シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

シロクマの閉塞について──アジコさんからお手紙をいただき気づいたこと

 
個人的なお手紙にご返信くださり、ありがとうございました。ゆうべ眠れず0時半ぐらいにPCを開いたら以下のタイトルが目に飛び込んできて、びっくりしました。
 
orangestar.hatenadiary.jp
 
再読し、ありがたいものをいただいたと感じました。私はアジコさんと感性がかなり違っているはず*1ですが、それでも何かが伝わり、何かを受け取ったのだと感じました。感性が違っていても何かが伝わり、何かを受け取れるって素晴らしい体験ですね。
 
でも、こういうやりとりがしょっちゅうあったんですよね、00年代のはてなダイアリー世界では。
 
いわゆる「はてな村」には毀誉褒貶ありますし、何かが繋がるだけでなく、何かが切断されることも多かったですが、それでもブログ記事のキャッチボールが稀ならず起こりました。いや、「はてな村」以前のウェブやパソコン通信だって。だけど人も場所も私も変わってしまい、こういう経験がしづらくなりました。私がインターネットでやりたかったことって、第一にこういうことだったはずですし、あの頃、それができていたのですね。
 
以下、返信のつもりから始まって私自身の閉塞感の点検みたいな文章が続きます。忙しい人はブラウザバックしてください。
 
 

炭酸水とカフェインの話

 
実は、我が家も炭酸水を導入しています。
 
vox強炭酸水
 
いろいろご縁あって採用となったのは、このvox炭酸水で、ざくざく飲めるしカンパリやシャルトリューズを割って飲むにも便利だし、重宝しています。じゃあ、カフェインの摂取量が減ったかというと不十分で、原稿を書いている時はカフェイン圧倒的優勢、という感じがします。カフェインは悪い文明!
 
ところでカフェイン+糖分って、効果ありませんか? 私の場合、[カフェイン+おやつ]の一時間後ぐらいが文章が一番進みます。軽躁に比べれば小さな変化ではありますが、言語の流暢性や関連づけの性能が上がる気がするんです。でも不健康ではある。私の場合、カフェインでドーピングして数時間後に身体が疲れて、感情のきめが粗くなるので、バイオケミカルなエンハンスメント全般に不信感を持っています。
 

 
今をときめくサンデル先生も「完璧な人間を目指さなくて良い」と言ってくれてることですし、炭酸水の割合を増やしたいなぁ。でもカフェイン抜きで原稿を書くとはっきり語彙力が落ちてしまう。たとえば小説を書く段になった時、バイオケミカルなエンハンスメントなしで挑めるとはあまり思えません。モンスターエナジーとか飲みながら書くことになりそうな予感があります。
 
 

ご紹介いただいた本について

 
「ぜひ読んで欲しい本があるんです。」ということで、『ファミリーランド』と『向井くんはすごい! 上 (ビームコミックス)』をご紹介いただきました。ありがとうございます。どちらも私が選びそうにない本ですね。amazonのレビューをざっと見ても、これらが私の嗜好から外れていると窺い知れました。
 
アジコさんが紹介される作品は、アジコさんが書かれるガンダムレビューと同様、異国の香り・異星の香りがするといいますか、自分とは異なる思考体系や情緒体系の人がレコメンドしている雰囲気があり、たとえばずっと昔に『惑星のさみだれ コミック 全10巻完結セット』を推していただいた時も、自分が絶対着眼しない面白さだと感じて異星・異国情緒がありました。それだけに、自力ではたどり着けない面白さにアクセスできるチャンスなのですよね。
 
それだけに、何が出てくるのか楽しみです。読んでみます。
 
 

「シロクマ先生として振舞うしかなくなる件について」

 
で、ここから私自身の閉塞感についてぐしゃぐしゃ書いていきます。まず、アジコさんが書かれた当該パートを引用しておきますね。
 

 さて、『シロクマ先生』というキャラクターについて。
 『シロクマ先生』は、社会の分析をします。そして、そのための道具は『承認欲求』と『適応』です。ほかのツールもあるけれども、メインウェポンはこのふたつです。
 『シロクマ先生』はいつまでも同じ味のラーメン屋で、いつまでも同じ味でいることが求められています。たまに変わったものを出すと、「大将。どうしたの、調子でも悪いの?」と言われます。
 傍目から見てると、そこらへんが、最近のシロクマ先生の閉塞の理由なんじゃないかな、と思います。たぶん、ほかにいろいろと道具も仕入れていると思うのに周りからの期待でその道具を使えない。シロクマ先生としての仕事が詰まっていて別のことができない。でも、たまにはその道具をメインで使って、それでラーメン以外の料理を作ってみるのもいいんじゃないかな、と勝手に思います。具体的には小説とか。精神科医として長年働いているシロクマ先生の中にあるデータベースは、モノを書いてる側からすると喉から手が出るほど欲しいものですよ。

確かに私は仕事が詰まっていて、別のことができない状態にあります。アジコさんは、私のメインウェポンのことを『承認欲求』と『適応』と書かれましたし、その読みは的を射ているのですが、私流に書き直すなら『人間の社会的欲求』と『現代人の社会適応』となるでしょうか。
 
前者をマズローの言葉でいえば承認欲求や所属欲求となりますし、コフートなら自己愛、エリクソンならアイデンティティでしょう。ラカンなら……ああ、ラカンはまだわかった気になれません。わかったつもりになってもやっぱりわかっていないのと、進化生物学/進化心理学と調和してくれないんですよ。私は精神分析諸派を進化生物学/進化心理学とハーモナイズさせたうえで脳内に格納しているのですが、ラカンは今でもハーモナイズできていません。
 
ラカンわからん話はやめましょう。
 
アジコさんがおっしゃった「『シロクマ先生』はいつまでも同じ味のラーメン屋で、いつまでも同じ味でいることが求められています」とは、私が人間の社会的欲求や現代人の社会適応について、似たような道具立てで・似たような問題を・似たように解題してみせるよう求められている、そんな感じではないかと解釈しました。
 
これも、そのとおりかもしれません。私は精神分析諸派をとおして現代人の社会適応を書くことについて、たぶん私なりの答えが出ているんです。いわば、ラーメンの制作工程ができあがっているわけですね。
 
その際の文法はマズローでもコフートでもエリクソンでも構わないし、文法の違いは、塩ラーメンか醤油ラーメンか味噌ラーメンかぐらいの違いを生むでしょう。でも、私のなかでは何かが「わかってしまった」。わかってしまったこと自体はまだ言語化しきれていないし、もちろん時代の変化によって解題の内容も変わってくるのだけど、方程式そのものはできてしまっているんです。その方程式に特定の時代や心理的課題をインプットすると、自動的に解題がアウトプットされるような、そんな方程式が。
 
同じ方程式で同じ解題を行うだけでは、私の視座はあまり広がりません。これから私がなすべきは、方程式そのものの精度を高めたり、方程式そのものを記述したりすることだと思います。でも、それらは(たとえば商用原稿として)需要が無さそうだし、相応の時間と手間、もっといえば研究が必要でしょう。
 
