、その医師による継続的なモニタリングが必要な薬物だと思います。「薬と毒は紙一重」とも言いますが、ベンゾジアゼピン系薬物も例外ではありません。すでに長く内服して慣れている人も、どうか気を付けて。そして主治医との診療面接がある前提でお飲みになって欲しいと思います。
 
 
*結構読まれているみたいなので宣伝。「デパスやマイスリーの処方が減らない本当の理由」という有料記事を過去に書きました。ベンゾジアゼピンがどしどし処方される背景について、個人的な思いをいろいろ書いています。ご興味ある方は、どうぞ。
新著『「推し」で心はみたされる?』が好評発売中です! 大阪・梅田阿佐ヶ谷で発売記念なトークライブにだしていただく予定です。
 
 

*1:実質的には意識障害ですね。危険だと思っておいてください

*2:ここでは、たとえばゾルピデムのようなZドラッグを類似薬として想定しています

*3:さきほど書いたとおり、これは離脱や依存の問題と多かれ少なかれ向き合わなければならないものです

*4:もちろん、周辺環境からの影響、人間関係、発達特性などもですが

*5:OD、とりわけ最近の向精神薬のODは比較的安全性の高い薬から構成されていることが多いと思われます。気分安定薬が処方されておらず、比較的新しい薬からなる処方の場合は特にそうです。でも、ODの際にまとめ飲みされる薬が向精神薬だけとは限りませんし、「ここでODをしたら命が本当に危なくなる」状況でODが行われる可能性もあるので、ODを軽んじる、少なくともODなんて危なくないと考えすぎるのは危険だと思います

*6:念のため断っておきますが、ここに書いている話はベンゾジアゼピンの漫然とした処方に関する話が中心で、統合失調症や双極症の最も激しい症状の最中にベンゾジアゼピン系薬物がどうであるか、またはけいれん発作やアルコール離脱せん妄の治療に際してどうであるのかは、また別の話です。

「後藤ひとりと喜多郁代はよくできたナルシスト」って説明した時の話

 
 
昔、ある編集者さんと「いいね」や「推し」について喋っていた時に、「『いいね』も『推し』も有害なんじゃないですか?」といった質問をいただいたことがありました。
 
「そんなことはありません。有害になってしまう人もいるけど、ほとんど無害な人もいるし、有益になっている人もいますよ」と私は答えました。なるほど、『いいね』や承認欲求のために迷惑なことをする人もいるし、金銭的・社会的に破綻するような推し活しかできない人もいます。でも、そんな人は少数派でしかなく、世の中にはそれらを飛躍の原動力にしている人だっています。
 
このことを編集者さんにわかりやすく説明をしなければなりません。そのとき、私の脳裏に『ぼっち・ざ・ろっく!』の結束バンドの四人組、なかでも後藤ひとり(通称・ぼっちちゃん)と喜多郁代(通称・喜多ちゃん)が脳裏に浮かびました。
 

 
この編集者さんも『ぼっち・ざ・ろっく!』が好きだったことを踏まえて、私は説明しはじめました。
以下の文章は、そのときの説明を文章化したものです。
 
 

1.『いいね』と承認欲求と後藤ひとり

 
『ぼっち・ざ・ろっく!』の主なメンバー、結束バンドの4人って全員が特徴的で魅力的ですが、"承認欲求モンスター"といえば、ぼっちちゃんこと、後藤ひとり。人目を気にして怖がりな一面と勝負どころで生き生きと演奏する一面を持ち合わせ、ときどき自分が壇上でスポットライトを浴びている空想や妄想に耽るぼっちちゃんって、案外ナルシストだと思いませんか。その本当はナルシストな彼女が承認欲求をみたしたがるのは、つじつまの合った話ですよね。
 
ただ、ナルシストとしてのぼっちちゃんって、実はすごくないですか。
 

 
ぼっちちゃんは、喜多ちゃんをはじめとする他の結束バンドメンバーからも、きくり姐さんからも、ライブに来ているお客さんや動画視聴者からも、承認欲求をみたしてもらっています。その結果、ナルシシズムだってみたされているでしょう。人間にびくびくしているところがある反面、肝心なところでは自分に集まる視線や期待や承認をプラクティスや演奏の力に転化する才能があるんですよね。その結果、↓
 

 
↑こんな風なわけですよ。こういう時のぼっちちゃん、ひたすら格好いいですよね。
これは、誰にでもできることではありません。ぼっちちゃんは、承認欲求を自分自身の力に変える才能や素養のある人として描かれているって思います。スターダムを駆け上っていけるタイプではないでしょうか。彼女は空想癖がひどくて「いいねくれー」な承認欲求モンスターですが、その承認欲求を自分の力に変えるという点でもモンスターだと言えそうです。
 
