シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ゲームで高まるエモーションのかけがえなさ──スプラトゥーン3と思秋期

 

 
9月9日、待ちに待った『スプラトゥーン3』がリリースされて、家族総出でプレイしている。ファミ通によれば、発売から三日間で345万本が売れたのだという。しかも国内に限った数だから怖ろしい。
 
そんなスプラトゥーン3について、はてな匿名ダイアリーでは以下のような投稿がプチバズっていた。
 
旦那のスプラトゥーン3のデータを消した
 
細かいところに粗があるといえばあるが、妊婦である妻の視点で語られているおかげで理解しやすい筋になっている、と私は読んで思った。
 
この場合、家族の大きな負担になっているのだから、夫はスプラトゥーン3のプレイをとおして家庭内に公害を引き起こしているようなものだ。大音量や振動もたいがいだが、エモーショナルな言葉がグサグサ聞こえてくるのもそれはそれで大変だ。家庭内でコンフリクトになるほどなら、なんらか、害をなくす工夫が必要だろう。
 
対戦ゲームをプレイしていて負けると (ときには勝つと) ディスプレイを前に激しい感情をあらわす人、プレイ中に言葉遣いが荒くなる人がいるのはわかる。私だって対戦ゲームをやっている時は多かれ少なかれ言葉遣いが荒っぽくなるし、家族の誰かがプレイ中、一緒にゲームについてしゃべっている時も、勝っていてすら語彙が荒っぽくなる。そういえばゲーム界隈のスラングにも2022年の基準からみて荒っぽいもの・けしからんものがあったし、20世紀のゲームセンターでも、ミスったプレイヤーがゲーム筐体をバンバン叩いたり、より甚だしい場合には蹴ったりしていた*1。で、当時のゲームセンターはそういった振る舞いがぜんぜんあり得る空間で、それはUFOキャッチャーやプリクラが流行った90年代になっても完全には変わりきらなかった。
 
では、そうしたゲームの世界にありがちな荒さがどこにどれだけ持ち込まれて構わないのか?
 
最近、eスポーツ選手の言動やゲーム実況で用いられるスラングが荒々しい……というより暴言が含まれていると批判されることが増えた。90年代、いや80年代の暗いゲームセンターの世界なら、荒々しいスラングや暴言も見て見ぬふりをされるのかもしれないが、2020年代の、全世界配信されるインターネットメディア上で許されるものとは思えない。
 
後で書くように、私はゲームをやっていて興奮してエモーションがたかぶること自体は否定したくないし、許容可能な場所や仲間内では、荒ぶる言動が飛び交ってもいいのだと思いたい人間のひとりだ。ゲームがただの暇つぶしならともかく、ゲーム体験をとおして大事なエモーションを受け取ったり、ゲーム体験に大事な何かが賭けられていたりする限りにおいて、エモーションが揺れるのは当然だし、多少なりともそれが言動にあらわれてしかるべきだろう。
 
といえ、そのエモーションの揺れ動きや言動が社会が許さないものだったとしたら、問題アリ、ということになる。別にそれは(コンピュータ)ゲームに限ったことではなく、スポーツファンが暴徒と化したとしてもそうだろう。
 
よって、ゲームをやるならルールを守って行儀良く。誰にも迷惑をかけるな、危害原理を破るな、害になりそうな振る舞いをするな、ということになる。あるいは自分自身に害が及ぶようなゲームプレイ、たとえば課金をし過ぎるだとか、ゲームで学業や仕事の生産性に影響が出るだとか、そういったことも厳につつしむよう啓蒙しなければならないのだろう。そしてこれらの要件から逸脱したゲームプレイヤーは、逸脱者として、なんとなれば精神疾患として、治療されなければならない──。
 
これは、精神医療がテリトリーを広げているという以上に、社会から治療を要請されているのだろう。
ゲームに際してのエモーションや言動に限らずだが、現代社会においては、個人のエモーションや言動は一定の枠内におさまっていなければならず、枠内におさまることで予測可能な個人、いつも生産的で健康な個人が保たれなければならない。
 
と同時に、技術や法治や制度が個人の感情生活や言動をマネジメントすることを可能にし、マネジメントされなければならない布置をつくりあげたってことでもあるだろう。だから現代社会で模範的な社会適応をやっていくなら、そうしたマネジメントに耐えうるエモーションや言動を維持できなければならない。たとえ、スプラトゥーン3が発売されたばかりであってもだ。
 
 

