シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

2020年から見たエウレカセブン、良さ・しんどさ・わからなさ

 

 
2020年の夏アニメにはあまり食指が動かず、『放課後ていぼう日誌』と『ゼロから始める異世界生活 第二期』ぐらいしか見ていなかった。で、アマゾンPrimeを眺めていたら『交響詩篇エウレカセブン』が配信されていたので、これを見ることにした。
 
『エウレカセブン』は2005年にオンエアされた頃から自分の好みではない作品だとわかっていて、避けていた。オタクたるもの、自分の好きな作品と嫌いな作品はおおよそわかるべきで、好きな作品にこそ時間を費やすべきだと当時は思っていたからだ。いや、今だって本当はそうだと思っている。話題の作品を追いかけたりジャンルの系統的理解のために作品を見たりするのは、本来、サブカルや批評家のやることであって、オタクは自分の好きなものを知り、好きなものを追いかけるのが第一義だと思っているからだ。
 
なので『エウレカセブン』は課題図書のようなものだと思って視聴し、好みの作品ではなかったことを確認した。私の好みからいって『コードギアス』は見ても『エウレカセブン』を避けたのはオタクとして正しすぎたわけだが、そういう好き嫌いを抜きに2020年から眺めると色々と考えさせてくれるというか、歳月を感じて趣深かった。気づいたことを書いておきたくなったので書いてみる。
 
 

  • 第一に驚いた、というか面食らったのは、尺の長さとそれを生かした作風だった。

 『エウレカセブン』は全50話ぶっ通しの作品で、これは、いまどきの全13話作品に換算すれば4期ぶんにあたる。最近は26話構成の作品でも尺が長いと感じるところが、50話ともなれば途方もない長さだ。しかもいったん26話とかで区切るのでなく、ぶっつづけなのだ。
 
 しかし『エウレカセブン』はそのマラソンのような長さを上手く使っていて、主人公をはじめ、登場人物たちはゆっくりとしたスピードで成長していった。その成長スピードたるや、2020年のアニメからは信じられないほどの遅さで、若き主人公のレントンは40話ほど、その周囲の大人たちも30話ほどかけて成長していった。逆に言えば、はじめの20話ぐらいはみんな未熟で、その未熟な登場人物たちがギクシャクしたりぶつかったりする描写を凝視し続けなければならない。
 
 これは、登場人物の成長過程にある種のリアリティを与えてくれるという点では長所だが、いつまでも成長せずいつまでもディスコミュニケーションのたえない登場人物を我慢しなければならないという点では短所ともいえる。
 
 現在のアニメ視聴者は短い尺のアニメに慣れているから、20話も30話も成長過程を見なければならない作風が現代ウケするとは思えない。2005年の段階では……どうだったのだろう? 20世紀以前のアニメであれば、これぐらいの尺の長さは珍しくなかったので、アニメ視聴者は気長に眺めていられたような気がする。いやいや、20世紀以前のアニメを眺めている時、登場人物の成長とか、そういう小難しいことを意識していた覚えがない。それでも歴代のガンダムシリーズなどを思い出すに、登場人物の成長過程がゆっくりしていることは現在に比べて短所とみなされにくかったのではないか、とは思う。
 
 幸い、『エウレカセブン』は成長過程をゆっくりと、しかし丁寧に描いていた。レントンの未熟さがとにかく鼻につき、ゲッコーステイトの面々もホランドをはじめ問題だらけではあったけれども、彼らの未熟さや問題がひとつひとつ解決されていった。レントンがチャールズたちに拾われたプロセスも、不可欠な一幕としてきれいに挟まっていたと思う。エウレカを巡るストーリーと登場人物の成長過程がきれいにリンクしていて違和感がなく、後半は、成長した登場人物たちを大船に乗ったような心持ちで見ていられた。もちろん「丁寧に解決し過ぎだ」という批判もあり得るだろうけれども。
 
 賛否はともあれ、全50話の長さを生かして成長過程を描く手法は2020年のアニメではなかなか許されるものではないので、貴重な表現を観た気はした。視聴する側もアニメを作る側も、ゆっくりとした展開を許容する余裕を失って久しいわけで。
 

  • 前半は心細い展開、やきもきさせられる展開が多かった。

 たとえば、未熟な者同士のディスコミュニケーションが発生して、そのディスコミュニケーションによって物語が駆動するような話がごく当たり前のように展開される。物語が駆動するといえば聞こえがいいが、要は、ディスコミュニケーションの後始末に20分間付き合わされるわけだ。ディスコミュニケーションの後始末が1話完結でつくとは限らない。いつまでもディスコミュニケーションが物語を引っ張り、いつまでも後始末が続く、そういう展開を延々と見せられるのには参った。
 
