シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

神様みたいだった1996年のバトルガレッガ

 

(※写真は、ゲーメスト1996年5月15日号、バトルガレッガ攻略記事より)

  
note.com
 
上掲リンク先は、傑作シューティングゲーム『バトルガレッガ』を20年越しにクリアした方の文章だ (おめでとうございます!)。 20年前に一度諦めたゲームをもう一度手に取り、チャレンジしてクリアするのはタフなことだと思った。
 
で、リンク先にはバトルガレッガをできるだけ簡略なパターンでクリアするための攻略動画へのリンクも掲載されている。それが下のものだ。
 
youtu.be
 
昔は難しいゲームとみなされていたバトルガレッガをここまで解題し、難しい避けを最小限にしているのは、これもこれで進歩だと驚いた。
 
2000年代には、「知の高速道路」という言葉をよく耳にした。いわく、インターネットによって知識やノウハウにアクセスしやすくなり、何事も、ある程度までは簡単に上達できるようになった、というやつだ。今にして思うと、これは楽観的すぎる見方で、2020のインターネットには「必要な知識が何かがわからない」「知識の真贋がわからないまま進歩がない」といった悲惨が溢れている。
 
しかしゲームに関してはこの限りではなく、おもに動画配信によってさまざまなゲームが攻略しやすくなった。優れた攻略動画は、映像を流すだけでなく特定場面のリアクションの理由や意図までわからせてくれる。
 
そのうえゲーム環境が進歩したため、苦手な場面だけリピート練習したり、自分のプレイを検証したりするのも簡単になった。だからバトルガレッガのような「かつて、難しいとされていたゲーム」に挑戦するには良い時代になったと思う。
 
じゃあ、過去のプレイヤーが一方的に不利だったかと言ったら、そうでもなかったと思う。シューティングゲームに限らず、傑作と呼ばれるゲームは皆、プレイヤーを引っ張っていくすごい力を持っている。1996年のバトルガレッガもそういう作品だったので、当時の思い出話を書き残してみる。
 
 

キャロット巣鴨で見た、バトルガレッガの熱狂

 
バトルガレッガがゲーセンに初登場したのは1996年2月だったというが、私が住んでいた地方都市にはバトルガレッガは入荷せず、ゲーメストの紙面や首都圏の友人からの情報がすべてだった。早い段階から「バトルガレッガはとんでもないシューティングゲーム」という噂話だけが聞こえてきて、田舎者としては地団駄を踏むほかなかった。シューティングゲームの好きな首都圏の友人たちは、当然のようにバトルガレッガに挑戦し、魅了されていった。うわごとのようにバトルガレッガを讃える彼らの声を聴き、うらやましいと思うと同時に、とにかく実物を見てみたい、触ってみたいと思った。
 
はじめて私がバトルガレッガに出会ったのは、まだ寒い頃の渋谷だった。当時、渋谷のゲーセンで一番遊びに行っていたのは渋谷会館で、そこは『BATSUGUNスペシャルバージョン』を遊べる数少ないゲーセンのひとつだった。BATSUGUNスペシャルバージョンは、バトルガレッガも怒首領蜂も東方も無かった頃にしては弾幕シューティングに近い内容で、挑戦しがいのある作品だった。
 
ところがその渋谷会館にはバトルガレッガが入荷しなかった。渋谷でバトルガレッガを探してまわった結果、井之頭通りに近い小さめのゲーセンに設置されているのをやっと発見した。そこはマニアが集まるようなゲーセンではなく、バトルガレッガを遊んでいる人はいなかった。帰りの電車の時間を気にしながら少し遊んだバトルガレッガはやたら難しく、5面道中のボスラッシュ手前でやられてしまい、そこから先の熱狂を見損なった。この時点では、面白いというより意地悪、熱狂というより醒めたゲームという印象だった。敵弾が見えづらいせいで突然ミスしてしまうこと・勲章アイテムを落としやすくてスコア稼ぎが辛そうなのも気に入らなかった。正直、よくわからなかった。
 
東京を後にした後、バトルガレッガをよく知る友人に電話で感想を伝えた。当時はまだ、家にインターネットが来ていなかったので午後11時を過ぎるのを見計らって長電話した。バトルガレッガは、友人と長電話をして意見交換したいちばん最後の時期のゲームでもあった。あの頃は、長電話が青少年のたしなみみたいなものだった。
 
「バトルガレッガ、わからんかったわ。敵の弾は見にくいし、難しいし。」
「5面のボスまでは観れたか?」
「いや、そこまで行けんかった。」
「そりゃ駄目だ、シロクマ君はバトルガレッガの面白さと恐怖をまだ見ていない。今度、巣鴨においで」
 
「巣鴨においで」とは、JR巣鴨駅の近くのナムコ直営ゲーセン、プレイシティキャロット巣鴨においでという意味だ。ここはゲーメストのスコア集計でも有名な強豪店で、腕のたつプレイヤーがたくさんいた。友人は、彼らに交じってそこでバトルガレッガをやっているという。
 
百聞は一見に如かず。
キャロット巣鴨で私を待っていたのは、友人も含め、バトルガレッガに長い列を作っているプレイヤーたちと、そのプレイヤーたちによる中毒的なスコア稼ぎ、そして5面ボスラッシュから7面の、見ているだけで心拍数が上がってきそうな波状攻撃だった。
 