自分が落ち着いたのか。それともエモーションが禿げてしまったのか。

 
そうした、ゲームとゲームプレイヤーに対する社会からの要請をおぼえておいたうえで、これから私とスプラトゥーン3の場合について書きたい。
 
スプラトゥーン3は、案の定、めちゃくちゃ楽しい。
負けるとひたすら悔しいが、勝っても負けても炎のような時間を過ごさせてくれるゲームだ。私はこのゲームジャンルが主戦場ではないから、スプラトゥーン3にそこまでアイデンティティを賭けて挑んでいるわけではないけれど、それでも、勝利とファインプレーにこだわる瞬間にはエモーションの賭け金が上がっていく。
 
ところが前作『スプラトゥーン2』の時に比べると、負けても感情が落ち込まない。9月12日には信じられないほど大敗を喫したのだけど、私の言動はそこまで大揺れしなかった。それはなぜなんだろうか。
 
前作は販売500万本超え、『スプラトゥーン3』は敗者のメンタルケアまでを徹底した対戦ゲーム | DIAMOND SIGNAL
 
上掲リンク先記事によれば、スプラトゥーン3は、敗者のメンタルケアがよく考えられたゲームなのだという。そうかもしれない。実際、前作のガチバトルの、ぼっきり折れたような負け演出はとても似合っていた半面、グサリと刺さるものがあった。そういう、似合っているけれどもグサリと刺さる演出を、より無害に漂白した演出に置き換えていく改変は、いかにもゲームアーキテクチャによるプレイヤー管理、それも、とにかく安全・安心な方向への管理という、優良企業コンテンツじみた雰囲気がぷんぷんして嬉しいような憎らしいような気持ちになるが、ともかく私自身もそうした管理下に置かれ、前作より憤慨しにくくなっているとは思う。
 
でも、本当にそれだけだろうか?
 
私の子どもを見てみると、案外、ちゃんと憤慨していたりする。
 
負けがこめばイライラが出てくるし、勝てば調子に乗る。ゲーム体験とエモーションや言動がバッチリリンクしている。当然、ときには荒っぽい言葉が出ることもある。子どもを礼儀作法の無菌室で育てるのが最適解だと思っている人々の目線で想像すれば、スプラトゥーン3を巡る我が家の状況は好ましいものではないと思う。
 
しかし、そうやってスプラトゥーンの勝ち負けにむきになっている子どもの姿を見ていると、なんというか、これはこれで貴重な瞬間に見えるし、ひょっとしたら、ゲーム愛好家としての私が失いかけているものではないか、と思えたりもする。
 
何かを経験し、エモーションが揺れ動くことは、そんなにいけないことだろうか。
感情生活の起伏は、悪いものでしかないのだろうか。
 
こちらの記事の中盤に書いたけれども、中世においては、感情の起伏の大きさが人間に求められ、感情の起伏が少ない者が修道院に入らなければならなかった=社会からの逸脱とみなされていた。それから何世紀も経つなかで、社会から期待される感情の起伏の大きさは、小さいほうへ・なだらかなほうへと変化し続けてきた。今日では、感情の起伏が大きいことのほうが社会からの逸脱とみなされやすい。くだんの、ゲームで感情的になりすぎる夫もそうした逸脱者のひとりと(これからの社会では)みなされる一人だろう。
 
しかしゲームは遊戯だ。
単なる暇つぶしではなく、真剣に取り組んでいる人の多い、そういう遊戯のはずである。
ゲームの勝敗はしばしば冷静さによって決まる。しかし必ず冷静さによって決まるわけでなく、瞬間瞬間においてはエモーションによっても導かれ、ことの進行に沿ってエモーションも動いていく。言動だって動くだろう。
 
そうしたことも含めてのゲーム体験、ゲームとのお付き合いではなかったかと私は自分の子どもを見ていて思う。これから大人になっていくにつれて、たとえばゲームで感情的になりすぎる夫のような存在にならないよう、私は注意をうながさなければならない。と思うと同時に、ゲームで悔し涙を流すこと、ゲームで負けて転げまわること、イカを立て続けに4キルして勝ち誇ること、その折々の瞬間をかけがえのないもののように感じる。
 
もちろん節制は必要で、私たちは社会的存在だから、社会の求めにあわせてエモーションと言動をフィルタリングしなければならない。その方法を子どもと一緒に学んでいくのも親のつとめではあるし、ゲームもまた、そうした技法を学んでいく題材のひとつではある。
 
しかし、ゲームをとおして、いやゲームに限らず遊戯やカルチャーと呼ばるものをとおして強いエモーションや言動が現れ出ること自体、貴重な体験であるはずだし、少なからぬゲーム愛好家はしばしばその貴重な体験を期待してゲームを購入する。あるいは、ゲームこそ、自分にとってそうしたエモーションや言動が現れる場所、自分がそれらをあらわにできる場所だと感じている*2
 
