シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ネットサービスによって「何者かになりたい」気持ちが(結構)変わる話

 
kensuu.com
 
先週末、ネットサービスを作っているけんすうさんが"「何者かになりたくなる」SNSはそろそろ衰退していくのではないか"、というタイトルの記事をnoteで書いておられた。
 
タイトルにもあるとおり、これは予測ではなく予感として読むべきものなのだろう。そうした前提にたったうえで、現在のツイッターやインスタグラムに欠如し、これから台頭してくるネットサービスにありそうな(場の)機能として
 

・すごい人が、すごい人目線で発信するものではなくて、普通の人でも発信できる場をつくる
・意見の価値が下がる = 何かモノを創る人が増えて、そういう人たちの人気があがる

 

イラストレーターさん、漫画家さん、ハンドメイド作家さんとかが、モノを創っているのを淡々と投稿したり、ギターの練習している人が淡々とやってたりするんですが、何日も続けていると、だんだんとなぜか観る人が増えたりして、少しずつ交流が生まれたりするという不思議な雰囲気になりつつあります。

 
を挙げてらっしゃる。
 
で、この文章内容とタイトルが私の新著のタイトルが偶然の一致をみたので、「何者かになりたい」気持ちとネットサービスの関連について思うところを書いておく。
 
 

「それって、昔のはてなダイアリー、昔のニコニコ動画だったのでは?」

 
さきほども貼り付けたけど、けんすうさんのnote記事には
 

・すごい人が、すごい人目線で発信するものではなくて、普通の人でも発信できる場をつくる
・意見の価値が下がる = 何かモノを創る人が増えて、そういう人たちの人気があがる

 

イラストレーターさん、漫画家さん、ハンドメイド作家さんとかが、モノを創っているのを淡々と投稿したり、ギターの練習している人が淡々とやってたりするんですが、何日も続けていると、だんだんとなぜか観る人が増えたりして、少しずつ交流が生まれたりするという不思議な雰囲気になりつつあります。

 
と書かれている。
 
これを読んでまず思ったのは、「これって、昔のはてなダイアリーやニコニコ動画では?」だった。匿名掲示板もそうだったに違いない。
 
たとえば00年代のはてなダイアリーとはてなブックマークを思い出すと。そこはまさに「すごい人がすごい人目線で発信するものでなく、普通の人でも発信できる場」で、すごい人と普通の人がフラットなコミュニケーションをやってのけられる場だった。プロもセミプロもアマチュアも関係なく、何かを創るプロセスや実験過程をアウトプットし、うっすらとした顔見知り関係や仲間意識が芽生えたりした。
 
残念ながら、その後のはてなブログやはてなブックマークは(ツイッターやインスタグラムほど極端ではないにせよ)フラットな場としての機能、ゆるい承認と所属の起こる場としての機能を失っていった。書く側と観る側、発信者と受信者の曖昧な感じ、コミュニティ感覚などが失われてしまったともいえる。いずれにせよ、(株)はてな のサービス群がけんすうさんがおっしゃった要件を満たしていた時期は間違いなくあった。
 
この、過去のはてなダイアリーとはてなブックマークを思い出すと、新しいネットサービスが上昇気流に乗っている時にはけんすうさんが挙げる条件が自動的に揃うのではないか、などとつい思ってしまう。当のツイッターやインスタグラムでさえ、10年以上前ははまずまずそうだった。
 
ネットサービスは、メジャーになればなるほど、ビジネスや政治の草刈り場になればなるほど、ビジネスや政治の力学が強く働くようになり、居心地が悪くなってしまうのかもしれない。現在のツイッターでは、それほど大きくないアカウントの人でも、自分の投稿にリツイートやいいねが数百数千と集まると「せっかくなので宣伝を」と断りながら自分の利害に関係のありそうな宣伝を始める。ある程度アカウントが大きく、すれきった、ハゲタカみたいなおじさんやおばさんばかりがそうするのかと思いきや、零細で、若く、普段はプライベートなことをつぶやいている若者アカウントまでもがそのような所作に淫している。
 
淫している、というと大袈裟かもしれない。が、普段はプライベートなことをつぶやいている若者アカウントまでも宣伝をこなしてしまう程度には、ツイッターは利害の力学がはたらく場として周知されてしまっている、のだと思う。そのような周知は、けんすうさんがおっしゃる諸条件を遠ざけてしまうに違いない。一部のインフルエンサーとその取り巻きが悪目立ちしていることが問題である以上に、もっとカジュアルにツイッターやインスタグラムを用いている人にまで利害の力学に巻き込まれてしまう場になっていることのほうが、本当は根深い問題ではないだろうか。
 