バトルガレッガのスコア稼ぎには、なにやら狂熱的な雰囲気があった。当時はランク調整の詳細がまだわかっていなかったが、すでにプレイスタイルは「よく稼ぎ、よく死ぬ」「よく死ぬのを、よく稼いでカバーする」といった雰囲気になっていた。ハイスコアを目指すプレイヤーだけでなく、とにかくバトルガレッガをクリアしたいと思っているプレイヤーも生存のためにスコアを稼いでいた。2020年からみると過剰なスコア稼ぎだったかもしれないが、当時はおおむね必要と理解されていた。結果、長い列をつくっているプレイヤーが全員、とりつかれたようにスコアを稼いでいて、バトルガレッガの筐体からはただならぬ雰囲気が立ち上っていた。
 
5面ボス、ブラックハート。
当時のゲーメストの記事で、ブラックハートが「カリスマ的なボス」と評されていたのを覚えている。
実際、速射砲で弾の壁をつくってプレイヤーを揺さぶる「ワインダー」という攻撃に私は度肝を抜かれたし、多くのプレイヤーも緊張感をもってそれに対峙していた。その後、弾幕シューティングゲームは弾数がインフレしていったので2020年からみるとむしろシンプルな攻撃にみえるかもしれない。だが1996年の段階では断然見栄えが良く、挑み甲斐のある攻撃だった。たくさんのプレイヤーがブラックハートで集中力と残機をすり減らしていった。
 
続いて6面が始まると、間髪おかずに中型の敵が押し寄せ、休む暇はない。当時の6面は難易度の調整が足りていなかったため、まるで画面じゅうから弾がにじみ出てくるかのようで、そこに常識はずれの戦車ラッシュや巨大レーザー砲の砲撃が加わり、すごいプレッシャーになっていた。キャロット巣鴨のプレイヤーの大半は、当時の私よりシューティングゲームが上手い様子だったが、その彼らでさえ、6面を突破できる者はほとんどいなかった。かの友人氏も、6面ボスにどうにかたどり着くのが精いっぱいだった。6面は、プレイヤーを最高に熱くさせていた。
 
そして7面、最難関のブラックハート2。ほとんどのプレイヤーが到達すらできないそいつは、それまで出会ったどんなシューティングゲームのボスよりも圧倒的にみえた。のちの弾幕シューティングゲームに比べて弾の数そのものは少なかったとしても、キャロット巣鴨のブラックハート2は、ランダム性を伴ったバラバラの弾幕をすさまじい勢いで吐き出し、かろうじてたどり着いたプレイヤーを無慈悲に退けていた。ブラックハート2まで到達できたプレイヤーには尊敬の目が集まり、場が沸いた。当然だろう。
 
はじめのうち、私も列に加わってバトルガレッガをプレイしていたが、こうした荒行苦行を眺めているうちにおじけづいてしまった。あまりにも難しそうで、あまりにもみんな熱くなっていて、始めたばかりの自分が割り込むのが申し訳ない気持ちになってきたからだ。しかしじっと観戦し続けた。いつか自分も、彼らのように戦える日が来ると信じて。
   
 

地元にバトルガレッガが入ってからの熱狂

 
それから2か月ほど経った6月頃、地元のゲーセンにとうとうバトルガレッガが入荷した。地元のシューティングゲーム愛好家が集まり、たちまち話題になった。当時、地元で最高峰のプレイヤーはキャロット松本というゲーセンに集まっていて、他のゲームの全一スコアづくりに忙殺されていた。おかげで幸運にも、私とだいたい同じぐらいの腕前のプレイヤーが切磋琢磨しながら攻略することになった。これは競争心を高めてくれただけでなく、攻略情報を融通しあうにも都合が良かった。腕前がだいたい同じなので、難しすぎてパターンが真似できない、といった事態が起こりにくかったからだ。
 
夏休みシーズンを迎えてからは、朝から晩までゲーセンにこもった。8月の段階では、7面の最難関、ブラックハート2を倒すことが現実的な目標になりはじめていて、そのためにもプレイ全体のクオリティを高めなければならない時期だった。全国レベルではクリアする人がだいぶ出てきていたとはいえ、私たちがクリアするにはバトルガレッガはまだまだ難しかった。
 
それでもめげずにプレイできたのは、自分一人で攻略しているわけではないこと、そして当時のバトルガレッガというゲームに宿っていた神様みたいな魅力だった。
 
いつゲーセンに行っても、仲間の誰かがバトルガレッガをやっていた。毎日のように攻略に役立つ発見があり、知識として共有されていった。くだんの東京の友人も含め、遠方から遊びに来てくれるプレイヤーもいて、情報交換に花が咲いた。バトルガレッガを攻略するという一つの目標をみんなが共有していた。傑作ゲームはしばしば、そうやってプレイヤー同士を結び付ける。
 
そして当時のバトルガレッガはシューティングゲーム界で並ぶものの見当たらないシューティングゲームだった。同じぐらいよくできたシューティングゲームは他にもあったが、スコア稼ぎとランク調整の絶妙な組み合わせ、後半のエスカレートする難易度と弾幕、そしてボスのカリスマ性や納得ずくの難しさといった点で、バトルガレッガは群を抜いていた。ランク調整システムのおかげで、後半面の敵が強くなりがちなのも闘志を煽っていたように思う。
 