 こういう、負のエモーションによって物語が駆動し、その後始末をいつまでも見せられるつくりは前世紀のアニメでは珍しくないものだったと記憶しているが、2020年にそれを直視すると「どうしてこんな後始末を俺は見ていなければならないのか」という気持ちにどうしてもなってしまう。とはいえ後始末の最中に重要な伏線が混じっていたりするかもしれないと思うと飛ばし見するわけにもいかず、苦労の視聴だった。
 

  • ディスコミュニケーションに加え、粗暴で野蛮な描写も多かった。

 まず、主人公のレントンは「余計なことばかりして、感情を空回りさせる問題児」だった。視聴者は、この、制御のきかない粗暴な少年とずっと向き合っていかなければならない。そのレントンの周りにいるゲッコーステイトの面々もすさまじく、会話をする前にまず殴る・平手打ちをする、といった描写が当たり前のように描かれていた。立小便もしばしばする。
 
 これは、2005年の水準から考えてもかなり古くさい所作ではなかっただろうか。上下関係にもとづくイジリも陰湿で、罵声、罵倒、感情の投げつけが当たり前のように行われていた。狭い意味でいえばディスコミュニケーションともいえるし、広い意味でいえば「野蛮で粗暴なコミュニケーション」ともいえる。そして衝動的だ。
 
 暴力や強い感情が描写されるアニメ自体は2010年代にもあるけれども、『エウレカセブン』に出てくる暴力や感情には、私は悪い意味で親近感を感じる。コンテンツの向こう側に隔離された、透明な檻のなかの暴力や感情を見ているのではなく、コンテンツのこちら側にも横溢していたはずの暴力や感情を思い出させる力のある描写というか。
 
 もっと言ってしまうと、ゲッコーステイトで繰り広げられるディスコミュニケーションや粗暴は、昭和時代のリアルとでつながっている気がしたのだ。アニメ『時をかける少女』に登場した、消火器を振り回す彼を見てしまった時のような気まずさ。そういう気まずさを、『エウレカセブン』の視聴中にはしばしば感じた。こういう気まずさは、平成後期のあの作品やあの作品を見ていても感じることはない。この、昭和的な気まずさを平成生まれの人にどう伝えればいいのだろう?
 
 ところで、昭和時代のリアルにおいては暴力や感情は衝動のまま発散されることが多かった。いじめやいじりもそうだったかもしれない。対して、令和時代においては暴力や感情はもっと合理的・合目的に発露される。暴力や感情がなくなったわけではない。衝動すら存在を許されている。しかし、暴力や感情にも筋が通っていなければならないというか、無理筋・無意味な暴力や感情があってはならないし、描かれてもいけないような印象がある。いや、現実には現代の日本社会の片隅に、そういった無理筋・無意味な暴力や感情が必ず残っているのはわかるのだけど、そうした無理筋・無意味な暴力や感情が青少年向けアニメのメインストリームで描かれることは減ったのではないか、とは思った。
 

  • エヴァンゲリオン後の作品としてのエウレカセブン。

 視聴している間じゅう、1995~97年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある作品、という印象がついてまわった。エウレカの挙動やデザイン、アゲハ計画、呼びかけに応じるロボット……のようでそうとも言い切れないニルヴァーシュ、最終話の月の描写、等々、エヴァっぽいけどそうじゃない雰囲気やコンセプトやデザインが点在し、特務機関ネルフのかわりにゲッコーステイトがレントンたちを取り囲んでいた。エヴァンゲリオンのオマージュ的要素がありつつ、エヴァンゲリオンとは私は違うんです、と主張する意志が込められているよう、私は勝手に感じ取った。なお、制作陣がこの問題についてどのようなステートメントを出していたのかは確認していないし、私はそういうステートメントをわざわざ確認したがるタイプのアニメ愛好家ではない。
 
 20世紀末にエヴァンゲリオンから強い影響を受けた人は、私に限らず、「エヴァっぽさ」を点検してしまう目線を持っていた時期があったと思う。実際、エウレカセブンに限らず、キャラクター構成や心理描写やストーリーコンセプトに「エヴァっぽさ」を漂わせた作品がときにあった。そういった目線は00年代の後半には薄れていくのだけど、2005年につくられたエウレカセブンを見た時、私のなかにそれがくっきりと蘇った。これは一種のバイアス、色眼鏡に違いないのだけど、そういう色眼鏡を2020年に蘇らせてしまう程度にはエウレカセブンはエヴァっぽかった。いや、エヴァ二次創作的だったとでもいうべきか。
 