いわゆるSNS疲れは、ある程度までは個人精神病理の問題と(そのネットサービス上において必要となる)コミュニケーション能力の問題に依るけれども、ある程度からは(そのネットサービス上で)利害の力学を意識させられる度合い、いわば遊びを仕事にしてしまう場の色合いに依る。遊びが仕事になれば生産性は高まるかもしれないが、遊びならではの面白さや居場所感は失われてしまう。けんすうさんのおっしゃるツイッターやインスタグラムのどぎつさのある部分(全部ではない)は利害の力学に由来していて、これが進行すれば、ノンバーバル主体のネットサービスといえども辛くなってくる予感はあり、それを察知したネットユーザーは渡り鳥のように次のサービスに移っていくのでしょう。
 
 追記:ネットサービスやネットコミュニティが「アカウントが顔見知り同士な」「ローカルな感覚を伴っている時に」こうした遊びならではの面白さや居場所感は醸成しやすい、とも言えるかもしれない。いきなりグローバルな雰囲気だとたぶん無理。
 
 

アーキテクチャが違えば繋がりも「何者」も変わる

 
それと、自分が参加している場のコミュニケーションの様式や、コミュニケーションの冗長性の程度によって「何者かになりたい」って気持ちのありようは左右される。
 
たとえばネットサービスが台頭してくる以前、「何者かになりたい」と願う人は、たぶん、東京に出てこなければならなかった。当時は東京一極集中が今ほど極端じゃなかったから、大阪や京都や札幌でも良かったのかもしれない。「何者かになりたい」という願いは、オフラインの場をとおして成就させるほかなかった。
 
と同時に、これは現在でもそうだけど、「何者かになりたい」「自分は何者にもなれない」の有力な出口戦略は、自分が気持ち良く所属していられる居場所や人間関係を手に入れることだった。学校でも家庭でも職場でもそうだけど、自分がいっぱし扱いされていて、メンバーシップの一員として貢献できていて、居心地が良いと感じている状態の時には「何者かになりたい」「何者にもなれない」と意識する度合いは少なくなる。たとえば地元の学校を楽しく卒業し、家庭にも職場にも満足している地方在住の人がわざわざ上京したがるものだろうか? そうではなく、この家庭・この職場でやっていきたいと思うに違いない。
 
でもって、これはネットサービスにもある程度当てはまる。
 
自分がいっぱし扱いされていて、メンバーシップの一員として貢献できていて、居心地が良いと感じている状態を提供してくれるネットサービスを使っている時には、「何者かになりたい」「何者にもなれない」と意識すること自体が少なくなる。そういう状況下でもなお、自分自身がインフルエンサーにならないと気が済まない人はそれほど多くない。「自分」とか「何者」とかいった意識から距離を置きながら、メンバーの一員として活動・活躍しやすくなる。
 
これは、新しいネットサービスでだけ起こるものではなく、昔から起こるものだと思う。たとえば00年代のゲーム攻略wikiや匿名掲示板が賑わっていたのは、インフルエンサーになれるからではなく、そこに参加し、情報を書き込む一人一人が「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を体感できていたからではなかっただろうか*1。少なくとも、「何者かになりたい」だけでは、あの頃のゲーム攻略wikiや匿名掲示板を充実させていた人々のモチベーションは説明できない。ゲーム攻略wikiや匿名掲示板の常連メンバーとなっていた人は、もともと「何者かになりたい」と意識する度合いが少なかっただけでなく、常連メンバーになっていることで「何者かになりたい」と意識する度合いが減っていたのではないだろうか。
 
これはある種のオンラインゲームにも言えることで。良きにつけ悪しきにつけ、そこで「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を充たせているうちは、「何者かになりたい」という願いも「自分は何者でもない」という悩みもシュリンクする。
 
それともうひとつ、冗長性の問題。
音声や動画を使ったネットサービスには冗長性がある。まだ上手に表現できないけれども、冗長性の大小は「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」の体感度合いを左右していると思う。で、深夜ラジオが示しているように、よくわかっている語り手は自分だけがしゃべっている時でさえ、リスナーに「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を、または「共犯関係」を提供できたりする。よくわかっていない語り手同士でも、双方向性のネットサービスならそれらを感じるのは難しくないだろう。
 
音声や動画を使ったコミュニケーションには、文字や写真を使ったコミュニケーションには無い問題点や難しさもある。だから絶対そうだとは言い切れないけれども、だいたい平等に発言させてもらえる限りにおいて、「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を体感しやすいのは文字より音声や動画のほうだと思う。だから音声や動画を使ったコミュニケーションに惹かれる人がいるのはよくわかるし、そういう人はとっくに動画配信などをやっていることだろう。
 
まして、今は新型コロナウイルスのせいで「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」をオフラインで体感するのが難しくなっている。オフラインで充実したコミュニケーションをしていた人にとって、それに近い条件でコミュニケーションできるネットサービスが心地良く感じられるのは、当然だろう。
 
