シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

2020年から見たエウレカセブン、良さ・しんどさ・わからなさ

 

 
2020年の夏アニメにはあまり食指が動かず、『放課後ていぼう日誌』と『ゼロから始める異世界生活 第二期』ぐらいしか見ていなかった。で、アマゾンPrimeを眺めていたら『交響詩篇エウレカセブン』が配信されていたので、これを見ることにした。
 
『エウレカセブン』は2005年にオンエアされた頃から自分の好みではない作品だとわかっていて、避けていた。オタクたるもの、自分の好きな作品と嫌いな作品はおおよそわかるべきで、好きな作品にこそ時間を費やすべきだと当時は思っていたからだ。いや、今だって本当はそうだと思っている。話題の作品を追いかけたりジャンルの系統的理解のために作品を見たりするのは、本来、サブカルや批評家のやることであって、オタクは自分の好きなものを知り、好きなものを追いかけるのが第一義だと思っているからだ。
 
なので『エウレカセブン』は課題図書のようなものだと思って視聴し、好みの作品ではなかったことを確認した。私の好みからいって『コードギアス』は見ても『エウレカセブン』を避けたのはオタクとして正しすぎたわけだが、そういう好き嫌いを抜きに2020年から眺めると色々と考えさせてくれるというか、歳月を感じて趣深かった。気づいたことを書いておきたくなったので書いてみる。
 
 

  • 第一に驚いた、というか面食らったのは、尺の長さとそれを生かした作風だった。

 『エウレカセブン』は全50話ぶっ通しの作品で、これは、いまどきの全13話作品に換算すれば4期ぶんにあたる。最近は26話構成の作品でも尺が長いと感じるところが、50話ともなれば途方もない長さだ。しかもいったん26話とかで区切るのでなく、ぶっつづけなのだ。
 
 しかし『エウレカセブン』はそのマラソンのような長さを上手く使っていて、主人公をはじめ、登場人物たちはゆっくりとしたスピードで成長していった。その成長スピードたるや、2020年のアニメからは信じられないほどの遅さで、若き主人公のレントンは40話ほど、その周囲の大人たちも30話ほどかけて成長していった。逆に言えば、はじめの20話ぐらいはみんな未熟で、その未熟な登場人物たちがギクシャクしたりぶつかったりする描写を凝視し続けなければならない。
 
 これは、登場人物の成長過程にある種のリアリティを与えてくれるという点では長所だが、いつまでも成長せずいつまでもディスコミュニケーションのたえない登場人物を我慢しなければならないという点では短所ともいえる。
 
 現在のアニメ視聴者は短い尺のアニメに慣れているから、20話も30話も成長過程を見なければならない作風が現代ウケするとは思えない。2005年の段階では……どうだったのだろう? 20世紀以前のアニメであれば、これぐらいの尺の長さは珍しくなかったので、アニメ視聴者は気長に眺めていられたような気がする。いやいや、20世紀以前のアニメを眺めている時、登場人物の成長とか、そういう小難しいことを意識していた覚えがない。それでも歴代のガンダムシリーズなどを思い出すに、登場人物の成長過程がゆっくりしていることは現在に比べて短所とみなされにくかったのではないか、とは思う。
 
 幸い、『エウレカセブン』は成長過程をゆっくりと、しかし丁寧に描いていた。レントンの未熟さがとにかく鼻につき、ゲッコーステイトの面々もホランドをはじめ問題だらけではあったけれども、彼らの未熟さや問題がひとつひとつ解決されていった。レントンがチャールズたちに拾われたプロセスも、不可欠な一幕としてきれいに挟まっていたと思う。エウレカを巡るストーリーと登場人物の成長過程がきれいにリンクしていて違和感がなく、後半は、成長した登場人物たちを大船に乗ったような心持ちで見ていられた。もちろん「丁寧に解決し過ぎだ」という批判もあり得るだろうけれども。
 
 賛否はともあれ、全50話の長さを生かして成長過程を描く手法は2020年のアニメではなかなか許されるものではないので、貴重な表現を観た気はした。視聴する側もアニメを作る側も、ゆっくりとした展開を許容する余裕を失って久しいわけで。
 

  • 前半は心細い展開、やきもきさせられる展開が多かった。

 たとえば、未熟な者同士のディスコミュニケーションが発生して、そのディスコミュニケーションによって物語が駆動するような話がごく当たり前のように展開される。物語が駆動するといえば聞こえがいいが、要は、ディスコミュニケーションの後始末に20分間付き合わされるわけだ。ディスコミュニケーションの後始末が1話完結でつくとは限らない。いつまでもディスコミュニケーションが物語を引っ張り、いつまでも後始末が続く、そういう展開を延々と見せられるのには参った。
 