 こういった色眼鏡は時代遅れで、たとえば2006年以降にアニメ愛好家になった人からは意味不明とうつるかもしれない。実際、このような色眼鏡がエウレカセブンを見るにあたって必須とも思えない。ただエヴァンゲリオンが好きだった私はエウレカセブンを見てエヴァンゲリオンのことを思い出し、それから、エウレカやアネモネやレントンが幸せそうだな、と思った。思っただけではあるのだけど、それが心に残ったから、こういうことを書いている。
 

  • で、月面に、ヤンキーカップルの場末の落書きが残されたわけだ。

 エヴァンゲリオンのようでエヴァンゲリオンではない物語を全50話続けて、エウレカセブンは大団円を迎えた。特務機関ネルフとその大人たちとは異なり、ゲッコーステイトの面々はそれぞれに得るものを得て、もちろんエウレカとレントンも良い結末を迎えたようにみえた。一時はどうなるかと思ったアネモネも、まんざらではなさそうだ。終盤に向かってスケールの大きくなったストーリーを、上手に折り畳んだ……はずだった。多少の瑕疵はあったかもしれないが、長編アニメならではの成長物語をみせてくれた先に、希望のあるエンディングを見せてくれた。エヴァとは違うのだよエヴァとは!
 
 ところがエヴァとは違うのだよと主張しているこのアニメは、月面に巨大な落書きを残したのだった! あの世界の人々は、月面にでかでかと残された、エウレカとレントンの相合傘のごとき落書きを見上げながら生きていくのだろう。「アニメには無駄な描写などない、すべての描写は有意味だ」という言葉に忠実に考えるなら、あの常軌を逸したラブラブ落書きは、エウレカセブンの結末として視聴者が受け入れるよう、制作陣に期待されたものであるはずだ。
 
 つまり、エヴァとは違うエウレカセブンは、月まで届くLCLの架け橋のかわりに、ヤンキーカップルが書いた場末の落書きのような相合傘が月面に残された状況を受け入れるよう、視聴者に迫るのである。
 
 エウレカセブンにおける審美性、たとえば「格好良さ」とはなんだっただろう? それはゲッコーステイトの雰囲気だったり、LFOだったり、アングラ雑誌ray=outだったりするのだと思っていた。少し臭みはあるにせよ、格好をつけることに有意味性を見出しているのがエウレカセブンという作品だと思っていた。最終話まではそれで整合性が取れている、はずだった。
 
ところが、あの落書きである。
あの落書きを含んだかたちでエウレカセブンの「恰好良さ」の整合性を保つには、(90年代後半~00年代前半でいう)サブカル的恰好良さよりもヤンキー的恰好良さに求めなければ辻褄が合わないのではないか。サブカル的な恰好良さではあの落書きをフォローすることができないが、ヤンキー的恰好良さでなら(いわゆるヤンキーのファンシー好きの発露として)あの落書きをフォローできるとしたら。
 
 だとしたら、ゲッコーステイトとはヤンキー集団だったというのか?? そう考えてみると、2005年にしては粗暴で野蛮な描写が多い点や、上下関係に根ざしたイジリが描かれている点とも辻褄が合う。でもこんなのは深読みに過ぎない。制作陣が「こいつらは気の良いヤンキー集団で、ラストはファンシーな落書きにしてみました」と思わせるためにわざわざあの落書きを準備した、とは考えづらい。もっとシンプルな理由に基づきあの落書きは描かれたのだろう。だとしたら、そのシンプルな理由を私は咀嚼できない。なんだなんだ。最後の最後におなかを壊してしまったじゃないか。
 
 全50話にわたる壮大な成長物語のターミネーターとして、エウレカとレントンの相合傘的意匠を見せつけられて、私はディスプレイの前でフリーズしてしまった。「おれの約20時間を返せ!」とまでは思わなかったにせよ、これをどう解釈し、エウレカセブンと自分との関係を清算すれば良いのか迷ってしまった。いや、今でも迷っている。終盤に向かって盛り上がるアニメの最後の最後にはしごを外された時の気持ちを思い出してしまった。そういうところまでエヴァンゲリオン後的ということか。いやしかし。参ってしまった。
 
 

『「育ちがいい人」だけが知っていること』が売れる社会に逃げ場なし

 
「育ちがいい」とトクして「育ちが悪い」と損をする、この社会の現実(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
 