 

フォロワー数やいいね数は本当は重要じゃない

 
けんすうさんの冒頭文章から、だんだん離れてきてしまった。
 
なんにせよ、「何者かになりたい」という執着は、その人のコミュニケーション・その人がアクセスしている場所やメディア・その人の人間関係によって左右される。でもって、インフルエンサーになっているか否かや沢山のシェアやリツイートやいいねを獲得できているかどうかは、実はあまり重要な問題ではない、のだと思う。少なくとも、そうしたインフルエンサー的な立ち位置に立っていても「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった執着に強く囚われたままの人は珍しくないし、知名度を獲得せずともなんともない人なんてどこにでもいる。
 
そうしたなかで、自己顕示欲を刺激することの少ないネットサービスはもっと評価されていい気がするし、そういうネットサービスこそが「何者かになりたい」気持ちに対するベターな解答になる人は結構いると思う。逆にいえば、現在のツイッターやインスタグラムで「何者かになりたい」と思い悩んでいる人は、自分が用いるネットサービス、自分がコミュニケーションする場を変えたほうが近道なのかもしれない。お金を稼ぐとかそういうのはともかく、こと、心理面ではフォロワー数やいいね数に囚われても良いことは少ないんじゃないかなぁ。
 
 

何者かになりたい

何者かになりたい

Amazon
(↑この新刊は、「何者かになりたい」と願ったり「自分は何者でもない」と悩んだりしている人向けです)
 

*1:もちろんそうでない人、排除される人もいるわけで、そこに参加した全員がこうした体感を得ていたわけではない。でもそこで活動を続けるおおよそコアなメンバーなら、こうした体感を得ることができる

もし書くことがなくなったら、俺らは一体なんなんだ

 
書くことがなくなった - phaの日記
 
リンク先の文章がアップロードされた時、半目でそっと、逃げるように全文を読んだ。読んではいけないものを読んだ気分になった。
 
それから丸一日が経ち、寝る前に再び「書くことがなくなった」というタイトルを思い出していたら、おなかが痛くなってきた。心に引っかかっていることがある時の、そういう腹痛だとすぐにわかった。やっぱり他人事ではなかったのだ。他人事ではないから逃げるように読み、ブックマークすることもツイッターで言及することもなかった。が、腹痛をとおしてこれが自分の問題だとハッキリ認識した。たぶん、私と同じぐらいの年齢の、だんだんオンライン上で文章を書かなくなっていった人たちも他人事ではないだろう。
 
phaさんが言う「書くことがなくなった」の内実はどういうものだろう? あくまでオンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書くことがなくなったのか。それとも本当は、有料の、読者と言って良い人に向けた文章も書くことがなくなったのか。
 
どちらもあり得ない話ではない。でも、phaさんはエリーツのメンバーとして活躍しているのだから、きっと「書くことがなくなった」のは表現全般が枯れたのでなく、オンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書くことがなくなったのだと解釈することにした。
 
だけどphaさん、もし、俺らがオンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書かなくなったら、そりゃあいったい何者なんですか。俺らはいったい何者だったんでしょうね。phaさんは「書くことがなくなっていく」ことに、忸怩たる思いとか、そういうのないんですか。ないような雰囲気で書いてらっしゃいますけれども、本当に、ないんですか。
 
……phaさんは私のように囚われないから、実際そうなのかもしれない。ここまで書いてみて、ようやく「phaさんの場合はそうなのかもしれませんね」と思えてきましたよ。でも私はそうではない。自分の出自として、自分のアイデンティティとして、自分の歴史としてたとえばブログを書くことを簡単に捨てられない。捨てられないのに、ああ、私も「書くことがなくなった」と思い始めている。
 
ますますおなかが痛くなってきた。
バカヤロー、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ。答えるまでもない。好きだったからだ、俺が、彼が、彼女がブログを書いていたこと、SNSが登場した時に喜んで繋がりあったこと、それらが全部好きだったからだ。
 
気が付けば一人、また一人とここからいなくなっていった。コンビニ店長は昔ながらの筆致でブログを作っては潰しを繰り返し、そのたびに少しずつ遠いところに行ってしまった。小島アジコさんの姿を見かけることももう少ない。そして今、phaさんが書くことがなくなったとおっしゃっている。インターネットのもっと大きなお立ち台で活躍している人々だって、みんな変わっていった。たとえば切込隊長は、もう過去の切込隊長ではない。完全にやまもといちろう氏になっている。
 
ひろゆき氏だって、00年代のひろゆき氏と今のひろゆき氏では位置づけがぜんぜん違う。言っていることは似ているかもしれないが、ひろゆき氏というタレントは2021年から見ると違ってみえる。聞くところによれば、どこかの誰かがひろゆき氏をインフルエンサーとして支持しているのだという。
 
