シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

神様みたいだった1996年のバトルガレッガ

 

(※写真は、ゲーメスト1996年5月15日号、バトルガレッガ攻略記事より)

  
note.com
 
上掲リンク先は、傑作シューティングゲーム『バトルガレッガ』を20年越しにクリアした方の文章だ (おめでとうございます!)。 20年前に一度諦めたゲームをもう一度手に取り、チャレンジしてクリアするのはタフなことだと思った。
 
で、リンク先にはバトルガレッガをできるだけ簡略なパターンでクリアするための攻略動画へのリンクも掲載されている。それが下のものだ。
 
youtu.be
 
昔は難しいゲームとみなされていたバトルガレッガをここまで解題し、難しい避けを最小限にしているのは、これもこれで進歩だと驚いた。
 
2000年代には、「知の高速道路」という言葉をよく耳にした。いわく、インターネットによって知識やノウハウにアクセスしやすくなり、何事も、ある程度までは簡単に上達できるようになった、というやつだ。今にして思うと、これは楽観的すぎる見方で、2020のインターネットには「必要な知識が何かがわからない」「知識の真贋がわからないまま進歩がない」といった悲惨が溢れている。
 
しかしゲームに関してはこの限りではなく、おもに動画配信によってさまざまなゲームが攻略しやすくなった。優れた攻略動画は、映像を流すだけでなく特定場面のリアクションの理由や意図までわからせてくれる。
 
そのうえゲーム環境が進歩したため、苦手な場面だけリピート練習したり、自分のプレイを検証したりするのも簡単になった。だからバトルガレッガのような「かつて、難しいとされていたゲーム」に挑戦するには良い時代になったと思う。
 
じゃあ、過去のプレイヤーが一方的に不利だったかと言ったら、そうでもなかったと思う。シューティングゲームに限らず、傑作と呼ばれるゲームは皆、プレイヤーを引っ張っていくすごい力を持っている。1996年のバトルガレッガもそういう作品だったので、当時の思い出話を書き残してみる。
 
 

キャロット巣鴨で見た、バトルガレッガの熱狂

 
バトルガレッガがゲーセンに初登場したのは1996年2月だったというが、私が住んでいた地方都市にはバトルガレッガは入荷せず、ゲーメストの紙面や首都圏の友人からの情報がすべてだった。早い段階から「バトルガレッガはとんでもないシューティングゲーム」という噂話だけが聞こえてきて、田舎者としては地団駄を踏むほかなかった。シューティングゲームの好きな首都圏の友人たちは、当然のようにバトルガレッガに挑戦し、魅了されていった。うわごとのようにバトルガレッガを讃える彼らの声を聴き、うらやましいと思うと同時に、とにかく実物を見てみたい、触ってみたいと思った。
 
はじめて私がバトルガレッガに出会ったのは、まだ寒い頃の渋谷だった。当時、渋谷のゲーセンで一番遊びに行っていたのは渋谷会館で、そこは『BATSUGUNスペシャルバージョン』を遊べる数少ないゲーセンのひとつだった。BATSUGUNスペシャルバージョンは、バトルガレッガも怒首領蜂も東方も無かった頃にしては弾幕シューティングに近い内容で、挑戦しがいのある作品だった。
 
ところがその渋谷会館にはバトルガレッガが入荷しなかった。渋谷でバトルガレッガを探してまわった結果、井之頭通りに近い小さめのゲーセンに設置されているのをやっと発見した。そこはマニアが集まるようなゲーセンではなく、バトルガレッガを遊んでいる人はいなかった。帰りの電車の時間を気にしながら少し遊んだバトルガレッガはやたら難しく、5面道中のボスラッシュ手前でやられてしまい、そこから先の熱狂を見損なった。この時点では、面白いというより意地悪、熱狂というより醒めたゲームという印象だった。敵弾が見えづらいせいで突然ミスしてしまうこと・勲章アイテムを落としやすくてスコア稼ぎが辛そうなのも気に入らなかった。正直、よくわからなかった。
 
東京を後にした後、バトルガレッガをよく知る友人に電話で感想を伝えた。当時はまだ、家にインターネットが来ていなかったので午後11時を過ぎるのを見計らって長電話した。バトルガレッガは、友人と長電話をして意見交換したいちばん最後の時期のゲームでもあった。あの頃は、長電話が青少年のたしなみみたいなものだった。
 
「バトルガレッガ、わからんかったわ。敵の弾は見にくいし、難しいし。」
「5面のボスまでは観れたか?」
「いや、そこまで行けんかった。」
「そりゃ駄目だ、シロクマ君はバトルガレッガの面白さと恐怖をまだ見ていない。今度、巣鴨においで」
 