 
リンク先の文章は、マナー書『「育ちがいい人」だけが知っていること』が30万部を売り上げるに至った現状を踏まえて、いまどきの不平等、いまどきの格差について記したものだ。
 
 

「育ちがいい人」だけが知っていること

「育ちがいい人」だけが知っていること

 
 
「育ちの良さ」とみなされ、実際、生育環境をとおして親世代から子世代へと世襲されるマナーや礼儀作法にもとづいた所作のひとつひとつが、いまどきの複雑化した能力主義(ハイパーメリトクラシー)のもとでは、逐一点検される。
 
たとえば就活生や婚活希望者は、そのことをあらかじめ知ったうえで就活や婚活に臨むから、自分自身の振る舞いを点検し、マナーや礼儀作法にかなった振る舞いをしようとする。「育ち」が良く、もともと礼儀作法が身に付いている人には苦も無くこなせる所作も、そうでない人は熱心に学んで身に付けなければならない。『「育ちがいい人」だけが知っていること』のようなマナー書は、これから学ばなければならない人の参考書になる一方、マナーや礼儀作法を巡る競争を煽り、みんなが身に付けなければならないマナーや礼儀作法のアベレージを押し上げる。
 
なぜならマナーや礼儀作法をみんなが身に付け、能力のひとつとみなされるほど、マナーや礼儀作法の欠落は能力の欠落、または能力の欠落を予感させるものになるからだ。そのような社会はマナー講師にとって望ましいものだろうが、マナーや礼儀作法をあまり身に付けていない人、マナーや礼儀作法が難しい人にとっては厳しいものになるだろう──。
 
『「育ちがいい人」だけが知っていること』がベストセラーになる現状は、「育ち」によって身につく様々なものが能力として、個人のポテンシャルの一関数として評価されるようになったことを示唆している、と思う。
 
いまどきの能力主義は、個人の生得的な資質そのものを問うものというよりも、「育ち」という社会環境による差異、もっといえば「育ち」によって履かされる"下駄"に左右されやすいものになった。だからこそ「育ち」というキーワードが焦点となり、『「育ちがいい人」だけが知っていること』というタイトルがベストセラーへの推進力ともなる。
 
 

「育ち」「学力」「体力」「容姿」の果てしない格差

 
ところで、さまざまなところで出会ういまどきの20~30代の人を見ていると、なんと優秀で、粒ぞろいなのだろう、と私はため息をつきたくなる。
 
以前、books&appsに私はこんな記事を寄稿したことがあった。
 
最近の新人は「好青年」と「才媛」ばかり。けれど素直に喜べない私。 | Books&Apps
 
ここに書いたように、いまどきの研修医は勉強ができるだけでなく、要領も良い。明るいふるまいをそつなくこなす。
 
それだけではない。彼らはマナーや礼儀作法をよく身に付けているし、しばしばスポーツや文化活動にも造詣がある。twitterには非モテキャラクターの若い医者アカウントが跋扈しているけれども、実際に出会う若い医師たちからは非モテらしさがほとんど感じられない。あらゆる点に優れた、前途有望な若者たちだ。
 
医療以外の職種でもそうだ。しかるべき大学を卒業し、しかるべき仕事に就いている年下の人々に出会うたび、そのマナーや行儀作法の良さに驚かされる。「学歴だけ優れた一点集中型の若者」も、どこかにいるのかもしれない。だが実際に私が出会う高学歴・高収入な若者たちは、みんなマナーや礼儀作法に優れ、スポーツや文化活動にも造詣がある。学歴の卓越性が、ふるまいの卓越性や容姿の卓越性、精神的文化的卓越性を伴っていることは、私が大学生だった頃はこれほど顕著ではなかった。ところが平成の終わり頃から令和にかけて、学歴の卓越性は学歴以外のさまざまな卓越性と相関しているようにみえるようになった。
 
学歴に優れた者が、マナーや礼儀作法にも優れ、スポーツや文化活動にも優れているのなら、なるほど、「マナーや礼儀作法に優れた若者は他も優れているに違いない」と想像しやすくもなろうし、マナーや礼儀作法が人物像の見立てに貢献する度合いも高まるだろう。
 
他方、なにもかもを独占した前途有望な若者たちの世界とは対照的な、学歴もマナーも礼儀作法も乏しい世界がある。
 
読み書き能力が不十分、四則演算もできない人がいる。マナーや礼儀作法を身に付けていない、身に付ける機会が乏しかったとおぼしき人がいる。そのような人々がスポーツや文化活動に通じていることはまずない。ゲームや漫画といったサブカルチャーも含めてだ。
 