もうひとつ、現代人の社会適応についても私は『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』で達成をみました。あの本には間に合わなかった文献がいくつもあり、未完成感もあるのですが、現代人の社会適応について書きたかったことは一通り書ききったつもりです。でもって、同じ趣向であの本を上回るものがいったいいつ作れるのか、私には見当がつきません。
 
実はあの本、2010年代前半から試作を続けていたのですが、どこの出版社さんでも企画に至れず、イーストプレスの編集さんの手でようやく日の目を見たという経緯があります。だから同等の本を創ろうと思ったら5年以上かかるでしょうし、5年後を見据えて何を読み、何を体験すれば良いのか実はわからなくなっています。新型コロナウイルスが蔓延しているのは大きなマイナス要素ですね。私は会うべき人にも会っていないし、行くべき異国にも行っていません。そうしたまま、仕事だけが積みあがっていく。
 
こうして言語化してみると、いやぁ私、本当に閉塞していますね。ブログが閉塞している以前に、一人の書き手として、娑婆世界をもっと知りたい者の一人として、閉塞しています。そこに時間と体力の不足が拍車をかける。50代になった私は、30代や40代の頃ほど柔らかく考えることも、広く知見を集めることもできないかもしれない──そういう不安もあります。
 
「何歳になっても柔軟に考えられるものだ」って反論する人もいるけれど、ここ10年の我が身を省みて思うに、私はそうじゃないと思うんですよ。確かに10年前より本が読めるようになったし精神科医としての経験も増えているけれど、私は自分のなかで何かが固く脆くなっていくのをずっと感じ続けています*2。これも閉塞感の一因になっているのでしょうね。
 
アジコさんはたとえば小説を書いてみてはとおっしゃいました。実は私は小説から入った人間で、ネット以前にはオリジナル短編やタイトーのシューティングゲームの二次創作など作っていました。ここ数年も、小説のプロットを組むまではあるんです。でも時間と体力の不足から、書きあげるところまで踏み込めていません。そういえば『艦これ』や『ウマ娘』の二次創作でやりたいこと(そして現在まで自分の観測範囲に入ってこないので、自分にとってオリジナリティのある内容になると想定できること)もあるんですが、キャラクターをエミュレートするための基礎的確認すらできない有様ですから、もうこれは無理なんでしょう。現在の商用原稿の執筆速度じたいを落とすか、論説文のための研究を停止するかしない限り、小説・二次創作方面にリソースを回せそうにありません。
 
 

抱えきれない棒を抱えて

 
うー、言語化してみると、自分、本当に閉塞しているな……。
 
この文章を書いている途中で、ふとタロットカードを眺めたくなったのでパラパラめくっていたんですが、ワンド(棒)のスートに目が留まって、並べてみたくなりました。
 

 
ワンドのスートって、まるで私のブログライフみたいですね。今の私はワンドの10。私が抱えている棒のなかには、ブログや商用原稿だけでなく、家庭とか、本業とか、ワインとか、ゲームとかもあるのでしょう。ワンドを執着とみるなら、私は抱えきれないほどの執着を抱え、身動きできなくなっているわけです。そのような中年期にたどり着いたのは本懐ではあるのですが、このままでは、何かを為す以前に私は潰れてしまうでしょう。
 
これを書き始めた段階では、インターネットアーキテクチャの趨勢とプレイヤー層/コンシューマ層について広く論じるつもりもありましたが、字数も増えてきましたし、なによりタロットカードを並べた時点で気力が失われてしまったので、自分自身のことだけ書いて返信することにしました。
 
アジコさんもきっと複数の棒を抱え、ときに呻吟することもあるでしょうけど、どうか無事でいてください。私はアジコさんに一度しか直接お会いしたことがないので、いつかどこかで再会できたらいいなとも思いますが、コロナ禍のはびこる今は、きっとその時ではないでしょう。では、またいつか(この手紙には返信は不要です)。
 
 

*1:ガンダムシリーズで譬えるなら、連邦系モビルスーツとジオン系モビルスーツぐらい違っていると思います。さしずめ私はジムIIIで、アジコさんはヤクトドーガだ

*2:私が固く脆くなっている理由の一部は、私が15年以上ブログを書き続け、賛否さまざまなリアクションにずっと晒され続けてきた結果、心身に毒素が蓄積してきたせいもあると思います。15年以上ブログを続けて、一定数のリアクションに晒され続けてみた人にしか、この毒素の蓄積はきっとわかってもらえない。そしてそんなに継続しているブロガーは日本全体で見ても少ないのでした。

今だけ人に戻ってアジコさんにお手紙を

orangestar.hatenadiary.jp
 
こんにちは、小島アジコさん。はてな村・はてな界隈についてこういう文章を書く人はすっかり減りました。なので私はアジコさんあてに手紙を書きます。書いた理由は、書きたかったからです。
 
 
(上)
 
昔、アジコさんは『はてな村奇譚』という、はてな界隈についてのサーガをまとめましたが、そこに、新時代の兆候として「機械のような生き物」が描かれていました。アジコさんがおっしゃる「人がいなくなった」とは、この「機械のような生き物」に該当する人が増え、顔とハンドルネームが見えてコミュニケーションの余地のある人が少なくなったって意味ではないでしょうか*1
 

(『はてな村奇譚』より)
 
私はそう解釈したので、以下、それに沿って私見を書きます。
  
現在のインターネットは、はてな界隈に限らず、ここでいう「機械のような生き物」ばかりですね。『はてな村奇譚』で実際に挙げられていたのは、「オススメ漫画100」「教養を獲得するための12冊」といった文章を吐き続ける機械でしたが、現在は、もっと政治的なことを吐き続ける機械も増えました。確かに何事かをアウトプットしていますが、意思疎通の余地があるようにはみえません。こういう「機械のような生き物」はtwitterにもたくさんいます。ひょっとしたらtwitterのほうが多いのかもしれない。みんな、みんな「機械のような生き物」だ。
 
それらのアカウントだって人が運営しているんでしょう。でも意思疎通の余地があるかといったらはてさて。私のtwitterアカウントをフォローし「いいね」をしてくれる人にも、「この人と意思疎通する余地ってあるのかなー?」とわからない人がたくさんいます。いや、もうひとつひとつのアカウントを人として認識できていない自分がいる。
 
(主語が大きいと他人は言うでしょうけど)インターネットは、人と人とが意思疎通しわかりあおうとする場所じゃなくなりました。意思疎通の難しいアカウントがたくさんいると嘆く前に、自分自身がそもそもインターネット上で意思疎通をしようとしている気がしません。少なくとも、異なった思想信条を持った人と積極的コンタクトをとり、すったもんだを経験してでも何かを獲得しようとする姿勢が私のネットライフから失われてしまいました。そういう気持ちになれる相手がたまさか見つかると嬉しい気持ちになりますが、全体のなかではけして多くありません。そして相手のほうが同じ風に思ってくれるかは全くわからないのです。
 

(『はてな村奇譚』より)
 