「巣鴨においで」とは、JR巣鴨駅の近くのナムコ直営ゲーセン、プレイシティキャロット巣鴨においでという意味だ。ここはゲーメストのスコア集計でも有名な強豪店で、腕のたつプレイヤーがたくさんいた。友人は、彼らに交じってそこでバトルガレッガをやっているという。
 
百聞は一見に如かず。
キャロット巣鴨で私を待っていたのは、友人も含め、バトルガレッガに長い列を作っているプレイヤーたちと、そのプレイヤーたちによる中毒的なスコア稼ぎ、そして5面ボスラッシュから7面の、見ているだけで心拍数が上がってきそうな波状攻撃だった。
 
バトルガレッガのスコア稼ぎには、なにやら狂熱的な雰囲気があった。当時はランク調整の詳細がまだわかっていなかったが、すでにプレイスタイルは「よく稼ぎ、よく死ぬ」「よく死ぬのを、よく稼いでカバーする」といった雰囲気になっていた。ハイスコアを目指すプレイヤーだけでなく、とにかくバトルガレッガをクリアしたいと思っているプレイヤーも生存のためにスコアを稼いでいた。2020年からみると過剰なスコア稼ぎだったかもしれないが、当時はおおむね必要と理解されていた。結果、長い列をつくっているプレイヤーが全員、とりつかれたようにスコアを稼いでいて、バトルガレッガの筐体からはただならぬ雰囲気が立ち上っていた。
 
5面ボス、ブラックハート。
当時のゲーメストの記事で、ブラックハートが「カリスマ的なボス」と評されていたのを覚えている。
実際、速射砲で弾の壁をつくってプレイヤーを揺さぶる「ワインダー」という攻撃に私は度肝を抜かれたし、多くのプレイヤーも緊張感をもってそれに対峙していた。その後、弾幕シューティングゲームは弾数がインフレしていったので2020年からみるとむしろシンプルな攻撃にみえるかもしれない。だが1996年の段階では断然見栄えが良く、挑み甲斐のある攻撃だった。たくさんのプレイヤーがブラックハートで集中力と残機をすり減らしていった。
 
続いて6面が始まると、間髪おかずに中型の敵が押し寄せ、休む暇はない。当時の6面は難易度の調整が足りていなかったため、まるで画面じゅうから弾がにじみ出てくるかのようで、そこに常識はずれの戦車ラッシュや巨大レーザー砲の砲撃が加わり、すごいプレッシャーになっていた。キャロット巣鴨のプレイヤーの大半は、当時の私よりシューティングゲームが上手い様子だったが、その彼らでさえ、6面を突破できる者はほとんどいなかった。かの友人氏も、6面ボスにどうにかたどり着くのが精いっぱいだった。6面は、プレイヤーを最高に熱くさせていた。
 
そして7面、最難関のブラックハート2。ほとんどのプレイヤーが到達すらできないそいつは、それまで出会ったどんなシューティングゲームのボスよりも圧倒的にみえた。のちの弾幕シューティングゲームに比べて弾の数そのものは少なかったとしても、キャロット巣鴨のブラックハート2は、ランダム性を伴ったバラバラの弾幕をすさまじい勢いで吐き出し、かろうじてたどり着いたプレイヤーを無慈悲に退けていた。ブラックハート2まで到達できたプレイヤーには尊敬の目が集まり、場が沸いた。当然だろう。
 
はじめのうち、私も列に加わってバトルガレッガをプレイしていたが、こうした荒行苦行を眺めているうちにおじけづいてしまった。あまりにも難しそうで、あまりにもみんな熱くなっていて、始めたばかりの自分が割り込むのが申し訳ない気持ちになってきたからだ。しかしじっと観戦し続けた。いつか自分も、彼らのように戦える日が来ると信じて。
   
 

地元にバトルガレッガが入ってからの熱狂

 
それから2か月ほど経った6月頃、地元のゲーセンにとうとうバトルガレッガが入荷した。地元のシューティングゲーム愛好家が集まり、たちまち話題になった。当時、地元で最高峰のプレイヤーはキャロット松本というゲーセンに集まっていて、他のゲームの全一スコアづくりに忙殺されていた。おかげで幸運にも、私とだいたい同じぐらいの腕前のプレイヤーが切磋琢磨しながら攻略することになった。これは競争心を高めてくれただけでなく、攻略情報を融通しあうにも都合が良かった。腕前がだいたい同じなので、難しすぎてパターンが真似できない、といった事態が起こりにくかったからだ。
 
夏休みシーズンを迎えてからは、朝から晩までゲーセンにこもった。8月の段階では、7面の最難関、ブラックハート2を倒すことが現実的な目標になりはじめていて、そのためにもプレイ全体のクオリティを高めなければならない時期だった。全国レベルではクリアする人がだいぶ出てきていたとはいえ、私たちがクリアするにはバトルガレッガはまだまだ難しかった。
 