なにもかも優れた若者がいる一方で、なにもかもを持たない・持てない世界も遍在しているこの状況では、「育ち」という言葉はいかにも重たい。「育ち」を挽回して下克上するためには、勉強するだけでは駄目で、マナーや礼儀作法やその他も身に付けなければならないのだ。そうしなければ、なにもかもを独占した前途有望な若者たちの世界に食らいつくことはできない。
 
学歴だけでなく、あらゆるものに世襲の兆しがみられ、それぞれの若者が自分の手持ちカードで精いっぱいの競争をしていかなければならない2020年の社会のなかで、『「育ちがいい人」だけが知っていること』というマナー本はどのように受け入れられ、位置付けられるのだろうか。
 
『「育ちがいい人」だけが知っていること』のタイトルを知った瞬間、私はすぐに反発と苛立ちを感じた。だが、実際に手に取って確かめてみると、この本が売れるのがよくわかるし、この本を切実な気持ちで買い求める人がいることがみてとれた。きっとこの本によって助けられる人も少なくないだろう。
 
それでも反発と苛立ちは消えない。「育ち」が切羽詰まった語彙になるような社会ができあがっていて、たぶん、この本はそうした社会の趨勢を加速することはあっても減速することはないからだ。マナーや礼儀作法が社会適応のバトルフィールドとして広く認知され、私生活領域も含めたあらゆる所作が評価され、値踏みされるとしたら、私たちは、いつでもどこでも、あらゆる領域で競争するしかないではないか。
 
 

子どもがなんj語を使いこなすようになっていた

 
  
子育てには、人生の二週目のような味わいがある。子どもが新しいことを覚え、新しい遊びをおぼえるたびに、ずっと昔に自分がそうしていた頃を追体験できるからだ。それから虫取りや海水浴といった、大人になってやらなくなった遊びも子どもによってリブートされる。親子でそれらをやっているうちに、気が付けば自分も夢中になっていたりした。
 
時が経つのは早い。
 
「人の子どもは育つのが早い」と言うけれど、自分の子どもも日進月歩で成長している。気が付けば、ゲームの上達が子どものほうが早くなっていた。親の知らないことも、あちこちからどんどん吸収してくる。心強いことだ。
 
ところが最近、自分の子どもがなんj語をペラペラとしゃべるようになった。
 
[参考]:なんJ語 (なんじぇいご)とは【ピクシブ百科事典】
 
なんj語とは、匿名掲示板のなんでも実況jをルーツとする一連のネットスラングだ。語尾にンゴをつける「○○ンゴ」や関西弁風の言い回しなどが有名だ。そしてなんj語の周辺には、さまざまなネットスラングが蠢いていて、その多くは品が良いと言えるものではない。
 
よりによって、なんjとその周辺のネットスラングを子どもが吸収してくるなんて!
 
聞くところによれば、クラスメートの間でなんjとその周辺のネットスラングが大流行しているそうで、みんなでンゴンゴと言いあっているのだという。ぼくはきみをそんな風に教育したおぼえはない! と言ってみたくもなる。よりによってそっちのカルチャーかよ……。
 
 

頭でわかっていたつもりでも、直面するとなかなかびびる

 
子どもは親の知らないことを、あちこちから吸収していく。
 
その際、けしからんことや親が困惑することも吸収してくるのは、自分自身の頃を思い出してもわかる気はする。親や先生が歓迎するようなカルチャーだけコピペしていればいいってものでもないだろう。
 
同世代とともにカウンターカルチャー的なものを覚え、共有していくことには意義がある。昭和世代だって、そういったものをクラスメートから、地域の兄ちゃん姉ちゃんから、TBSやフジテレビから、さんざん吸収していたはずだ。でもって、昭和世代の親たちもまた、そうしたカウンターカルチャー的なものを子どもが吸収するのを嫌がり、たとえば「『ドリフ』は有害な番組」などと言っていたわけだ。
 
で、自分が親になってみると、カウンターカルチャー的なものは地域やテレビから退き、いまではインターネットのコンテンツ、たとえばなんj語が飛び交うようなコンテンツの領域に変わっていたわけか……。
 
時代が変わればカウンターカルチャーも変わる。
だけど、親の与り知らないカウンターカルチャー、親があまり歓迎しないカウンターカルチャーを子どもがどこかで覚えてくるという構図じたいは変わらない。
 