でもって我が身を顧みると、俺も足先から少しずつ変質し、錆びていっているのがわかる。普段は気付かないふりをしているだけで、自分もここからいなくなりそうになっている。まだしばらくはここにいられるだろう。けれどもいつか、突風に耐えかねてついに吹き飛んだトタン屋根のように、俺はここからいなくなってしまうかもしれない。
 
たとえ踏みとどまれたとしても、自分は常に変わり続けていく。昔と同じようにブログを書けないだけでなく、同じことをブログに書いたとしても、周囲に同じようには受け取ってもらえない。たとえば今、こうやって昔のようにphaさんのブログ記事にトラックバックを送った体裁で自分自身の問題を書いても、それが00年代の頃と同じようには受け取ってもらえない。たぶん、当時よりもずっと無意味で愚かしいことのようにうつるだろう。
  
だから畜生、phaさんまでもが「書けなくなった」と述べるのがよくわかるし、わかったうえでphaさんまであちらにいってしまう、いや、もうとっくにいってしまっていたらしきことに打ちのめされているのだ。
 
 

ここで書くことには、かけがえのなさがあったはずだ

 
俺たちが無料で書く営みのなかには、もともと、かけがえのない何かが含まれていたのだと思う。もちろんすべての表現は混合物だから純粋無垢だなんていうつもりはありませんよ。だけどあの頃、無我夢中で文章を書いていた頃には、計算も売上も締め切りもない、自分自身が書かずにいられないパトスの結晶みたいなものがあったはずだ。
 
俺はまだ、そういうパトスの結晶みたいなものを抽出すること、それも、お金や利害のあまり関与しない場所にアップロードすることにかけがえのなさを感じているから、まだこの「シロクマの屑籠」を続けているし、こうやって計算や売上や〆切とは無関係な文章を打ち続けている。リスクとベネフィットの観点からすれば、こんな無駄なことはすべきではないのかもしれない。でも、これがなくなってしまったら、あなたは、いや、おれは、一体何者になってしまうのか?
 
ここまで書いて、これが6月12日に自分が出す本の第六章の内容に近いと気づいた。よしよし、『何者かになりたい』発売予定! これはパトスと宣伝の幸福な結婚だ! かくのごとく煤汚れた俺ではあるけれども、それでもphaさんの「書くことがなくなった」を読んで衝撃を受けたのは事実だ。だから、反感なのか鎮魂なのか抗議なのか共感なのかわからない文章を、こうやってトイレのなかで書いている。
 
書いているうちに腹も落ち着いてきた。今日は大師陀羅尼錠を飲んで寝よう。あと何年ブログを書いていられるのかわからないけれども、もうしばらくは見送られる側ではなく、見送る側でいようとも思う。そのための努力は、まだやめないんだからな!
 
 

スーパーカブ、頭文字D、ゆるキャン△、それぞれが描いた景色

 
supercub-anime.com
 
先日、アニメ『スーパーカブ』を見始めて、描かれている景色にガツンとやられた。物語が進展していくうちに少し和らいだと思いかけたけれども、修学旅行編を見るにつけても、いやいや、やっぱり『スーパーカブ』は2021年のある側面を上手にデフォルメした作品だと思い直した。
 
 

滋味深い作品が描く、富が失われたロードサイドの今

 
アニメ『スーパーカブ』の美質・美点はたくさんあって、たとえばバイクの駆動音、好ましい脇役たち、滲んだようでクッキリとした描画などは、視聴すればするほど好きになっていった。この作品の風景の切り取り方が、今は楽しみでしようがない。
 
もとより主人公の小熊が女子高校生だったり、ご都合主義的なデフォルメがついてまわる作品ではある。でも、それで否定しまったらあの作品もこの作品も否定しなければならないわけで、そこで減点するのはナシだろう。
 
『スーパーカブ』の主な舞台は、2010年代後半とおぼしき山梨県北杜市の国道20号線沿いの地域だ。ひとことで地方と言っても色々あるが、ここで描かれているロードサイドは大規模ショッピングモールの賑わいとは無縁の過疎ったロードサイドだ。よくある地方の田舎、と言って差し支えないだろう。
 
主人公・小熊は、集合住宅で独り暮らしをしている。必要最低限のものだけを取りそろえた殺風景な部屋には、メディアと呼べるものがラジオしかない。携帯電話はいちおう持っているがガラケーで、いわゆるスマホ的な使い方をしているそぶりもない。白米に温めないレトルトをかけて昼食としている点、スーパーカブ乗りである点、さまざまな生活用品をホームセンターで間に合わせている点なども含めて、まるで地方の田舎の独居老人のような暮らしぶりだ。
 