 

2.推しと星座になれたら──喜多郁代のナルシシズム

 
ぼっちちゃんに限らず、結束バンドのメンバーには多かれ少なかれナルシストな一面があって、例えば山田リョウの挙動にもナルシストみが感じられます。お茶の水のギター屋さんでの挙動とか、そんな感じですよね(でも、それがいい!)。
 
ところでナルシストが必ず承認欲求にがつがつしているとは限りません。 not 承認欲求なナルシストの成功例っぽい人が結束バンドにはいます。それは、喜多ちゃんこと喜多郁代さんです。
 
喜多ちゃんみたいな社交的で運動もできてポジティブな人は、比較的承認欲求がみたされやすいでしょう。でも、喜多ちゃん自身は承認欲求モンスターとしては描かれていません。明るく振る舞う努力はしていますが、「『いいね』くれー!」みたいな雰囲気からは遠い感じがします。
 
でも、喜多ちゃんにもナルシシズムに関係のあるモチベーション源があるんですよね。それは承認欲求よりも所属欲求、そして「推し」です。
 

 
喜多ちゃんは山田リョウに憧れて結束バンドに参加し、ぼっちちゃんをお師匠としてリスペクトしながらギターを練習しました。喜多ちゃんは自分が褒められたり評価されたりすることに慣れてはいるけれども、そちらが行動原理になっている一面は作中ではあまり目立たず、自分のことを凡人だと認識していました。そのかわり、山田リョウやぼっちちゃんへの憧れやリスペクト、それと"結束バンドという星座"への所属が喜多ちゃんをモチベートし、練習を促し、上達させていました。
 
ナルシストやナルシシズムというと、つい、自分が褒められること・承認欲求をみたすことを連想するかもしれません。ですが、フロイト以来発展してきたナルシシズム論にもとづいて考えるなら、それだけじゃないんです。誰かに憧れること・誰かをリスペクトすること・誰かを応援し続けることもナルシシズムの一部だったりします。所属欲求をみたす体験や「推し」を応援する体験もナルシシズムをみたしてくれるんです。なんなら、親が子を思う気持ちにすらナルシシズムが含まれていると言えます*1
 
そうした目線で喜多ちゃんを見ると、彼女は山田リョウやぼっちちゃんに憧れやリスペクトの目を向けたり、結束バンドの一員だったりすることでナルシシズムをみたしています。でも、それだけではありません。ぼっちちゃんが承認欲求をプラクティスや演奏力に変換できているのと同じように、喜多ちゃんは、山田推しやぼっちちゃん推しをプラクティスや演奏力に変換できています。ぼっちちゃんのスター的な才能とはちょっと違いますが、これはこれで凄いことだと思います。喜多ちゃんタイプの人は、「推し」を推すことをとおして努力したり技能習得できたりできるのです。これはこれで立派な才能や素養だと思います。
 
 

「推し」も「いいね」もナルシシズムも、それ自体が悪いわけじゃない

 
こんな風に、ぼっちちゃんと喜多ちゃんがそれぞれ、承認欲求/所属欲求を、ひいてはナルシシズムをみたしながら成長し活躍できている様子を編集者さんに説明しました。世の中には「いいね」や「推し」で人生や生活を破綻させてしまう人がいて、そのあたりがたびたび批判されています。それとは対照的に、ぼっちちゃんや喜多ちゃんは心理的充足が破綻をまねくのでなく、それらのおかげで活躍できています。彼女たちのような素養を持った人は現実にもたくさんいて、いろいろな方面で活躍しているものです。
 
ですから「推し」や「いいね」やナルシシズムそのものを悪とみるのはちょっと違う、と私は思うのです。それらを欲しがる・充たしたがることで自己満足以下の災厄をもたらしてしまう人もいれば、自己満足以上の豊かな実りをもたらす人もいるわけですから、心理的充足についてまわる巧拙こそが問題、と考えたほうが実地に合っているのです。
 
そうしたことを編集者さんにお話ししたのがきっかけで『「推し」で心はみたされる?』という本ができあがりました。
 

 
「推し」で心はみたされるか?──たとえば、出会ったこともない遠くのインフルエンサーを推したり、際限なくお金をせがむホストを推したりしても、刹那的な自己満足以上のものは得られにくいでしょう。なかには、「推し」を推しているうちに気持ちが制御不能になり、逆恨みしてしまう人さえいます。なるほど、「推し」が自己満足以下の災厄を招いてしまう危険は確かにあると言えます。
 
でもそれだけではありません。喜多ちゃんにとっての山田リョウやぼっちちゃんのような、身近な「推し」を推す活動が首尾よくいくと、自己満足以上の実りをもたらします。喜多ちゃんのようにうまく「推せる」人と、自己満足以下の災厄を招いてしまう人をわける分水嶺はどこにあるのでしょうか?
 