公正に考えるなら、私も「機械のような生き物」の一人になったというべきでしょう。私はブログを何とか書き続けていますが、このブログも、ブロガー同士が意見交換する場ではなくなってしまいました。控えめに言っても、こういう手紙みたいなブログ記事はもうほとんどありません。私はただ、私にとっての目的のためだけにブログをアウトプットしています。それか、ブレストのためにブログ記事を書いているか。なんにせよ、私は以前よりも automatic にブログを書いているように思います。なんでしょうね、この一方通行感、独りよがり感は。
 
 

インターネット(はてな)から人がいなくなってる気がした - orangestarの雑記

みんな年をとってしまったね。この世界はもう滅びゆくだけなのかな

2021/06/24 04:47

 
この、コミュニケーションに対する諦念の一因は、phaさんが指摘しているとおり、年を取ったせいもあるのでしょうね。
  
はてなに限らず、たとえばtwitterで新しい知り合いならできようし、共通の利害を持った人と連携することもあるでしょう。では、友達はつくれるでしょうか。わからない。同世代とは無理のような気がする。では下の世代とは? これも、もう年を取っているから、難しい気がする。20代の頃にあった、ネットで新しい友達を得たというあの手ごたえ。あの手ごたえがわからなくなったのは、生物学的・社会的加齢によるものだと思わざるを得ません。
 
 
(中).
 
ところで昨日6月24日はhagexさんが亡くなった日でした。だからこの文章は昨日のうちに投稿したかったのですが、いろいろ忙しくて叶いませんでした。
 
2018年6月24日を境に、はてな界隈は変わってしまいました。少なくともブロガーの一人としての私には、はてな界隈が変わったように見えました。はじめのうち、ブロガーもブックマーカーも混乱しているようだったけど、だいたい半年ぐらいで変化が完了したように思います。
 
hagexさんが亡くなって以来、ブロガーにとって何が芸風と言えるのか・どういった表現が穏当と判断されるのかの基準が変わりました。三葉虫のように生き残っていたゼロ年代っぽい芸風や身振りは、これを境に本当に見かけなくなったように思います。
 
と同時に、はてなブックマークをする側に何が許容されるのかの基準も変わりました。基準が変わったことを勘付き、そのことに言及しているはてなブックマーカーもいましたが、無意識のうちに態度を変えているはてなブックマーカーもいました。
 
加えて、idコールという仕組みが無くなりました。idコールが無くなって良かったこともあれば、良くなかったこともありました。いずれにせよはてなブックマーカーにモノ申す手段が一つ減ったのは確かです。
 
要するにhagexさんが亡くなってから、はてなブックマークは天井桟敷として強くなったのでした。はてなブロガーは以前よりも大きなリスクやコストを自覚しながら文章を書かなければならなくなり、対照的にはてなブックマーカーはより少ないリスクやコストのうえで好きなことを書けるようになりました。はてなブックマークが完全に安全とはいえないし、コストをかければブロガーなりツイッタラー側なりが物申すこともできるけれども、現在のはてな界隈の地勢を考えると、個別のはてなブックマーカーにブロガー側から物申すのは応報戦略として割に合いません。はてなブログが繁栄しにくい理由はいろいろあるでしょうけど、はてなブックマーカーとブロガーの(アーキテクチャ上の)地勢の問題もその一因であるよう、私は思います。
 
では、はてなブックマークを非表示にすべきでしょうか。いや、はてなブックマークを非表示にするぐらいなら、noteなどの他のサービスで文章を書きますよね。noteで活躍している人によれば、「オープンなインターネットに書けることはもうない」「早く熊代先生もnoteにおいでよ」なのだそうです。私はオープンなインターネットで書き続けてきたので抵抗したい気持ちになりますが、言いたいことはわかる気がします。もし、はてなブログやはてなブックマークが双方向的なコミュニケーションの媒体として機能しなくなり、いや、オープンなインターネット全体が人と人がわかりあうための媒体でなくなっていて、私もあなたも「機械のような生き物」になり果てているとしたら、課金された閉鎖空間で同調と共鳴とアウトプットに終始したほうがマシかもなーと思うことがあります。
 
私はもう、見知らぬ誰かとわかりあう自信をすっかり失ってしまいました。そうしたなかでブログを書くのは、センチメンタルなこと、あるいは惰性かもしれません。はてなブックマーカーにお慕いするアカウントが何十人か残っているのが、私にとっての救いです。
 
 
(下).
 
私はアジコさんがブログを書かなくなった後もブログを書き続けてきましたが、このように、双方向的なコミュニケーションを見失い、アウトプットマシンになってしまいました。今日は、久しぶりに特定の人に向かって心境を書けたので、とてもうれしく思います。
 
そうそう、アジコさんの『閃光のハサウェイ』評読みましたよ! アジコさんの『鉄血のオルフェンズ』評の時と同じで、ぞくぞくしながら読みました。アジコさんの作品評を読むとき、私は小島アジコというレンズをとおして全然違った作品像を見るような思いがして、月並みな言い方になりますが、目から鱗が落ちます。自分が思ってもいなかったことを発見したり、漠然と感じていたことを言語化してもらったような気持ちになったり。
 

閃光のハサウェイは、逆襲のシャアの時のハサウェイ周りの変奏になっている。ギギはクェス、ケネス大佐はギュネイ。だけれども違うのはハサウェイは初恋の呪いにかかっていてどこにも行けないし、ギギもどこにも行けない。少年少女時代の万能感は失われ、ただ、もう終わってしまった人生を役割を演じながら終わるしかなくなってしまっている。二人とももう大人で、そしてそういう寂しい大人が慰めあうこともできずにすれ違う話だ。ケネス大佐?元気ですよね。(その二人に対する対象的な存在として自信にあふれた彼はいるので、いいバランスだと思う)

https://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2021/06/24/103306

こことかもう、切れ味が鋭すぎてどうにかなっちゃいそう。こんな感想を自分で書いてみたいなぁ。でも、自分じゃこんな感想が絶対書けないってことは40代にもなればわかります。私は私の道を行くしかない。
 
私は、アジコさんがそうした作品評をどんな気持ちで書いてらっしゃるのか知りませんし、アジコさんのお考えの何%をキャッチできているのか自信もありません。それでも何かを受け取って、たとえば『閃光のハサウェイ』や『鉄血のオルフェンズ』を見る目が変わったのは確かです。
 
このことをもって、書き手であるアジコさんと読み手である私がわかりあったと言えるのかわかりませんが、こんな風にブログを読んで、こんな風に目から鱗が落ちるような思いをするのが好きだったんだなと、さきほど思い出しました。
 
たとえ一方通行のアウトプットでも、もし誰かに何かが届くなら、やってみる値打ちあるのかもしれませんね。私にはアジコさんのような感受性も、黄金頭さんやphaさんのような文体もないけれども、ここでもうしばらく頑張ってみようと思います。また機会があったらお手紙します。どうかお元気で。
 
 

 