子どもがスプラトゥーン3のプレイに一喜一憂しているしているさまを見ていると、「大人になってもこれじゃ大変だな、正さないと」という思いと「今、本当にゲームの渦中にいて、本当にゲームを体験しているな、守らないと」という思いが相半ばする。
 
と同時に、スプラトゥーン3に大揺れしなくなった自分自身を省みて、「落ち着いて遊べている。いまどきのゲームプレイヤーのあるべき姿だ」という思いと「ゲームの渦中にとどまる力が弱くなって、エモーションが禿げてしまっている」という思いが相半ばする。大人になったといえば聞こえはいい。が、これは思秋期の兆候ではないか? そして現代社会にどれほどアジャストしているようにみえても、私は自分のエモーションを小さく折り畳んでしまっているのではないだろうか。
 
2018年から2019年にかけて、私はのめり込むようにソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』のガチャを回していた。あれも、いまどきの社会では褒められない、大変にエモーショナルな体験だった。だけど、今にして思えばあれは記念碑的な経験で、当時の私のゲーム体験に、ひいては2018~19年の人生にかけがえないアンダーラインをひいてくれた。スプラトゥーン2もそうだったし、90年代にゲーセンで遊んだゲームたちもそうだった。ゲーム愛好家なら、そういう人生にかけがえのないアンダーラインをひいてくれたゲームを複数挙げられるに違いない。社会がしのごの言おうとも、そのエモーショナルな体験それ自体は、やっぱり貴重な財産であるはずだ。
 
どこまで現代社会で許容されるのか/されないのかの線引きはいつも難しい。そしてゲーム症(ゲーム障害)に該当するような、尋常ならざる状態に陥る人がいるのもまた事実。それでも私は、ゲーム体験をとおしてエモーションや言動が揺れること、それそのものは貴重に思う。そして大人になったのか老いたのかわからない理由で揺れの振幅が小さくなってしまっている自分自身を、寂しく思う。
 
 

*1:ゲーム筐体のほうも、それはそれで頑丈だったが

*2:ゲームに限らず、自分にとってエモーションや言動が現れる場所が単一であることは、依存や嗜癖、耽溺など、コントロールの難しい状態に陥りやすいとは、よく事情を知っている人がしばしば指摘するところではある。だから、単一じゃないようにしなさいよ、依存や嗜癖、耽溺を避けなさいよ、という「アドバイス」も世の中には溢れている。そうだろう。そうでしょうとも。しかしだね……いや、これ自体とても長い話になるから今日はやめよう。

アブラゼミ 蟻がたかって 砂を積み

 

 
今年は八月の中旬ごろからだろうか、真っ青な空や雄大な入道雲を見かけなくなり、秋雨前線と見まがうような低い灰色の雲が垂れ込めるようになった。久しぶりに晴れたかと思ったら、早くもオレンジ色に染まった羊雲が並んでいる。なにが小さい秋見つけただ、ふざけんな、もうしばらく夏を楽しませてくれよ、と思う。
 
道を歩いていても、否応なしに夏の終わりが目に留まる。今年はセミの当たり年だったのか、とりわけたくさんのセミの声を聴き、住宅地の電信柱や鎧戸にまで張り付いているのを見かけたが、そのぶんセミの死骸に出くわすことも多いと感じる。せめて、その短い晴れ舞台が生殖の喜びに満ちたものであって欲しいと願う。ふとジジジッと断末魔のような声を聞いてそちらを見やると、弱ったオスのセミをスズメが突いていて、やがて、くわえてどこかへ行ってしまった。自然界にはいつも元気な生き物しかいない。なぜなら元気のなくなったものは食べられてしまうか分解されてしまうからだ。
 
そうしたなか、先日、いつも通るアスファルトの路上でアブラゼミの死骸を見かけた。
その死骸は新鮮だったのか、無数の蟻がたかっていた。蟻はなんでも食べるけれども、この場合、蟻は生態系でいう分解者の役割を担っているわけか。蝉の死骸が無数の蟻におおわれているさまを見た私は、私は世の無常を思うと同時に、夏の終わりって残酷だなどと思ったりしていた。
 
ところが翌日、同じ場所を通ってみて驚いた。アブラゼミが「埋葬」されていたのである。
 
正確には、アブラゼミの死骸を覆うように、砂利のような、砂のようなパラパラしたものが積み上げられていた。だいたい円錐形のそれは、まるで賽の河原に積まれた石のようにも見えた。
 