それでもめげずにプレイできたのは、自分一人で攻略しているわけではないこと、そして当時のバトルガレッガというゲームに宿っていた神様みたいな魅力だった。
 
いつゲーセンに行っても、仲間の誰かがバトルガレッガをやっていた。毎日のように攻略に役立つ発見があり、知識として共有されていった。くだんの東京の友人も含め、遠方から遊びに来てくれるプレイヤーもいて、情報交換に花が咲いた。バトルガレッガを攻略するという一つの目標をみんなが共有していた。傑作ゲームはしばしば、そうやってプレイヤー同士を結び付ける。
 
そして当時のバトルガレッガはシューティングゲーム界で並ぶものの見当たらないシューティングゲームだった。同じぐらいよくできたシューティングゲームは他にもあったが、スコア稼ぎとランク調整の絶妙な組み合わせ、後半のエスカレートする難易度と弾幕、そしてボスのカリスマ性や納得ずくの難しさといった点で、バトルガレッガは群を抜いていた。ランク調整システムのおかげで、後半面の敵が強くなりがちなのも闘志を煽っていたように思う。
 
1997年には『怒首領蜂』がリリースされ、今度は火蜂というカリスマ的ボスがシューティングゲーム界を震撼させるのだけど、それは後日の話。1996年の段階では、バトルガレッガがどこからどうみてもナンバーワンだった。
 
夏の終わりには1~4面のスコア稼ぎと難易度調整が大幅に改善して、5面~7面の難易度がかなり低くなり、残機やボムを残した状態でブラックハート2に挑めるようになった。隣のキャロット松本にバトルガレッガの動画ビデオを持ち込んだ人がいて、それを見る機会があったのも参考になった。やがて地元のプレイヤーの一人がブラックハート2を撃破。見ているほうがハラハラする戦いだった。これが攻略熱に拍車をかけ、やがて私たちはバトルガレッガをクリアした。初クリアそのものは意外にあっさりと終わった。
 
ところがもう一度クリアしようと思ってもクリアできない。一か月近くできなかったと思う。こうなる理由ははじめからわかっていた──なぜならブラックハート2の気まぐれな弾幕を筆頭に、バトルガレッガはランダムな攻撃の引きによって難易度がかなり変わるからだ。私がはじめてクリアした時、ブラックハート2は危険な攻撃をほとんどしかけてこなかったが、そのような幸運に頼っていてはバトルガレッガを御したとは言えない。秋を迎えてようやく、バトルガレッガを安定的にクリアできる目途が立った。約半年かけて、やっとクリアしたということになる。
 
 

あの時じゃなかったらきっとクリアできなかった。

 
1996年の昔話はここまでだ。
 
当時はゲーム環境が今より劣っていたし「知の高速道路」も無かった。その点では、当時のプレイヤーは2020年より不利だったといえる。
 
そのかわり私たちはゲーセンで助け合い、情報交換しあった。Youtubeを検索するかわりに、離れたプレイヤー同士が声をかけあい、教えたり教えられたりしながら切磋琢磨していた。近くにキャロット松本があってトッププレイヤーの援助を受けられたのも大きかった。独りでは攻略できそうにないゲームでも、集団で攻略すればこの限りではない。私たちはバトルガレッガをとおして腕をみがき、難しいゲームでもみんなで攻略すればどうにかなることを知った。
 
1997年、怒首領蜂がゲーセンに旋風を起こした時もこのときの経験が役に立った。なにより、バトルガレッガでさんざん鍛えられたおかげで二周目攻略にもついていくことができた。2年連続で弾幕シューティングゲームに熱中できたこの時期が、プレイヤーとしての私の全盛期だ。
 
それと、当時のバトルガレッガには神々しいほどのカリスマ性があった。2020年から振り返ると、バトルガレッガの演出や難易度は他の弾幕シューティングゲームに埋もれてしまうが、当時は群を抜いて、最高に見栄えのするゲームだった。そこに長い列を作って代わるがわるプレイするプレイヤーたちの熱狂が合わさって、得も言われぬ雰囲気を1996年のバトルガレッガは獲得していた。ゲームの世界は日進月歩だから、こうしたカリスマ性が宿るのはリリースされて間もない、短い時間だけだ。
 
私はお調子者の気配があるので、1996年のバトルガレッガに出会えなかったら、たぶんちゃんとクリアできなかったと思う。いまどきの最新ゲームにも、こうした側面はあるだろう。そういう幸運に巡り合えたときには、きっちり掴んで、しっかり遊んでおきたい。