*1:追記:アーカイブを確認したら自意識がみえる人、みたいな扱いでしたが、このまま進みます

2021年のガンダムの見せ方、それとテロリズム──『閃光のハサウェイ』

 
gundam-hathaway.net
 
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の映画版をふと、見に行きたくなったので見に行った。
 
『閃光のハサウェイ』は、もちろん小説版が出た頃に読んでいる。つまらなかったわけではないけども深い印象は残らなかった。そもそも小説版のガンダムは、だいたいアニメ版に比べてネットリしていて自分の口に合わない。
 

 
だから映画『閃光のハサウェイ』には別に期待していなかった。ところがツイッターでちょっと気になる文章が目に留まった。
 
 
マシーナリーとも子さんは確か、バーザム*1を愛してやまない人物だったはずだ。そのバーザムを愛してやまない人物が大絶賛していたので、見て損することはあるまいと思い、映画館に足を運んだ。期待通り、いや期待以上のものが観れたし過去のガンダムをたくさん思い出したので、感想を書くことにした。(以下、ネタバレには配慮していないのでネタバレが心配な人は読まないでください)
 
 

モビルスーツよりシーンを見せる、それと大火力

 
『閃光のハサウェイ』は太陽のまぶしさから始まる。冒頭、太陽をバックにスペースコロニーが回転するシーンしかり、ハサウェイが滞在するホテルの白々とした外観もしかり。なによりダバオの風景が熱帯じみている。あれっ? ガンダムってこんなにまぶしく日光を描くアニメだったっけ? と当惑させられた。いや、熱帯が舞台だからまぶしい日光は大歓迎です。夜間戦闘の妙な明るさもいい。真っ暗ではなく、僅かに明るさの残る夜のダバオにも熱帯っぽさがある。
 
ガンダムを見て「現地に遊びに行きたい」と思うことは今まで無かったが、今回はダバオに行きたくなってしまった。このこともガンダムのなかでは異例な感じだった。
 
でもってモビルスーツ戦。
これがまた、期待していたのとは全然違った。いやモビルスーツ戦だけでなく、モビルスーツの描写そのものが従来のガンダムとは大きく異なっているように感じられた。
 
たとえばマンハンター部隊が市民を威圧する際にジェガンというモビルスーツが出てくるが、これを魅せてプラモデルを売りたいという欲目が感じられなかった。夜のダバオで繰り広げられるモビルスーツの空中戦闘にしてもそうだ。ミサイルもビームも撃っているが、モビルスーツをやたら映すことはなく、短いカットに留めている。例外はメッサーとグスタフ・カールの地上戦、それとガンダム同士がビームサーベルで切り結ぶシーンぐらいだろうか。これらのシーンではモビルスーツの露出度というか、モビルスーツを眺めていられる時間がそれなりある。あるのだけど、ここも禁欲的だ。少なくとも従来のガンダム作品に登場するモビルスーツに比べれば、『閃光のハサウェイ』に登場するモビルスーツは露出が少なく、鋭角的なモビルスーツ戦のリアリティとも合致しているように感じられた。
 
そのかわり、「歌舞伎としてのモビルスーツ戦」や「バンダイナムコのプラモデルを売るためのモビルスーツ戦」からは遠ざかっているかもしれない。が、そういった欲目を捨てた露出度の少ないモビルスーツ戦に、新鮮な魅力を感じた。
 
そもそも、この『閃光のハサウェイ』に出てくるモビルスーツは、デザインはモビルスーツ・オタクを満足させる水準だとしても、モビルスーツを見せるのはシーンを魅せるための手段としてであって、目的ではないようにみえた*2。夜のダバオで派手に戦うメッサーとグスタフ・カールは、モビルスーツ戦を見せる以上に、ハサウェイとギギの逃避行を魅せるためのもの、ダバオの街が燃えて人が死ぬさまを映すためのもののようにみえた。やたらと登場する、基地上空を飛ぶモビルスーツとベースジャバーの姿は言うまでもなく。
 
そういう、モビルスーツを見せるのでなくシーンの大道具としてモビルスーツを見せる姿勢から、私は
 
「『閃光のハサウェイ』という作品は、ガンダム・オタクやモビルスーツ・オタクに媚びるより、ハサウェイを中心とした人間模様をやります。モビルスーツのデザインで手抜かりするつもりはありませんが、私たちはモビルスーツを見せることにこだわらず、モビルスーツという大型人型架空兵器のある未来のドラマをやります」
 
……というマニフェストを受け取った気がした。
 
 
でもって、シーンの大道具としてのモビルスーツが、とにかくデカくて、とにかくヤバい。
 
誰かがツイッターで「『閃光のハサウェイ』のモビルスーツは重量感がある、とにかくデカい、ベースジャバーも大きい」と言っていた気がするけど、実際、モビルスーツはとても大きく描かれ、ハッチを開くときの重たい描写も良かった。モビルスーツの大きさと火力があまりにも暴力的で、人間が直接対峙するには強すぎるとみてとれるシーンがたくさんあった。
 
モビルスーツが着陸すればそれだけで森林が焼け。
ビームサーベルが装甲を斬れば溶けた金属がまき散らされ。
ビームライフルは直撃しなくても人が死にそうな小粒子をばらまいている。
 
これらは歴代のガンダムの「設定」を知っていれば理解できるものだが、ここまでしっかり描かれていることはあまりなかった。たとえば『Zガンダム』『ガンダムZZ』を視ていても、こうしたビームライフルやビームサーベルのヤバさ加減は伝わってこない。スペースコロニーのなかでビーム兵器を使うと非常に危ないと台詞で口にする人物はたくさんいても、それを目の当たりにできるシーンは多いとは言えない*3
 
あと、今作はミサイルが良い。
 
アニメの世界では、よく「納豆ミサイル」などといって縦横無尽に、軽快に飛び回るミサイルが持てはやされるが、今作のミサイルは形態も効果音も爆発も重量感があっていい感じだ。そんな重たいミサイルが、ダバオの街に降り注ぐのである。Ξガンダムとペーネロペーのミサイルの撃ち合いも、けん制のためのマイクロミサイル合戦という趣は無く、重たくて黒っぽいミサイルで殺し合いをやっている感じがあり、凶暴感が伝わってきてとても良かった。
 
こんな風に、『閃光のハサウェイ』はダバオの街でのモビルスーツ戦を美しく、そして恐ろしいものとして魅せる。いや違う、恐ろしいモビルスーツ戦も含めた美しいシーンの連続をとおして、ハサウェイ・ギギ・ケネスらのドラマを魅せてくれる。
 
景色や戦いが美しいだけでなく、その美しさを使って見せたいもの・魅了したいものが従来のガンダムとはだいぶ違っていて、少なくともガンダム・オタクにプラモデルを売りつけるのとは違う方向性でやろうと示されているのは、心強いことだと思った。従来のガンダムシリーズに思い入れのない人や、最近のガンダムシリーズのガンダム臭さにウンザリしている人でも、本作なら楽しめる可能性があると思う。
 
 