1997年には『怒首領蜂』がリリースされ、今度は火蜂というカリスマ的ボスがシューティングゲーム界を震撼させるのだけど、それは後日の話。1996年の段階では、バトルガレッガがどこからどうみてもナンバーワンだった。
 
夏の終わりには1~4面のスコア稼ぎと難易度調整が大幅に改善して、5面~7面の難易度がかなり低くなり、残機やボムを残した状態でブラックハート2に挑めるようになった。隣のキャロット松本にバトルガレッガの動画ビデオを持ち込んだ人がいて、それを見る機会があったのも参考になった。やがて地元のプレイヤーの一人がブラックハート2を撃破。見ているほうがハラハラする戦いだった。これが攻略熱に拍車をかけ、やがて私たちはバトルガレッガをクリアした。初クリアそのものは意外にあっさりと終わった。
 
ところがもう一度クリアしようと思ってもクリアできない。一か月近くできなかったと思う。こうなる理由ははじめからわかっていた──なぜならブラックハート2の気まぐれな弾幕を筆頭に、バトルガレッガはランダムな攻撃の引きによって難易度がかなり変わるからだ。私がはじめてクリアした時、ブラックハート2は危険な攻撃をほとんどしかけてこなかったが、そのような幸運に頼っていてはバトルガレッガを御したとは言えない。秋を迎えてようやく、バトルガレッガを安定的にクリアできる目途が立った。約半年かけて、やっとクリアしたということになる。
 
 

あの時じゃなかったらきっとクリアできなかった。

 
1996年の昔話はここまでだ。
 
当時はゲーム環境が今より劣っていたし「知の高速道路」も無かった。その点では、当時のプレイヤーは2020年より不利だったといえる。
 
そのかわり私たちはゲーセンで助け合い、情報交換しあった。Youtubeを検索するかわりに、離れたプレイヤー同士が声をかけあい、教えたり教えられたりしながら切磋琢磨していた。近くにキャロット松本があってトッププレイヤーの援助を受けられたのも大きかった。独りでは攻略できそうにないゲームでも、集団で攻略すればこの限りではない。私たちはバトルガレッガをとおして腕をみがき、難しいゲームでもみんなで攻略すればどうにかなることを知った。
 
1997年、怒首領蜂がゲーセンに旋風を起こした時もこのときの経験が役に立った。なにより、バトルガレッガでさんざん鍛えられたおかげで二周目攻略にもついていくことができた。2年連続で弾幕シューティングゲームに熱中できたこの時期が、プレイヤーとしての私の全盛期だ。
 
それと、当時のバトルガレッガには神々しいほどのカリスマ性があった。2020年から振り返ると、バトルガレッガの演出や難易度は他の弾幕シューティングゲームに埋もれてしまうが、当時は群を抜いて、最高に見栄えのするゲームだった。そこに長い列を作って代わるがわるプレイするプレイヤーたちの熱狂が合わさって、得も言われぬ雰囲気を1996年のバトルガレッガは獲得していた。ゲームの世界は日進月歩だから、こうしたカリスマ性が宿るのはリリースされて間もない、短い時間だけだ。
 
私はお調子者の気配があるので、1996年のバトルガレッガに出会えなかったら、たぶんちゃんとクリアできなかったと思う。いまどきの最新ゲームにも、こうした側面はあるだろう。そういう幸運に巡り合えたときには、きっちり掴んで、しっかり遊んでおきたい。
 
 

中年ナルシストの道は狭く険しい

 
 
これから「中年ナルシストの道は狭く険しい」という小話をするが、私は小心者なのでおことわりを入れておく。
 
私は、自分のことをナルシストだと思っている。
だってそうだろう、二十年以上もインターネットで自己表現……といえば聞こえはいいけれども、自分の話を聞いて聞いて聞けよ聞けったらとやってきたわけだから、これをナルシストと呼ばず何と呼べばいいのか。私が承認欲求やナルシシズムについてずっと書き続けていたのも、自分がそうだからという部分を否定できない。他人の承認欲求やナルシシズムにアンテナが働くのは、同類・同族のたぐいだからではないだろうか。
 
で、そんな私も中年になった。
中年になってナルシスト続けていくの大変かなーと最近は感じている。

【ナルシシズムの夕暮れ】
 
ナルシスト。
自己愛。
 
ナルシストにも色々なタイプがあるけれども、とにかく、歳を取ってくることでナルシシズムが成り立ちにくくなる部分がいろいろあると感じる。
 
まず容姿。
どう頑張っても若い人にかなわなくなる。威厳のある恰好が似合うようになれば、それを頼りにナルシシズムを充たす道がないわけではない。とはいえ、威厳を獲得したとしても、肉体の衰えを隠すことは難しくなる。衰えを他人の目から隠す方法なら、あるかもしれない。だけど衰えを自分の目から隠す方法は無い。
 