この構図については、もちろん私も頭ではわかっていた。わかったうえで、鷹揚な気持ちで構えていこうと思っていた。しかし、実際に自分の子どもがぺちゃくちゃとなんj語を使いこなし、クラスメートとのコミュニケーションにも嬉々として用いていて、どうやらその周辺の品の良くないネットスラングもまとめてインストールしたらしい現実に直面すると、親としては、やっぱりびびる。
 
子育てにはありがちなことかもだけど、頭でわかることと実際に直面してみることには、ここでも大きな距離があった。子どもが有害なコンテンツに接触しないよう神経をとがらせる人の気持ちが、はじめて少しわかったような気がした。だからといってどうこうするつもりはない。そうやって子どもが成長していくこと自体はよくあることのように思えるからだ。ただ、こういう気持ちが自分の心に芽生えたという現象のことは、覚えておこうと思う。
 
 

独りで生きて、独りで死ねる未来ができてほしい

 
孤独死を弔い続ける神主が危ぶむ「強烈な孤立」 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
 
先日、世間では孤独死が増えている、もう既に問題だ、と提起する記事を東洋経済オンラインでみかけた。孤独に死ぬことを凄絶とみなし、また、死後の片づけの問題にも触れている。もう既に問題なのは、指摘のとおりだろう。
 
一方、ここ最近のスマートメディアの発展・普及や、新型コロナウイルス感染症に際して片鱗のうかがわれた健康をモニタリングする統治可能性をみるに、孤独死への対策は不可能ではないというか、将来は大っぴらに行われ、案外うまくいきそうな気がしてきた。
 


 
このツイートにもあるように、電力消費量やメディアの使用状況、スマートウォッチなどの(オンラインと直結した)バイオセンサーをもってすれば、独りで死んで何日も放置されるような事態は防げる。制度上の問題はもちろんあるが、技術的には十分に可能だ。制度さえ許せばだが、孤独死どころか、急変した人の住まいに素早く救急車をまわすことすら可能かもしれない。
 
「孤独であること自体が問題だ」と主張する人もいるし、それはそれで問題ではある。ただ、コミュニケーションのオンライン化が一定以上進んだ世代においては、Face to Faceのコミュニケーションがなくとも、コミュニケーション自体は維持される可能性がある。いや、狭い意味でのコミュニケーションが発生していないとしても、なんらか、コミュニケーションに参加しているという体感は得られるかもしれない。地域の付き合いが生活に密接したエッセンシャルなものでなくなり、むしろ、お互いに関わらないことを良しとするライフスタイルが増えれば増えるほど、オンラインで繋がっていることの重要性は高まる。コンビニやネット通販の普及も、スタンドアロンなライフスタイルを後押ししてきた。孤独は、問題視されるライフスタイルであると同時に、20世紀後半以降、スタンドアロンなライフスタイルとして持てはやされたものでもあった。誰もが嫌々、独りで暮らしているとは限らない。
 
今、起こっている孤独死がさまざまな問題をはらんでいることは確かだ。だからといって、独りで死ぬことは、本当に、すべて問題だろうか。そうではないと思う。独りでひっそり死ねるならそれでいい、他人の手を煩わせることさえなければ独りで死ぬのは構わない、という人は意外に多いのではないだろうか。だとしたら、独りで死ぬことそのものを問題にするのでなく、今現在の孤独死についてまわる諸問題をどうにかして、独りでひっそり死にたい・死ぬまでひっそり独りで暮らしたい人が憂いなく暮らせる未来を模索すべきだし、それは可能のようにみえる。
 
 

孤独死対策に必要と思われるもの・これから行われそうなもの

 
(今現在、問題になっているような)孤独死を防ぐためのインフラの第一は、スマートウォッチなど、個人の健康状態をリアルタイムで確かめられる機器の導入だろう。現時点ではちょっと先進的でお金のかかる手段にみえるかもしれないが、近い将来、生活のあらゆる領域のオンライン化が進めば(進まないわけがない)お金のかからないありきたりの手段になる。現在の統治機構と諸制度はこの仕組みを導入していないが、増え続ける独居者の健康と安全を守るため、それと種々のコストを引き下げるために、採用される可能性がある。いったん採用されてしまえば、独りで死んだ人が何日も放置される事態は防げるし、急死や急変を防ぐ手段にもなり得る。
 