よもや、蟻が砂利や砂をよそから運んできたわけではあるまい。そのパラパラしたものはセミを分解する際に生じた破片か何かなのだろう。それにしても、セミが蟻に分解されると、こんなにストレートに土に還るとは知らなかった。そして蟻が分解したセミを覆い隠すようにそれを積み上げるとも知らなかった。夏がこんなに好きで四十余年を生きてきたのに、まだまだ新しい発見があるものだ。
 
日本人になぞらえると、石を積むという行為には、供養する意味合いや、何かを封じる意味合いがあるようにみえる。だから日本人である私には、それがセミを食すると同時に弔う、蟻の菩提心の発露のように見えた。蟻の行動に菩提心だの供養だのを見出すのは私の勝手ではあるのだけど、そんな私からみた蟻は、まるで死んだアブラゼミを餌にしつつも浄土に向かわせる送り手のようにもみえた。実際、生態系における分解者とは送り手にほかならない。
 
この、アブラゼミの弔いを見知って以来、近くの路上や公園にも同じような円錐形の、ぱらぱらしたものがあることに気が付いた。それらもセミのかたちをとどめていないか、かろうじて羽の残骸が埋もれているだけで、以前だったらセミの亡骸とは気づきもしなかっただろう。この街ではこんなにセミが死んでいて、こんなに蟻がそれを葬り、弔っていたのだ。それとも今年がセミの当たり年だからことさらにそれが目につくだけなのだろうか?
 
これまで私は、セミは盛者必衰のことわりを象徴する昆虫だと思い込んでいたのだけれど、少なくとも最後まで生き残り、路上で息絶えた者はこのように蟻が弔ってくれるのだとしたら、なにごとも苛烈な娑婆世界にあって随分と情け深いことだな、などと私は思った。もちろんこれは私の宗教観、死生観に基づいたものの見方でしかない。いやしかし、夏は終わってしまい、盛者の季節は、必衰の季節に移り変わろうとしている。
 
 

ウマ娘プリティーダービーにハマった。以来ずっと養分をやっている。

 
 
 
ウマ娘プリティーダービーにハマった。
以来ずっと養分をやっている。
 
 

 
 
2021年から2022年にかけてあなたがハマったゲームは何? と聴かれたら、私は『ウマ娘プリティーダービー』と答えなければならない。ここでいうハマったとは、「熱中した」という意味だけでなく、「ぬかるみに落ちた」「やられた」という意味を含んだものだ。
 
ウマ娘プリティーダービーは現在、1.5thアニバーサリーなるものをやっているから、足かけ一年半、私はこのゲームに付き合っていたことになる。それは、ひたすら「養分」をやる時間、養分としてのソーシャルゲームプレイだった。
 
以前にも書いたが、はじめ私は、ウマ娘のガチャの仕組み、完凸というフィーチャーがよくわかっておらず、後手に回ってしまった。他のプレイヤーと競争する要素のあるゲームで後手に回るとは、すなわち養分になった、ということにほかならない。リソース整備の面でも知識・経験の面でも大きく出遅れてしまった。
 
でもって、よせばいいのに、ウマ娘のかわいさに魅了されるまま、この遅れをどうにかしようと頑張ってしまった。
 
無理のない範囲で課金を続けて、完凸という仕組みに合わせてリソースの整備をこつこつと進めてきた。重課金ではないから、ジュエルを積み上げてリソースを整備するには時間がかかる。何十日も時間をかけて、その間、他のプレイヤーとのレースで負け続けながらリソースを整備していった。ジュエル購入のお金を積んだという意味で養分だった以上に、可処分時間を献上し、他のプレイヤーを喜ばせるやられ役を続けたという意味でも、まさに私は養分だった。私はウマ娘たちのこやしになったのだ。
 
 

 
 
けれどもその甲斐あって、2022年の夏、ようやくリソースが整ってきた。戦局をひっくり返すことになったのは、この「玉座」というサポートカードだ。2022年の夏の段階では、このサポートカードを持っていることが決定的優位のように思われた。「玉座」という”人権”カードがある限り、自分は食われる側から食う側へ、養分から捕食者へと変わるはずだ!
 