判断力、瞬発力、記憶力なども衰えてくる。ひとことでナルシストと言っても容姿を誇っている人はいっそ少数派で、見事に仕事がこなせること、卓越した技能や知性に存在理由を見出しているナルシストもたくさんいる。自分の持っている諸力によってナルシシズムを成立させているそうした人たちにとって、力の衰えは、ナルシシズムの陰りにほかならない。自分がそれを誇りにしていればしているほど、自分がそれに格別な注意を払っていればいるほど、小さな衰えにも気づくことになる。
 
容姿も含めてだが、ナルシストがナルシシズムを成り立たせるにあたってなんらかのパワーに頼っていることはとても多い。そのパワーに限界がみえてきたとき、ナルシストは自分にうぬぼれてはいられなくなる。あるいはプライドが保てなくなったり自信を喪失したりする。
 
また、自分自身と他人の能力を比較し、優越性を見出すことでプライドや自信を守っている場合には、若手の成長が脅威になるかもしれない。三十代の前半あたりだと、年下の人々はまだまだ経験不足すぎてそれほど脅威とうつらないかもしれないが、四十代、五十代ともなると年下は十分すぎるほど経験を重ねていて、しかも自分に比べれば衰えていない……というより伸びてくる。やがて、年下がだんだん自分を追い抜いていく現実に直面する。優秀なナルシストほど年下に追い抜かれる日は遅くなる反面、優秀なナルシストほど年下に追い抜かれたときに衝撃を受けるかもしれない。
 
なにより、可能性。
若い頃のナルシシズムには天井がないというか、自分には可能性があるとか、何者かになれる余地があるとか、まあなんでも適当に夢想できた。夢があれば、自分を過大評価することも、自分を騙すことも難しくはない。
 
けれども年を取ってくればキャリアの限界、人生の限界がみえてくる。少なくとも若い頃のナルシシズムのような、青天井の夢はみられない。伴って、自分を過大評価することも、自分を騙してプライドや自信を保つことも難しくなる。
 
こうやって、若い頃にはナルシシズムを割と簡単に成り立たせていた与件が、だんだんに失われて、ナルシシズムを成り立たせるための手段が難しくなってくる。または、ナルシシズムを成り立たせる手段の条件が厳しくなってくる。危うし!中年のナルシスト!
 
もし、中年のナルシストがいままでどおりにナルシシズムを成り立たせようとしたら、途方もない努力と運が必要になる。美容や健康に全力を尽くし、優秀であり続けようと七転八倒し、キャリアや人生の地平線の向こう側にフロンティアを見つけようとする。もし、それらに成功すれば中年ナルシストはそのままナルシストをやっていけるかもしれない。
 
だが、狭くて険しい道ではある。
美容や健康はだんだん保ちにくくなる。十分に有能で、若手にも負けない自分自身であり続けるのは大変なことだ。出世に負けたり人間関係に失敗したりすれば、キャリアや人生の地平線は簡単に黄昏に沈む。若かった頃と同じぐらいナルシストで通すためには、よほどの努力、よほどの秀逸性、よほどの幸運がなければ無理だろう。あるいは冠絶するような業績か。たいていの場合、そうもいかないので途中でナルシストをやってられなくなる。
 
だけど本当はそれでいいのだと思う。あきらめたり、身の程をわきまえたり、ぐったりしながら、それでも人生は続いていく。そうやってナルシストの度合いをすり減らしていける人は、健康で柔軟だと思う。ただ、みんなが健康かつ柔軟にナルシストの度合いを減らしていけるわけでもない。ぎりぎりまでナルシストを突っ張って疲れ果ててしまう人もいる。どうしてもナルシストを続けたくて、あさっての方向に向かって旅立ってしまう人もいる。そしてたぶんだけど、ナルシストを続けられないことに我慢ならなくなり、死んでしまう人だっている。
 
世の中には「中年の危機」という言葉があるけれど、少なくともナルシストにとって中年はひとつの試練だと思う。なぜなら若かった頃に成立していたナルシストとしての心の経済学が、生物としての加齢や社会的な加齢によって成立しなくなっていくからだ。
 
 
【どこから自覚し、どうやって畳んでゆくのか】 
 
こうした中年ナルシストの道の狭さや険しさは、実感する時期に多少の前後があるとも思う。早ければ三十代前半に始まるかもしれないし、幸運でタフで優秀なナルシストなら五十代になって始まるかどうかかもしれない。何歳ぐらいで狭く険しくなるのかはさておき、加齢によって狭く険しくなるのがナルシストの道だとは思う。
 
私はナルシストであることを悪いことだと思っていないし、自分にそういう性分があることを仕方がないことだとも思っている。どうせなら、よく訓練されたナルシストとして社会に溶け込んでいきたいとも思う。それでも加齢に伴ってナルシストとして生きる根っこのところが煤けてきている自覚は持っておいて、ついでにひとつの教訓として年下のナルシストに知ってもらいたいなとも思う。ああ、この望み自体が私のナルシシズムの発露なのだからどうしようもないですね。それでも、これは私の目の前に広がっているひとつの風景なので、こうやって文章化したものが誰かの参考になったらいいなと願う。
 
 

あの頃私は買いだめして、本能を充たし不安を防衛していた

 
暑いのか秋っぽいのかわからない夜長に眠れなくなってしまった。少し前の思い出を書きたくなったので、新型コロナウイルスの脅威がいちばん切迫していた頃の思い出話を書く。
 