その、地方の田舎の独居老人のような暮らしぶりが、好ましい雰囲気の女子高生アニメとして描かれ、アニメ愛好家から好評を得ているのが2021年であるなぁ……と思わずにいられない。地方の田舎の独居老人のような生活をしていた女子高生が、スーパーカブをとおして世界を広げていくのである。
 
こんなロードサイドの暮らしが、こんな風にデフォルメされて描かれることが、たとえば1990年代にあり得ただろうか? いや、あり得なかったに違いない。たとえばロードサイドの暮らしがデフォルメされた作品として『頭文字D』と『スーパーカブ』を比較すると、時代の違いに気が遠くなりそうになる。
 

 
『頭文字D』は大きくジャンルが異なる作品だけれども、(多分に美化された)マシンをとおして主人公の世界が広がっていく点、それに伴ってロードサイドの暮らしぶりが描かれている点は共通している。でも、『頭文字D』で主人公たちが乗るのはスーパーカブのような生活臭を伴ったマシンではなく、男子のロマンを乗せて疾走する国産車だった。実際、『頭文字D』がヒットした90年代後半は生活臭の乏しい国産車が憧れの対象になっていた時代で、ローンを組んで購入している男子も珍しくなかった。
 
『スーパーカブ』で耳にするエンジン音を聞いていると、私は地方のロードサイドで鳴り響いていた、もっとカネのかかったエンジンの音を思い出さずにいられない。地方のロードサイドでスポーティーな国産車のエンジン音を聞かなくなったのはいつ頃からだっただろう? 地方のロードサイドを潤していたあの富は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 
それと、『頭文字D』の主人公・拓海には地元の人間関係があった。拓海の父親にしてもそうだ。『頭文字D』にも90年代ならではの疎外は(デフォルメされていたとはいえ)描かれていたが、マシンをとおして世界が広がっていく以前から拓海には地元の人間関係があり、地元の世界があった。それと比べると、礼子に出会う前の小熊にはそういった地元の人間関係に相当するものがない。小熊は、ぽつねんと、あたかも社会制度やレトルト食品によって生き・生かされていたかのようにみえる。
 
地方のロードサイドの、あまり豊かではない圏域を舞台としたコンテンツとして、もう、『頭文字D』のような作品はなかなか成立しないようにみえる。高価なマシンをローンを組んで買うのが無理になったのもあるし、豊かではないさまの内実が変わったのもある。2020年代の地方のロードサイドで豊かではない圏域といえば、地元の人間関係に相当するものが欠如し、なおかつ生活に直結したマシンしか買えない・乗れないような圏域だろう。
 
原作者やアニメ版制作陣がどこまで意図しているのかわからないけれども、『スーパーカブ』には、この「2020年代の地方のロードサイドで本当に豊かではない圏域」らしさが漂っているように思う。いかにも過疎った風景だけでなく、その過疎ったロードサイドに暮らす小熊が地元の人間関係から隔絶され、社会制度やレトルト食品によって生き・生かされているさまが描かれているのが、とても印象的だった。
  
でもって、そんな小熊がマシンとの出会いをとおして世界を広げていくというファンタジーを大勢の視聴者が楽しみ、訴求力あるコンテンツとして成立していること自体も、どこか生々しい。『頭文字D』がコンテンツとして成立していた頃だったら、『スーパーカブ』のような作品がつくられることも、訴求力を持つことも難しかったのではないだろうか。
 
 

『ゆるキャン△』と好対照をなしている

 
ところで、地方のロードサイドがおしなべて豊かさを失った……なんてことはない。地方のロードサイドにも相応の豊かさが残っていて、それもそれでデフォルメされた作品が人気を博している。
 
同じ山梨県を舞台にした『ゆるキャン△』は、地方のロードサイドの豊かな圏域をうまくデフォルメ・コンテンツ化していると私は思う。
 

 
『ゆるキャン△』は、その名のとおりキャンプが主題の作品だが、キャンプを楽める程度には登場人物たちにはゆとりがある。登場人物たちは女子高生だから、もちろんキャンプ費用には四苦八苦している。けれども生活臭のある四苦八苦ではなく、志摩家や各務原家の描写からは、精神的にも文化的にも豊かな暮らしぶりがみてとれる。親族や友人との繋がりという点でも、デジタルディバイドという点でも、『ゆるキャン△』の登場人物は恵まれている。そうした地方の豊かさを土台として彼女たちの楽しいキャンプ生活が描かれている。
 
