シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ネットサービスによって「何者かになりたい」気持ちが(結構)変わる話

 
kensuu.com
 
先週末、ネットサービスを作っているけんすうさんが"「何者かになりたくなる」SNSはそろそろ衰退していくのではないか"、というタイトルの記事をnoteで書いておられた。
 
タイトルにもあるとおり、これは予測ではなく予感として読むべきものなのだろう。そうした前提にたったうえで、現在のツイッターやインスタグラムに欠如し、これから台頭してくるネットサービスにありそうな(場の)機能として
 

・すごい人が、すごい人目線で発信するものではなくて、普通の人でも発信できる場をつくる
・意見の価値が下がる = 何かモノを創る人が増えて、そういう人たちの人気があがる

 

イラストレーターさん、漫画家さん、ハンドメイド作家さんとかが、モノを創っているのを淡々と投稿したり、ギターの練習している人が淡々とやってたりするんですが、何日も続けていると、だんだんとなぜか観る人が増えたりして、少しずつ交流が生まれたりするという不思議な雰囲気になりつつあります。

 
を挙げてらっしゃる。
 
で、この文章内容とタイトルが私の新著のタイトルが偶然の一致をみたので、「何者かになりたい」気持ちとネットサービスの関連について思うところを書いておく。
 
 

「それって、昔のはてなダイアリー、昔のニコニコ動画だったのでは?」

 
さきほども貼り付けたけど、けんすうさんのnote記事には
 

・すごい人が、すごい人目線で発信するものではなくて、普通の人でも発信できる場をつくる
・意見の価値が下がる = 何かモノを創る人が増えて、そういう人たちの人気があがる

 

イラストレーターさん、漫画家さん、ハンドメイド作家さんとかが、モノを創っているのを淡々と投稿したり、ギターの練習している人が淡々とやってたりするんですが、何日も続けていると、だんだんとなぜか観る人が増えたりして、少しずつ交流が生まれたりするという不思議な雰囲気になりつつあります。

 
と書かれている。
 
これを読んでまず思ったのは、「これって、昔のはてなダイアリーやニコニコ動画では?」だった。匿名掲示板もそうだったに違いない。
 
たとえば00年代のはてなダイアリーとはてなブックマークを思い出すと。そこはまさに「すごい人がすごい人目線で発信するものでなく、普通の人でも発信できる場」で、すごい人と普通の人がフラットなコミュニケーションをやってのけられる場だった。プロもセミプロもアマチュアも関係なく、何かを創るプロセスや実験過程をアウトプットし、うっすらとした顔見知り関係や仲間意識が芽生えたりした。
 
残念ながら、その後のはてなブログやはてなブックマークは(ツイッターやインスタグラムほど極端ではないにせよ)フラットな場としての機能、ゆるい承認と所属の起こる場としての機能を失っていった。書く側と観る側、発信者と受信者の曖昧な感じ、コミュニティ感覚などが失われてしまったともいえる。いずれにせよ、(株)はてな のサービス群がけんすうさんがおっしゃった要件を満たしていた時期は間違いなくあった。
 
この、過去のはてなダイアリーとはてなブックマークを思い出すと、新しいネットサービスが上昇気流に乗っている時にはけんすうさんが挙げる条件が自動的に揃うのではないか、などとつい思ってしまう。当のツイッターやインスタグラムでさえ、10年以上前ははまずまずそうだった。
 
ネットサービスは、メジャーになればなるほど、ビジネスや政治の草刈り場になればなるほど、ビジネスや政治の力学が強く働くようになり、居心地が悪くなってしまうのかもしれない。現在のツイッターでは、それほど大きくないアカウントの人でも、自分の投稿にリツイートやいいねが数百数千と集まると「せっかくなので宣伝を」と断りながら自分の利害に関係のありそうな宣伝を始める。ある程度アカウントが大きく、すれきった、ハゲタカみたいなおじさんやおばさんばかりがそうするのかと思いきや、零細で、若く、普段はプライベートなことをつぶやいている若者アカウントまでもがそのような所作に淫している。
 
淫している、というと大袈裟かもしれない。が、普段はプライベートなことをつぶやいている若者アカウントまでも宣伝をこなしてしまう程度には、ツイッターは利害の力学がはたらく場として周知されてしまっている、のだと思う。そのような周知は、けんすうさんがおっしゃる諸条件を遠ざけてしまうに違いない。一部のインフルエンサーとその取り巻きが悪目立ちしていることが問題である以上に、もっとカジュアルにツイッターやインスタグラムを用いている人にまで利害の力学に巻き込まれてしまう場になっていることのほうが、本当は根深い問題ではないだろうか。
 
いわゆるSNS疲れは、ある程度までは個人精神病理の問題と(そのネットサービス上において必要となる)コミュニケーション能力の問題に依るけれども、ある程度からは(そのネットサービス上で)利害の力学を意識させられる度合い、いわば遊びを仕事にしてしまう場の色合いに依る。遊びが仕事になれば生産性は高まるかもしれないが、遊びならではの面白さや居場所感は失われてしまう。けんすうさんのおっしゃるツイッターやインスタグラムのどぎつさのある部分(全部ではない)は利害の力学に由来していて、これが進行すれば、ノンバーバル主体のネットサービスといえども辛くなってくる予感はあり、それを察知したネットユーザーは渡り鳥のように次のサービスに移っていくのでしょう。
 
 追記:ネットサービスやネットコミュニティが「アカウントが顔見知り同士な」「ローカルな感覚を伴っている時に」こうした遊びならではの面白さや居場所感は醸成しやすい、とも言えるかもしれない。いきなりグローバルな雰囲気だとたぶん無理。
 