ガンダムで描かれた「テロ」と「テロリスト」に思いを馳せる

 
ところで『閃光のハサウェイ』では、「テロリスト」が悪いものとして冒頭からハッキリ描かれている。そしてハサウェイのいるマフティという組織もテロリスト集団と言って間違いないので、『閃光のハサウェイ』は、テロリストの首魁を主人公に据えたガンダムということになる。
 
ハサウェイの行く先々で、(マフティに限らずだが)テロリスト集団の所業がさまざまに示される。冒頭シーンはもちろん、ビームライフルでビルが貫かれるシーン、マフティのモビルスーツを撃つためのミサイルが街を焼くシーンなど、テロリストの活動によって恐怖が起こり、人が死ぬことがわかりやすく示されている(と同時に、体制側の容赦のなさもまた示される)。
 
でもって、テロリストの活動が恐怖と死をもたらす様子をくっきり示す大道具として、重量感のあるモビルスーツや重たそうなミサイル、ビームライフルやビームサーベルの凶光がいい味を出しているのだ。
 
こうしたシーンを次々に見せられると、たとえ地球を救う大義を掲げていたとしても、マフティが悪性度の高い環境テロリストのようにみえてしまうし、もちろん『閃光のハサウェイ』の制作陣はそうみえるように作っているのだろう。
 
ダバオの街の人々のマフティ評も手厳しい。曰く。マフティの掲げる理想はインテリじみている。威圧を繰り返すマンハンターをやっつけてくれる点ではマフティに期待しても、マフティの掲げる「地球からすべての人は退去すべき」という理想には同調できない。マフティの掲げる理想は、今日明日を生きるのに精いっぱいな現地人には明後日の心配を語っているようにうつる。そして明後日の心配のために戦うマフティのテロを介して、無数の現地人が命を落とすのだ。
 
こうした「地球連邦の圧制は良くないが、それに歯向かうテロリスト集団はもっと良くない」的な構図は、今、『閃光のハサウェイ』を見る者にとって違和感をおぼえるものではあるまい。しかし歴代のガンダムシリーズを振り返って思うに、作中のテロリストをテロリストとして描くアングルがだいぶ深まったと感じる。こんな風にテロリストを、そして(武力行使を伴った)反体制活動を20世紀のガンダムは描けたものだっただろうか。
 
『Zガンダム』と『ガンダムZZ』に出てくる反地球連邦組織エウーゴは、テロリストという風に描かれていなかった。小説版の『Zガンダム』のなかで誰かが「エウーゴという名前はゲリラみたい」的なことを言っていた記憶があるが、確かに、A.E.U.Gという頭文字を集めた命名は反政府勢力めいている。しかし『Zガンダム』の作中ではエウーゴは専ら善玉扱いで、体制側であったはずのティターンズが悪玉扱いされていた*4
 
そして『逆襲のシャア』。シャア率いるネオジオンがやろうとしていることは地球への小惑星落下だから、テロリストとしての悪性度は極悪もいいところだ。ところが『逆襲のシャア』は、この極悪テロリスト集団であるはずのネオジオンを、あくまで格好良く描く。また、ネオジオンのおひざ元であるスウィートウォーターでは民衆の支持を集めている雰囲気が描かれていた。
 
それがいけないと当時の私は思わなかったし、当時の私にはサザビーもギラ・ドーガもレウルーラも格好良くみえた。当時はきっとそれで良かった。ただもし『逆襲のシャア』が公開されたのが2021年だったら、いや、例えば2000年以降だったら、ネオジオンのテロリスト然としたところは違った風に描かれただろうとは思う。
 
宇宙世紀シリーズではないけれども、『ガンダムW』も印象的だ。体制側の基地に爆弾をしかけて隊員を爆殺するなど、『ガンダムW』の主人公たちはテロリストもいいところだけど、陰惨さ・悲惨さ・迷惑さは伴わない。そうした作風も手伝ってか、『ガンダムW』は女性向け同人の世界でも大ヒットをおさめていた。これも、だから悪かったと言いたいわけではない。テロリストたちが主人公のガンダムで耽美の花が満開になる、それが1995年だったというだけのことだ。
 
ちなみに(まだまだ微温的だった『ガンダム00』を経て)2015年から始まった『ガンダム鉄血のオルフェンズ』は、反体制的な物語をスペース・ヤクザ風の物語に仕立てることで、テロリスト的なフレーバーを巧みに回避している。
 
時系列を追うかたちで振り返ってみると、テロリストをテロリストとして描く・描かなければならない要請は20世紀のガンダムには希薄で、テロリストを描いたとしてもどこか呑気だった。日本のアニメファンにとって平和な一時代だったのだろう。ところが『閃光のハサウェイ』には、テロリストをテロリストとして描かなければならない温度感があって、これから先、どのような陰惨・悲惨・迷惑が飛び出してくるのか、期待、いや怖くなってしまう。
 
すでにマンハンター部隊をとおして描かれたように、テロリストとしてのマフティだけが悲惨・陰惨・迷惑なのでない。そして軍人だけでなく色々な人が巻き添えになって死ぬのだろう。じゃあ巻き添えになって死ぬ民間人が無辜と言えるのかといったら……そうとも言いきれない。宇宙世紀ガンダムシリーズをとおして繰り返し述べられているように、大局的にみれば地球に民間人がたくさん住み続けること自体が問題であり、圧制を敷く体制はもちろん、明日のために明後日のことが考えられないダバオの人々もそれはそれで問題なのだ。
 
宇宙世紀ガンダムシリーズ、特に『Zガンダム』以降のガンダム作品は、こうした世間の縮図のような状況のなかでパイロットたちが戦い、苦悩する物語だった。『閃光のハサウェイ』もまた、そのような作品に連なるものとして体制とテロリストの戦いを物語るのだろう。2020年代の宇宙世紀ガンダムがどうなるのか、第二部第三部も楽しみに待ってみたい。
 
 

 

*1:『Zガンダム』に登場したマイナーなモビルスーツ

*2:……そういえば、小説版の『閃光のハサウェイ』も、いや小説版のガンダムには全体的にそういう趣があった気がする。そんな、本物か偽物かわからない記憶がいま蘇ってきた

*3:例外もある。この手のビームヤバいのシーンで私が一番好きなのは、『ガンダムUC』のクシャトリヤ対リゼル戦にあった、高級住宅地っぽい場所にビームの流れ弾が命中して金塊を持って逃げようとした人を焼き払うシーンだ。

*4:それでも富野監督は、飲み屋の酔っ払いに「ティターンズだけが人殺しじゃない、みんな人殺しだ」と言わせている。

「何者かになりたい」人に必要なコミュニケーション能力

 
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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おかげさまで、熊代亨『何者かになりたい』が本日発売されました。若い人をメインの想定読者とした本ですが、後半パートの「中年期から先の何者問題」の箇所はアラサー・アラフォー世代によく刺さるようです。さまざまの「何者問題」を抱えている人、アイデンティティの空白を持て余している人にお勧めしたいです。
 
ところで本書の終わりのほうで、「アイデンティティを獲得して何者かになっていく経路や選択肢は非常に豊かになっているが、それだけに、コミュニケーション能力が問われる」といったことを私は書きました。
 