『スーパーカブ』と同じく、『ゆるキャン△』もさんざんデフォルメされたコンテンツ──主要メンバーが全員女子高生であることも含めて──に違いない。だとしても、『ゆるキャン△』で描かれている景色は『スーパーカブ』で描かれている景色とはだいぶ違う。どちらも山梨県の過疎ったロードサイドを舞台にした作品であり、旅が描かれる作品でもあるので、両者は見比べ甲斐がある。どちらが良いとか悪いとか、どちらが本物でどちらが嘘といった比較はナンセンスだ。両作品が描いている景色がそもそも違っていて、それぞれに見応えがあるのだから。
 
2021年5月現在、アマゾンプライムでは『スーパーカブ』と『ゆるキャン△』の両方が視聴できるので、興味をおぼえた人は両作品を見比べてみたら楽しいと思う。そして描かれている景色を心に刻み付けよう。『頭文字D』の景色が過去のものになっていったのと同じように、四半世紀もすれば、両作品が描いていた景色もまた、過去のものになっていくに違いないからだ。
  

『FILT』さんに、佐藤優さんとの対談記事が掲載されました

 
filt.jp
 
webマガジン『FILT』さんにて、作家の佐藤優さんとの対談記事がアップロードされています。この対談記事は、拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』に近いもので、時代が変わると社会の通念が変わり、生きづらさも変わっていくよね、といった内容です。
 
対談のなかで佐藤優さんは、ソ連邦の崩壊も引き合いに出しながら「健康的で清潔で道徳的な社会をきわめた社会状況も、いつかは崩れる時が来る」とおっしゃっていました。もちろんその時期がいつ頃かはわかりませんが、どんな社会や時代にも変化は訪れ、変わっていくのはそのとおりでしょう。変化の潮目を越えると、ガラガラ変わっていくことだってありそうです。
 
新型コロナウイルス感染症によって、健康や清潔が強く要請され、そこに道徳が紐つけられる社会状況が続いています。新型コロナウイルス感染症がおさまった後もしばらく続くかもしれません。では、これがずっと続くのかどうか。たとえばテック監視社会の進展は、これを維持させるでしょうけど、そうでない部分、たとえば社会保障費の伸び率と少子化の兼ね合いや近隣諸国との関係のなかで、案外あっさり退潮に向かうかもしれません。いったん退潮に向かえば、社会の外骨格となっていた通念や習慣も簡単に変わるでしょう。そうなった時、21世紀前半の私たちの通念や習慣はどのように顧みられるのでしょうね。
 
波乱万丈な人生を歩んできた佐藤優さんだからでしょうか、「そうした変化があってもそれぞれの状況で腐ることなく、為せることを為していく」というスタイルがお話のあちこちから窺われました。社会も人も変わっていくことをよく見知っている人が、それでも不貞腐れるのでなく、その場でできることを為していったからこそ、佐藤優さんは作家として立っているのだと思いました。
 
果たして私は佐藤優さんと同じぐらいの山や谷に直面しても、不貞腐れずに社会の変化を語れるだろうか? まったく自信がありません。でも、そういうことを考える機会をいただき、印象の残る対談となりました。現在の私は次の出版企画のことに専ら頭が向かっていますが、娑婆世界の移ろいについても、機会を改めて何か書いてみたいものです。
 

50代からの人生戦略

50代からの人生戦略

  • 作者:佐藤 優
  • 発売日: 2020/01/08
  • メディア: Kindle版
(年齢的に参照せずにいられなかった佐藤優さんの書籍)
 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
(好評発売中です)
 

『何者かになりたい』が出版されます

 

何者かになりたい

何者かになりたい

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2021/06/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
このたび私は、「何者かになりたい」という願い、「何者にもなれない」という悩みについての本を出していただく運びとなりました。
 
 

 
 



   

SNS時代の「何者」とは、いまどきのアイデンティティの問題とは

 
 中年期を迎えた私自身にとって、「何者かになりたい」という願いや悩みは新しい問題ではありませんでした。先達が残したアイデンティティ論のおかげもあり、私のなかでは回答が出ている問題だと思っていました。もう回答があるから、わざわざ語るまでもあるまい──そうも考えていました。
 
 ところが2020年、ある編集者さんから「何者かになりたい」「何者にもなれない」について熊代亨の本を読んでみたいとお誘いをいただき、アップトゥデイトな"何者問題"の本、さらに2020年代の個人のアイデンティティのありかたについての本を書く機会を得ました。
 
 改めて書き起こしてみると、SNS時代ならではのアドバンテージやリスク、さらに中年期以降の何者問題について、自分の捉えかたが昔と変わっていることに気付き、驚いてしまいました。とりわけ、自分が何者なのかを規定する要素、ひいてはアイデンティティを獲得する要素を、私は以前よりもずっと動的・群体的に捉えていると今は自覚していて、この本は、それに基づいて書きました。
 