まず、参考までに3月19日付けのヤフーの記事へのリンクを貼り付けておく。
 
新型コロナ影響でコメ・パスタなど食品のストック需要が伸長(日本食糧新聞) - Yahoo!ニュース
 
あの、人々がカップ麺やパスタや缶詰をまとめ買いしていた頃、私も少しだけ買いだめしよう・買いだめしたい、と心がけていた。例の、日本社会についてまわる世間体が気になっていたから、私の買いだめは他のお客さんや店員さんにバレにくいかたちで実行にうつされた。
 
こそこそ買いだめ作戦。その内容は、「使う予定のない缶詰をひとつ余計に買う」「いつもよりパスタソースを1パックだけ多く買う」といったことを一か月ほど地道に続けるものだった。金額にして、一回あたり300円かそこらの買いだめでも、塵も積もれば山となる。この、僅かな買いだめとて、みんなが一斉にやれば店頭から品物はなくなってしまうだろうとわかっていたけれども、やりたかったから、やった。
 
やがて期待どおり、自宅の床下倉庫には買いだめた食料品がそれなりに集まった。3月~4月の時点では、集まった食料品を眺めるのはなかなかに気持ちの良いことだった。
 
この複数回にわたった買いだめは、今にして思えばすごく"お買い得"、または"コスパが良かった"と思う。なぜなら、ささやかな買いだめには大きな満足感が伴っていたからだ。
 
あの時、私は買いだめをしたいというプリミティブな欲求を抱えていた。
 
社会全体を覆う不測の事態に対して、個人に備えられることは少ない。また、備えたとしてもそれが有効であるという確証も乏しい。ちょっとぐらい食品や消耗品の備蓄があったところで、社会情勢が本当に滅茶苦茶になってしまったら足りなくなるだろう。また、オイルショックや東日本大震災を引き合いに出し、「買いだめは利口な人がすることではない」と語る人もたくさんいた。私よりも賢そうな人たちが、賢そうにそう言っていたのだから、利口な人は買いだめをしたくならないのかもしれない。
 
けれども、そうした頭でわかっていることを圧倒するように、買いだめは私の快楽となった。あるいは本能をくすぐってやまなかった。私は安心を買い漁りたくてしようがなかった、という風にも言えるだろう。
 
どうあれ、私は300円かそこらの買いだめをしては、ウキウキとした気持ちで帰宅した。スーパーマーケットや百貨店ではしばしば、「どうぞ、ショッピングをお楽しみください」というアナウンスが流れるけれども、あのささやかな買いだめの時ほど、そのアナウンスどおりに私が楽しんでいたことはなかったかもしれない。これに匹敵するのは、地方の酒屋さんの開かずの冷蔵庫のなかに、市場価格を大幅に下回るワインを発見したときぐらいである。とにかく、たった300円かそこらの買いだめのおかげで、私は買い物のたびに大きな満足をおぼえることができていた。
 
たった300円かそこらで買い物が満足感に彩られるというのは、そうざらにあるものではない。しかも、買いだめた品物はたいがい日持ちするから、後でゆっくり食べれば無駄になることはないときている。「体験にお金を払う」という視点でみるなら、これは、とてもお買い得で、とてもコストパフォーマンスの良い体験だったのではないだろうか。
 
 
不測の事態への備えだとか、経済合理性に照らし合わせるだとか、そういった視点でみるなら、私のやったことは利口なことではなかった。だが、危機管理や経済合理性のとおりに行動選択するのと、自分の快楽や本能の充足、不安の防衛まで意識して行動選択するのでは最適解は変わってくる。あの頃の私は、自分の快楽や本能の充足、不安の防衛まで手当てしたがっていたから、買いだめをしてみて私個人は良かったのだと思っている。
 
ただもし、私と同じ心境で皆が行動していたのだとしたら、個人にとっての最適解と社会にとっての最適解にはギャップがあったとは言えるだろうし、実際そうだったのだろう。
 
 

"本当は正しくない『となりのトトロ』"が、受け入れられている

 

となりのトトロ [DVD]

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『となりのトトロ』は子どもが妖怪に出会う物語だ。
 
妖怪が出るような、よくわからない場所が間近な生活圏にあったということだし、よくわからない場所に子どもが出入りする自由があったということでもある。
 
おばあちゃんの田舎へと引っ越してきたメイとさつきは、まず廃屋同然の新居を冒険する。
 
新居はほこりだらけで、ぼろくなっていて、まっくろくろすけ(すすわたり)が巣食っている。まっくろくろすけが巣食っているということは、新居はよくわからない場所で、そのよくわからない場所に、メイとさつきが踏み込んでいったわけだ。
 
床を踏み抜いてしまうかもしれない、リスクのあるよくわからない場所に子どもが入っていくのは、令和の子育て感覚では許容されない。親や周囲の大人が許容しないだけでなく、よく訓練された令和の子どもなら、よくわからない場所に勝手に入っていくことを警戒するだろう。
 