 どれだけ選択肢がたくさんあっても、どこのコミュニティにも所属できない、どこの人間関係にも馴染めない人がいるとしたら(実際、いることでしょう)、その人はどこも自分の居場所とは感じられないでしょう。他人から評価されたり褒められたりするチャンスも減るかもしれません。どこにも所属しにくく、評価されたり褒められたりするチャンスも少なくなれば、そのぶんトライアルやチャレンジにも消極的になり、学習やスキルアップでも遅れを取りやすいでしょう。
 
こうなると、コミュニケーションが苦手な人はそのぶんアイデンティティの確立が難しくなる、と考えざるを得ません。

 
私の記憶が確かなら、アイデンティティ論を論じた偉い人が「アイデンティティの獲得・確立にはコミュニケーション能力が必須」などと書いていなかったように思います。でも、今の時代でコミュニケーション能力に言及しないのは不自然だと私は考えました。
 
どこかに居場所を獲得するにも、仲間と一緒に勉強したりライバルと切磋琢磨するにも、趣味の道を深めていくにもコミュニケーション能力が高いほうが有利です。コミュニケーション能力が低ければ、メンバーシップを経由して技能やアイデンティティを獲得していくにも、個人としての業績や地位を介してアイデンティティを獲得していくにも、不利でしょう。
 
本書では「何者かになっていく」ための経路、すなわちアイデンティティの獲得・確立の経路を2つにわけて紹介しています。うちひとつは、伴って承認欲求が充たされるような個人的経路、もうひとつは伴って所属欲求が充たされるようなメンバーシップ型の経路です。が、この分類は便宜上のもので両者は地続きで、どちらも他者との人間関係のなかでできあがっていくものです。
 
承認と所属、どちらの経路でも他者との人間関係が必要である以上、コミュニケーション能力の成功確率が高い人は有利で、成功確率が低い人は不利となります。ひとことでコミュニケーション能力と言ってもさまざまですが、ともあれ、コミュニケーション能力が高いに越したことはありません。
 
 

コミュニケーション能力の成長は「何者かになりたい」気持ちに引っ張られがち

 
だから「何者問題」のソリューションの一環としてコミュニケーション能力の底上げも大切なのですが、「何者かになりたい」「何者にもなれない」気持ちが強いと、コミュニケーション能力の成長が偏ってしまうことがあるので注意が必要です。
 
本題に入る前に、ここでいうコミュニケーション能力とは何かについて触れておきます。
 
狭い意味でのコミュニケーション能力というと、場の空気を読む能力、相手のメッセージをよく理解し相手にわかりやすいメッセージを届けられる能力、良い印象を与える身なりやジェスチャーなどが連想されますが、コミュニケーションの成否に影響するさまざまな変数まで含めると、たとえばステータスや経済力や身長の高さなどもコミュニケーション能力の一部をなしていると言えます。
 
たとえば地位や経済力や身長の高さを併せ持った未婚男性は、未婚女性とのコミュニケーションに有利を得るかもしれません。
 
また性格やパーソナリティも短期/長期それぞれのコミュニケーションの行方に影響しますし、専門家集団やオタクの集団では専門的知識やうんちくがコミュニケーションにアドバンテージをもたらすでしょう。
 
これら、さまざまなコミュニケーション能力(の変数)を眺めてみると、そのコミュニケーション能力(の変数)を身に付けること自体がアイデンティティになり得るものもあれば、それを身に付けてもアイデンティティの足しになり得ない、いわば「何者かになった」という実感をちっとも与えてくれないものもあることに気付きます。
 
それを図示したのが下の表です。
 

 
表の左側は先天性がものをいうコミュニケーション能力(の変数)で、右側は後天的学習がものをいうコミュニケーション能力(の変数)です。表の上のほうは身に付けてもアイデンティティの足しにならないコミュニケーション能力(の変数)で、表の下のほうは身に付けるとアイデンティティの足しになり、「何者かになった」と感じやすいコミュニケーション能力(の変数)です。
 
このうち、地位・立場・経済力が最初から手に入っていることはあまりありません。地位・立場・経済力が世襲財産の場合、それがかえって「何者問題」を複雑にしてしまうことがありますが、ここでは例外扱いしておきます。
 
問題は、それ以外のアイデンティティの足しになるタイプのコミュニケーション能力(の変数)で、それらはえてして、コミュニケーションのための手段としてではなく目的として、つまり「何者問題」を直接解決するために求められがちです。
 
たとえば自分の職業の専門的知識などは、同業者集団のなかで何者かになる手段として重要です。専門的知識を充実させれば同業者同士のコミュニケーションで有利になりますし、職業人としてのアイデンティティも獲得・確立させられるでしょう。これは同業者以外とのコミュニケーションにはさほど役に立たないかもしれませんが、地位・立場・経済力を伴うようになれば同業者以外の人も話を聞いてくれるようになるかもしれません。「何者かになりたい」という動機による、職業人としての完成。これは、動機と成長の幸福な結合と言えます。
 
しかし、職業や地位・立場・経済力とは無関係のところ、たとえば趣味の領域で専門的知識を高める場合は、動機と成長の幸福な結合はやや難しくなります。いまどきは趣味の世界でも極まっている人はリスペクトされ、そこではコミュニケーションで有利になれますが、地位・立場・経済力がついてくるとは限りません。生まれが貴族ならそうした問題は度外視できますが、そうでない場合、趣味の世界でアイデンティティを獲得する=何者かになることと、生計を立てることの間に乖離が生じます。
 
現代社会は職業と趣味のアイデンティティが乖離していても生きていけるようにできているので、趣味の領域で何者かになり、職業の領域では何者にもなれていない気持ちのままでも十分生きていけます。ところが職業と趣味の乖離に耐えられない人もなかにはいて、そういう人は職業と趣味の乖離に悩んで燻りやすいので、趣味をできるだけ職業に近づけるとか、部分的にでもクロスさせるとか、工夫が必要になってしまいます。
 
 
もうひとつ、大きな問題があります。後天的学習で身に付けられるコミュニケーション能力(の変数)のなかには、それ単体ではアイデンティティの足しにまったくならないものが結構あります。さっきの表で言えば右上のほうに分布しているもの全般ですね。
 
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などは、それを身に付けても「何者かになった」という手ごたえがありません。これらは身に付けるとコミュニケーション能力が劇的に上がるものではなく、身に付けていないとコミュニケーションの成功確率が下がってしまうタイプなので、がんばって身に付けてもそれだけではモテたり人気者になれたりしません。「何者問題」を解決したくてウズウズしている人にとって、これは動機付けとして弱いでしょう。がんばって身に付けてもそれだけではモテや人気者に手が届かず、それだけでは「何者かになった」手ごたえをくれないものより、有効な範囲が狭くてもとにかく「何者かになった」手ごたえをくれる技能習得に、ついつい力が入ってしまうのはありがちなことです。
 