 たとえば、自分は何者でもないと感じている人に必要なのは、他者からの称賛や承認でしょうか? もちろん! でも、直接的な称賛や承認が得られなくても、なんらかの居場所やメンバーシップの一員だと感じていれば悩む度合いは減るでしょう。いや、それどころか、twitterやFacebookでインフルエンサーの発言に「いいね」や「シェア」をしている瞬間も、"何者問題"がインスタントに緩和されているのではないでしょうか。
 
 逆に言うと、"何者問題"に悩んでいる人はそのインスタントな緩和のために「いいね」や「シェア」に溺れてしまうことがあり得る、ともいえます。ネット上で展開されるあれこれの極論に「いいね」や「リツイート」をつけている人達も、その大半は思想家や主義者ではなく、"何者問題"を解決したり緩和したりするインスタントな行動として、あれをやっているのではないでしょうか。
 
 あるいは他者からの称賛や承認を獲得して何者かになろうとするあまり、ソーシャルゲームに多額の課金をしてしまったり、危なっかしい配信をやってしまう人もいるでしょう。
 
 「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった"何者問題"は、こんな風にさまざまに人を動機づけます。悪い結果にばかり動機づけるのでなく、向上心やライバル意識などをとおして良い結果へと動機づけることもあるでしょう。それだけに、"何者問題"を取り扱う巧拙によって人の運命は大きく変わるとも想定されます。どうせなら、あなたの"何者問題"をできるだけ望ましい結果へと結びつけるよう、いろいろ知ったうえで工夫してみませんか。
 
 ……と、こんな具合に、この本は"何者問題"に今向き合っている人を主な想定読者として書いています。私が書いた本のなかでは、『認められたい』や『「若者」をやめて、「大人」を始める』にコンセプトが近くて、タイトルどおりの願いや悩みを持っている人に届けるべく作られた本だと思います。ご興味・関心のある方、「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった気持ちを持っている方に特におすすめします。よろしければ手に取ってやってください。(以下に、この本の"はじめに"を抜粋して貼り付けておきます)
 

『何者かになりたい』はじめに

 自分とは、いったい何者なのでしょうか。

 小さな子どもは自分が一体何者なのか、自分とはどういう人間なのかを深く考えることがありません。自分が何者なのかを知らなくても困らないまま、小さな子どもはそのままでいられます。
 
 ところが成長し、思春期を迎える頃にもなると、私たちは自分についてあれこれ考えはじめます。自分はこんな風になりたい……なりたい自分になれていない……こんなことを考える動物は、思春期以降の人間をおいてほかにありません。この本を手にするあなたも、「自分は何者なのか」「自分は何者になれるのか」考えたり悩んだりするのではないでしょうか。
 
 それともあなたは、名声や地位を確立した人と自分自身を見比べて「自分はまだ何者でもない」と落胆したり、「自分は何者にもなれそうにない」と焦っていたりするかもしれません。そうした落胆や焦りは思春期特有のものではなく、時には中年の男女がそう思うこともあります。
 
 どうして私たちは自分についてこんなに考えてしまうのでしょう?
 どうして私たちは「何者かになりたい」と願い、「何者にもなれない」と悩むので
しょう?
 
 この本では、こうした願い・悩みを「何者問題」と呼び、その分析と解決策の考案を行っていきたいと思います。
 
 この何者問題については、20世紀の心理学者や精神科医の先達がさまざまなヒントを書いています。たとえば私が自分について考えずにいられなかった頃、小此木啓吾という精神科医が書いた『モラトリアム人間の時代』という本を読み、自分の成長戦略のヒントにさせてもらいました。この『モラトリアム人間の時代』は優れた解説書ですが、出版されたのが1978年と古く、さすがに今の時代には合わない部分も出てきています。また、全体的に文章が硬く感じられ、読みにくいと感じる人もいらっしゃるかもしれません。

 そこで私は、2020年代にふさわしい内容と文体の何者問題についての本をつくろうと考えました。バブル景気が崩壊する前と後や、スマホやSNSが当たり前になる前と後では、私たちのコミュニケーションも、社会状況もかなり違っています。それに伴って、「何者かになりたい」ときに頼るべき手段も、「何者にもなれない」と悩んでいる人が注意しなければならないことも、変わってきていると私は見ています。
「何者かになりたい」という願いのために成長戦略を立てるにしろ、「何者にもなれない」という悩みを解消していく方法を考えるにしろ、20世紀の解説書のコピーアンドペーストではたぶんうまくいきません。控えめに言っても、20世紀の心理学者や精神科医が考えなくてもよかったことを考えておく必要性があるでしょう。
 