 こういう、負のエモーションによって物語が駆動し、その後始末をいつまでも見せられるつくりは前世紀のアニメでは珍しくないものだったと記憶しているが、2020年にそれを直視すると「どうしてこんな後始末を俺は見ていなければならないのか」という気持ちにどうしてもなってしまう。とはいえ後始末の最中に重要な伏線が混じっていたりするかもしれないと思うと飛ばし見するわけにもいかず、苦労の視聴だった。
 

  • ディスコミュニケーションに加え、粗暴で野蛮な描写も多かった。

 まず、主人公のレントンは「余計なことばかりして、感情を空回りさせる問題児」だった。視聴者は、この、制御のきかない粗暴な少年とずっと向き合っていかなければならない。そのレントンの周りにいるゲッコーステイトの面々もすさまじく、会話をする前にまず殴る・平手打ちをする、といった描写が当たり前のように描かれていた。立小便もしばしばする。
 
 これは、2005年の水準から考えてもかなり古くさい所作ではなかっただろうか。上下関係にもとづくイジリも陰湿で、罵声、罵倒、感情の投げつけが当たり前のように行われていた。狭い意味でいえばディスコミュニケーションともいえるし、広い意味でいえば「野蛮で粗暴なコミュニケーション」ともいえる。そして衝動的だ。
 
 暴力や強い感情が描写されるアニメ自体は2010年代にもあるけれども、『エウレカセブン』に出てくる暴力や感情には、私は悪い意味で親近感を感じる。コンテンツの向こう側に隔離された、透明な檻のなかの暴力や感情を見ているのではなく、コンテンツのこちら側にも横溢していたはずの暴力や感情を思い出させる力のある描写というか。
 
 もっと言ってしまうと、ゲッコーステイトで繰り広げられるディスコミュニケーションや粗暴は、昭和時代のリアルとでつながっている気がしたのだ。アニメ『時をかける少女』に登場した、消火器を振り回す彼を見てしまった時のような気まずさ。そういう気まずさを、『エウレカセブン』の視聴中にはしばしば感じた。こういう気まずさは、平成後期のあの作品やあの作品を見ていても感じることはない。この、昭和的な気まずさを平成生まれの人にどう伝えればいいのだろう?
 
 ところで、昭和時代のリアルにおいては暴力や感情は衝動のまま発散されることが多かった。いじめやいじりもそうだったかもしれない。対して、令和時代においては暴力や感情はもっと合理的・合目的に発露される。暴力や感情がなくなったわけではない。衝動すら存在を許されている。しかし、暴力や感情にも筋が通っていなければならないというか、無理筋・無意味な暴力や感情があってはならないし、描かれてもいけないような印象がある。いや、現実には現代の日本社会の片隅に、そういった無理筋・無意味な暴力や感情が必ず残っているのはわかるのだけど、そうした無理筋・無意味な暴力や感情が青少年向けアニメのメインストリームで描かれることは減ったのではないか、とは思った。
 

  • エヴァンゲリオン後の作品としてのエウレカセブン。

 視聴している間じゅう、1995~97年の『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にある作品、という印象がついてまわった。エウレカの挙動やデザイン、アゲハ計画、呼びかけに応じるロボット……のようでそうとも言い切れないニルヴァーシュ、最終話の月の描写、等々、エヴァっぽいけどそうじゃない雰囲気やコンセプトやデザインが点在し、特務機関ネルフのかわりにゲッコーステイトがレントンたちを取り囲んでいた。エヴァンゲリオンのオマージュ的要素がありつつ、エヴァンゲリオンとは私は違うんです、と主張する意志が込められているよう、私は勝手に感じ取った。なお、制作陣がこの問題についてどのようなステートメントを出していたのかは確認していないし、私はそういうステートメントをわざわざ確認したがるタイプのアニメ愛好家ではない。
 
 20世紀末にエヴァンゲリオンから強い影響を受けた人は、私に限らず、「エヴァっぽさ」を点検してしまう目線を持っていた時期があったと思う。実際、エウレカセブンに限らず、キャラクター構成や心理描写やストーリーコンセプトに「エヴァっぽさ」を漂わせた作品がときにあった。そういった目線は00年代の後半には薄れていくのだけど、2005年につくられたエウレカセブンを見た時、私のなかにそれがくっきりと蘇った。これは一種のバイアス、色眼鏡に違いないのだけど、そういう色眼鏡を2020年に蘇らせてしまう程度にはエウレカセブンはエヴァっぽかった。いや、エヴァ二次創作的だったとでもいうべきか。
 