しかし、お父さんやおばあちゃんは軽く注意は促すにしても、それがいけないことだと思っている節はない。もちろんメイやさつきもだ。
 
メイやさつきが新居を飛び回り、まっくろくろすけに出会い、手足を真っ黒にしてしまうシーンは楽しげに描かれているが、令和の親御さんは、あのような振る舞いを子どもに許さない。清潔という観点からも、ハウスダストアレルギーといった健康という観点からも、まっくろくろすけは忌避されるだろう。笑い話にはならない。
 
そしてメイとさつきは森に遊びに行き、トトロに出会う。よくわからない場所に子どもだけで探検に出かけたからこそ、メイとさつきはトトロという怪異に出会えたわけだが、よくわからない場所に子どもだけで探検に行くという状況は、今日では、ネグレクトや児童虐待の文脈で語られてしまうもので、楽しげにみるべきものではない。
 
ところがトトロの話を聞いたお父さんは、その状況を禁止するでもおばあちゃんに深刻げに相談するでもなく、さも、良かったことのように話している。
 
令和時代のまともな父親なら、娘たちが勝手に森に遊びに行き、"トトロ"を名乗る正体不明の存在に会ったと聞けば震え上がるに違いない。
 
そうした状況の行きつく先として、ついにメイは行方不明になる。ご近所が総出でメイを探しにかかるが、見つからない。児童向け映画作品としてのトトロは、トトロとネコバスの助けによって大団円を迎えるわけだが、一歩間違えればメイは"神隠し"に遭っていたかもしれないし、そのような状況をつくったお父さんやおばあちゃんは厳しい詰問の目に曝されていたやもしれない。
 
 

令和では許されないトトロを、どうして私たちは楽しめるのか

 
こんな具合に、令和の子育て目線で『となりのトトロ』という作品を振り返ると、全体的に許されない感じが漂っていて、およそ、心穏やかに見ていられるものではない、はずである。いや、実際には令和の親御さんの多くは『となりのトトロ』という作品にホラーじみた危機感より、親しさや懐かしさを感じていることだろう。だが、冷静に考えると、トトロの物語は令和時代の親御さんが親しさや懐かしさを感じられるものではないはずだし、わが子をよくわからない場所に探検させ、妖怪に出会わせたいと思えるものでもない。
 
ところが『となりのトトロ』を正しくないアニメだ、不穏なアニメだという大人は少ない。どれぐらい少ないかというと、そこらじゅうの幼稚園や保育園で『となりのトトロ』が映され、国民的児童アニメという扱いになっているぐらいである。親御さんや子育ての専門家の多くも、普段は『となりのトトロ』の内容の不穏さや正しくないさまについてさほど意識しないのではないだろうか。
 
令和の子育て基準でみて、正しくもなければ穏やかでもない内容のはずの『となりのトトロ』が、これほど受け入れられているのはなぜだろう。
 
もちろん第一には、児童向けアニメとして『となりのトトロ』がつくられていて、しかも作っているのが宮崎駿監督だからだろう。
 
宮崎駿監督の手にかかれば、法から逸脱した物語はたちまち美しくなり、グロテスクな存在も魅力的になってしまう。本当はおぞましいかもしれないまっくろくろすけやトトロやネコバスも、児童向けアニメに本気を出した宮崎駿監督の手にかかれば、かくのごとしである。
 
最近、togetterで昭和時代の子育ては死と隣り合わせであった、といった内容のやりとりのものが注目を集めていたが、そこで語られていた内容は、トトロの舞台となった時代とそれほど遠くない。
 
硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった - Togetter
 
トトロの時代からさらに下った昭和の後半でさえ、子どもが死ぬこと、行方不明になることはそれほど珍しいことではなかった。私が通っていた小学校でも、各学年にだいたい一人ぐらいは中途で命を落とした同級生がいるものだった。私自身、四歳の時に子ども同士で一級河川の川辺に遊びに行ってサンダルを片方なくしているし、小学校三年生の時に子ども同士で沼に遊びに行って沼でおぼれかけたことがあった。もう少し運が悪ければ、私自身が"神隠し"に遭っていたかもしれないし、いわば、トトロに出会っていたかもしれない。
 
昭和の子育て環境を振り返り、当時の社会のコンテキストに当てはめて考えるなら『となりのトトロ』はネグレクトでも児童虐待でもなんでもない、当たり前の子育てのありようだった。子どもは近所をうろつくものであり、ときに妖怪に遭ったり、ときに"神隠し"に遭ったりするものだった。そして『となりのトトロ』の作中で示されているように、子育ては親が全責任を負うものではなく、地域共同体のなかで緩やかに・曖昧に行われるものでもあった*1。批判的にみるなら、責任の所在の曖昧な子育て、とも指摘できるかもしれない。
 
ところが令和社会のコンテキストでは、親が子どもの24時間に責任を負うべきで、子どもの健康と安全に神経をとがらせるべきで、子どもがよくわからない場所をうろつくことはあってはならない、ことになっている。そこには大きなギャップがあるのだけど、昭和社会の子育てから令和社会の子育てへの移行にかかった時代は、せいぜい2~3世代程度の短い時間だった。そして令和社会の子育ては、子どもの健康や安全には配慮している一方で親には大きな負担を、子には窮屈な生活空間と管理され尽くした日常を与えてやまない──。
 