 

アーキテクチャが違えば繋がりも「何者」も変わる

 
それと、自分が参加している場のコミュニケーションの様式や、コミュニケーションの冗長性の程度によって「何者かになりたい」って気持ちのありようは左右される。
 
たとえばネットサービスが台頭してくる以前、「何者かになりたい」と願う人は、たぶん、東京に出てこなければならなかった。当時は東京一極集中が今ほど極端じゃなかったから、大阪や京都や札幌でも良かったのかもしれない。「何者かになりたい」という願いは、オフラインの場をとおして成就させるほかなかった。
 
と同時に、これは現在でもそうだけど、「何者かになりたい」「自分は何者にもなれない」の有力な出口戦略は、自分が気持ち良く所属していられる居場所や人間関係を手に入れることだった。学校でも家庭でも職場でもそうだけど、自分がいっぱし扱いされていて、メンバーシップの一員として貢献できていて、居心地が良いと感じている状態の時には「何者かになりたい」「何者にもなれない」と意識する度合いは少なくなる。たとえば地元の学校を楽しく卒業し、家庭にも職場にも満足している地方在住の人がわざわざ上京したがるものだろうか? そうではなく、この家庭・この職場でやっていきたいと思うに違いない。
 
でもって、これはネットサービスにもある程度当てはまる。
 
自分がいっぱし扱いされていて、メンバーシップの一員として貢献できていて、居心地が良いと感じている状態を提供してくれるネットサービスを使っている時には、「何者かになりたい」「何者にもなれない」と意識すること自体が少なくなる。そういう状況下でもなお、自分自身がインフルエンサーにならないと気が済まない人はそれほど多くない。「自分」とか「何者」とかいった意識から距離を置きながら、メンバーの一員として活動・活躍しやすくなる。
 
これは、新しいネットサービスでだけ起こるものではなく、昔から起こるものだと思う。たとえば00年代のゲーム攻略wikiや匿名掲示板が賑わっていたのは、インフルエンサーになれるからではなく、そこに参加し、情報を書き込む一人一人が「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を体感できていたからではなかっただろうか*1。少なくとも、「何者かになりたい」だけでは、あの頃のゲーム攻略wikiや匿名掲示板を充実させていた人々のモチベーションは説明できない。ゲーム攻略wikiや匿名掲示板の常連メンバーとなっていた人は、もともと「何者かになりたい」と意識する度合いが少なかっただけでなく、常連メンバーになっていることで「何者かになりたい」と意識する度合いが減っていたのではないだろうか。
 
これはある種のオンラインゲームにも言えることで。良きにつけ悪しきにつけ、そこで「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を充たせているうちは、「何者かになりたい」という願いも「自分は何者でもない」という悩みもシュリンクする。
 
それともうひとつ、冗長性の問題。
音声や動画を使ったネットサービスには冗長性がある。まだ上手に表現できないけれども、冗長性の大小は「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」の体感度合いを左右していると思う。で、深夜ラジオが示しているように、よくわかっている語り手は自分だけがしゃべっている時でさえ、リスナーに「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を、または「共犯関係」を提供できたりする。よくわかっていない語り手同士でも、双方向性のネットサービスならそれらを感じるのは難しくないだろう。
 
音声や動画を使ったコミュニケーションには、文字や写真を使ったコミュニケーションには無い問題点や難しさもある。だから絶対そうだとは言い切れないけれども、だいたい平等に発言させてもらえる限りにおいて、「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を体感しやすいのは文字より音声や動画のほうだと思う。だから音声や動画を使ったコミュニケーションに惹かれる人がいるのはよくわかるし、そういう人はとっくに動画配信などをやっていることだろう。
 
まして、今は新型コロナウイルスのせいで「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」をオフラインで体感するのが難しくなっている。オフラインで充実したコミュニケーションをしていた人にとって、それに近い条件でコミュニケーションできるネットサービスが心地良く感じられるのは、当然だろう。
 
 

フォロワー数やいいね数は本当は重要じゃない

 
けんすうさんの冒頭文章から、だんだん離れてきてしまった。
 
なんにせよ、「何者かになりたい」という執着は、その人のコミュニケーション・その人がアクセスしている場所やメディア・その人の人間関係によって左右される。でもって、インフルエンサーになっているか否かや沢山のシェアやリツイートやいいねを獲得できているかどうかは、実はあまり重要な問題ではない、のだと思う。少なくとも、そうしたインフルエンサー的な立ち位置に立っていても「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった執着に強く囚われたままの人は珍しくないし、知名度を獲得せずともなんともない人なんてどこにでもいる。
 
そうしたなかで、自己顕示欲を刺激することの少ないネットサービスはもっと評価されていい気がするし、そういうネットサービスこそが「何者かになりたい」気持ちに対するベターな解答になる人は結構いると思う。逆にいえば、現在のツイッターやインスタグラムで「何者かになりたい」と思い悩んでいる人は、自分が用いるネットサービス、自分がコミュニケーションする場を変えたほうが近道なのかもしれない。お金を稼ぐとかそういうのはともかく、こと、心理面ではフォロワー数やいいね数に囚われても良いことは少ないんじゃないかなぁ。
 
 

何者かになりたい

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(↑この新刊は、「何者かになりたい」と願ったり「自分は何者でもない」と悩んだりしている人向けです)
 

*1:もちろんそうでない人、排除される人もいるわけで、そこに参加した全員がこうした体感を得ていたわけではない。でもそこで活動を続けるおおよそコアなメンバーなら、こうした体感を得ることができる