 こういった色眼鏡は時代遅れで、たとえば2006年以降にアニメ愛好家になった人からは意味不明とうつるかもしれない。実際、このような色眼鏡がエウレカセブンを見るにあたって必須とも思えない。ただエヴァンゲリオンが好きだった私はエウレカセブンを見てエヴァンゲリオンのことを思い出し、それから、エウレカやアネモネやレントンが幸せそうだな、と思った。思っただけではあるのだけど、それが心に残ったから、こういうことを書いている。
 

  • で、月面に、ヤンキーカップルの場末の落書きが残されたわけだ。

 エヴァンゲリオンのようでエヴァンゲリオンではない物語を全50話続けて、エウレカセブンは大団円を迎えた。特務機関ネルフとその大人たちとは異なり、ゲッコーステイトの面々はそれぞれに得るものを得て、もちろんエウレカとレントンも良い結末を迎えたようにみえた。一時はどうなるかと思ったアネモネも、まんざらではなさそうだ。終盤に向かってスケールの大きくなったストーリーを、上手に折り畳んだ……はずだった。多少の瑕疵はあったかもしれないが、長編アニメならではの成長物語をみせてくれた先に、希望のあるエンディングを見せてくれた。エヴァとは違うのだよエヴァとは!
 
 ところがエヴァとは違うのだよと主張しているこのアニメは、月面に巨大な落書きを残したのだった! あの世界の人々は、月面にでかでかと残された、エウレカとレントンの相合傘のごとき落書きを見上げながら生きていくのだろう。「アニメには無駄な描写などない、すべての描写は有意味だ」という言葉に忠実に考えるなら、あの常軌を逸したラブラブ落書きは、エウレカセブンの結末として視聴者が受け入れるよう、制作陣に期待されたものであるはずだ。
 
 つまり、エヴァとは違うエウレカセブンは、月まで届くLCLの架け橋のかわりに、ヤンキーカップルが書いた場末の落書きのような相合傘が月面に残された状況を受け入れるよう、視聴者に迫るのである。
 
 エウレカセブンにおける審美性、たとえば「格好良さ」とはなんだっただろう? それはゲッコーステイトの雰囲気だったり、LFOだったり、アングラ雑誌ray=outだったりするのだと思っていた。少し臭みはあるにせよ、格好をつけることに有意味性を見出しているのがエウレカセブンという作品だと思っていた。最終話まではそれで整合性が取れている、はずだった。
 
ところが、あの落書きである。
あの落書きを含んだかたちでエウレカセブンの「恰好良さ」の整合性を保つには、(90年代後半~00年代前半でいう)サブカル的恰好良さよりもヤンキー的恰好良さに求めなければ辻褄が合わないのではないか。サブカル的な恰好良さではあの落書きをフォローすることができないが、ヤンキー的恰好良さでなら(いわゆるヤンキーのファンシー好きの発露として)あの落書きをフォローできるとしたら。
 
 だとしたら、ゲッコーステイトとはヤンキー集団だったというのか?? そう考えてみると、2005年にしては粗暴で野蛮な描写が多い点や、上下関係に根ざしたイジリが描かれている点とも辻褄が合う。でもこんなのは深読みに過ぎない。制作陣が「こいつらは気の良いヤンキー集団で、ラストはファンシーな落書きにしてみました」と思わせるためにわざわざあの落書きを準備した、とは考えづらい。もっとシンプルな理由に基づきあの落書きは描かれたのだろう。だとしたら、そのシンプルな理由を私は咀嚼できない。なんだなんだ。最後の最後におなかを壊してしまったじゃないか。
 
 全50話にわたる壮大な成長物語のターミネーターとして、エウレカとレントンの相合傘的意匠を見せつけられて、私はディスプレイの前でフリーズしてしまった。「おれの約20時間を返せ!」とまでは思わなかったにせよ、これをどう解釈し、エウレカセブンと自分との関係を清算すれば良いのか迷ってしまった。いや、今でも迷っている。終盤に向かって盛り上がるアニメの最後の最後にはしごを外された時の気持ちを思い出してしまった。そういうところまでエヴァンゲリオン後的ということか。いやしかし。参ってしまった。