思うに、令和時代に『となりのトトロ』をみている大人たちも、内心では、令和社会の子育てが正しく健康で安全ではあっても、窮屈なものになっていることに辟易しているのではないだろうか。『となりのトトロ』を穿った目でみれば、令和社会のコンテキストでは許されない不健康で危険で正しくない状況が描かれているのだけど、他方、昭和社会の子育てにあった豊かさや良かった側面をトトロほど理想的に描いている作品もない。
 
令和の親御さんまでもが『となりのトトロ』に親しさを感じるのは、もう正しくなくなったとはいえ、今の子育てに不足しているものがたっぷり描かれているからではないかと、私は思ったりする。昭和から令和になって、子どもは安全になった。それはいい。だが、良いことばかりではなかったはずだし、そのことを本当はみんなも直観しているのではないだろうか。宮崎駿監督のマジックが効きまくっているとはいえ、もはや正しくなくなったはずのトトロがこうも受け入れられているさまを眺めていると、私たちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、ちょっと考え込んでしまう。
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

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  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

*1:ただし、『となりのトトロ』においてはここでも宮崎駿マジックが発動している:地域共同体についてまわる余所者に対する目線は、せいぜい、カンタの意地悪のうちにデフォルメされてしまっているからだ。

桜の償いはこれからも続く──劇場版『Fate/stay night』雑感

 

 
www.fate-sn.com
 
お盆の終わりに劇場版『Fate/stay night』を見に行った。映画館は満席になっていて、さまざまな世代のファンが集まっていた。本来、今年の春に公開するはずだった本作がようやく公開された爪痕がパンフレットに残っていて、その広告欄には劇場版『Fate/Grand Order 神聖円卓領域キャメロット』8月15日公開などと書かれていた。ともあれ、本作がどうにか公開されて、原作の桜編(Heaven's feel)が完結したのは嬉しいことだった。
 


 
ああ、この泣いていたおじさんの気持ちはよくわかる。
原作と出会って16年、待ちに待った劇場版は、期待以上のものだった。
この感情はFateファンにしか伝わらないだろうけれども、わかる人にはわかるはずだ。
私も感極まったので、感極まっているうちに雑感を書き残すことにした。
  
 

 

・この作品は完全にFateファンのために作られたエンターテイメントであり、Fateに興味が無い人が視聴する可能性をフォローしていない。Fate系列の作品をまったく知らない人は観ないほうがいいだろう。最低でも、なんらかのFate系作品に触れたことのある人がみるべき映画だった。
 
2004年リリースの原作もややこしく、セイバー編・凛編をちゃんと覚えていないと桜編はわからなくなってしまう。そういう原作のなかから桜編(Heaven's feel)をピックアップしたのが劇場版三部作なので、ますます話の筋がついていきにくくなっている。それでも原作やFateシリーズを知っている人が話についていけるよう、親切なカットが多数用意されていたが、これらもFateファンでなければ理解できない内容だったので、Fateを知らない人はたぶん難破する。だからFateファンのためにつくられた映画だと言ってしまうほかない。
 
(日本で)映画化されるアニメはしばしば、原作ファンのほうをしっかり向いていて原作ファン以外のほうを向かない。それを批判している人がいるのを知ってはいるし、それが尤もだと思うこともあるけれども、原作ファンのほうを向いているからこそ出来ることもあるわけで、この作品は原作ファンをおもてなすことに徹していた。Fateシリーズをよく知り、聖杯戦争史を理解している人はもちろん、それこそFate/Grand Orderを遊んでいる人でもだいたいわかるようにつくられていた。
 
いやそもそもFate/stay nightの原作を遡ればエロゲーだったわけで、そのエロゲーから出発したアニメがこうして映画化されているのだから、日本全国の(それともワールドワイドの?)Fateファンだけを抱きしめる作風になっていて何が悪いというのか。素晴らしいとしか言いようがない。
 

・もともとの『Fate/stay night』は、サーヴァント・魔術師同士の戦闘シーンが華やかにみえて、ストーリーの要所要所は地味というか、意外と湿っぽい会話をとおして物語が進行していた。少なくとも昔のハリウッド映画のような、勇ましいヒーローがラスボスを退治してハッピーエンド……というようなつくりではない。今作もそうで、サーヴァント同士の戦いや魔術師同士の戦いは派手だったものの、最後の最後は割と地味というか、それこそエロゲーの選択肢によってストーリーが決まるかのような雰囲気が漂っていた。これは自分の記憶違いかもしれないが、大聖杯と対峙するシーンは原作のほうがまだ派手だったような記憶がある(あくまで記憶であって、実際にそうだったかはわからない)。セイバーオルタとライダーとの戦いが決した後はわりと落ち着いた展開だった。
 

・というか、第二作もそうだったけど、サーヴァント同士の戦いがあまりにも素晴らしく、見栄えという点では群を抜いていた。セイバーオルタは相変わらず無茶苦茶で、圧倒的なエネルギーをそこらじゅうにぶちまけていた。それをかわしつつ魔眼を光らせ、決定的瞬間を作ろうとするライダー。サーヴァントの破壊力とスピードを2020年のアニメテクノロジーで再現するとこうなるのか! という驚きと喜びで釘付けにならずにいられなかった。セイバーオルタは真っ黒に染まっていながらも武人の佇まいをも漂わせ、ライダーのベルレフォーンが真っ白なペガサスとなってスクリーンを描けた。こんな美しいベルレフォーンを映画館で拝めるとは眼福としかいいようがない。ライダーは本当にがんばった。
 