 

 
 
実際、その直後のプレイヤー同士のレース、「レオ杯」では初めて他のプレイヤーをさんざんに打ち破った。お、おれの育てたウマ娘がAリーグで優勝したぞ! 脳汁が出た。手がぷるぷると震えた。これで勝つると思った。
 
ところが8月のお盆明けに再び環境が変わり、"人権"カードとしての「玉座」はわずか一か月半の寿命を終えて、「便座」と呼ばれるようになった。インターネットの都大路に流れる、玉座、便座、玉座、便座といった言葉に私の心は千々に乱れた。短い栄光の時間は終わった。今は心を入れ替えて、ウマ娘たちのために、それと重課金プレイヤーや利口なプレイヤーのために再び養分をやるという決意を新たにしている。
 
 

「かわいいから、推しだから養分をやる」というマインドと資本主義の摂理

 
こうして私は、かわいいウマ娘たちのために、それと自分のソーシャルゲーム音痴のために、ウマ娘プリティーダービーでもっぱら養分をやっている。こうした、レースに勝てない状況に自覚的に養分をやるというゲーム体験は初めてで、『FGO』の時も『アズールレーン』の時も意識していなかった。これは、ウマ娘プリティーダービーがレースを中心につくられているからだろう。でもってそれなり悔しい。
 
じゃあ、いったいなぜ私は、レース場をジュエルで敷き詰める養分の一匹をわざわざ続けているのだろう?
 
それは単純に、キャラクターの魅力のためだと思う。
ウマ娘のデザイン、特にゲーム版のデザインは私の好みのストライクゾーンを撃ち抜いている。ライブ映像などは、どれだけ眺めていても飽きない。3Dみがちょっと残っているので、苦手な人には苦手なデザインだろうけれども、私の場合、この適度に残った3Dみがかえって良くて、見た目だけでいえば、自分史上、いちばん好みだと思う。
 
そのウマ娘が走って、笑って、駆け抜けるのが見たくて今もウマ娘プリティーダービーにかじりついている。本来それは、ゲーム愛好家・アニメ愛好家のありかたとして好ましいものだったはずだ。
 


 
けれども上掲ツイートで言われているように、「好きなキャラクターを推す」という感情や活動は、とっくの昔に資本主義のロジックに組み込まれている。たとえばウマ娘プリティーダービーも、それを作ったサイゲームズにしてみれば成功した集金スキームってことになるのだろう。そのような集金スキームがなければ、あの綺麗なライブ映像も誕生しなかったのかもしれない。
 
いやしかし、一歩身を引いて考えると、私はその集金スキームが生んだ集金装置に群がった蛾の一匹でしかなく、正しく資本主義の養分をやっていると考えざるを得ない。
 
人生は短く、なすべきことは多い。
 
二十代の頃なら「これも人生の彩り」などと言ってしまえただろうが、中年のみぎり、こうしてディスプレイの向こう側のかしましさに囚われて本当に良かったのか、考え込まずにはいられなくなる。今のところ、このハマったぬかるみから抜け出す目途は立っていない。
 
 

『リコリコ』のかわいさ・気味悪さ、それからいまどきの搾取

(※この文章は『リコリス・リコイル』のネタバレを含んでいるので読みたくない人は回れ右をしてください)
 
 
anond.hatelabo.jp
 
はてな匿名ダイアリーに、アニメ『リコリス・リコイル』(以下、『リコリコ』)の気味悪さを指摘する文章が書かれていた。気持ち悪い・鼻につく、等々と書かれているので批判的な言及として受け取っていいのだろう。
 
でも私は、ここで批判的に書かれているところが嫌いになれない。その鼻につく成分が、都合良くデフォルメされた『リコリコ』の世界に添えられたリアリスティックな薬味になっていると感じられるからだ。
 
 

「大人による無自覚な搾取構造」というリアリティ

 
上掲のはてな匿名ダイアリーでは、

前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。

と記されている。
 
この気味悪さには共感をおぼえるし、リコリスの犠牲や献身のもと、平然と・無自覚に成り立っている穏やかな社会を気味悪く思った視聴者は(程度の差はあれ)多いんじゃないだろうか。
 
じゃあ、それが作品の面白さを毀損するかといったら……私の場合、面白さを毀損するというより、面白さにアクセントを与えていると感じる。ゆるふわ百合ガンアクション作品に付け足された一種のスパイス、薬味のたぐいで、それが効いているとも感じる。
 
私にとって、この『リコリコ』の薬味の加減がめちゃくちゃ好みで、一話を観たとたん、すっかりやられてしまった。もっと薬味がきついほうがいいという人もいれば、薬味なんて入れずにもっと砂糖マシマシにしろ、ゆるふわ百合アクションに徹しろって期待する人もいるだろう。人それぞれの好き好きがあるのだから、それは仕方ない。私は自分好みの味付けの作品がここまで作り込まれている幸運に感謝して、最後まで視聴するのみだ。
 