 
さっきの表で示すなら、「何者かになりたい」「何者でもない」といった思いが強い人は、技能習得に際してこの緑の矢印みたいな動機付けが強く働いてしまうのです。その結果、本当は身に付けなければならないコミュニケーション能力の基礎をおろそかにしたまま、後回しでも構わない蘊蓄をたくさん身に付けてしまったり、コミュニケーション能力の底上げにはあまり役立たないことに力を入れてしまったりする人がいます。
 
 

後天的学習でなんとかなる部分はしっかり押さえたい

 
文章前半で触れたように、アイデンティティを獲得して「何者かになっていく」うえで、コミュニケーション能力は高ければ有利で低ければ不利です。そうしたなかで、挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などはあらゆる人間関係に影響をおよぼし、習熟の度合いが低いほどコミュニケーションの失敗確率が上がるのでほぼ必須科目といえるでしょう。ところが「何者かになりたい」という動機に素直に従っていると、それ単体では「何者かになった」と実感できないこの種のコミュニケーション能力(の変数)が動機づけられにくく、後回しにされやすく、おろそかにされてしまいます。
 
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などを習得するより、自分の好きな分野に没頭したほうが「何者かになった」感はずっと得られやすいですからね。でも長い目でみれば、それだけではコミュニケーション能力の底上げは難しく、自分の好きな分野での人間関係のなかですらコミュニケーションに失敗しやすく、結局アイデンティティの獲得・確立の足を引っ張り続けるかもしれません。表で示したように、コミュニケーション能力(の変数)のなかには先天的なものも結構あり、そこのところは攻略が難しいのですが、それだけに、後天的学習でカバーできる点についてはしっかり押さえておきたいところです。
 
 

「倍速視聴はオタクじゃない」わかった。じゃあ理想のオタクって何?

 
gendai.ismedia.jp
 
講談社ビジネスに掲載された『「オタク」になりたい若者たち。』という記事に批判が集まっているのをtwitterとはてなブックマークで見かけた。
 
記事曰く、現代の若者は普通がなくなった状況のなかで無個性を嫌い、オタクになりたがるのだそうだ。そしてオタクになるための効率的方法や人間関係を維持する手段として、アニメや映画を倍速で視聴しているという。
 
これに集まった批判的なコメントは、たとえば以下のようなものだ。
 
「片っ端から倍速視聴しているようではオタクではない。コマ送りで観るものだ。」
「オタクはなろうと思ってなるものではない。気が付いたらなっているもの。」
「何かに熱中した先に面白さがあるのであって、量をこなすだけでは何も見えてこない」
「人間関係を維持するためにアニメや映画を観ているのはオタクじゃない」
 
どの批判も、私には馴染み深く親しみやすい。
 
オタクと呼ばれる人・オタクを自称する人・オタク的なライフスタイルには昔からバラツキがあり、個々人が思い描く「あるべきオタクの姿」にも差異はあったように思う。しかし冒頭リンク先で語られている「なりたいオタクの姿」は、いったいどこがオタクなのか? 岡田斗司夫氏が求道的なオタクを持ち上げていた頃のオタク像とも、『辣韭の皮』や『げんしけん(第一部)』等で描かれていたオタク像とも違う。なんならドラマ『電車男』に登場したオタクや『げんしけん(第二部)』の新メンバーたちとも違う。
 
だからオタク界隈で過ごしてきた人々が冒頭リンク先に違和感をおぼえること自体、とてもわかる。「そんなのはオタクじゃあない」と言われたらそのとおりだ。また、オタクという言葉は20世紀から21世紀にかけて変質し希釈されてきたから、もうオタクという言葉にたいした意味はない、という指摘もそのとおりだろう。
 
 

じゃあ、2021年に理想のオタクをやるとはどういうことか

 
そうやってしばらく、私も批判コメント読んで何か言ってやった気分になっていた。
うんうん、そういうのオタクっぽくないよね、わかるわかる、と。
 
しかしふと思った。それなら2021年に理想のオタクをやるとは一体どういう状態なのか?
2021年の環境で、たとえば10代や20代がオタクの理想とみなすありかたはどんな人・どんな姿なのかを考えた時、私は自分に何が言えるのかわからない気持ちになってきた。
 
冒頭リンク先の筆者の人は、これも批判の多かった別の記事で、以下のようなことを書いている。
 

 ところが現在、NetflixやAmazonプライム・ビデオをはじめとした定額制動画配信サービスは、月々数百円から千数百円という安価。たったそれだけの出費で何十本、その気になれば何百本もの映画、連続ドラマ、アニメのTVシリーズが観られる。従来からあるTVの地上波、BS、CSといった放送メディア、無料の動画配信サイトで観られる作品なども加えれば、映像作品の供給数はあまりにも多い。明らかに供給過多だ。
 その中から、同時多発的にいくつかの作品が話題になる。しかもそれらは、ドラマ1シリーズ全16話(『梨泰院クラス』)だの、TVアニメ2クール全26話(『鬼滅の刃』)だの、2時間の映画20数本でひとつの世界観をなしている(『アベンジャーズ』ほかマーベルの映画シリーズ)だのと、視聴するには時間がいくらあっても足りない。
 それでなくても現代では、あらゆるメディアが、ユーザーの可処分時間を取り合っており、熾烈さは激しくなる一方だ。しかも映像メディアの競合は、映像メディアだけにあらず。TwitterやインスタグラムやLINEも立派な競合相手だ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647

昭和時代から「おたく」をやっていた人にも、平成時代から「オタク」をやっていた人にも、今日の有り余るコンテンツの量は考えられなかった。アニメやゲームは00年代の段階でも飽和状態で、アニメオタクにせよゲームオタクにせよ、全方位・全ジャンルの作品を通覧するのは困難になっていた。でもって、2020年代はサブスクリプションサービスによって過去の作品まで視界に入ってくる。「できるだけ沢山の作品を視聴し、さまざまに比較することの好きなオタク」にとって、射程におさめなければならない作品の数があまりに多い。
 
ゲームも、オンラインゲームやソーシャルゲームはアップデートが来るから、ぼんやり遊んでいれば何年も居座って時間泥棒になる。買い切り完結型ゲームだけに絞る特異なゲームライフをおくるのでない限り、こうしたアップデートが来るゲームとどう付き合うかは難しい問題だ。見切りをつけて次々にゲームを替えることで見えてくる風景もあれば、ひとつのゲームと長く付き合いコミュニティの栄枯盛衰を見届けることで見えてくる風景もある。いずれにせよ、全部というわけにはいかない。
 
もちろん全ての作品を知らなければならない道理はない。自分の好きな作品と好きなように付き合えば良いのだとは思う。でもってそれこそがオタクの本義だと私は思う。けれども選択肢が増えた……といえば聞こえがいいが作品同士が可処分時間の奪い合いをしている状況のなかで、自分の好きな作品と好きなように付き合うのは昔より難しくなってやしないだろうか。
 