現代人は、健康を守る・命を守るというタテマエには弱いので、どこかの時点で、スマートウォッチなどではなくバイオセンサーを体内に埋め込むことが義務化されても驚きはしない。医療費削減というホンネが加われば尚更だろう。バイオセンサーを埋め込む時に嫌悪感をおぼえる人は当然いようし、これが、人間の自由を枠づける権力の一種たりえることを警戒する人もいよう。が、じきにほとんどの人は馴らされ、命を監視・管理されることを当たり前だと思うようになり、違和感や警戒感を訴える声はかき消されていくだろう。
 
それともうひとつ、独りで死ねる住まいができないものだろうか。独りで死んでも黒いしみを床につくらなくて済むような住まい、それか一般の住まいに独りで死んでも大丈夫な道具立てを備える、そういったインフラが利用できるなら、独りで生きたい人や独りで死んでいきたい人の憂いがまたひとつ減るだろう*1
 
それらに加えて、死後の法的・情報的手続きを生前に整理しておく仕組みが定着すればなお良い。遺言をはじめ、現在でも死語に備えた手続きやサービスはあるにはあるが、もっと多くて構わないし、もっと一般的になっても構わない。
 
 
 *    *    *
 
 
国勢調査によれば、単身世帯の割合は2015年の段階で34.5%に達していて、グラフは右肩上がりだ。地域共同体は希薄になり続け、親子であっても別々に暮らしていることが珍しくない。結婚していたとしても、パートナーが死去すれば残される側は独り暮らしになる。それなら、独りで死ぬのを絶対に回避しようとつとめるのでなく、独りで死んでも構わないようにすること、憂いなく独りで生きて独りで死ねるようにすることは、高齢化と単身世帯化の進むこの国では避けられない課題のようにみえる。だったらやっていくしかないのでは?
 
 

家族がいても死ぬときは独り

 
私は、死について考えるのが恐ろしい。
できれば遠ざけたい。
だがいつか人は死に、家族がいても子どもがいても旅路は独りだ。
ならせめて、死後に憂いを残すことなく生きていきたいので、この分野の進展に期待している。
 
 

*1:今日でも、介護やヘルプサービスを念頭に置いた高齢者向け住宅は独りで死ねる住まいに近いと言えないこともない。しかし高コストであり、介護やヘルプサービスが必要な段階の人のためのものだ。それにピュアに独り暮らしとはいえない

社会の進歩は人間の動物性とどう折り合いをつける?

 
ダメと言われても「夜の街」に繰り出す人は何を考えているのか 「コロナ疲れ」「コロナうつ」は当然だ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
 
 
上掲の、プレジデントオンラインさんの寄稿テキストでは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐための、いわゆる「新しい生活様式」によって抑圧されることとなった、動物的な・プリミティブな人間のコミュニケーションについて記した。また、そうした変化が急に始まったものではなく、文明的で行儀の良い、快適で清潔な社会の成立と切っても切れない関係にあることもざっと解説した。
 
インターネットが好きでたまらない人のなかに、「身体的なコミュニケーションやFace to Faceなコミュニケーションなど要らない、ないほうが快適に決まっている」と述べる剛の者がいるのは私も知っている。が、そういう人はネットでは目立っても世間では目立たない少数派だ。21世紀になっても大半の人間は、動物的な・プリミティブなコミュニケーションを完全に捨てられずにいる。
 
大半の人間にとって、「新しい生活様式」によるコミュニケーションの制限は楽なものではなかった。そりゃそうだろう、人間は本来、ディスプレイや文章だけのコミュニケーションなどしておらず、もっと身体的に、もっと動物的にコミュニケーションをしてきたのだから。このことを証明するに、太古の昔まで遡る必要はない。携帯電話やインターネットが無かった頃に遡りさえすれば、子どもも大人ももっと身体的に、もっと密にコミュニケーションしていた時代にたどり着く。
 
だから私は、動物的なコミュニケーションを求めずにいられない人間の性質が、新型コロナウイルスの一連の騒動をとおしてますます制限されたり禁じられたりすることに懸念をおぼえる。ただでさえIT化によって進行してきたコミュニケーションの変形をさらに進め、動物としての人間をいよいよ疎外するもののように思えるからだ。
 
もちろん私は、動物的なコミュニケーションや身体的なコミュニケーションでさえあれば良い、と言いたいわけではない。もし、「人間のコミュニケーションは新石器時代まで巻き戻すべきだ」などと言い出したら、今の文化的な生活も現代社会の秩序も人々の諸権利も、みんなご破算になってしまうだろう。
 