同じことが「いいね」や承認欲求についても言えます。確かにぼっちちゃんは「いいね」くれーな人ですが、彼女にはそれを飛躍の原動力にする才能や素養があります。ぼっちちゃんのように「いいね」や承認欲求を飛躍の原動力にできる人と、自己満足以下の災厄を招いてしまう人をわける分水嶺はどこにあるのでしょうか?
 
そして、ぼっちちゃんや喜多ちゃんのように心理的充足がスキルの習得や実力の発揮に直結するためには、いったい何が必要なのでしょう?
  
人間は、「いいね」や「推し」を求めるようにできていて、ナルシシズムとも無縁ではいられません。それらを否定したってしようがありません。私は、それらを無理に否定するよりうまく生かしたい・うまく生かせるようになっていきたいと考える人間の一人です。ぼっちちゃんと喜多ちゃんを見ていると、「いいね」や「推し」を味方につけられる人の可能性ってこういう感じだよね、と思わずにいられません。あの二人、ひいては結束バンドのメンバーにあやかりたいものですね。
 
※『「推し」で心はみたされる?』のご予約・ご購入はこちらへ→「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド
※大阪のトークライブハウスで『「推し」で心はみたされる?』関連のおしゃべりをします。ご興味のある方はどうぞ→ https://lateral-osaka.com/schedule/2024-02-04-10937/
※東京・阿佐ヶ谷のロフトでもおしゃべりします。ご興味のある方はどうぞ→ https://t.livepocket.jp/e/jvv67
 

*1:ここまでで察せられるかとは思いますが、私はナルシシズム=悪い とも、ナルシスト=悪い ともみなしていません

ちょっと昔の精神医療思い出話4(有料記事)

 
こちらの続きです。
 
前回、精神科の診断トレンドと社会の移り変わりについて書き過ぎてしまったので、今回は思い出話に寄せています。私の停滞期であり、ゲームも停滞、精神科医としての研鑽も停滞、人生も停滞、といった時期がありました。あまり長くないテキストですし、ごく個人的な内容なのでサブスクしている常連さん以外にはお勧めしません。
 

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大阪・梅田のラテラルさんにてトークライブに出演します

 
lateral-osaka.com
 
このたび私は、大阪・梅田のラテラルさんにて、『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』刊行記念イベントを兼ねるかたちで"──なぜ、多くの人が「推し」にハマるのか?"をお題に据えたトークライブに出していただくこととなりました。
 
「推し」や「推し活」が2020年代の私たちの心理的充足のトレンドとどのように関連しているのか、ひいては、「推し」を上手に推せるのか否かが私たちの社会適応や人間関係に何を及ぼすのか、等々について会場にいらっしゃった方とざっくばらんにおしゃべりしたいと願っています。いまどきは、そういう風に意見交換できる場所がインターネット上、特にopenなインターネット上にはあんまりないですからね。
 
もちろん「推し」や「推し活」については、「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンドに出来る限りまとめたつもりです。でも、本には双方向性がありません。表情を共有したり雰囲気を共有したりすることもできません。同書に登場するコフートという精神科医は、そうしたことについて以下のようなことを言っていました。
 

 コフートは自己愛パーソナリティの治療に際して対面式のカウンセリングを重視しましたし、その際、治療者と患者さんとの間で起こる沈黙の間やジェスチャーといったものも大事だよねと述べています。そのとおりだと思いますが、書籍をとおしてコフートのエッセンスを伝える際に、沈黙の間やジェスチャーを読者のかたと共有することはできません。
──『「推し」で心はみたされる?』より

コフートが想定したような対面式カウンセリングに限らず、顔と顔、表情と表情がやりとりできる場所や時間ってのは独特ですよね。そこでは言葉だけでなく、表情、雰囲気、沈黙すらやりとりに含まれます。トークライブハウスでも同じでしょう。言葉だけでなく、他の色々なものがやりとりに含まれるのは(トークに限らず)ライブの面白いところ、やめられないところだと思います。
 
 
今回の会場は大阪・梅田となりますので、関西方面のかた、もしご関心あるようでしたらいらしてください(一応オンライン配信もあるらしいですが、ハコの良さはハコのなかにいればこそ、だと思います)。コロナ禍もあり、こうしたチャンスから長らく遠ざかっていたので、とても楽しみにしております。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
 
【こちらをご参照ください】https://lateral-osaka.com/schedule/2024-02-04-10937/