・十六年ほど前、Fate/stay nightをプレイし終わった時の私が一番好きなキャラクターはライダーだった。なにかと不遇で、ときにはあっけなく倒され、セイバー編では悪役の気配が漂い、けれどもマスターである桜にどこか似ていて、そんなマスターのために尽くし、セイバーオルタにも果敢に立ち向かうライダーはFate/stay nightの他のサーヴァントたちと様子が違っていた。原作では目隠しを取るとすごい美人とされていたが、今回の対セイバーオルタ戦でも目隠しを取り払い、戦闘中も美人っぷりを遺憾なく発揮していた。日本アニメ美人顔だったが本望だ、やっぱりライダーは美人、それも本作第一といって良い美人だったんだ! ライダーファンにとって、こんなにうれしいことはない。
 

・そして桜はちゃんと桜らしかった。滲み出る不幸な娘感、嫉妬、蓋をされていた欲望が爆発してみんな大迷惑、ところどころ鼻につくぶりっ子しぐさ、凛々しい遠坂凛とのコントラスト、等々が重なり、典型的な正ヒロインのイメージにまったくおさまっていなかった。バッチリだね桜ちゃん!
 
こうした桜の性質は、第一回Fate/stay nightの人気投票の結果にも反映されていて、ほんらいFate/stay nightの正ヒロインと言っても過言ではないお姫様的ポジションにもかかわらず、人気投票第6位とセイバー*1や凛に大差をつけられていた。今、こうして映画館で桜の熱演をみていても、やはり桜は正ヒロインたりえないというか、罪深いヒロインの十字架を背負っていて、もちろんエンディングを迎えた後もそれは変わらなかった。
 
そのような桜の姿を、今、新世代のFateファンが凝視しているわけだ。桜の行いの善悪是非は、十数年の時を経て年下のFateファンの知るところとなっている。メタな視点になってしまって申し訳ないが、これこそ、衛宮士郎が語ったところの「生きて罪を償い続ける」ということではなかったか?
 
桜の償いは他にもある。Fate/Grand Orderにおいては、桜の眷属たちはひねくれた・めんどくさいヒロインとしての座を占めていた。凛やセイバー(この場合はアルトリア顔というべきか)の眷属がFate/Grand Orderのなかで獲得しているステータスと、桜の眷属がFate/Grand Orderのなかで獲得しているステータスには歴然とした差がある。いわば、Fate/Grand Orderの地において、桜は前世のカルマを支払い続けているのである。とりわけ、大奥イベントで大暴れしていた桜の眷属・カーマは非常にひねくれたサーヴァントだった。桜のカルマは今もこうして引き継がれ、裁きを受け続けている。
 
 
・ただ、そうやって後世のゲームにまでカルマが引き継がれて裁きを受け続ける桜の身の上には不憫なものを感じる。Heaven's feelではひとつの救済がなされたとはいえ、巨大IPと化したFateシリーズのなかでひねくれヒロインとしてこれからも語り継がれていくとしたら、なんと悲しい女性なんだ! 間桐桜!
 
他方、そういうキャラクターを貫徹してきたからこそ、こんな桜を慕うファンや桜に救われるファンがいることも想像がつく。桜というキャラクターが生きている限り、桜は罪を償い続けると同時に桜を慕うファンや桜に救われるファンに何かを提供し続ける。それは、凛やセイバーには提供できない種類のものだ。Fateファンのうちに桜を嫌う人や嘲笑する人がいるとしても、まさにその性質によって桜を慕い、桜に救われる人もいるのだとしたら、それは衛宮士郎のいう「生きて罪を償い続ける」の良い面だと思う。

メタ視点に立って考えるなら、桜が生きていて本当に良かったし、衛宮士郎の決断とFateシリーズという大河の流れはそれを可能にしてくれた。これからも桜は、胸を張って桜であり続けていいのだと思うし、ライダーが好きだった私としては桜は桜であり続けて欲しい。ライダーを触媒なしで召喚した桜は、桜であっていいのだと思う。
 
 
・そういえば、桜と私の付き合いもこれで16年になったわけか。新世紀エヴァンゲリオンの惣流/式波アスカラングレーに比べれば短いとはいえ、桜もまた、自分と一緒に年を取っていくタイプのキャラクターになった。これから桜はFateの世界でどんな風に変わっていき、どんな風に年を取っていくのだろう? どちらにせよ、Fateが今後もシリーズとして続いていくとしたら(商業上の理由から、その可能性は高い)、きっと私はこれからも桜の物語に出会えるのだろう。個人的には、いつかは桜のカルマも洗い清められ、もう少し明るいキャラクターになる日が来たっていいとも思う。
 
 
 
桜とFateの話を続けていたらきりがないので今日はこのへんで。
いいFateを観れて良かったです。
 

 

*1:注:この頃はまだ、アルトリア・ペンドラゴンというフルネームでセイバーのことをわざわざ呼ぶことは少なかった