  
人類のコミュニケーションの歴史は、動物的なコミュニケーションをそうでないコミュニケーションへと変形させていく歴史でもあった。動物的なコミュニケーションそのままでは避けられなかったいくつもの野蛮、いくつもの危険、いくつもの不平等が、文明化の過程をとおして改められてきた。この文明化の過程がなければ、たとえば現在の東京の生活など成り立ちようがなく、動物的なコミュニケーションを丸出しにした人間が首都圏の人口密度で集中したら、そこにはカオスしかないだろう。
 
だから、動物的なコミュニケーションをそうでないようにコンバートしていった先人を悪しざまに言うべきではなく、むしろ恩義を感じながら思い出しておきたいと私は思う。
 
 
 

どこまで人間の動物性を漂白できるのか

 
それでも「新しい生活様式」をとおして多くの人が実感したように、動物的なコミュニケーションができなくなってしまうと、私たちは辛いと感じる。快適で便利な暮らしのために、人間がみずからの動物性をお互いに律しあって暮らしていくことに異存はないが、動物を"完全に"やめる方向に進みすぎても、それはそれで生き辛いのではないだろうか。
 
人間の動物的なコミュニケーションを制限する方向に社会が進み過ぎた結果、その進歩についていけない"落第生"が新たに社会不適応者とか、障害とかみなされるような未来を、好ましい未来として思い描くのは私には難しい。
 
いや、現代の段階でも、動物としての私たちはかなり無理を重ねているのではないだろうか。
 
コミュニケーション以外の部分も含め、現代人は新石器時代の生活から大きく離れている。夜になっても煌々と明かりが灯って活動していること、不特定多数を相手に感情労働を行うこと、核家族という風変わりなユニットで子育てしていくこと、等々、もともとのホモ・サピエンスの生活から隔たった暮らしを実現した果てに、精神疾患と診断されなければならない人、治療やサポートを必要としている人が右肩上がりに増え続けている。
 
不特定多数を相手にした果てしないコミュニケーション、果てしない感情労働といったものは、本来、人間にさほど求められなかった課題だったはずだ。ところが社会の流動性が高まり、第三次産業が台頭した社会では、そうした課題をこなせることが社会適応の与件になってしまっている。
 
と同時に、職業の専門分化や個人主義の先鋭化の結果として、動物的なコミュニケーションが極端に不足する境地を生きなければならない人も一方で増えてきている。
 
社会契約のロジックのもと、私たちは仕事の専門分化した社会や個人の自由を貴ぶ社会を成立させたが、それは社会契約の領域での成功でしかない。動物としての人間が、動物としての自分たち自身を疎外しすぎずに生きていける方法を授けてくれるものではなかった。工場労働の疎外が著しかった一時代から情報産業とサービス業の時代になっても、結局、動物としての人間の疎外の問題は解決には至っていない。
 
むしろ文明化が行き過ぎると、動物としての人間は、個人主義や社会契約や資本主義のロジックのなかで置き去りにされ、顧みられなくなってしまい、あたかも動物をやめた「主体 individual」として徹頭徹尾生きていかなければならなくなったのではないか──そんな印象を私は受ける。 
 
動物をやめて「主体」として生きるのは、社会契約のロジックの内側では (または法治のロジックの内側では) 理想的かもしれない。というよりそれが義務でもあるかもしれない。
 
だけど人間は動物をやめられない。完全にやめてしまうべきでもないと私は思っている。これまでの歴史は、とにかく人間の動物的な性質の弊害をなくす方向で進んできたし、それは大筋では良かったのだろう。が、ここに来て、いよいよ動物的な性質を漂白しつくし、あたかも法人のごとき「主体」になれと人間に迫っているようにみえる。
 
 

動物をやめろという社会は誰のための社会?

 
そうやって動物を完全にやめて、動物らしさを捨てきれない人間がついていけない社会をこしらえたとして、それはいったい誰のための社会なのだろう。完全に「主体」になりきれるスーパーマンのような、ごく一部の人間だけが涼やかな顔をしていられて、そうでない多くの人々が動物としての自分たちを疎外され続け、生きづらいと感じ続ける社会は、ごく一部の人間だけのための社会でしかない。
 
だから私は、社会の進歩や文明化そのものは否定しないとしても、そうした進歩や文明化が、そろそろ人間の動物的な側面を顧みるフェーズにたどり着いて欲しいと願う。ちょうど、人間工学なるものが人間にやさしい設計やデザインを考案するように、人間の動物的な側面にやさしい社会の進歩や文明化が議論されて欲しいと希望する。「人間にやさしい社会を目指す」というスローガンのなかに、人間の動物的側面にもやさしい社会を目指すというニュアンスが含まれていて欲しい。
 
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

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  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)