シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「安心」を買い漁る人々

 
 余震も大分おさまって日常生活が戻ってきた矢先、近所のスーパーマーケットで物凄い光景に出くわした。
 
 レジに行列をつくっている人は、皆が皆、ショッピングカートに水のペットボトルやトイレットペーパーを積んでいる。売り場に行ってみると、案の定、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、カップ麺、缶詰がゴッソリ無くなっていて、売り場が空っぽになっていた。保存性のありそうな食べ物――レトルト食品など――も、今まで見たことが無いほど品薄になっている。鮮魚コーナーには甘鯛やカレイなどがいつも通り並んでいるだけに、不思議な光景だった。
 
 

ショッピングカートには「安心」がどっさり

 
 ところで、インフラも流通もしっかり動いている状況下で、非常食や水をドッサリ買い込むことに実質的な意味がどれほどあるだろうか?余震もなくなった地方の場合、このタイミングで非常食や水を買い漁る必要性はあまり無いような気がする*1。「未来の災害に備えたい」なら、わざわざ品薄の時期に買い揃える必要は無い。もっと落ち着いてから、品揃えの良い時に選んだほうが良さそうなものだ。
 
 たぶんあれは、実質的な必要性よりも、心理的なニーズに駆られての買い物、ということなのだろう――不安を打ち消すための。
 
 度重なる振動や深刻な報道は、ボディブローのようにメンタルに地味に効く。インビジブルな不安が、広く薄く蔓延している。不安を抱えた人達にとって、非常用の水や食料を買い込む行為は、「安心」を念押しするような効能はあるだろう。ショッピングカートにどっさり詰め込まれた水や食料は、不安を遠ざける「安心」のシンボルに他ならない。
 
 これは、にわか雨に出遭った人が慌ててコンビニでビニール傘を購入するのとはニュアンスが全く違う。にわか雨に際してビニール傘を買うのは、雨に濡れないようにという実質的な必要性がはっきりしている。しかし、今のタイミングで水や食料を買い急ぐのは、実質的な必要性はかなり曖昧で、購入の動機のなかに、心理的なニュアンスが占める割合は高いと推定される。
 
 

ミクロな「安心」の積み重ねが、マクロな流通に負荷をかける

 
 不安を打ち消すべく、「安心」のシンボルになりそうな品物を手に入れるという行動自体は、個人の心理的な適応としてはポピュラーなものだ。少なくとも“異常心理”“異常行動”というレッテルを貼るのは妥当ではない。
 
 けれども、もし日本じゅうのスーパーマーケットで、みんながショッピングカートいっぱいに「安心」を買い込むようでは、流通はパンクしてしまうだろう。「安心」のまとめ買いは、ミクロな個人の観点からみれば、不安に対する心理的適応として妥当でも、マクロな社会の観点からみれば、手放しでオーケーとは言い難い。できれば控えたほうが良いのだろう。
 
 ただし、話はそんなに簡単ではない。
 なぜなら“不安は意識されにくい”からだ。
 
 自分が不安になっていると自覚できている場合、自分の行動が不安に駆られてのものかもしれないと振り返ることも、反省することも可能かもしれない。しかし不安が無意識の水準に留まっている場合、「安心」のために必死になっている自分自身も、「安心」のために合理性を欠いた行動に走っている自分自身も、気付きようが無い。いくら「理性的に行動しましょう」と呼びかけても、不安が自覚できていない限り、理性や意識のほうが不安に乗っ取られてしまう。だから、個人のレベルでも集団のレベルでも、不安を制御するのはとても難しい。
 
 なお、この話を職場のY氏に話してみたところ、Y氏の実家にはオイルショックの時に親が購入したトイレットペーパーが今でも残っている(!)と打ち明けてくれた。一体どれだけトイレットぺーパーを購入したのだろう?オイルショックの時も、人々は「安心」をどっさり買い込んでいたに違いない。笑い話のようで、笑えない話だと思った。
 
 

*1:計画停電に備えて乾電池や蝋燭を購入するのは、勿論よくわかる