それともうひとつ、SNSなどによる共時性の問題もある。
 
これはアニメやゲームに限ったことではないけれども、いまどきのヒットコンテンツはコンテンツの造り自体から言っても、ネットでバズることを念頭に置いたうえでつくられている。作品個々についての情報もネット経由になっているご時世だから、そうしたなかでバズるバズらないを完全に無視して我が道を行くのは(昭和平成に比べて)難しい。理屈のうえでは、ネットを遮断し完全スタンドアロンなオタクライフをやれなくはないけれども、それが2020年代のオタクライフの雛型とは思えない。常時接続が当たり前で愛好家同士が繋がりあう環境のなかでオタクをやるのは、たとえば、同人誌即売会や都会のSF同好会に行かなければ同好の士に会えなかった環境のなかでオタクをやるのと違っていてしかるべきだろう。
 
これらを踏まえると、理想のオタク像も理想のオタクライフも昭和平成とは違っていてしかるべきだし、若い世代は令和の環境に最適化しているだろう。令和の環境への最適化が、昭和のおたくや平成のオタクからみてオタクと認定しやすいものかどうかはわからない。だけど少なくとも、10~20代のオタクの最適解が昭和や平成のオタクの最適解と同じだと決めてかかるのはおかしいし、おそらく間違っているだろう。
 


 
「作り手こそがオタク」という話にしても、何を作るのか・どう見せるのか・どう伝えるのか・自分のモチベーションをどう保つのかは、令和の環境に最適化されている人が有利になりやすく、作り手として伸びやすかろう。たとえば令和の環境で伸びやすい作り手の条件のひとつに、SNSでのコミュニケーションが上手い──少なくとも創作活動の足を引っ張るほど下手ではない──ことが含まれていてもおかしくはない。SNSなどによる共時性の高まりやコミュニケーションの頻度上昇に適合している作り手か、そうでない作り手かによって、オタクライフの楽しみやすさだけでなく伸びしろもかなり違うはずで、そうしたものに背を向けてスタンドアロンに徹するのは、繋がりが少なかった時代より不利で、珍奇だろう。
 
13年前、私は「オタク界隈という"ガラパゴス"にコミュニケーションが舶来しましたよ」という文章を書いたことがあった。その文章の終わりに、
 

 他の文化圏から切り離された絶海の孤島としてのオタク界隈は、かつてはコミュニケーション貧者にとっての貧民窟だったかもしれない、けれどもコミュニケーション諸能力を問われない、ある種のパラダイスでもあったんだと思うんです。ですがそれももう終わりのようです。お洒落なオタクが増えました。気の利くオタクも増えました。多趣味なオタクも増えました。……もう、オタクだからコミュニケーション貧者だとか、オタクだからコミュニケーション不要だとか、そういう話は少しづつ通用しなくなってると思うんです。時代は変化していますし、オタクも、オタク界隈も変化している。“ガラパゴス”にも、“コミュニケーション”が舶来しました。近未来のオタク界隈がどう変化していくのかを考えるうえで、この変化を無視するわけにはいかないでしょう。

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20080530/p1

と書いたが、その近未来にあたる2021年のオタクにとってここでいう"コミュニケーション"の必要性はまさに高まった。だったら作品鑑賞・作品批評・作品創作いずれのオタクであれ、ガチオタであれヌルオタであれ、理想とされるありようや佇まいは昔と違って然るべきで、たぶんだけど、昭和平成のオタクからみて「なんだかコミュニケーションに力点を置いている度合いが高くみえる」「なんだか"キョロ充"や"ミーハー"寄りにみえる」ぐらいのところに最適解があるんじゃないだろうか。
 
 

私自身の感想を述べるなら

 
2021年の理想のオタクって何? という話はここまで。以下は蛇足かもしれない。
 
冒頭リンク先を読んで私が一番気になったくだりについて、個人的に感じたことを書いてみる。
 
 

本来、趣味も好きなこともやりたいことも、自然に湧き上がってくるのを待てばいいはずだが、彼らは悠長にそれを待つことができない。なぜなら、インターネット、特にSNSからは、すでに名前や顔が売れている同世代のインフルエンサーたちによる“キラキラした個性的なふるまい”が、嫌でも目に入ってくるからだ。

学生のうちからPVを稼ぎまくるブロガー。イラストに「いいね!」がつきまくるアマチュア絵師。博識を極めた結果、崇められるガチオタ。キラキラした交友関係を誇示する学生起業家……そんな“個性的”な彼らと“無個性”な自分を比べ、焦らないはずがない。もし筆者がいま大学生だったら、きっと同じように焦るだろう。

ここに、「筆者がいま大学生だったらきっと同じように焦るだろう」と書いてあるが、本当にそうものだろうか? よその人が勝手にキラキラしているのを見て焦る人はオタクに向いていないと同時に、なんだか色々なことに向いていない気がする。さっきまで書いてきた文章と矛盾しているように読めるかもしれないが、よその人のキラキラに焦らなければならない心性を抱えているのも、それはそれで2021年のオタクとして適性が乏しい人、という気もするのだ。
 
よその人が勝手にキラキラしているのを凄いと思ったり、ほんのりリスペクトしたりするのは構わない。むしろ思春期において良いぐらいかもしれない。だけど、マイペースに自分の好きなものを追いかけていけること、自分の好きなものに外からの刺激だけでなく内からの衝動によっても巡り合えることがオタクとしてもSNS時代に流されない令和人の社会適応としても大切なことになっているよう、私には思える。もしその人がSNS上で令和風の(器用な)オタクをやっていくとしても、だ。
 
よその人がキラキラしているのを直視し過ぎて、焦って自分は何者でもないと思い込み過ぎて、他人の好きなことをコピーアンドペーストし過ぎている人だと、オタクになれないだけじゃなく、たとえばオンラインサロンの良くないところで良くない模倣をしてみたり、ツイ廃になってしまったりして、危なっかしいのではないだろうか。平成時代のトレンディドラマが流行していた頃もそういう人は危なっかしかったが、当時に比べて情報の流速が早くなり、そういう個人を探し当てて食い物にするノウハウが蓄積している今は、とりわけ危ないんじゃないかと思う。
 
他人のキラキラを見て焦らなければならない心性はどこから来るのか? それは遺伝的傾向にも生育環境にも依るだろう。学校で充実した人間関係が持てたかどうか、充実とまではいかなくても自分の好きなものを好きといえる生活を続けられたかどうか、そういったものにも左右されるだろう。
 
この文章の前半で書いたことと後半で書いていることを矛盾としてではなく、アウフヘーベンさせるとしたら、「作品もコミュニケーションも過密になった環境をフォローしつつ、それでいて自分自身の好きなものを見失ってしまわない芯を持った人がオタクとしても令和人としても重要」みたいな感じになるだろうか。「」のなかの前段の特徴と後段の特徴を矛盾させず、調和させていることも重要だ──「」の前段を意識しすぎて後段がグシャグシャになってしまう人、後段を絶対視するあまり前段がおろそかになってしまう人がとても多いからだ。
 
書いてみるとなんだか陳腐で、どこの方面でも有利になりそうな傾向に辿りついてしまった。オタクか令和人かに関係なく、これは社会適応の要石でしょう。時代の流れに乗りながら自分を見失わない人は、いつの世もつよいですね。