 私自身がもっとも強く「何者かになりたい」と願っていた時期は、インターネットが普及期を迎えていた1995 〜2010年くらいで、当時の私は自分の成長戦略の一部としてオンライン化されたコミュニケーションをあてにしていました。私の成長戦略はウェブサイトやブログやツイッターのおかげで少しずつ実を結び、2011年に最初の書籍を出版して以来、私の人生はだいぶ変わりました。いわば、私はオンライン化されたコミュニケーションをとおして「何者かになった」わけです。一方で、同じように成長戦略を達成していく人だけでなく、どんどん何者問題の深みにはまっていく人や、何者問題によって誰かに搾取されていく人もたくさん見てきました。
 
 いまどきの「何者かになりたい」や「何者にもなれない」について考える際、コミュニケーションがある程度までオンライン化されている前提は避けて通れません。私は平成生まれの方に比べて古い人間かもしれませんが、それでもインターネットの普及期からオンラインコミュニケーションと共に生きてきたぶん、そうでない同世代よりは若い人々に近いところがあるだろうと思っています。この本は、そういう精神科医が書いた「何者かになりたい」についての本だとご理解いただいたうえで、お読みいただければと思います。
 
 以下、簡単にこの本の章立てをご紹介します。
 第1章は、他人から褒められたり評価されたりすることで「何者かになる」ことの難しさについてです。昨今は競争社会といわれ、高学歴や高収入を目指す人が増えています。フォロワー数の多いSNSのアカウントや、登録数の多い動画配信チャンネルを持つことで何者かになろうとする人もいらっしゃるでしょう。でも、実際はそうシンプルに「何者かになれる」わけではありません。こうした、いわゆる承認欲求を充たす方向性の成長戦略は、時に自分が何者かわからなくなってしまうリスクを伴っています。そうした注意点についても触れていきます。
 
 第2章は、人間関係や仲間意識が何者問題にもたらす影響についてです。「何者かになりたい」「何者にもなれない」というと、どこまでも自分自身のことだから他人は関係ない、と思う方もいらっしゃるでしょう。ところがそうでもないのです。たとえばバーベキューの輪のなかにあなたがうまく溶け込めているとき、少なくともその最中は何者問題に悩まなくなるのではないでしょうか。こんな具合に、人間関係や仲間意識によって何者問題は大きな影響を受けます。その影響について、注意点もまじえながら紹介します。
 
 第3章は、何者問題を「アイデンティティ」という心理学の言葉で説明し、願いや悩みにどう向き合えばいいのかまとめました。何者問題を解決していく方法を心理学の言葉で言い換えるなら、それは「アイデンティティを獲得・確立していきましょう」となります。ただし、たとえばクラスの人気者と不登校の人ではそのための方策はだいぶ違ったものになるはずです。同様に、「何者かになりたい」という願いが優勢な人と「何者にもなれない」という悩みが優勢な人でも、とるべき解決法は変わってくるでしょう。そうしたケースバイケースな部分を意識しながら解決策を示してみます。
 
 第4章は、何者問題と恋愛や結婚、パートナーシップについての章です。恋愛や結婚やパートナーシップが、何者でもない自分の最終的な解決策になると考える人もなかにはいるかもしれません。確かにそれらはあなたの何者問題と大きく関係していますし、強い影響を与える可能性があります。しかし本当にそれらは何者問題の特効薬になるのでしょうか? 恋愛や結婚やパートナーシップがもたらすものについて、のちのち家族をつくる段階も含めてここで展望してみます。
 
 第5章は、子ども時代が何者問題に与える影響についてです。はじめに書いたように、小さな子どもは自分がどういう人間なのか自問自答することはありません。だからといって、子ども時代がこの問題に与える影響が小さいかといったら、そうでもありません。子どもの心理発達の視点からみた何者問題について、ここで紹介してみます。
 
 第6章は、思春期を過ぎたあとに起こり得る何者問題に迫ります。親になったあとや中年期を過ぎたあとでも、何者問題は起こり得ます。しかも、それまでとは形を変えて。年をとって人生の残り時間が短くなっていくなかで、人は若者から大人へと変わっていかなければなりません。また、子離れや死別など、自分自身のアイデンティティの一部をなしていたものと別れるライフイベントもあります。そうした変化のなかで何者問題がどのように変化し、どのような新しい課題が現れてくるのか、予習をしていただきます。
 
 メインの章はここまでになりますが、何者問題についてのいくつかのハウツーや具体的な問題についてまとめた補論を最後に付け加えました。そちらもあわせてお読みください。
この本を読めば、「何者かになりたい」願いや「何者にもなれない」悩みについて、だいたいの見通しと、あなたが取り組むべき課題がおおよそ把握できるのではないかと思います──。
 
 (はじめに、ここまで)



 
何者かになりたい

何者かになりたい

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2021/06/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
※以下の2冊は、近いコンセプトでつくられた兄弟みたいな本です。よろしければどうぞ。
 
認められたい

認められたい

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2017/02/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)