無自覚な大人たちによる、若者たちの搾取と犠牲、その描写。
それが戦場ではなく穏やかで秩序ある社会で、人知れず起こっているということ。
リコリスたちが搾取されるべく育てられ、実際搾取されてバタバタ死んでいるこの世界観って、今の日本社会の直喩にはなっていないけれども、暗喩としてはいい塩梅のように私にはみえる。
 
上掲リンク先の引用文に『エヴァンゲリオン』の名前が挙がっていたので、それでいうなら。
1990年代中頃、『新世紀エヴァンゲリオン』の作中では碇シンジたちが繰り返しテストを強要され、エヴァに乗せられ、無茶苦茶な戦いに投入されていくさまが描かれた。それが『エヴァンゲリオン』という作品のメインテーマだったとは思えない。が、それを見た視聴者の少なくない人間が、エヴァに乗せられる碇シンジたちを自分ごとのように感じ、感情移入した。
 
同じように、リコリスリコイルを2020年代の日本社会の暗喩として眺めるとしたら。
まだ明かされない部分が多いけれども、『リコリコ』の世界は秩序が行き届いている。刑事さんが千束を見て「ああいう子が安心して暮らせるなら、誰が何を隠蔽していたっていいだろう」と言うぐらいには穏やかで好もしい社会であるらしい。と同時に刑事さんすら知らないように、『リコリコ』の世界は誰も知らないところで献身し搾取され犠牲になっている若者たちによって成り立っていて、それらは省みられることがない。
 
DA本部のディストピアっぽい描写も相まって、この、無自覚・無感覚な構図じたい、なにやら巨大な搾取構造を示唆してやまないし、視聴者がそう感じるよう、『リコリコ』はつくられているようにみえる。ヒロインたちのかわいらしさや楽しいガンアクションの背景として、この作品の制作陣は、若者をすりつぶして無自覚に成り立っている安全・安心社会をみせておきたいらしい。
 
もし『リコリコ』世界の大人たちや、組織、社会構造の無自覚・無慈悲さが外道だとしたら。
その外道っぷりは私たちの生活、私たちの社会にも染みついた外道さでもあるんじゃないだろうか。外道なるものは、現代日本の、安全・安心な社会とその成立基盤にも本当は根深く絡みついているのではなかったか。外道な風景が視界外に追いやられ、無感覚でいられるよう、私たちの社会だってできているんじゃなかっただろうか。
 
こうやって考えると、作中の無自覚・無感覚・無反省な若者搾取の構造は、この作品に仕込まれたリアリティを想起させる仕掛け(のひとつ)とみたくなる。もとより、このゆるふわ百合ガンアクション作品はなにからなにまで現実的な作品ってわけじゃない。あっちこっちがデフォルメされて、脱臭されて、かわいくまとめられて、そうやって商業的成功を保障しなければならないのも『リコリスリコイル』の一面ではあるのだろうし。
 
だけど、優れたアニメはしばしば、作品のリアリティラインやデフォルメの湯加減からはみ出すことなく、視聴者に現実の一側面を想起させる。『まどか☆マギカ』や『天気の子』だってそうだったじゃないか。
 
『リコリコ』を、純度100%のゆるふわ百合ガンアクションアニメとみるなら、こうした気味の悪さは不要だし、制作陣は、その気味の悪さを描かないという選択だってできたはずだった。ところが実際には第一話から不穏なディストピア感が宿っていたから、この作品はゆるふわ百合ガンアクションアニメでありながらも、なにやら社会や社会構造について思わせぶりな作品なのだろうと私は解釈し、そういう姿勢で視聴していくことに決めた。
 
で、『リコリコ』に宿る不穏さを現代社会と照らし合わせながらみるにあたって、すりつぶされるリコリスの若者たちに無自覚な大人たちの姿、すりつぶされる当の若者がすっかり秩序を内面化している姿はお似合いだ。中途半端な自覚や罪悪感を出すより、ああいう風に、誰も何も気づかないまま若者をすりつぶしていくほうが「らしい」と感じる。だってそのほうが2020年代の若者の搾取って感じがするじゃないか。
 
 

このまま進んでも、路線変更しても、最後まで楽しみたい

 
そういうわけで、若者の命や未来を、罪悪感も欠如したまま構造的にすりつぶし、それで平穏で秩序ある社会を維持して世の中は良くなったって顔をしている人間の一人として、『リコリコ』に感じる気味悪さ、鼻につく感覚を存分に吸い込んで、咳き込んでおきたい。居心地の悪い思いをしておきたい。かわいい千束とたきなの応酬を楽しむ作品に、蛇足のように付け加えられた現実っぽさを気味悪がっておきたい。
 
