- アーティスト: 高橋洋子/LOREN & MASH,高橋洋子,LOREN & MASH
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2006/05/24
- メディア: CD
- 購入: 2人 クリック: 101回
- この商品を含むブログ (41件) を見る
庵野監督が、やりやがった!
やばいものを観てきた。
【警告!】この文章には『新劇場版ヱヴァンゲリオン:Q』のネタバレを含んでいます。これから観ようと思っている人は、読むと危険です。ブラウザを閉じて下さい。
「ああ、これだ!俺の知っている、あの『新世紀エヴァンゲリオン』だ!」と感じた。娯楽作品としての完成度からすれば、これより優れたアニメは他にもあるだろう。説明不足や、音響上の難点もあったように感じた。しかし、これはエヴァンゲリオンだった。間違いなくエヴァンゲリオンだった。「どうせ、娯楽作品なんでしょ?今回のアスカはかわいいかなぁ」とたかをくくって観に行った俺は、不意を突かれた。そうだ、TV版も最初は娯楽作品としても優れていたのだった。油断していた。
『ヱヴァ 破』から14年後の世界。
14年前、必死な気持ちでエヴァと向き合っていた少年は、エヴァの胎内にひきこもっていた。ひきこもらざるを得なかった。14年前に成人していた人々は、縮小した人類生活圏を守るべく必死に戦い続けている。シンジと同世代の男の友人達は……はっきりとは分からないが、死んでいる可能性が高い。一方、アスカは傷だらけになりながら・真希波マリは小器用に、それぞれパイロットを勤め続けている。シンジより年少の子ども達もいまや成長し、社会のフロントラインを担っている。
14年間ひきこもり続け、過去と自意識に囚われ続け、何も変わらないシンジ。現在を生き、未来に向かって戦い続ける人々と、変わってしまった14年後の世界。その対照が私には印象深く感じられた。
この対照は、旧劇場版『まごころを、君に』をリアルタイムで観ていない人には有意味ではないかもしれない。だが、旧劇場版をリアルタイムで観ていた人には、1997年から2012年という歳月を連想させるだろう。俺達の世界ではサードインパクトは起こらなかった。しかし“ロストジェネレーション”は起こった。引きこもり、歩みを止めたナイーブな男の子。傷だらけになりながら、あるいは鼻歌を歌いながら戦い続ける女の子達※1。そうこうしているうちに、上の世代の男女は着実にキャリアを重ねていき、下の世代の男女も社会に出てきている。『まごころを、君に』の頃から同じ場所に留まり続けていたような人達にとって、観ていてあまり心地良い作品ではないだろう。
※1こうした描写がアスカ一人に限定されていたら、そうは思わなかったかもしれない。しかし実際には、真希波マリが併置されたこと、そして伊吹マヤの“変わり果てた姿”がチラッと映ったお陰で、アスカの空回りというよりも「たくましい女性陣」という印象が勝った。
庵野監督の“説教”再び。
15年ぶりだね。
ああ。
間違いない。
エヴァだ。
『まごころを、君に』には、「アニメなんかに引きこもっていないで現実に帰れ」「他者と向き合い、変化していくべき」といったメッセージが濃厚に含まれていた。対して『新劇場版ヱヴァンゲリオン:Q』は、同じ対象に向かって「君が他者から逃げ続け、メディアの子宮に閉じこもっているうちに、長い歳月が経ってしまったよ。」「自分の承認欲求に振り回されるだけの世界観は時代遅れ」と言っているように読める。そして、アスカをして「ガキ」と言わしめる碇シンジの、あの姿!“エヴァの呪い”を受けた劇中のシンジの姿は今も昔も姿は変わらない。だが、『まごころを、君に』から15年が経ち、碇シンジに感情移入していたところの私達は歳を取っているのである。15年前の碇シンジに自分自身をタブらせていたような人間が、もし、ロクに成長も変化もしないまま15年前と同じ「ガキシンジ」のままだったとしたら……そういう想像を、あの碇シンジの姿はかきたててやまない。
そんな碇シンジにも、同情の余地はある。今まで、葛城ミサトから「エヴァに乗りなさい」と言われ「あなた自身のために」と勇気づけられていたのに、今度はミサトに「何もするな」と言われ首輪までつけられる始末。一方、ゲンドウからは「エヴァに乗れ」とだけ言われるのだから、ダブルバインドもいいところである。
だが、そこでとりあえず前を向くことの出来ないシンジの不器用さ、ナイーブさは、シビアな情況下では「罪」あるいは「詰み」なのだろう――アスカは気合いで、真希波マリはしたたかさでそのあたりをカヴァーしているわけで。そして、承認欲求に飢えているシンジは落ち着いた選択ができず、二本の槍にがっついた挙げ句、結果として渚カヲルを失うフラグを立ててしまう。気の毒な話ではある。そんな彼が完結編でどういう着地点に到るのか興味は尽きない。
俺達にとっては「再会」。サードインパクトを経験していない世代にとっては?
ここまで書いた諸々は、『まごころを、君に』をリアルタイムで観て、なおかつ庵野監督の“説教”を良いものと感じた人間の、第一印象でしかない。そもそも、『新劇場版ヱヴァンゲリオン:Q』は今までより抽象度が高いので、視聴者が自分の想像力を滑り込ませる余地は幾らでもある。だから、今回のヱヴァのイメージは、観る者次第で万華鏡のように変わるのだろう。それはそれで、エヴァンゲリオンらしいなと思う。
この手の「作品語りにかこつけた自分語りや世代語り」というのは、いい歳の大人のやることではない、かなりみっともない何かに違いない。けれども、年甲斐もなくそういうことをやりたくなってくるように仕向けてくれるような、真性のエヴァンゲリオンに再会できたことを、今は喜びたいと思う。
それに、エヴァンゲリオンを前にして冷静を決め込むなんて、それこそバカげている。俺の青春時代に爆弾を仕掛けやがった作品の、その濃厚なエキスをぶっかけられたんだから、まずは素直に反応するってモンだろう。メタを決め込むのは、後でも構わない。
でも、それはそれとして、『まごころを、君に』をリアルタイムには体験していない若い人達が、この、問題作の呈をなしてきたエヴァンゲリオンをどう受け止めるのか、観たり読んだりしてみたいなとも思った。若い人は、この作品をヒリヒリと受け取るだろうか?それとも、他人事のように眺めるのだろうか?なんにせよ俺とは違ったアングルから眺めるのだろうし、そういうアングルから観ても楽しめるようになっているのだろう。色んな人の、ヱヴァQ評を観てまわってみようと思う。
なんか他にもいっぱい書きたいことがあるけれども、もうちょっと詳しく観てからのほうがいいような気がするし、少し落ち着いてきたので今日はこれぐらいでやめておく。もう1、2回映画館リピートしないとピンと来ないこともありそうだし。
[関連]:『ヱヴァQ』感想 シンジ君は『Q』で底を打ちました - さめたパスタとぬるいコーラ