 
……こんな風に書いてはみたけれども、もちろん、作品がこれからどうなるのかはわからない。
 
私個人は、この路線のまま、構造的な搾取が温存されたまま突き進んでも案外楽しいだろうなと思う。そんなディストピアめいた作品が専らゆるふわ百合ガンアクションアニメとして消費されることになっても、きっと私は最後までニコニコしながら楽しみつづけるだろう。あるいはDAの司令以下、大人たちが相応のリアクションしたり、千束たちが秩序に一矢報いたりして「答え合わせ」や「清算」が行われるのかもしれない。それもそれで楽しみな展開だ。
 
視聴者としての私は、どっちに物語が転んだって構わない。もうここまで入れ込んだら、どっちに転んだって楽しむっきゃないのだ。よくできたアニメなのはおそらく間違いないのだから、自分のストライクゾーンから作品が逸れていっても最後まできっちり追いかけ、その面白さ・その趣向をしっかり捕まえたいと思う。作品は、まだ半分残っている。どうあれ後半で息切れすることなく、しっかりつくられた作品・何かを考えさせられる作品・かわいくて仕方がない作品であり続けて欲しい。
 
 

 
 

『ほんとうの医療現場の話をしよう』──医学部という進路に悩む人におすすめしたい本

 
長くブログや本を書いていると、いろいろな相談のお手紙が舞い込んでくる。そうしたもののすべてに応えることはとても無理だし、精神医学にまつわる相談、特に医療行為に直結した相談は原則お断りさせてもらっている。
  
そうは言ってもなかなか無視しづらいお手紙もある。それは、
「医学部に入ったのですが、勉強がきつくて悩んでいます。」
「医学部に入ったのですが、浪人して〇〇大学を受験しなおそうか迷っています。」
 
医学部と、それにまつわる進路についての相談だ。この手の相談には、時間が許す範囲で返信するよう努力してきた。自分も悩んでいたし、悩んだうえで医師免許証を手に入れ、精神科医となった後に自分がやりたい仕事や活動に関われていると感じるからだ。
 
我が身を振り返っても、医学部に入るのはわけのわからない選択だった。
 
私が医学部に入ったのはバブル崩壊の直後ぐらい。医学部の偏差値がいちばん高かった時期ではないにせよ、人気はまずまずあって、地方の士業世界において医師免許証は切り札のような扱いになっていた。だけど十代の私にはそんなことはわからない。医者がどんな仕事で、医療の世界にどんなものが含まれているのか、そこで働いてどのようなメリットやリスクがあるのか、ろくに知りもしないまま、なかば流されて医学部に入ってしまった。私の場合、幸いにも精神科というものすごく興味深い領域に出会い、人間世界への関心をますます高めていけたから結果オーライだったけれども、在学中は五里霧中の状態だった。
 

 
当時、こんな本 ↑ を親が買ってきたことがあったけれども、こんなの読んでも医学部や医者の仕事がわかるわけがない。かえって嫌になったとさえ言える。
 
そうやって悩んだ時期があったから、医学部に入り、これから医師になるかもしれない人が迷うのも無理ないよね、と私なら思う。
 
 

医学部について考えるうえでいい本が出た

 
しかし、これからは相談のお手紙に返事しなくて良いのかもしれない。
高須賀さんが、医学部という進路について参考になりそうな本を著したからだ。『ほんとうの医療現場の話をしよう』を読むと、医学部に入り、医師になった後にどんな課題や良し悪しがあるのか、見当をつけやすくなると思う。
 

 
高須賀さんはまず、医療のなかで医師特有の役割として、診断と治療について挙げる。
 
 

 医師の仕事は全て患者さんを契機として始まります。そもそも、なぜ患者さんが病院を尋ねるのかというと、基本的には何らかの体調不良などがあるからです。「熱がある」「お腹が痛い」などなど。私達医師はその患者さんの困った事をどうにかして解決しないといけません。
(中略)
 なんらかの問題を解決するためには、まず原因をキチンと特定しないといけません。医療においてはこの原因特定行為を"診断"といいます。診断は医師にしか行えない非常に重要な役回りのひとつで、コメディカルと言われる医療スタッフや事務職員は「なんだかこの人、風邪っぽそう」と思う事はあっても「あなたは風邪です!」と診断を下すことは許されていません。

  

 こうして身に付けた知識や技術を基に、医師は原因を特定します。そして下した"診断"を基に、医師はもう一つの大切な仕事を行います。それが"治療"です。風邪に対して解熱剤を処方する事や、がんを手術する等の治療に繋がる行為は原則として医師のみが行うことを許されています。その他の職員も治療の手助けは行えますが、それは必ず医師の指示あってのものです。

 
後で触れるように、現在の医療はチームによる分業が進み、それぞれの分野の専門家が力をあわせて働くようになっている。
 
とはいえ上掲の引用文のように、病気や障害が何であるかを特定し、それをどう治療するのかを決めるのはやっぱり医師の役割だ。その裁量は特権的に医師のもの、とさえ言えるだろう。それだけ責任は重いし、身に付けなければならない知識も多い。医学部を出た後も研修期間が続き、専門医になるまでにも時間がかかるシステムになっている一因は、診断と治療のために必要な知識と経験が膨大だからだろう。
 
じゃあ、医師が診断と治療のマシーンかといったらそうでもない。
さらに高須賀さんは、社会人としてのマナーや人に好かれるに越したことはないこと、リーダーシップの大切さにも触れている。
 
さきにも触れたとおり、現在の医療はチーム医療でその対象は患者さんだ。である以上、人を人を結び付けるための素養やトレーニングが期待されるのはやはり避けられない。これも後で触れるように、医師の役割やワークスタイルはかなり広いので、やろうと思えばそうしたコミュニケーションを少なく済ませられる領分に就職できるかもしれない。それでも高須賀さんがおっしゃるように、やっぱり人に好かれやすいに越したことはないし、社会人として期待される常識的態度が欠如していれば苦労が増えやすいだろう。リーダーシップを期待される場面、患者さんとその家族に大事なことを説明しなければならない場面などでは尚更だ。
 
 

医師になってからなれる先は結構広い。

 
では、医師は長い勉強とトレーニングと人間力が不断に問われるものなのか? と思う人もいるだろう。
まあ、ある程度以上にそうではある。
だから難しい、だから疲れるともいえるし、だから面白い、だから奥が深いともいえる。
 
それでも、実地で働く医師にもさまざまなタイプがいるし、さまざまな役割がある。たとえば総合病院の外科医と個人開業のクリニックで働く精神科医では知識も役割もかなり違っているだろう。内科医だって、どの臓器が専門でどういう性格の医療機関で働くのかによって役割はだいぶ違う。
 
収入も含めて、ひとことで医師といってもその境遇、その領分はさまざまだ。医学部を卒業したら一律に幸福な医師人生がやってくるわけではない。悩みも喜びもさまざまだ。恋愛に悩む者もいれば、経歴や肩書をもっともっとと求めて悩む者もいる。幸福な結婚をする者もいれば、そうでない者もいる。
 

多くの人が働く中で、自分が無理のない形で働き続けられるスタイルを自然と見抜き、そこに軌道修正を図っていくケースが多いように思います。結果的には多くの人は自然と上手にやっていけるような道に落ち着いていきますので、そこまで働くこと自体を恐れる必要はないとは思います。医師自体をドロップアウトするケースは自分の見聞きする範囲ではごく稀です。医師は食っていくだけならば大体困りません。少なくとも現時点では。

 
高須賀さんは、医師は食っていくだけならだいたい困らない、自然と上手にやっていけるような道に落ち着く、と書いてらっしゃるが、私から見てもそんな気がする。そのうえで医師の世界にもさまざまな生き筋があり、その生き筋の広さ、いわば医療界隈の懐の深さは医師という職種の魅力のひとつではないかと思う。
 
かく言う私も、精神科という、脳という臓器を診るだけでなく社会と患者さんの関わりを診ないわけにはいかない科に就職したことで、自分がやりたい仕事を見つけることができたのだと思う。高校時代の私は、うすらぼんやりと哲学や心理学のようなことが学びたいと思っていて、医学部はそこから遠い世界ではないかと危惧していた。ところが精神科という診療科があったおかげで、実は、哲学科や心理学科に入るよりも自分がやりたいことに近いものを見せていただけていると今は感じている。
 
そうした事々が書いてあるので、この『ほんとうの医療現場の話をしよう』は、医学部をこれから受験したい人や、医学部に不本意ながら入ってしまったと感じている人、医学部で本当にいいのかなと悩んでいる人には特にお勧めしたい。twitterの、いわゆる医療クラスタと呼ばれるアカウント群の日常ツイートだけではなかなかフォローできない内容が記されていて、かつ、内容が実直だ。今後、医学部についての相談が私のところに舞い込んだ時には、はじめにこの本を推奨することにしようと思う。おすすめ。